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2011年4月

2011年4月29日 (金)

石弘之氏の本『火山噴火・動物虐殺・人口爆発』(洋泉社新書)

 いま10時、帰宅途中、東京駅。職場をでる前に、このごろ一日に一度はみる防災科学技術研究所の高感度地震観測網をみた。地図上の余震の分布が濃密でものすごい。しかし、福島県から宮城県にかけての沖合の陸よりに、ここ30日をとると余震の空白地帯があるのはどういうことなのだろう。しかも今日は、そこにぽつぽつと余震が起きている。原発のすぐそばで気がかりである。プレートやリソスフェアという言葉を、これだけ実感することがあるとは考えていなかった。
 科研の書類の処理など、連休前の処理すべきことをともかくも終えて、ほっとしている。

 研究意識の面で気がかりなのは、先週に読んだ石弘之氏の本『火山噴火・動物虐殺・人口爆発』(洋泉社新書)のこと。研究意識というのは変な言葉かもしれないが、日常意識や仕事や社会意識とは別のところで、いつも視線を下げるとそこにあるのがわかる意識領域。そこのところにこの本のことが引っかかっている。

 逐次的なメモはとっていないが、章別編成だけを紹介すると、(1)「人類史を環境史の視点から見ると」、(2)「ヨーロッパ世界の膨張と環境破壊」、(3)「人類に搾りとられた森林資源」、(4)「大地を収奪する農業と人口爆発」、(5)「水産資源を枯渇させる乱獲の歴史」、(6)「人類の地球拡散史と大型動物の絶滅」、(7)「人類の定住化と感染症の拡大」、(8)「地球環境を激変させる火山噴火」という構成。
 「日本史」の研究者として、一番ショックだった内容は、この本のもっている世界史の観点であるが、それとの関係でまず問題になるのは、ヨーロッパの研究状況とのギャップである。この本はヨーロッパの環境史研究の高い水準に依拠している。

 ヨーロッパでは環境史の研究が活発で、環境史学界が歴史学の中でも大きな組織になっており、いわゆる文理融合のシステムが豊かに構築されている。これはヨーロッパの豊かさそのものである。
 私はヨーロッパ歴史学にはあまりコンプレクスはない方である。あまりヨーロッパ歴史学と交流しても得るものは少ないと思っていて、そう広言もしてきた。国際交流の意味を否定するわけではないが、もっとも必要なのはアジアの諸隣国との共同的な研究だというのが持論であった。ヨーロッパ歴史学の伝統は立派なものだと思うけれども、ギャップといえるようなレヴェルの違いがあるわけではないと考えてきた。
 もちろん、情報学的なツールの利用はシステムは圧倒的にヨーロッパ歴史学の方が伝統も長く、条件がよい。そもそも歴史史料の扱いの基礎をなすアーカイヴズのレヴェルがまったく違う。これは(少なくとも現状では)ヨーロッパ社会が歴史を重視する社会であり、社会の過去に知識のレヴェルでむきあおうとしているということを意味する。日本のような過去忘却をよしとうる社会ではないということに関係している。
 しかし、ぎゃくにそれだからこそというべきか、研究内容と方向、そして方法という点では、日本の歴史学が大きく水をあけられている訳ではないと考えてきた。こういうのはどうしてもナショナリスティックな競争意識がでてくる。私たちも、努力はしている訳だから当然である。また、ともかくもいまやっていることを続け、時間を確保して蓄積していけば、どうにかなるという保守的な考え方というのもあると思う。ともかく多忙ということもあって、いまやっていることに不満だと保守的な気持ちをもつのは正常なことだ。しかし、それを正常とのみいってはいられない。日本のそれは、多忙な社会にうまれるナショナリズムと保守主義ということになっているのではないだろうか。

 話がずれたが、ともかく、内省してみると、環境史という点では、ヨーロッパ歴史学が圧倒的にレヴェルが高いということはよく知っていたはずだ。それを忘れていたい。日常の研究意識の中では、そういうことは忘れるようにしていたいということがなかったとはいえない。指をくわえていてもしょうがない。つめて考えても詮無いことであり、ギャップを忘れるようにしていたということかもしれない。しかし、それを起点にして物事を考えるということがもっとあってもよかったのではないか。『火山噴火・動物虐殺・人口爆発』を読んでショックだったのはそういうことである。
 とくに重大なのは、この石さんの本が一つの世界史像を打ち出していることである。「環境史」「森林」「大地を収奪する農業」「人口爆発」「水産資源の枯渇」「人類の地球拡散」「大型動物の絶滅」「感染症の拡大」「火山噴火」という事柄にそって世界史の昔から現在までのデータが縦横無尽に語られる。もちろん、データの相当部分はヨーロッパ発のものが多く、ユーラシアの東と南のデータは少ないといわざるをえないとは思う。
 しかし、そもそも、その根拠となっているのが自然科学的な研究と推論であるから、データに様々な精粗はあったとしても、事柄が本質的にグローバルな問題として展開していることがよくわかる。それがこの本の強みで、自然科学というのは徹底的にグローバルなものであることを実感する。歴史家が世界史を考えようと言う場合には、どうしても異なる諸国の諸言語で書かれた歴史叙述を受けとめて、その知識とイメージの中から、「世界史」を組み立てるという形をとる。それに対して、自然科学的な分析は、ある意味で最初からグローバルだから、そのグローバルな空間的関連、時間的関連自身が叙述の世界史性を強制するようにみえる。
 そして、衝撃的なのは、環境との関係で社会がクライシスにおちいる様相、それを乗り越えるか消滅するかという危機が、これらの作業によって浮かび上がることだ。そのような動的な分析は何よりも歴史学の叙述において期待されてきたはずのものであるのにも関わらずである。
 またもう一つ逸することができないのは、この本のもっているいわば「反ヨーロッパ」歴史主義とでもいうべき色彩だ。これは重要なものだと思う。ヨーロッパに対する歴史的批判を展開することはけっして反文明主義とイコールではなく、アジア主義とイコールではない。これは必要なことだと思う。私などの世代だとヨーロッパ教養主義の影響は深いが、それを乗り越えるために歴史学のやるべきことは多いと思う。
 環境史という視点から、こういう世界史像が打ち出されるというのは、(少なくとも我々の世代の建前としては)「世界史的視野」をつねに強調してきた歴史学にとってはショックな話である。それも、学者の力ない「見果てぬ夢」ではなく、現代世界が直面している困難と未来展望にかかわって、しかも生物全体の運命に関わって問題が提出されている。
 
 私は、一時期の歴史学の全域をおおった社会史にコミットする形で研究を進めたことがある。日本の社会史研究は、研究動向としては孤立したままに解消していったが、それとくらべて、ヨーロッパ社会史の強さは、環境史を継続的に追求してきたことだと思う。たとえば、ル・ロア・ラデュリの『新しい歴史ー歴史人類学』の訳本(旧版)がでたのは、日本の学界でも「社会史」という言葉が珍しかったころのことで、そのとき、それがアルプスの氷河の歴史記録と自然科学分析、そして葡萄酒の生産量や価格の大規模な蒐集とコンピュータ分析を含んでいることを知ってショックだった。また『歴史における自然』(シリーズ世界史への問い、岩波書店)の安本稔「17ー18世紀ヨーロッパの人口変動」、森本芳樹「ヨーロッパ中世における自然の領有」(1989)などをよむとヨーロッパの環境史の仕事の充実には目を奪われる。
 社会史の一つの方向は、「社会史から歴史知識学へ」というWEBPAGEにも載せてある文章でも考えたが、歴史知識学という形で、人間の観念・思考・感情の現象世界を系統的につめていくことだと思う。そのためには歴史情報学の支援がどうしても必要だ。そしてそれを詰めていけば、たとえば東アジアレヴェルでの、そして諸文明間レヴェルでの知識と科学の相互影響と形成を論ずることになるはずで、そこにも世界史が登場するはずだと考えてきた。
 しかし、日本の社会史後の研究動向で、もっともネックになっていたのは、環境史、歴史環境学の分野が圧倒的に遅れていたことかもしれない。もちろん、これについてはすでに様々な提言や方向性がでており、最近になってはっきりしてきた一つ一つの営為の位置の大きさは明らかだが、自然科学との共同や情報学からの援助をふくめて考えをつめるべきことが多いことも明らかだろう。
 もちろん、私は、歴史環境学に歴史学を解消することはできないと考える。それは歴史学を歴史知識学に解消できないのと同じことである。歴史学は歴史社会の動的な展開を、歴史社会の構成の内部に踏みこんで、社会内部の矛盾の構造を鮮明に描き出すこと抜きでは学としての責任を果たせない学問分野である。そもそも人間の共同性は「無縁」な自然によって強制されることなしには存在しないというのが歴史の実態であるというのが、網野氏の無縁論の前提にある考え方であるが、それを前提としつつ、危機に直面した人間的な営為を叙述するというのが歴史学の役割であるはずである。そして、社会の危機を扱う場合にも、社会の危機の歴史的な経過とその責任の所在、「我がなきあとには洪水が来たれ」という人々の行動と、それに抗せざるをえない人々の実像を描き出すことは「人間の学」としての歴史学にとっては必須のことである。
 そのためには社会の矛盾的構成、敵対的構成に踏みこむ力をもった社会科学的な歴史理論の再構築はどうしても必要なものと思える。しかし、それを抽象論にしないためには、人類の主体的側面を解明する歴史知識学にも、客体的な環境を解明する歴史環境学の双方を視野に収めて、問題の具体的な解明の方向を探るほかないのだろう。
 昨日の電車の中で書きだしたが、いまは、休みの昼間。木もれ日の下、庭の崩れそうな椅子にすわっている。ともかく一番よい季節であるが、東北の方のことを思う。

