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2011年4月 8日 (金)

地震火山20木村学「回顧 地球科学革命の世紀」について

 東京大学出版会の宣伝紙、『UP』の4月号に木村学「回顧 地球科学革命の世紀」というエッセイがのっている。20世紀の歴史学がたどって、いまもたどっている流れと共通するところがあって、共感できることが多い。このエッセイの書き出しは、次の通り。

 「”私たちはなにものか? どこから来て、どこへ行くのか”という科学の根本的問いかけの主語の”私たち”を地球に置き換えた科学が地球科学である」。

 歴史学はまさに「私たちはどこからきて、どこへ行くのか」を問う学問そのものである。そして歴史学と地球科学に共通するのは、それが日常生活とはまったく異なった長期的な「時間」というものを実感するための科学であるということだと思う。それは歴史学と同様に、「知」であると同時に「感性」の問題である。日常性とは異なった「時間」というものは、まずは通常では意識されないような長大な時間を考えることによって実感されるものだろう。もちろん、人間の歴史を扱う歴史学の扱う「時間」は、(人間の歴史をもふくむ)自然の歴史の全体を扱う地球科学にとっての「時間」よりも圧倒的に短い。しかし、どちらも実際には、人間の日常性の枠を大きく越える「時間」であることは共通している。そして、それは、「知」の問題であると同時に、一種の「感性」の問題であることが大事だと思う。
 数学者の小平邦彦氏は、数学者は、「数覚」というべき感覚をもつようになった人間のことであるといっているが、同じ言い方をすれば、この「歴史感覚」はいわば「史覚」というべきものになろうか。普通の言葉でいえば「史心」であるが、それが徐々に発達していく特別な感覚であることを強調しておきたい。
 もちろん、歴史学と地球科学は、対象が違う。それ故に、二つの学問の「知」も「時覚」も大きく異なっている。しかし、木村氏のエッセイを読んでいると、両者は、長大な時間をとらえる学問に基礎づけられたものであるという意味では、共通する相貌をもっているように感じるのである。
 以前、私は「時代区分論の現在」という講演で、次のように述べた(WEBPAGEに載せてある)。
 「諸個人の個人的時間は、それが拡大した場合も、自己の直接的経験であり、あるいは自己をとりまく人々、配偶者・子ども・親族・同一職業者・友人などの経験の想像でしかない。それは、社会全体が経験していく歴史的な時間の一部をなしてはいるが、しかし、日常意識は、そのような広大な歴史的時間から目をそらそうとするのが普通である。われわれの日常意識は、社会が人間の感情と知識の範囲をこえて客観的構造をもってそびえ立ち、われわれの生活を拘束していることを認めようとしない。そして、それと同様に、われわれの日常を越えて、そのすべてを押し流しながら、どこへ結果するともしれずに客観的に連続していく時間というものが存在することを認めようとしない。過去を意識しているということは、人間に現在を相対化する強さを要求するのであって、われわれの日常意識はその不安に耐えられない」。
 日常意識が、こういう永遠の時間、長大な時間の存在を意識させられるのは、一般に社会的・歴史的な破局の場である。それは歴史についても、自然についてもそういうことであると思う。そういう破局の中ではなく、予見の中で、永遠の時間、長大な時間を考え、感じる力をどうにかして獲得していかないと、人類社会はもたない時期に入っているのではないだろうか。今回の東日本東岸大地震は、それを感じさせるのである。
 さて、脇にずれたが、木村氏のエッセイの趣旨は、日本の地質学の流れの中で、なぜいわゆるプレートテクトニクスの学説の受容が遅れたのかという学説状況の説明にあった。プレート論を中心とする構造地質学(テクトニクス)、つまりプレートテクトニクスが世界の地球科学で一般化したのは、1960年代であったが、日本ではそれが約一〇年遅れ、1980年代初頭に受け入れられたという。そして、この約10年のタイムラグというのは、自然科学の世界では普通は考えられないことらしい。
 そして、その理由は、欧米の地質学が、二〇世紀初頭から、自分自身のイニシアティブで、地球を研究する手法に物理学や化学を積極的にとりいれていったのに対して、日本の地質学が「造山運動」(つまり断層や褶曲それ自身)の理解をもっぱらとし、地震多発国として地震学の知見の多さを誇り、さらに、第二次大戦前には、日本の帝国大学の地質学研究室の多くの研究者は、日本の植民地政策の先導役として外国の地質調査をになったという事情にあった。その中で、地質学の方法的な問い直しに挑む研究は生まれず、日本の地球物理学は、地質学とは離れた物理学の応用科学として出発したというのである。
 それが突破されたのは、一九七〇年代始めの、いわゆる大学紛争の中でのことであったというのも、同世代として共感を呼ぶ省察である。しかし、プレートテクトニクスの受容が、10年遅れたというのは、地震学にとっては、いまから考えれば、臍をかむようなことであろう。
 つまり、よく知られているように、石橋克彦氏による東海大地震の警告はプレートテクトニクスの学説の受容と関係していた。それが1976年。そして、この大地震の予測が地震学会の全体によって受け入れられて、地震防災体制の焦点になる過程と、プレートテクトニクスが通説としての地位を確保するのは、相互に関係する事柄であったのだと思う。もし、学説の変化が10年早ければ、そしてーーーという感想は、今回の大地震を前にして、関係の学者が、様々な立場から感じていることに相違ないからである。
 木村氏のエッセイは、『UP』四月号に載ったのは、まったくの偶然であろう。その原稿は3月11日前に入稿していたに違いないだけに、上記のようなことを強く感じさせるのである。
 それにしても、歴史学と地球科学の比較は、さらに考えるべきことが多いように思う。歴史学がナショナルな学問から解放され、世界史を正面におくようになったのは、第二次大戦後すぐのことであって、その意味では歴史学は地球科学よりも早く、戦前からの解放の道を歩んだ。しかし、方法論という点でいえば、地球科学のプレートテクトニクス革命にあたる方法論の徹底化には、まだ成功していないように思うからである。地球科学にとっての物理学にあたるものは、歴史学にとっては何なのであろうか。

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