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2011年5月17日 (火)

火山地震28津波の塩害と貞観津波からの復旧

 今日の朝日(2011年5月17日)に、津波による塩害と地盤沈下による水田の被害は「復旧に10年はかかる」という記事。
 稲作には土壌の塩分濃度を重量比0,1%以下にする必要があり、過剰な塩分は根腐れや枯死を引き起こす。東京農大の駒村正治教授が名取市の南の岩沼市で調査したところ、軒並み限界値をうわまわる記録で、一部では13倍の1,3%を示したところもあったということ。
 貞観津波からの陸奥の復旧も同じ困難があったはずということになる。貞観津波も5月であったから、その年の田植えをした直後であろうか。今回の震災では作付けそれ自身ができなかった。貞観津波は八六九年(貞観一一)五月。少なくとも、その後、三年間は不作であったという史料が『三代実録』にある。つまり、八七三年(貞観一五)三月、陸奥国の「連年不作」であるために「賑給」を行ったという。賑給とは、緊急給付のこと。ここからは、津波の翌年の八七〇年、八七一年、八七二年が「連年不作」であったこと、つまり作付と収穫が不調であったことがわかる。
 石巻・仙台平野は、9世紀にすでに稲作が一般化していたから、これは陸奥国には大きな痛手であったろう。これはいまと同じことだが、当時、大きく違ったのは、住民の一定部分が蝦夷の人々であったことである。
 仙台平野は6世紀くらいから稲作の開発が進んでいた。千葉県などの土器に似た関東系の土器がでていて、東国からの移住が活発であったことがわかるという。しかし、蝦夷の人々も稲作に関わりはじめ、その位置も大きいはずである。
 たとえば、しばらく前の宮城郡郡司として「外從六位上勲七等物部已波美」という人物がみえるが、彼は私力で池を造って公田八十餘町を灌漑し、多量の稲を蓄積していたという。彼は物部の姓をもっていることからして、移住者の裔である可能性もあろうが、「キハミ」という名前からして蝦夷の豪族であったことも確実である。
 私は、貞観津波からの復旧では、生業や生活様式が多様で風土的な強さをもつ蝦夷の人たちの方が強かったろうと思う。右の「賑給」を行った年の年末、陸奥国は「俘夷境に満ち、ややもすれば叛戻をこととす。吏民は恐懼して、虎狼を見るがごとし」という状況を報告している(『三代實録』卷二四貞觀十五年(八七三)十二月七日)。この国司の言い方は特権意識丸出しであるが、一応現代語訳すれば、「蝦夷が国内に満ちていて、すぐにでも反乱と抵抗に走ろうとする。官吏や非蝦夷の民は蝦夷を恐れ、虎や狼をみるように感じている」という訳である。
 九世紀の初めまで三八年間も戦争をやって原アイヌの人々の国を占領しておきながら、こういうことをいい、こういう文章を作る役人の心理とはどういうことだろう。文字と文化に毒されているということであろう。歴史家としては、こういう文言をふくむ史料をみた時に、何を感じるかが重要なところである。いつの時代にも強欲で差別的な人間はいるという常識的な見方にのみとらわれず(もちろん、それは大事な前提。そういう一般的なヒューマニズムや正義感なしに歴史学の仕事はできない)、その先をどう考えるかだが、私は、ここで陸奥国司が「蛮夷の野心」を強調しているのは、問わず語りに、貞観津波にも関わらず、相対的に蝦夷の人々の活力が高かったことを物語っていると考える。
 「野心」=「野性の力」であるということでもあるが、まず戦争で国を占領された陸奥国の蝦夷の人々の気力を、ここにみるべきであろうと思う。このような状況こそが、結局、平安時代に平泉の繁栄をもたらした原点だったのだと思う。
 震災の状況の中で通知があった「平泉」の世界遺産化が、新しい歴史への見方や感覚によって支えられることを願う。ともかく、その場合、蝦夷戦争の基本事実を小学生の時から知っておいてもらう必要があると思う。
 陸奥国では、七七四年(宝亀五)から八一一年(弘仁二)まで三八年の間、律令制王国による対蝦夷戦争が続いた。この戦争は、八〇二年坂上田村麻呂が胆沢城を築き、和平と降伏を望んだ蝦夷の首長アテルイらを上京させ殺害したことによって蝦夷の「敗北」によって終結する。
 しかし、アテルイが京都に向かったのは和平儀礼の延長で、その殺害は騙し討ちであったという事情にも明らかなように、この戦争終結は実際には蝦夷の側の一方的な敗北という訳ではなかった。それは九世紀の蝦夷の人たちに関わる史料をみてもわかることである。たとえば、陸奥では、八三七年(承和四)に玉造温泉の鳴子火山の噴火記録が残っている。「温泉石神(ゆのいしがみ)雷響・振動して、晝夜止まず。温泉の流河はその色漿のごとし。しかのみならず、山焼け、谷塞がり、石崩れ・折木、さらに新沼を作る。沸く声、雷のごとし。かくのごとき奇怪、あげて数うべからず」というのである(『続日本後紀』承和四年四月一六日条)。これは「災星しばしば見え、地震はこれ頻りなり」ともあって、当然に地震をともなっており、このために、「奥県の百姓、多く以て畏れ逃ぐ」という状態が展開した(839年(承和六)四月二六日条)。
 ここで「百姓」というのは、非蝦夷の移住者たちとその裔の人々。九世紀の王朝側は、陸奥出羽の地震や噴火を「神の怒り」と恐れた。そして地震や噴火、山の神・地の神が蝦夷の側に立っているのではないかとつねに疑心暗鬼であったようである。しかし、蝦夷の人々は、そこが彼らの郷土であった以上、噴火や地震を「畏れ逃ぐ」ということはなかっただろうと思う。
 
以上は、いま作業をしている『東北学』の論文で書いたことの一部。「速報」という形式は歴史学の発表手段の中にはないので、専門研究者は無視してください。
 東北の現地では歴史史料と歴史文化の保存のために歴史家の仲間たちが必死の努力をしている。本来参加しなければならない。以前遺跡の保存運動に関わっていた時などは、そんなことをやっていていいのかと他者を批判した記憶がある。申し訳なく思うが、私も年。足腰が続かない。

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