2011年4月26日 (火)

火山地震25地震を「なゐ」ということ。

 「地震」を古語で「なゐ」ということは、たしか乾とみ子さんのファンタジーにでてきたと思う。『こかげの家の小人たち』の続編で、アマンジャクの友人として出てきたのではなかっただろうか。一時、母校の国際キリスト教大学の副牧師をされていた荒井先生のお宅によくうかがってお子さんたちのための童話を読んだが、その中の一冊であったのだろうか。あるいは自分でも買って読んだのだろうか。そうだとするといまも自宅にあるはずであるが。

 先日、古地震関係の論文を読んでいたら、断層のことが江戸時代の地名に「ない割れ」とでてくるというのを読んだから、乾さんのファンタジーの前提に、そういう言い伝えがあったのかもしれないなどと思う。
 いま、総武線の中。先々週から少し身体の調子をおかしくして、本を探すこともおっくうになっている。原発の問題はさすがに気が重い。批判的な自然科学者たちの発言を読んでいると、原発の現状況は決して楽観すべきものではなく、人文科学にとっても深刻な問題だ。環境学の石弘之氏の一連の仕事を読んでいて考えることが多い。


 さて、地震は、より詳しくいうと、古くは、「なゐふるふ」と読んだ。辞書を引用しておくと、『古語辞典』(大野晋、岩波書店)は「ナは土地、ヰは居。本来地盤の意。「なゐ震り」「なゐ揺り」で地震の意味であったが、後にナヰだけで地震。ナは満州語na(土・土地)と同源」としている。
 「地震」の「ナ」をはじめて「地」の意味であると論定したのは、ふるく敷田年治の『古事記標註』があるが、本格的な議論は、『広辞苑』の著者として有名な新村出が、ナはツングース諸民族が「大地」を「ナ」naとしたことに語源があるとしたことにはじまる(新村出一九七一「天と地」同全集4)。新村は、「ツングース系の諸民族では地をナと呼び、朝鮮においてはナにラを添えてナラというとすると、古く金沢庄三郎はこのナラが奈良のもとであるとした。神話学の分野では、松村武雄『日本神話の研究』(第三巻)や三品彰英「銅鐸小考」などが、それを引き継いでおり、さらに右の『古語辞典』のほか『字訓』も同様なので、「ナ」が大地を意味することは承認してよいものと思われる。
 そして、「ナ」につけられた「ゐ」は、新村の言い方だと、一種のStability、固定性を示す用語であって、雲の静かな状態をクモヰ(雲居)と名付け、田圃の田をタヰ(田居)というなどの例を挙げている。敷居、屋根居などと同じ「居」であろうから、「なゐ」とは、漢字で表現すれば「地居」、より明瞭にいえば「地盤」という意味であるといってよいだろう。
 新村によると、「ウブスナ(産土・生土)」の「土」(な)こそ、この地を意味する「ナ」である。ウブスナの「ウブス」(その変形としてのムス)も重要な言葉であるが、生土とは生まれた土地、故郷、郷土のことであって、時代がくだると、「産砂」と書かれることも多い。しかし、新村の仕事を読んで、そもそも砂のスは、漢字の素があてられるように一種の形容詞であって、スナは「素土」(スナ)であって、その本体はやはり「ナ」にあることを知った。
 新村は「赤土」のことを「ヘナ」というのも、これに関係しているとするが、たしかに『節用集』(書言字考)に「埴 ヘナツチ」とあって、やわらかく粘りけのある土、つまり埴=粘土を古くから「ヘナ」といっていたことがわかる。「へなちょこ」「へなへな」などの言葉は、ここからきているのである。そして、このヘナ(hena)がハニ(hani)と母音交替することもあって、「埴」は「ハニ」とも読まれた。「埴生の宿」という場合の「埴生」とは、本来は「生す」「埴(=土)」であって、生土=ウブスナと同じことである。このようなナの音がニと母音の変化を行って「白土」をシラニ、赤土をアカニ、青土をアヲニといい、殖土をハニというように「土」を「ニ」と読んだ例がある。(『字訓』は「に」を土を意味する古語とはするが、「な」との関係は否定する)。
 また相当に広い面積の地面を「ヌ」といい、また「ノ」というのもナの変形である。草木の根を「ネ」というのも、最初は草木の根そのものを入ったのではなく、草木が地下にもぐり込んだということを根となずけたのではないか。潜り込んだたさがそのナに深く入るものをネという」(「根」の項)、「(野=ノは)新村出説になゐ(地震)のな(地)の母音交替形であるという」(「野」の項)としているのは興味深い。『字訓』は、新村説をうけて「ナ・ネは複合語も多く、古い基本語の一と考えられる。ナ・ネ・ノは大地・地下をいう語として一系をなすものとみることができる」という趣旨を述べているが、「ナ」が「地・野・根」などの自然としての大地を表現する言葉の基本語素であったということができるのである。
 興味深いのは、後になると、「なゐ」という語それ自身が「地震」の意味となってしまうことである。これは、普通、「地=ナ」という語が、もっぱら「地震る」という連語で使用されるようになる中で発生した誤解であるとされる。もちろん、それは間違いではないが、「地=ナ」という語が、本来、自然としての大地を表現するもので、人間の統御の外にあって暴威をふるう地震を表現するのにふさわしい用語であったという側面も考えるべきではないだろうか。
 よく知られているように、網野善彦は自然そのものとしての「大地」、無主の大地は平安時代以降になっても長く「地」という漢字で表現されたとしたが、ここからすると、無主の大地という意味での「地」は、本来は「ナ」と読まれていた可能性が高いということになる。網野がいう自然そのものという意味での「地」が奈良時代以前に「ナ」という語誌をもっていたというのが、すでに大枠では明らかになっていたことを知ったことになる。これがオオクニヌシ命の本来の名前、オオナムチの「ナ」であることも明らかになっていることである。学史というものはたしかに奥深いものであり、知らないのは自分だけということなのかもしれないと思う。
 長く考えていた土地範疇論が「土地範疇と地頭領主権」という題名の論文がそろそろ活字になるが、平安時代以降は、自然としての大地は「地あるいは地本」と表記し、それに対して、人間が利用・占有しいている土地のことは「敷地」(あるいは平安時代末期以降は)「下地」といったようである。これに対応させると、奈良時代以前は、自然としての大地を表現する「地(ナ)」に対して人間の利用する大地は、おそらく「土(クニ)」といったのだと思う。奈良時代以降、「土」をクニと読み、居住地の意味で使うことは、これまで何本かの論文で強調してきたことである。これを敷衍すると、自然神、地霊としてのオオアナムチが、文化神、国土神としてのオオクニヌシに転生したということになるのだろう。

2011年4月15日 (金)

地震火山24貞観地震は1000年に一度か?

