地震火山29銅鐸は昔の震度計か?東京新聞、津波の本の紹介。
朝、久しぶりの余震。出がけに玄関につってある飾りタイルが壁に当たってカタカタいう。これがだいたい震度3にあたるというのが分かった。いま総武線の中。
奈良・平安時代の地震史料のほとんどは京都の記録、貴族の日記にでる。京都有感地震の記録ということになる。これも地震学の定義ではだいたい震度3あるいは震度2ということになっている。カタカタという音をきくと、それが日常的な事実を反映していることがわかる。
『三代実録』などの『六国史』があって史料が整っている9世紀の統計をとると、年20回から30回、ひどいときは40回という年もある。これだけあればたしかに歴代の天皇と、その宮廷が、対応にキリキリ舞いしていることがよくわかる。
九世紀の震度計のスタイルはよくわからないが、寒川旭さんの『地震の日本史』にあるように、原型としては中国の地震計があり、史料にも「銅龍」などとでるが、それは理念のレヴェルのものであったようである。しかし銅の鐘のようなものがあったのだろうと考える。たとえば漏刻の「水盛」が銅でできているなど、陰陽寮の計測機械が銅製であることは明らかなので。
九世紀には銅の鐘のようなものが出土した(若狭)という記録があるが、これは銅鐸のこと。実は、自宅のタイルの壁飾りがカタカタいうたびに、銅鐸というのは一種の地震計としても機能したのではないかと考えている。
これは『東北学』にだした論文を書いた時に考えたことだが、さすがに論証不能なことで書くことができずにいた。しかし、このカタカタの音を聞くたびに、あるいはありうるかもと考えている。あなたの銅鐸がなり出したとからかわれるが、銅鐸が地霊祭祀に関わることは三品彰英さんの仕事以来、ほとんど決まっていることなので、頭の中に宿っている。
次は東京新聞に連載している。「地震・津波・噴火」の読書紹介の二回目。
津波
中世の津波については、初回にも挙げた矢田俊文『中世の巨大地震』(吉川弘文館)がある。紹介したように、本書は室町時代、一四九八年地震の全体像をはじめて明らかにした仕事であるが、その被害の中心は津波であった。おのおの数千を超える死者を出したという伊勢・駿河・遠江・紀伊の津波被害の分析は臨場感にあふれている。断片的な史料をもとにして、遺跡の情報や江戸時代の伝承を組み合わせて推理をしていく矢田の仕事に歴史学の醍醐味を感じる人も多いだろう。本書には平安時代の津波の分析もあり、海村や海運の歴史の本としても、興味深いものである。
江戸時代の津波についてまとまった歴史書はないが、災害史研究において画期をつくった北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館)に、東大地震研究所の都司嘉宣が、コラム「日本における歴史津波」を書いている。都司は古文書を読みこなす力をもつ地震学者として有名である。
山下文男『津波てんでんこ』(新日本出版社)は近代日本の津波史である。山下は祖母を一八九六年の三陸大津波で失い、自身、九歳の時に一九三三年の三陸大津波を経験し、定年後に津波研究を究めたという異能の人物である。今回の津波の時、岩手県陸前高田市の病院の四階に入院して二度目の津波に襲われたが、カーテンレールにつかまって身体を支え、かろうじて流されずにすんだという。
津波について歴史学は遅れをとっている。すでに「地震噴火史料データベース」(石橋克彦代表の科学研究費グループ作成)があり、この充実に協力するのが急務だろう。
このデータベースを引いてみると、一四五四年に奥州の津波という史料があるのを知った。「山の奥百里入って、返りに人多く取る」という。同時に千葉も襲ったようだ。今回の津波は千年に一度の大地震・津波ではなく、ほぼ六百年周期ということになる。
つまり最近よく聞く「千年に一度だから想定外」という言い方は正しくないのである。日本の大地が動乱の時代に入った、と地震学が警告していたことの意味は実に大きい。
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