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2011年5月

2011年5月31日 (火)

ルドンの「黒の時代」と歴史理論の「黒さ」

 やっと峰岸純夫氏の著書『日本中世の社会構成・階級と身分』の書評を書き終える。長い間の宿題をすませた感じである。
 一昨日、日曜美術館でルドンをみる。
 起きてちょうど下へ行ったら、相方がいつもみる日曜美術館の始まりのところ。ルドンの黄金の絵、花の絵しかみたことはなく、「黒の時代」の絵に驚く。これがルドンか、エッという感じである。異形の生き物、巨大な目などの思念がそのまま形をとったような奇妙に喚起力のある絵である。それはルドンが少年の頃、人生上の孤独の中で、ダーウィンの進化論に興味をもち、顕微鏡下の微生物の描写に熱中したことの影響であるという。顕微鏡で観測をしていて、それが原点となった夜の闇と孤独と生命体の絵。
 けれども、こういう絵は、そもそも視覚とは何かということを強く感じさせるという説明に納得。そして、こういう「黒の時代」からルドンの色が生まれてくる様子の説明にも納得。生活の変化は当然の背景として、それは同時に画家がイメージを拡大する仕方とパステルという素材に関係しているという。

 驚きながらもルドンのオディロンという名前がでてきて、「このルドンは本当にオディロン・ルドンなのだろうか」といっているうちに、そうであることがわかる。相方に説明をし、驚きを話すと「駄目だよ。全部知っていると思うと」といわれる。「全部知っている」というのではなく、ともかく「記憶」しているという意識が先行するのが歴史家の病気であると弁解。

 仕事の話に移るが、ルドンの神秘的な黄金の絵についての「この人はどういう人なのだろう、どういう画家なのだろう」という記憶の中の疑問がとけていくのは、むかし読んだ史料の意味がうまく浮かび上がってくる時の感じと同じもの。私の場合は、歴史の仕事は、非常に受動的なもので、記憶したことがいつか、何かのきっかけで像をなしていくというものである。


 以上は、日曜美術館をみたすぐ後の日記。
以下は峰岸書評を書き終え、峰岸さんに「ともかく書きました。勉強になりました。批判をしました」と電話で御報告した後の、頭のストレッチ。

 さらに考えてみると、歴史学の仕事が受動的であるというのは、たんに自分の仕事の仕方が十分に構築的ではないということに過ぎないかもしれない。もちろん、研究のテーマを追究し、それに時間をとって、テーマの連鎖によって研究を進めるという仕事の仕方は、構築性を必要とするが、私の研究の相当部分を占めた社会史の研究は、むしろ多様な問題の検討を史料を中心に同時多発的に進めるというスタイルであった。これはある意味では史料まかせの受動的な仕事である。
 もちろん、歴史学の基礎としての語義史・史料論・制度史などについても感覚を養ってきたつもりではあるが、これはそのままではいわば職業的な内輪話である。「何のための歴史学か」という感じ方がはなれない、私の世代の感じ方からすると、社会史的な研究などの直接に歴史像を提供する仕事こそ、歴史家の社会的生産の本筋となる。これはオディロン・ルドンとの関係で比喩的にいえば、カラーの立体画あるいはアニメーションということになるだろう。

 その基礎になる語義史・史料論・制度史などの基礎研究は色つきではあるが、手許の平面的なスケッチとエクセル画面ということになる。


 これに対して、ルドンの「黒の時代」に対応するのは、歴史理論である。私は、いわゆる社会構成論が骨身にしみている研究世代なので、どのような歴史の発展と移行の理論を考えるかという骨組みにどうしても引きずり込まれる。社会構造論というのは、いわば歴史社会の仕組みを透視しようという仕事だから、神経を使う。そこでは受動的に史料に語らせるという訳にはいかず、史料を拷問にかけて、無理にでも語らせようとするような作業が必要になる。骨相手の仕事はなかなか要領をえない。。『魔の山』のレントゲン画像のようなものでもなく、さらに曖昧で憂鬱で思念丸出しの仕事である。ルドンでいえば「黒の時代」であるというように思う。

 面白かったのは「黒の時代」を越えたルドンが、友人への手紙で「ここだけの話だが、黒は疲れる」といったという話。同じように理論は疲れる。峰岸純夫氏の書評も理論ノートなので、本当に疲れた。書けないという時はパニックになった。いまになって、こんなことならば、私も、もっと長く黒の時代の鍛錬をし、躊躇することなく構築的な議論をしておくのであったと思う。しかし、やるべきことを終えて、本当にほっとした。

2011年5月28日 (土)