 東京新聞から「地震・津波・噴火」を理解するため読書欄の連載を頼まれて、津波の本の紹介に困った。まとまった本がない。もちろん、地震学サイドでは都司嘉宣氏の一連の仕事、そして歴史学では矢田俊文氏の『中世の巨大地震』が大きな貢献をしている。しかし、『津波』を銘打った本がない。

 困って「古代中世地震噴火データベース」(石橋科研)で津波を引いてみたら、享徳三年(一四五四)の奥州津波のデータがあることを知った。データベースは次のようなもの。

事象番号:14541221  種別:地震
享徳3年11月23日/1454年12月12日(J)/1454年12月21日(G)
(B)〔王代記〕○山梨県史 資料編六
《十一月》{(享徳三年)}廿三、夜半ニ天地震動、奥州ニ津波入テ、山ノ奥百里入テ、カヘリニ人多取ル、
(B)〔会津旧事雑考〕○会津資料叢書 下巻
《三年》{(享徳)}(甲 | 戌)
十一月廿三日夜大地震、

 これは産総研の土壌調査によると、室町時代くらいに、陸奥国の大津波が起きたという結果に照応する記事かもしれない。
 このデータはデータベースの基礎となった『大日本地震史料』には載っていないから、石橋克彦科研に参加した歴史関係グループの貢献、つまり矢田などの貢献であろう。そしてそのもとは『山梨県史 史料編六』の貢献であることはいうまでまでもない。貞観津波論にとっても決定的に重要のように思う。
 県史の解説にあるように、この史料、「王代記」は一五二四年(大永四)頃には成立していたもので、史料として十分に信憑性があるといってよい。「奥州ニ津波入テ、山ノ奥百里入テ、カヘリニ、人多取ル」というのは、一〇〇里というのは文字通りに理解はできないが、今回の津波でも、津波の水流は50キロさかのぼったというから荒唐無稽ともいえない。
 なお、約半月後に、十二月十日に、鎌倉でこの津波の余震があったことが『鎌倉大日記』に「大地震」と記録されており、この地震の規模を知ることができる。
 さらに興味深いのは、「古代中世地震噴火データベース」のもとである『大日本地震史料』には、『朝鮮王朝実録』からの引用もあることで、それによると「端宗王二年十二月甲辰」(西暦に直すと)一四五五年一月二四日に、朝鮮の慶尚道、全羅道などで大地震があって圧死したものが多いとうことである。奥州津波は西暦に直すと十二月二一日であるから、朝鮮での地震は約一月後ということになる。これはあるいは、日本の東国での地震の連動を示すものではないだろうか。もし、そうだとすると、これも地震の規模の大きさをものがたるものではないかということになる
 『大日本地震史料』の記載は、それ以外にも興味深い点が多いが、いずれにせよ、貞観地震の後、約六〇〇年後にも陸奥国の大規模な地震・津波があったということは、これで地震学による津波痕跡の調査と文献の双方から示すことができるということになる。そして、これはだいたい600年周期で今回の東日本太平洋岸地震にあたる地震が発生するという傾向を示すものということになるのかもしれない。
 今回の東日本太平洋岸の地震と津波が「想定外」であったという意見の中で、1000年に一度の天災は予想できないという言い方がされることがある。それは第一に、地震学が、阪神大震災以降、日本の大地が動乱の時代に入ったと宣言していたことを考慮にいれないという点、そして一〇〇〇年に一度ということは学界の側ではいってはいないということを無視しているように思う。
 それにしても、もう少しのところであったという地震学の研究者の無念はいかばかりかと思う。たくさんの人々がなくなったのだ。今日の朝日の夕刊によると、アメリカ地震学会でも「巨大地震が活動期に入った」という報告があったということである。大地というものをどう見つめていくかという問題が、二一世紀にはっきりと課題となったということだと思う。温暖化ということのみではすまないということだ。

 火山噴火の増大、そして何よりも心配なのは、原発の排水による海水の継続的な温度上昇の総合的な影響、温暖化の問題をそれをあわせて考えなければならないとしたら、と、素人ながら考える。


2011年4月14日 (木)

地震火山23小山真人『富士山大爆発が迫っている』

小山真人『富士山大爆発が迫っている』(技術評論社2009)について
 学者をやっていると仕事の上での読書というのは楽しいものではない。もちろん、もう少し余裕があれば別だが、追われるように仕事をしていると、人の仕事をじっくり読む機会はへっていく。もちろん、研究だけの時間がとれ、追われるように仕事をするというのは独特の楽しみがあるが、それは自分の研究の構想をねり、あれからあれへと論点をふくらませ、草稿を書いていく楽しみであって、そこでは「本」というのは、あっちこっちをひっくり返すものであって、それは読書の楽しみではない。とくに歴史学の場合は、というよりも私の場合は、じっくりと読むということが少なくなり、どうしても必要になったり、あっと気が付いて集中して読んだ時には、しばしば自分の欠落や狭さや偏見を自覚することになる。そうなると楽しいどころではなくなる。これは年をとっても気が休まらない学問であると思う。
 けれども、学者をやっていて楽しい読書というのは、たしかにある。それは、歴史学の普通の世界から相当離れた学問の著作を集中して読む時であろう。最近では、『かぐや姫と王権神話』の執筆のために、集中的に神話学の本を読んだ時は楽しかった。私は、こういう時に、自分のことをやはり「戦後派歴史学」であると思うのだが、神話学というと、大林太良氏のものしか読んでおらず、この機会に、三品彰英、松村武雄、松前健などの古典的な仕事を拾い読みした。おのおの独特の経歴の方々であるから、神話学の世界というものも覗けたような気もして、これは独特の経験であった。
 最近は地震学・火山学の本にはまっている。これは端倪すべからざる学問分野である。そもそも歴史学をやっていると、とくに最近の日本の経済学、法学などの「正統的」学問はほとんど馬鹿にみえてくるので、端倪すべからざるなどという経験がなくなる。また歴史学者は(少なくとも私の場合は)一般には純正の自然科学を理解する能力はないので、いよいよ唯我独尊になってくる。
 ところが、地学関係の仕事は、私たちでも理解ができるし、歴史学と同じような意味で「時間」を扱う学問であり、さらに理論的に厳密であり、社会的な有用性を表面に立てる。石母田正氏のエッセイを読んでいると「地団研」の地質学者への言及が多いが、ようするに、歴史学者がは伝統的に地質学に弱い、地質学を尊重するということなのだということを実感している。
 さて、いろいろの感想は以上として、本書『富士山大爆発が迫っている』(技術評論社)は、「(1)火山はどうしてできる」「(2)富士山のおいたち」「(3)歴史時代の二大噴火」「(4)富士山のハザードマップ」「(5)富士山の噴火予知と防災計画」「(6)火山とともに生きる」の計6章からなっている。

 「(1)火山はどうしてできる」
 この第一章は、は火山論を中心としたプレートテクトニクス、地質構造学の概説。プレートとプレートの境界地帯に火山と地震多発地帯が集中していて、日本は火山と地震のマークで地形もみえないという例の恐い世界地図がでてくる。そして、火山がなぜできるかの説明がある。プレートの沈み込みにともなってできる火山、プレートの拡大・引き延ばしの地帯に上昇する火山、そしてプレートより深いところからマグマが上昇してくるホットスポット型の火山の図解がわかりやすい。興味があるのはホットスポット型の火山なるもの。
 『かぐや姫と王権神話』を書いた時に読んだ江原幸雄『中国大陸の火山・地熱・温泉』(九州大学出版会、二〇〇三)によれば、「東北アジアの火山分布は、(1)カムチャッカから日本列島につづく太平洋プレートの沈み込みにともなう火山帯、(2)内モンゴル自治区に聳える大興安嶺山脈と黒龍江省から韓半島にむかう長白山脈に広がるホットスポット型の玄武岩質火山の二列に区分される」という。東北アジアは、この大興安嶺山脈と長白山脈をふくめれば、本当に一帯が火山地帯なのである。それが、この地域の神話・民俗に共通する影響をあたえたのは明らかな事実で、有名な「騎馬民族国家節」ではなく、「東アジア火山国家説」こそが必要というのが私の試論。
 小山の図による説明によって、ホットスポット型火山というものの実体がよくわかったが、江原の説明では、東北アジアのホットスポット型火山は日本周辺でのプレート沈み込みに関係して生まれたものであろうとしている。そこまでふくめて火山地帯論の状況がどうなっているか、それを知りたいものである。

