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2011年4月12日 (火)

中井久夫『世に棲む患者』

 先日、娘が、朝早くスコップをもって出かける。地震による液状化に襲われた千葉の病院で、まだ一階部分に泥が貯まっているところがあり、その掻い出しのためであるという。夜からちょうどい大きさのスコップがなかったかといっているので、早朝、久しく見ていなかった小さめのスコップを探して、玄関にたてかけておいた。
 スコップをもった彼女の後ろ姿を夫婦で窓からみていた。
 社会との関わりが奉仕に始まるというのは、私たちの世代ではあまりないことであったと思う。「社会奉仕」というと、私財をもつ人々が行うか、あるいはよかれあしかれ「役所」のイニシアティヴの下に行われるというのが、一般であって、私などは、そういうものは「うさんくさい」ものとみていた。そもそも、私たちの世代だと、社会のさまざまな単位は、それなりに自足していて、社会の他の集団の構成員が個人として奉仕するということは社会システムに予定されていなかったのである。
 かわりにやったのは「カンパ」ということである。そんなに金もないのに、あるいは金がないからか、出す方も、募る方もよくやった。金がないのはいまでも変わらず、カンパをするという習慣も変わらない。その何となくのうしろめたさ
 しかし、現在の若い世代が、「社会奉仕」に参加するというのは、自然なことだと思う。労働が単純労働で、しかも必ず感謝される奉仕労働であるというのは、やる方にとってはやりやすいことである。集団労働になれていない青年にとって、これは緊張がなく、余裕がもてるものだと思う。震災からの復旧のみでなく、そういう奉仕労働のことをよく考えることが必要になっている社会なのかも知れない。
 泥を掻き出すというのはいわゆる「人海戦術」なのだろう。ちょうどよい大きさのスコップが必要な、非力な娘にも、奉仕の仕事がかかって来るというのは、ありがたいことである。もちろん、スコップの使い方一つをとっても、身体の技術や慣れがいる。娘がスコップを使えるとは思えない。しかし、娘の力でも単純労働としてみれば、人の半分あるいは四分の三はかならず役に立つ。単純労働は加減乗除が可能な労働、量としての労働である。これは経済学の基本問題だが、人海戦術の単純労働だと、それがみえやすい。
 そもそも、人は単純労働力に還元されてしまえば、みんな平等である。労働の基礎には、つねに、この平等性が潜在しているが、それは知識としてではなく、体感するほかないものだと思う。単純労働への集中は、一種の動物的な活力の共同をともなうが、それは同時に原始的な平等の感覚を生む。普通のアルバイトだとそうはいかないが、奉仕の単純労働で、そううことを感じてほしいものだと思う。
 いま、大学生のアルバイトは、本当に職種が多様化している。私が学生時代には大学生が同世代の中でしめる割合はまだ25%になっていなかったから、労働予備軍としての期待はシステム化されていた訳ではなかった。それは相当前から変わり始め、さらに労働者派遣業が「合法化」され、そしてそれらの技術的・社会的な基礎としてのコンピュータネットワークと通信手段の発達によって、青年のアルバイトは完全にシステムの中に組み込まれた。そういう状況を切り返すという意味でも、社会奉仕というのは意味があるのかもしれないと思う。
 考えてみると、私たちの世代だと、子供の労働は、水汲、掃除、雑巾かけ、草むしり、犬の散歩などがまだ日常的に子供のやるべきこととして残っていたと思う。そして集団労働としては、年末の大掃除があった。これは単純労働ではなくて、大人の労働を子供がみならうスタイルのものだったが、やはりよい習慣だったと思う。わが家でもやるべきであったというのが最近の反省。そういう機会が減っているという意味でも、「社会奉仕」頑張れである。

 昨日、中井久夫氏の『世に棲む患者』を読んでいたら、統合失調症の人がが退院した後、最初に必要な社会との関わりは消費であると書いてあった。入院している時でも、病院の前の商店で何か買えば、お愛想の一つもいってくれる。これがいい。そして、患者が個性的な消費のルートをつないでいけば、それは恢復への道に開けている。それが「非患者」の中で生きていくための常同性の知覚にもっとも近いというのである。
 たしかに、消費は、個人個人の社会的な関わりとしてもっとも楽でもので、個人と個人が対等な別人格であるという原理を、消費の度に確認できる。各々は特別な意味をもった購買でも、そこに無縁・対等という普遍的なものがつねにつらぬいている。無縁・対等という原理を純粋に感覚的に知るためには、純粋な交換が必要であるということは、どのような社会になっても変わらないことなのではないだろうか。もちろん、物が「商品」として存在するという状況の複雑性は、様々な問題を引き起こすが、しかし、その中に交換それ自体というものを感知することは、つねに可能であり、また必要なことでもある。
 中井氏は、これを以前の精神病棟では「労働による恢復」ということがしばしばいわれたこととの関係でも述べていて、生産的な労働はやはり複雑な要素をふくみ、まずは生産よりも消費を考える方がよいという訳である。

 労働の単純さと、消費の単純さというのは、どういう場合でも、生活にとって大事なものなのだと思う。
 

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