『日本文学誌要』益田勝美先生追悼特別号

 今日は再来週の御寺への出張準備で出勤。

 昨日、峰岸純夫さんの著書の書評で行き詰まり、破綻的な気持ちで就寝。峰岸さんの今回発刊の著書『日本中世の社会構成・階級と身分』をどう読むかは、長い宿題で、現在の研究状況で飛び抜けて重要な意味をもっているという考え方なので、それがうまく書評できないというのは、自分の能力不足は当然として、それを越えた相当の挫折感。これまでやってきた仕事と人生の自己評価にかかわる。

 朝、気を取り直してメモを続け、「どうにかなるか」とやや明るくなり、電車の中で書評作業を続ける。ともかくも、そう書けるようになった。私は歴史家の職業病といわれる欝はないが、60をすぎてこれでは困る。記憶と手作業が勝負の仕事で、なかば無理筋にこだわるのがよくないのは知っている。しかし、ほかに執念がそうある訳でもないので、この一群を突き抜ければいいはず。

 雨の中を歩き、疲れて赤門を入ってくると、学生が一杯で驚く。世間は五月。東大は五月祭であった。我が家の卯の花も咲いている。気を取り戻して、職場の郵便ボックスを確認すると、いくつかの封筒。法政大学からのものを開けると、『日本文学誌要、益田勝美先生追悼特別号』(法政大学国文学会)が入っている。益田さんのことにふれることが多いので、御好意だと思うが意外さに喜ぶ。いただいて本当にありがたかった。仕事に取りかかるのをわすれて、追悼文をすべて読む。

 一度、益田勝美氏という人を「みてみたい」と思っていた。私の戦後派知識人アディクティヴ。昨年益田氏の仕事にたよって一冊の本を書き、今どうされているのだろうと、日本文学の友人に聞いたら、その少し前になくなったと聞いて愕然としたことを思い出す。

 おそらく現在、五〇歳以上の人文学の研究者にとっては神話的な人物の一人。この追悼特集号を読んで、知りたかったことがいくつもわかり、またまったく知らずにいて、驚いたことも多い。石見益田氏の御出身(つまり益田家文書の益田家)であったというのもその一つ。益田氏の仕事で読まなけばと思っていた、氏の国語教育論についても事情がわかる。

 論文もいま考えていることに接する問題が多く、帰りの電車で楽しみに読もうと思う。

 それにつけても、先行する世代の仕事をどうにかして引き継ぎたいと思う。いま引き継がなければ、私たちの世代が引き継がなければという気持ちになる。

2011年5月25日 (水)

地震火山30火山噴火の本の紹介。東京新聞

以下は、東京新聞にのせた火山噴火についての本の紹介。

 著名な日本文学研究者、益田勝実の机には、一九五二年に噴火した伊豆の海底火山、明神礁から噴出した軽石がおいてあった。その著『火山列島の思想』(筑摩書房)は、意表をつく題名であるが、私たちは、たしかにそのような思想をもたねばならないのではないか。
 この列島に棲むものは、日本の火山活動が活発であった紀元前後の時代に「マグマが教えた思想」を心のどこかに覚えている。日本の神は火山の神である。折口信夫のいう「忌み」の思想、「神道」の思想の実体は、そこにあったというのが益田の主張である。私は、昨年、益田に導かれて火山神について考え、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)を執筆したが、その中で、これこそが網野善彦が強調した「大地と海原」の実体であることを確知した。
 益田の仕事は、文化の問題として地震・津波・噴火を受けとめるために必須のものである。もし幸運に「原発」を抑え込むことができれば、今後、日本社会は、この問題をめぐって内省を深めざるをえないはずである。
 そのために有益な本として、永原慶二『富士山宝永大爆発』(集英社新書)と小山真人『富士山大爆発が迫っている』(技術評論社)の二冊を推薦しておきたい。永原は、歴史学の立場から、宝永四年(一七〇七)の富士の大噴火と膨大な積砂による荒廃、そして河床の上昇による大洪水という二次災害を描いて間然するところかがない。その復興には実に七十年以上もかかったという。後者の小山の著書は富士の噴火の歴史と富士の噴火の構造について火山学の側からの説明である。宝永噴火と貞観六年(八六四)の噴火の比較が面白い。小山は富士山の噴火のハザードマップを作成した人だが、逆に日本の国土は火山なしには盆地・平野なしの貧困なものとなったろうと火山の恩恵を強調しているのが興味深い。一つつけ加えておけば、日本における黄金の産出は火山列島という地質条件によるところが多いという。なお、「地震・噴火史料データベース」が、小山が教授をつとめる静岡大学防災センターから公開されていることも付言しておきたい。