「(2)富士山のおいたち」
 この第二章は、富士山の地質学的な分析によって富士と箱根の関係、富士が本来はツインピークであったことなど、具体的にわかる。まず、富士は同じ火道を何度も使用して噴火した複成火山で、しかも大量の火山噴出物が層をなして大円錐体となって積もったせ成層火山であること。ただし、成層火山よりも、大円錐火山というのが最近の火山学の言い方らしい。「休火山という言葉は、いまでは使われていません」ともあって、私などは、そんなことをいわれてもそういうように習ったといいたくなるが、学問というのは「君子豹変」だから仕方がない。
 もう一つは、富士の地下構造の問題で、これが面白い。つまり東日本が直立しているのは、アムールプレートとオホーツクプレートが東西から押し合っているためだが、その股に食い込むようにして、南からフィリピンプレートが潜り込んでいる。ここら辺はよく理解できる訳ではないが、ようするに、フィリピンプレートは軽い大地、伊豆半島を上にのせて北上運動をしているからだろうか、伊豆半島とその先に突出する富士山の方向には沈み込まず、西と東に分かれてアムールプレートとオホーツクプレートの下に沈み込んでいる。富士山の北にはフィリピンプレートの沈み込みが確認されないということのようである。いずれにせよ、富士山はプレートの股の部分に突出した異様な火山であるらしい。しかも、その直接に接触する三枚のプレートのさらに下には太平洋プレートが沈み込んでいる。
 そういう条件の中で富士がどのように巨大化してきたかが、この章では書かれている。
 
「(3)歴史時代の二大噴火」
 この章は富士の貞観の噴火と宝永の噴火についての説明。宝永噴火と貞観六年(八六四)の噴火の比較が面白い。貞観噴火は溶岩型、宝永の噴火は火砕流と噴石型で、富士の噴火の二類型を代表しているという。貞観噴火では「せの海」という富士の北の湖の埋没と分断によって、富士五湖が形成されることはよく知られている。ボーリングなどによってこの「せの海」の容積を試算して、貞観噴火のマグマの総量を14億立方メートルとすることができたという報告である。
 私が面白かったのは、都良香の「富士山記」に描かれた富士山の貞観噴火後の富士山の火口の風景について、小山氏が、これは現実に火口まで上った人の伝聞にもとづいて書いているのであろうとした点。「富士山記」には「虎石」という石がでてくるが、それらしい石がいまでも富士火口に存在しているというのである。私は富士山に登ったことがなく、また十分な調査が不足していたのか、これを知らなかった。

 小山は富士山の噴火のハザードマップを作成した人。その経験をふまえた「(4)富士山のハザードマップ」「(5)富士山の噴火予知と防災計画」「(6)火山とともに生きる」のうちで、私に興味深かったのは、小山が逆に日本の国土は火山なしには貧困なものとなったろうと火山の恩恵を強調していることであった。つまり、もし噴火がなかったとすると、日本の山がちの国土には、急峻な地帯ばかりがふえて、盆地・平野と、そこに存在する土壌がなかったろうという。火山の神は豊穣の神ではないかというのが、私の推定であったが、火山の神がなんで豊穣かというのはうまく説明ができない部分があった。もちろん、それは直接に農業的なものというよりも、鉱業資源に関わる観念であった可能性もり、神話時代の人々が、どのように「火山の富み」を理解していたのかはわからない。これは当時の人々の「国土感覚」に関わるのだろうと思う。しかし、原理的にはこういう説明でよいのであろうと教えられた。
 一つつけ加えておけば、日本における黄金の産出は火山列島という地質条件によるところが多いという。プレートとプレートの境界地帯に火山と地震多発地帯が集中しているという世界地図をみれば、黄金は、火山地帯にできる。日本の陸奥国の黄金が火山ラインにそったものであることはよく知られている。そして、ギリシャの北、トラキア、ヒマラヤ、そして日本列島から南海に連なる火山地帯、さらにアメリカ大陸西岸からマヤ・インカ文明の地域に懸けて黄金は産出するのである。
 なお、「地震・噴火史料データベース」が、小山が教授をつとめる静岡大学防災センターから公開されていることも付言しておきたい。

2011年4月12日 (火)

中井久夫『世に棲む患者』

 先日、娘が、朝早くスコップをもって出かける。地震による液状化に襲われた千葉の病院で、まだ一階部分に泥が貯まっているところがあり、その掻い出しのためであるという。夜からちょうどい大きさのスコップがなかったかといっているので、早朝、久しく見ていなかった小さめのスコップを探して、玄関にたてかけておいた。
 スコップをもった彼女の後ろ姿を夫婦で窓からみていた。
 社会との関わりが奉仕に始まるというのは、私たちの世代ではあまりないことであったと思う。「社会奉仕」というと、私財をもつ人々が行うか、あるいはよかれあしかれ「役所」のイニシアティヴの下に行われるというのが、一般であって、私などは、そういうものは「うさんくさい」ものとみていた。そもそも、私たちの世代だと、社会のさまざまな単位は、それなりに自足していて、社会の他の集団の構成員が個人として奉仕するということは社会システムに予定されていなかったのである。
 かわりにやったのは「カンパ」ということである。そんなに金もないのに、あるいは金がないからか、出す方も、募る方もよくやった。金がないのはいまでも変わらず、カンパをするという習慣も変わらない。その何となくのうしろめたさ
 しかし、現在の若い世代が、「社会奉仕」に参加するというのは、自然なことだと思う。労働が単純労働で、しかも必ず感謝される奉仕労働であるというのは、やる方にとってはやりやすいことである。集団労働になれていない青年にとって、これは緊張がなく、余裕がもてるものだと思う。震災からの復旧のみでなく、そういう奉仕労働のことをよく考えることが必要になっている社会なのかも知れない。
 泥を掻き出すというのはいわゆる「人海戦術」なのだろう。ちょうどよい大きさのスコップが必要な、非力な娘にも、奉仕の仕事がかかって来るというのは、ありがたいことである。もちろん、スコップの使い方一つをとっても、身体の技術や慣れがいる。娘がスコップを使えるとは思えない。しかし、娘の力でも単純労働としてみれば、人の半分あるいは四分の三はかならず役に立つ。単純労働は加減乗除が可能な労働、量としての労働である。これは経済学の基本問題だが、人海戦術の単純労働だと、それがみえやすい。
 そもそも、人は単純労働力に還元されてしまえば、みんな平等である。労働の基礎には、つねに、この平等性が潜在しているが、それは知識としてではなく、体感するほかないものだと思う。単純労働への集中は、一種の動物的な活力の共同をともなうが、それは同時に原始的な平等の感覚を生む。普通のアルバイトだとそうはいかないが、奉仕の単純労働で、そううことを感じてほしいものだと思う。
 いま、大学生のアルバイトは、本当に職種が多様化している。私が学生時代には大学生が同世代の中でしめる割合はまだ25%になっていなかったから、労働予備軍としての期待はシステム化されていた訳ではなかった。それは相当前から変わり始め、さらに労働者派遣業が「合法化」され、そしてそれらの技術的・社会的な基礎としてのコンピュータネットワークと通信手段の発達によって、青年のアルバイトは完全にシステムの中に組み込まれた。そういう状況を切り返すという意味でも、社会奉仕というのは意味があるのかもしれないと思う。
 考えてみると、私たちの世代だと、子供の労働は、水汲、掃除、雑巾かけ、草むしり、犬の散歩などがまだ日常的に子供のやるべきこととして残っていたと思う。そして集団労働としては、年末の大掃除があった。これは単純労働ではなくて、大人の労働を子供がみならうスタイルのものだったが、やはりよい習慣だったと思う。わが家でもやるべきであったというのが最近の反省。そういう機会が減っているという意味でも、「社会奉仕」頑張れである。

 昨日、中井久夫氏の『世に棲む患者』を読んでいたら、統合失調症の人がが退院した後、最初に必要な社会との関わりは消費であると書いてあった。入院している時でも、病院の前の商店で何か買えば、お愛想の一つもいってくれる。これがいい。そして、患者が個性的な消費のルートをつないでいけば、それは恢復への道に開けている。それが「非患者」の中で生きていくための常同性の知覚にもっとも近いというのである。
 たしかに、消費は、個人個人の社会的な関わりとしてもっとも楽でもので、個人と個人が対等な別人格であるという原理を、消費の度に確認できる。各々は特別な意味をもった購買でも、そこに無縁・対等という普遍的なものがつねにつらぬいている。無縁・対等という原理を純粋に感覚的に知るためには、純粋な交換が必要であるということは、どのような社会になっても変わらないことなのではないだろうか。もちろん、物が「商品」として存在するという状況の複雑性は、様々な問題を引き起こすが、しかし、その中に交換それ自体というものを感知することは、つねに可能であり、また必要なことでもある。
 中井氏は、これを以前の精神病棟では「労働による恢復」ということがしばしばいわれたこととの関係でも述べていて、生産的な労働はやはり複雑な要素をふくみ、まずは生産よりも消費を考える方がよいという訳である。

 労働の単純さと、消費の単純さというのは、どういう場合でも、生活にとって大事なものなのだと思う。
 

2011年4月10日 (日)

地震火山22仁和三年の南海トラフ巨大地震(1)

 いま、4月7日11時32分頃、宮城県沖でM7,4、震度6強(栗原市と仙台市宮城野という強い地震が起きた。私の住所の千葉でも長く揺れた。45分現在、女川・福島・東海の原発には(いまのところ、これ以上の)異常はないという報道。3月11日地震の余震。「円を描くような長い地震」。仙台市宮城野では火事が発生という(12時25分には女川原発の外部電源三系統のうち二系統が使用不能という報道)。
 今日は一日会議で、さすがにばてて寝ていたところであったが、この地震で起きあがる。9世紀の東海・南海地震といわれる地震、仁和3年(887)7月30日の地震の史料の読みを提供しておこうと考えた。
 まず、『理科年表』のいうところを紹介する。


「887 8 26(仁和3 7 30)M8,0~8,5)  五畿・七道:京都で民家・官舎の倒潰多く、圧死多数。津波が沿岸を襲い溺死多数。とくに摂津で津波の被害が大きかった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる」。

 『三代実録』の仁和3年(887)地震の史料の原文は以下の通り。

卅日辛丑、申時地大震動、經歴数剋、震猶不止、天皇出仁壽殿、御紫震殿南庭、命大藏省立七丈幄二、爲御在所、諸司倉屋及東西京廬舍、往々顛覆、壓殺者衆、或有失神頓死者、亥時亦震三度、五畿内七道諸國同日大震、官舍多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中攝津国尤甚、夜中東西有聲、如雷者二(『三代実録』仁和3年7月30日/887年8月26日(G))

 次ぎに書き下し。

申時、地大いに震動す。数剋を経歴して、震なお止まず。天皇、仁壽殿を出でて、紫震殿の南庭に御す、大藏省に命じ、七丈の幄二を立てしめ、御在所となす、諸司の倉屋および東西京の廬舍、往々にして顛覆し、圧殺さるるもの衆し、あるいは失神し頓死する者あり、亥時また震三度、五畿内七道諸国同日大震す。官舍多く損じ。海潮陸に漲り、溺死の者、勝計すべからず。その中に摂津国もっとも甚だし。夜中、東西に声あり、雷の如きもの二つ(『三代実録』仁和3年7月30日/887年8月26日(G))

 次ぎに現代語訳。

 午後四時頃に大地震が起き、数刻をへても震動が続いた。天皇は仁壽殿からでて、紫震殿の南庭に移動した。そして大藏省に命じて、七丈の幄二つ立てさせ、御在所とした。役所の倉屋および東西京の民衆の家は、相当部分が、転倒・倒壊し、その下になって殺されたものが多い。あるいあh失神して頓死したものもある。10時ころにまた地震が三度。全国(五畿内・七道諸国)でも、この同日に大地がおおいに震えた。官舍が多く損壊して、海潮が陸に漲ってきて、その津波によって溺死したものは数えることができないほどである。そのような津波の被害の中でも、摂津国の被害はもっとも甚だしいものがあった。さらにこの日の夜中、東西に雷のような大音響が二回鳴り響いた。(『三代実録』仁和3年7月30日/887年8月26日(G))

 以上を夜に書いて寝たが、朝のニュースによると東北の人々が昨夜の余震によって大きな被害がでたことにショックを受ける。
 上は、4月8日(金)に書いたもの。しばらく、仁和三年の地震史料の解説をする。これは普通の歴史学者ならば、すぐに解説が書ける史料である。研究者の方は、どうぞご自由に引用注記なく御利用ください(これはこのブログの記事全体についての原則である)。取るべき点があるとしてもプライオリティは主張しません。ただし、役に立つものかどうか、間違いがまったくないかは(申し訳ないですが)保障できません。
 いま、4月10日(日)昼間。テレビで「森は海の恋人」の代表の畠山重篤氏のお宅の様子が写る。畠山氏ご本人も状況を語られる。気仙沼湾の漁業環境の赤潮による悪化から、湾を救うために「牡蠣の森を慕う会」を結成して、大川上流の室根山の植樹運動をやられた方である。相方が「この人だ」というのを聞いて、私も認識をする。NPO法人「森は海の恋人」のホームページを御覧になることを御勧めする。
 これから地方選挙にいってくる。こんな時に選挙を実施する政権というのは何を考えているのかがわからない。
 現在の状況の中で注目しているのは、一つは大企業の経営者陣の動きである。東京電力は相当の内部留保(3兆?)があるはずで、それ以外の大企業の内部留保全体を総計すれば、無慮数百兆にはなるはず。内部留保とは、経営危機と設備更新の備えであるはずであり、こういう国土の環境と人口の破壊の危機、つまり自然的・人的資本の壊滅的危機には、相当部分を、少なくとも一時資金として吐き出してよいはずのものである。
 東北の状況をみるとそれを強く感じる。救援と結びついた復興を人々が一致して進めるためには、誰が見ても、本来、これが必要なはずである。これをマスコミが語らないことが最大の違和感。
 もう一つは、自然科学者の中枢部、いわゆる「原子力村」の人々と工学関係者が、明瞭な反省と決意をまだ語っていないようにみえること。私は、自然科学の人々のエネルギーと善意と発展的な気持ちを評価する立場。がんばってほしい。

追記、後者については次の声明がでているのを知った(午後3時前)。これを読むと、今後、万が一のことがないのを願うばかり。

福島原発事故についての緊急建言
 はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝いたします。
 私達は、事故の発生当初から速やかな事故の終息を願いつつ、事故の推移を固唾を呑んで見守ってきた。しかし、事態は次々と悪化し、今日に至るも事故を終息させる見通しが得られていない状況である。既に、各原子炉や使用済燃料プールの燃料の多くは、破損あるいは溶融し、燃料内の膨大な放射性物質は、圧力容器や格納容器内に拡散・分布し、その一部は環境に放出され、現在も放出され続けている。
 特に懸念されることは、溶融炉心が時間とともに、圧力容器を溶かし、格納容器に移り、さらに格納容器の放射能の閉じ込め機能を破壊することや、圧力容器内で生成された大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである。
 こうした深刻な事態を回避するためには、一刻も早く電源と冷却システムを回復させ、原子炉や使用済燃料プールを継続して冷却する機能を回復させることが唯一の方法である。現場は、このために必死の努力を継続しているものと承知しているが、極めて高い放射線量による過酷な環境が障害になって、復旧作業が遅れ、現場作業者の被ばく線量の増加をもたらしている。
 こうした中で、度重なる水素爆発、使用済燃料プールの水位低下、相次ぐ火災、作業者の被ばく事故、極めて高い放射能レベルのもつ冷却水の大量の漏洩、放射能分析データの誤りなど、次々と様々な障害が起り、本格的な冷却システムの回復の見通しが立たない状況にある。
 一方、環境に広く放出された放射能は、現時点で一般住民の健康に影響が及ぶレベルではないとは云え、既に国民生活や社会活動に大きな不安と影響を与えている。さらに、事故の終息については全く見通しがないとはいえ、住民避難に対する対策は極めて重要な課題であり、復帰も含めた放射線・放射能対策の検討も急ぐ必要がある。
 福島原発事故は極めて深刻な状況にある。更なる大量の放射能放出があれば避難地域にとどまらず、さらに広範な地域での生活が困難になることも予測され、一東京電力だけの事故でなく、既に国家的な事件というべき事態に直面している。
 当面なすべきことは、原子炉及び使用済核燃料プール内の燃料の冷却状況を安定させ、内部に蓄積されている大量の放射能を閉じ込めることであり、また、サイト内に漏出した放射能塵や高レベルの放射能水が環境に放散することを極力抑えることである。これを達成することは極めて困難な仕事であるが、これを達成できなければ事故の終息は覚束ない。
 さらに、原子炉内の核燃料、放射能の後始末は、極めて困難で、かつ極めて長期の取組みとなることから、当面の危機を乗り越えた後は、継続的な放射能の漏洩を防ぐための密閉管理が必要となる。ただし、この場合でも、原子炉内からは放射線分解によって水素ガスが出続けるので、万が一にも水素爆発を起こさない手立てが必要である。 
 事態をこれ以上悪化させずに、当面の難局を乗り切り、長期的に危機を増大させないためには、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、関係省庁に加えて、日本原子力研究開発機構、放射線医学総合研究所、産業界、大学等を結集し、我が国がもつ専門的英知と経験を組織的、機動的に活用しつつ、総合的かつ戦略的な取組みが必須である。
 私達は、国を挙げた福島原発事故に対処する強力な体制を緊急に構築することを強く政府に求めるものである。

平成23年3月30日

青木 芳朗  元原子力安全委員
石野 栞    東京大学名誉教授
木村 逸郎  京都大学名誉教授
齋藤 伸三  元原子力委員長代理、元日本原子力学会会長
佐藤 一男  元原子力安全委員長
柴田 徳思  学術会議連携会員、基礎医学委員会 総合工学委員会合同放射線の利用に伴う課題検討分科会委員長
住田 健二  元原子力安全委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
関本 博   東京工業大学名誉教授
田中 俊一  前原子力委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
長瀧 重信  元放射線影響研究所理事長
永宮 正治  学術会議会員、日本物理学会会長
成合 英樹  元日本原子力学会会長、前原子力安全基盤機構理事長
広瀬 崇子  前原子力委員、学術会議会員
松浦祥次郎  元原子力安全委員長
松原 純子  元原子力安全委員会委員長代理
諸葛 宗男  東京大学公共政策大学院特任教授

2011年4月 9日 (土)

地震火山21九世紀の火山活動と日本神話

 以下は『かぐや姫と王権神話』で書いた九世紀の火山活動の概観。日本神話との関係については、火山論は『竹取物語』との理解でもきわめて重要という観点からさらに詳しく述べた。

 しかし、ここでは、九世紀の火山活動の総論として掲げておく。先日掲載した鳥海山についての史料が含まれているが、もっとも重要なのが富士火山論であることはいうまでもない。その点検によって、かぐや姫はやはり火山の女神であるという結論としたが、火山論としても富士が中心となることはいうをまたない。ただ、いま考えると、地震の神が男性か女性かは重要な問題で、火山神論は地震神論によって補充されねばならない。

 以下、引用。『かぐや姫と王権神話』74頁。

 『竹取物語』が成立した九世紀の日本は、日本史の中で、火山噴火がもっとも激しかった時期である。この時期、火山に関わる神話が新たな生命をもって復活したことは疑いない。八六四年(貞観六)の富士の大噴火については、カグヤ姫の昇天との関係で、後にふれるとして、そのほかの主要な噴火・火山活動に関する記事をあげると、右の富士噴火と同じ年、九州では、阿蘇山が噴火し、健磐龍命神の神霊池が沸騰して天に昇り、山頂の「三石神」のうち二つが崩壊している。阿蘇の神は噴火の度に位を上げていったらしく、健磐龍命神は八四〇年(承和七)の従四位下から八五九年(貞観一)には正二位、阿曽比咩神は八五九年(貞観一)に従四位下であったものが、八七五年(貞観一七)には従三位にまで位を上げている。また隣の豊後国でも、八六七年(貞観九)に、別符の鶴見山山頂の「火男神・火売神」の神社の脇にあった火山湖が、三日のあいだ噴火し、「磐石飛び乱ること、上下に数なし。石の大なるは方丈、小なるも甕の如し」であったという。
 東北地方では、八七一年(貞観十三)、出羽国の鳥海山の大噴火がある。鳥海山は以前から噴火を繰りかえしており、麓の大物忌神社はすで従三位の神格をもっていたが、このときの噴火は、「巌石壁立」(巌が壁のように聳える)の山頂で「火あり、土石を焼き、また声ありて雷のごとし」という大噴火で、土石流で氾濫した川を「十許丈」の二匹の大蛇が多くの蛇をしたがえて川を逃げ下るのが観測されている(『三代実録』)。
 このような火山噴火を当時の人々がどう見ていたかをもっともよく伝えるのは、伊豆国神津島の海底噴火であろう。八三八年(承和五)のこの大噴火の爆裂音(空振)は京都にまで響き、降灰が関東から近畿地方におよんだ。人々が幻視した風景は、神津島に十二人の天の火をもった童子たちが降り、海に火を放ち、地に潜り込み、大石を震い上げ、その結果、巨大な「伏鉢」のような「壟」を中心に、石室・閣室の石組みができあがり、それらは堊や白石、金色の礫砂などによって塗り固められたというものであった(『続日本後紀』)。
 『日本書紀』『古事記』に頻出する、高御産日神らの諸神に関わる天の磐船、磐座、磐戸などの「磐石飛び乱る」風景は、このような火山爆発の記憶を核として幻想されたものであろう。これこそが日本神話の原風景なのである。このタカミムスビは、天皇制の始祖神話である天孫降臨神話の本来の主催神であり(三品彰英一九四二)、神話世界の最高の天空の神であるが、その指示の下に天孫・火瓊瓊杵尊が降臨した山が、現在でも噴煙を上げている日向高千穂峰であったことは、タカミムスビが天空を支配するとともに火山神としての性格をもっていたことを示している。
 しかも、『日本書紀』(顕宗紀、五世紀末の大王)には、日神と月神が、おのおの「天地を鎔造した功」をもっている「我が祖」、タカミムスビを祭る田地を設定せよと託宣したという記録がある。この「天地鎔造」、金属を溶かすようにして天地を作り出したという神話のイメージも、火山の爆発と溶岩のイメージを含んでいるのではないだろうか。

2011年4月 8日 (金)

地震火山20木村学「回顧 地球科学革命の世紀」について

 東京大学出版会の宣伝紙、『UP』の4月号に木村学「回顧 地球科学革命の世紀」というエッセイがのっている。20世紀の歴史学がたどって、いまもたどっている流れと共通するところがあって、共感できることが多い。このエッセイの書き出しは、次の通り。

 「”私たちはなにものか? どこから来て、どこへ行くのか”という科学の根本的問いかけの主語の”私たち”を地球に置き換えた科学が地球科学である」。

 歴史学はまさに「私たちはどこからきて、どこへ行くのか」を問う学問そのものである。そして歴史学と地球科学に共通するのは、それが日常生活とはまったく異なった長期的な「時間」というものを実感するための科学であるということだと思う。それは歴史学と同様に、「知」であると同時に「感性」の問題である。日常性とは異なった「時間」というものは、まずは通常では意識されないような長大な時間を考えることによって実感されるものだろう。もちろん、人間の歴史を扱う歴史学の扱う「時間」は、(人間の歴史をもふくむ)自然の歴史の全体を扱う地球科学にとっての「時間」よりも圧倒的に短い。しかし、どちらも実際には、人間の日常性の枠を大きく越える「時間」であることは共通している。そして、それは、「知」の問題であると同時に、一種の「感性」の問題であることが大事だと思う。
 数学者の小平邦彦氏は、数学者は、「数覚」というべき感覚をもつようになった人間のことであるといっているが、同じ言い方をすれば、この「歴史感覚」はいわば「史覚」というべきものになろうか。普通の言葉でいえば「史心」であるが、それが徐々に発達していく特別な感覚であることを強調しておきたい。
 もちろん、歴史学と地球科学は、対象が違う。それ故に、二つの学問の「知」も「時覚」も大きく異なっている。しかし、木村氏のエッセイを読んでいると、両者は、長大な時間をとらえる学問に基礎づけられたものであるという意味では、共通する相貌をもっているように感じるのである。
 以前、私は「時代区分論の現在」という講演で、次のように述べた(WEBPAGEに載せてある)。
 「諸個人の個人的時間は、それが拡大した場合も、自己の直接的経験であり、あるいは自己をとりまく人々、配偶者・子ども・親族・同一職業者・友人などの経験の想像でしかない。それは、社会全体が経験していく歴史的な時間の一部をなしてはいるが、しかし、日常意識は、そのような広大な歴史的時間から目をそらそうとするのが普通である。われわれの日常意識は、社会が人間の感情と知識の範囲をこえて客観的構造をもってそびえ立ち、われわれの生活を拘束していることを認めようとしない。そして、それと同様に、われわれの日常を越えて、そのすべてを押し流しながら、どこへ結果するともしれずに客観的に連続していく時間というものが存在することを認めようとしない。過去を意識しているということは、人間に現在を相対化する強さを要求するのであって、われわれの日常意識はその不安に耐えられない」。
 日常意識が、こういう永遠の時間、長大な時間の存在を意識させられるのは、一般に社会的・歴史的な破局の場である。それは歴史についても、自然についてもそういうことであると思う。そういう破局の中ではなく、予見の中で、永遠の時間、長大な時間を考え、感じる力をどうにかして獲得していかないと、人類社会はもたない時期に入っているのではないだろうか。今回の東日本東岸大地震は、それを感じさせるのである。
 さて、脇にずれたが、木村氏のエッセイの趣旨は、日本の地質学の流れの中で、なぜいわゆるプレートテクトニクスの学説の受容が遅れたのかという学説状況の説明にあった。プレート論を中心とする構造地質学(テクトニクス)、つまりプレートテクトニクスが世界の地球科学で一般化したのは、1960年代であったが、日本ではそれが約一〇年遅れ、1980年代初頭に受け入れられたという。そして、この約10年のタイムラグというのは、自然科学の世界では普通は考えられないことらしい。
 そして、その理由は、欧米の地質学が、二〇世紀初頭から、自分自身のイニシアティブで、地球を研究する手法に物理学や化学を積極的にとりいれていったのに対して、日本の地質学が「造山運動」(つまり断層や褶曲それ自身)の理解をもっぱらとし、地震多発国として地震学の知見の多さを誇り、さらに、第二次大戦前には、日本の帝国大学の地質学研究室の多くの研究者は、日本の植民地政策の先導役として外国の地質調査をになったという事情にあった。その中で、地質学の方法的な問い直しに挑む研究は生まれず、日本の地球物理学は、地質学とは離れた物理学の応用科学として出発したというのである。
 それが突破されたのは、一九七〇年代始めの、いわゆる大学紛争の中でのことであったというのも、同世代として共感を呼ぶ省察である。しかし、プレートテクトニクスの受容が、10年遅れたというのは、地震学にとっては、いまから考えれば、臍をかむようなことであろう。
 つまり、よく知られているように、石橋克彦氏による東海大地震の警告はプレートテクトニクスの学説の受容と関係していた。それが1976年。そして、この大地震の予測が地震学会の全体によって受け入れられて、地震防災体制の焦点になる過程と、プレートテクトニクスが通説としての地位を確保するのは、相互に関係する事柄であったのだと思う。もし、学説の変化が10年早ければ、そしてーーーという感想は、今回の大地震を前にして、関係の学者が、様々な立場から感じていることに相違ないからである。
 木村氏のエッセイは、『UP』四月号に載ったのは、まったくの偶然であろう。その原稿は3月11日前に入稿していたに違いないだけに、上記のようなことを強く感じさせるのである。
 それにしても、歴史学と地球科学の比較は、さらに考えるべきことが多いように思う。歴史学がナショナルな学問から解放され、世界史を正面におくようになったのは、第二次大戦後すぐのことであって、その意味では歴史学は地球科学よりも早く、戦前からの解放の道を歩んだ。しかし、方法論という点でいえば、地球科学のプレートテクトニクス革命にあたる方法論の徹底化には、まだ成功していないように思うからである。地球科学にとっての物理学にあたるものは、歴史学にとっては何なのであろうか。

2011年4月 3日 (日)

地震火山19貞観地震翌々年の出羽鳥海山の噴火

 奈良時代と平安時代初期、つまり八・九世紀は地震活動が活発化した時期であるとともに、火山噴火が活発化した時期である。地震と噴火がプレート・断層の運動とマグマの運動として、相互に深く関係することはいうまでもない。実際、新聞報道によれば、三月11日の東北東海岸地震の後、各地の火山が活発化している。もちろん、新聞報道の3月25日段階では、その13の火山の活動は沈静化しつつあるというが、状況をみておくことは必要であるという。
 そこで、どこまで参考になるかは別として、9世紀の火山噴火についても、静岡大学防災センターから公開されている古代中世地震・噴火データベースに追加・修正できる若干の事実についてふれることにしたい。
 私見では現在の地殻運動は、九世紀の地震・噴火活動と似たところはあるものの、九世紀よりも規模は小さいように思う。とくに火山活動は明らかに九世紀の方が活発である。それゆえに、現在、これから九世紀のような活発な火山活動が始まるとは思えない。しかし、いま、九世紀の火山活動について文献の側からわかることを考えておくのは、地震論のためにも重要だろう。
 ここでは、今回の東北東海岸地震の震源地から近い、出羽鳥海山の噴火についてふれる。林信太郎「鳥海山貞観十三年(871年)噴火で溶岩流は噴出したか?」(『歴史地震』17号、2001年)によれば、「鳥海山は秋田山形県境に位置する巨大な成層火山であり、1974年に水蒸気爆発を起こした活火山である。また、最近の噴火頻度からみて21世紀中に噴火する可能性が高い」といわれる。
 また理科年表は下記の通り。

91. 鳥海山  ○↑V∩~
578?, 708~714?, 804~06?, 839?, 850?, 871(普通の火山爆発、火山泥流、貞観13),939, 1659, 1740(普通の火山爆発, 火山泥流, 天文5)~1741, 1801(山頂噴火, 普通の火山爆発, 溶岩円頂丘, 享和岳(新山)生成, 死者8, 享和1)~1804, 1821, 1834?, 1974(Ⅲ1~Ⅳ28, 山頂噴火, 水蒸気爆発, 火山泥流, 昭和49)

 まず、貞観津波の二年後、貞観13年(871)に起きた鳥海山の噴火の史料を次ぎに掲げる。

 是より先、出羽國司の言ふ。從三位勲五等大物忌神社、飽海郡の山上にあり、巖石は壁立し、人跡は稀に到るのみ。夏冬に雪を戴き、禿にして草木なし。去んぬる四月八日、山上に火ありて、土石を焼く。また声ありて、雷のごとし。山より出ずるところの河、泥水泛溢し、其色青黒にして、臭気充満、人の聞くにたえず、死魚、多く浮び、壅塞して流れず。二つの大蛇あり、長さおのおの十許丈、相連なり流出し、海口に入る。小蛇の隨がうもの其數をしらず、縁河の苗稼、流損するもの多く、或は濁水に浮かぶ。草木も臭朽して生ぜず。古老に聞くに、いまだかって、有かくのごときの異あることなし、但し弘仁年中に山中に火見ゆ。其後、幾くならずして、兵杖を事とすることあり、蓍亀に決するに、ならびに云く、彼国の名神、祷るところいまだ賽(礼)せざるによる。また冢墓・骸骨、その山水を汙す(けがす)。これにより怒りを発し、山を焼く。この災異に至って、もし鎮謝せざれば、兵役あるべし。この日、国宰に下知し、宿祷に賽し、旧骸を去り、ならびに鎮謝之法を行う〔『日本三代実録』貞観十三年五月十六日条)。

 以下、現代語訳。
大物忌神社は鳥海山の山頂にあるが、そこで四月八日に噴火があって、土石を焼き、爆発音が聞こえた。しかも、山から発する川に泥水があふれ、硫黄の臭気が充満した。死んだ魚が多く浮かび、川はせき止められた状態になっている。30メートルを越える長さの蛇が二匹、あい連なって流れ出し、海口に入ったが、それにしたがって、多数の小さな蛇も流れた。川べりの作物は流損してしまい、草木さえ生えない状態である。国の古老たちに聞いたところ、こんなことはこれまでなかった。ただ弘仁年中に山で爆発があり、その後に(蝦夷との)戦闘が発生した。そこで占いを行ったところ、これは名神に祈祷をしながら特段の御礼をしていないためである。また山中に墓や遺体遺棄の場があって山を汚すことに神が怒って山を焼いているのである。この災異にも鎮謝することをしないと、戦闘が起きるであろう。そこで、この日、国司に下知して、御礼をし、遺骸を整理し、鎮謝の法を行うことにした。

 火山噴火には水蒸気噴火とマグマ噴火の二形態があるが、鳥海山におけるマグマ噴火は、1801年の噴火における溶岩ドームの出現事件として史料的に明瞭に確認される。しかし、この貞観十三年の鳥海山の噴火についても、林論文はマグマ噴火の可能性を示唆している。これは古代中世地震噴火データベースでも踏襲され、この貞観十三年噴火について「鳥海山 M3 山頂に火が見え、泥水が流れてきて異様な臭気がした。川の魚がたくさん死んだ。二匹の大蛇が、無数の小蛇とともに出現した。北に開いた馬蹄形カルデラ内に新鮮な微地形を保持してみられる溶岩流の噴火であろう」とある通りである。
 これは鳥海山山頂から北西に流れる溶岩流の様子から立論されており、林論文は、上記の史料の「大蛇」が、この溶岩流を象徴的に表現するものである可能性を示唆している。もちろん、林論文もいうように、これが「本物の蛇である可能性」は否定できず、実際、洪水などに際して蛇が群れをなして川を流れ下る様子は、九世紀以降、しばしば史料に確認することができる。参照保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史二境界領域と交通』、岩波書店、一九八七年一一月)。しかし、火山泥流の発生が川のせき止めを起こし、下流にも硫黄災害を引き起こす規模のものであったことなど、この爆発の規模の大きさからしても、また上記溶岩流の実状からしても、この爆発がマグマ爆発を含んでいたという火山学の分析は確度が高いのであろう。

 データーベースには、この貞観13年噴火のほか、右の史料に「弘仁年中に山中に火見ゆ」とある弘仁年間(810~824)の噴火が掲げられている。その弘仁年間の噴火が、どのようなスタイルのものであったからは分からないが、注意したいのは、データベースが掲げる、この二件のほかにも、「承和六年」に爆発音をともなう噴火があったことが文献史料からわかることである。
 その史料を次ぎに掲げる。

奉授出羽國飽海郡正五位下勲五等大物忌神從四位下。餘如故。充神封二戸。詔曰。天皇が詔旨に坐。大物忌大神に申賜はく。頃皇朝に縁有物怪て卜詢に。大神爲祟賜へり。加以。遣唐使第二舶人等廻來申く。去年八月に南賊境に漂落て相戰時。彼衆我寡て力甚不敵なり。儻而克敵るは。似有神助と申。今依此事て臆量に。去年(承和六年)出羽國言上たる。大神の於雲裏て。十日間、戦声をなすの後に石兵零りと申せりし月日。與彼南海戰間。正是符契せり。大神の威稜令遠被たる事を。且奉驚異。且奉歡喜。故以從四位爵を奉授。兩戸之封奉充らくを申賜はくと申(『続日本後紀』卷九承和七年(八四〇)七月己亥廿六日)。
 

 つまり、「去年」、承和七年の前年、承和六年(839)に出羽国から、大神(鳥海山の大物忌神)が、雲の裏で、十日間、「戦声」を上げるのが聞こえ、その後に、「石兵」が、降った(零り・ふれり)という事件があったというのである。この「石兵」とは小さな火山弾である。
 右の史料で歴史家として興味深いのは、この鳥海山の火山弾噴火がちょうどこの頃に中国に派遣された承和遣唐使の帰船の一艘が、「南の賊境」に漂着して、島民と戦闘になったという事件との関係で記録に残されたことである。つまり、南海での戦闘の日時と、この「石兵」(火山弾)の降下の日時が一緒だった。それは、鳥海山の火山神が、遣唐使船の苦境を救うために、南海に戦闘にでかけたことを意味するという解釈がされて、そのお陰で、この火山弾噴火の記録が『三代実録』に残ったという訳である。逆にいうと、こういう偶然がなくては、火山弾噴火のような小噴火の記録は残らないということになる。
 こうして、小さな水蒸気噴火であった可能性があるとはいえ、承和六年(839)にも鳥海山が噴火していたことがわかるのである。そして、この事件は、当時の国家にとっては、きわめて印象的であったようで、鳥海山については、それ以外にも、貞観十年(八六八)、仁和元年(八八五)の二回、石鏃が降ったことが記録されている(『三代実録』貞観十年(八六八)四月十五日条、『同』仁和元年(八八五)十一月廿一日条)。この「石鏃」つまり、石のヤジリは、承和六年の「石兵」よりも小さなものかもしれないが、これも小規模な水蒸気爆発であったのであろう。
 ようするに、貞観陸奥国大地震の翌々年、貞観十三年(871)の相対的に大きな噴火のほかにも、その前後、鳥海山は、弘仁年間(810~824)、承和六年(839)、貞観十年(868)、仁和元年(885)と頻々と大小の噴火をくり返していたことになる。
 このような9世紀における鳥海山の火山活動の活発さが、陸奥国貞観地震・津波を引き起こしたプレート運動との関係があるのはどうかは、文献史家には想像がつくことではない。また「鳥海山は秋田山形県境に位置する巨大な成層火山であり、1974年に水蒸気爆発を起こした活火山である。また、最近の噴火頻度からみて21世紀中に噴火する可能性が高い」という火山学による予測についても、論ずる立場にはない。少なくとも2011年3月25日の朝日新聞の記事「13火山の活動、活発化」のリストの中には、鳥海山は入っていない。
 しかし、その記事でコメントをした静岡大学の小山真人教授(火山学)は、「巨大地震によって地下のマグマだまりが揺さぶられたり、地殻変動や地震波が伝わることでマグマだまりにかかる力が変わったりすると、地震がふえることがある」「火山活動が活発化しないか、1,2ヶ月は注意してみていく必要がある」と述べている。
 なお、前記のように理科年表には、「(1)578?, (2)708~714?,(3)804~06?, (4)839?, (5)850?, (6)871(普通の火山爆発、火山泥流、貞観13),(7)939」という記録がある。しかし、「鳥海山の歴史時代の噴火活動に関する再検討」(植木貞人、堀修一郎、日本火山学会講演予稿集、2001(2))にもあるように、(1)(2)(3)などは江戸時代の伝承にもとづく記録であって、事実史料として採用することはむずかしい。そいゆえに、これは上記にそって修正する必要があるように思う。
 『理科年表』は会員になれば、データベースでみることができるようであり、また気象庁でも相当のデータ公開がされている。しかし、地震・火山などについては、原史料にまでさかのぼったデータベースを、地理情報システム(GIS)などを利用して見やすい形で提供することが必要であろうと思う。
 原発情報に十分な透明性が必要なことが強調されている。それは当然のことであるが、これまでの責任を痛感するならば、さらに考えるべきことは多いだろうと思う。「国民の共同性」は学術情報の共有なしにはありえない。

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