2011年5月23日 (月)

日記、伯父と「土浦の自然を守る会」

 土曜。茨城県土浦の伯父の入院見舞い。伯母と一緒の病室。思っていたより、御元気で安心する。さしあげた『東北学』を読んでおられ、「こりゃーむずかしいよ」といわれる。伯父にむずかしいといわれるようでは、細道に入ってしまっているのかも知れないと反省。
110521_154637  調子をくずされたのには地震の影響もあるようで、帰りにお宅にもよって、地震の被害、瓦や土が落ちた蔵の様子もみる。写真では蔵はみえないが、ここから奧が土浦の蔵町だったが、ほかの家の蔵も瓦が落ちたものもあったとのこと。家業をついだ従兄弟の子の新車の上に瓦が落ちてきて屋根がへこみ、ガラスがわれた。
 この家は、土浦の城への道、中城(なかじょう)の町の入り口の角店だった。いま店の前、道路になっているところは川が流れていて、伯父の店の前が船場になっていて、桜橋という橋が架かっていた。明治時代に、土浦の国鉄の駅がずっと東にできても、この通りは町の西の中心の一つだったが、七〇年代初頭、筑波学園都市の造成とともに、まちの中に高速の高架を通すという馬鹿な決定をした市長がいて、町の景観が壊れた。そのあと墓参りや法事や遊びで行くたびに、少しづつ少しづつもとの雰囲気も、街の賑やかさもなくなっていく。私は、その風景の変化を通じて、町の景観がこわすということは、一〇年・二〇年たつと町それ自身を壊すことになるということを実感してきた。
 私の小学生の頃は、霞ヶ浦に通ずる川の跡は途中から残っていて、そこを通って霞ヶ浦によくいった。江戸時代までは日本の町の相当部分は、水路がその近くを通っていた。いわゆる「水郷」的景観である。水を考えた都市計画は、江戸時代まではたしかにあった。土浦もそうだった。
 一部は暗渠のままになっているとも聞くので、ソウルのように川を戻して、元のような景観にできればよいがと、従兄弟たちと話す。しかし、町の構造そのものが変わったから、もうそれは無理だということをみんな知っている。七〇年代までは、霞ヶ浦と筑波山の観光によって、そして湖の漁業と汽船によって、土浦の水郷の景観を取り戻そうという議論が、議論だけでもできる条件はあった。しかし、その前後からの霞ヶ浦の締め切りとアオコの発生で、何をいってもむなしくなった。
 伯父は土浦の自然を守る会の中心メンバーの一人で、同時に、自宅の蔵をふくむ、この通りの町並み保存に執念をもっていたから、蔵のことなどが気になって仕方がないのだろうと思う。伯父の努力の経過をしっているだけに、環境保存は私などにとっては絶対的な価値。伯父は土浦の風土と民俗の風土記を出版していて、早くから霞ヶ浦の水質問題に取り組んできた。市の博物館の主催した講演会にきてくれた網野さんが、その講演で、霞ヶ浦に関わる伯父の行動と仕事を紹介してくれた時のことを思い出す。伯父は喜んでいた。

 町に高速を通すという決定をした市長は伯父とも知り合いだったが、それだけに伯父は怒っていた。市長は、土浦にとっては、結局、何の得にもならなかった都市計画を推進した。後に伯父に謝ったという噂を聞いたが、一般には、価値判断の間違いによる破壊的な結果の責任をとらないというのはこの国の行政の最大の問題。
 蔵の修復は、大工さんの予定も一杯で余震の様子をもう少し見てからということのよう。蔵を使って従姉妹が長く喫茶店をやっていたが、先年やめた。私の父、つまり伯父の弟が死んだこともあって、中学生の頃、毎夏、蔵の二階に泊まって自由にさせてもらった。そこにはレコードがあって、セロニアス・モンクとストラヴィンスキー。そして従姉妹の絵と仏像趣味、それから仕舞いと能の趣味にどれだけ助けられたか。
 伯父の見舞いに行くといったら、従姉妹の一人が途中まで車で迎えに来てくれた。高校の頃、カンディンスキーの『抽象芸術論』を彼女に借りたのだが返したかどうかの確信がなく、おそるおそる聞くと、返っているということ。ほっとする。しばらくまえ、展覧会にきたカンディンスキーの青騎士をみにいったと。私は時間がなく行けなかった。過去から続いているのはこういうことだけになっていく。

 考えたことは、それらの「実体」のないものは残るが、しかし、土浦の自然というような「実体」はすでに壊されていること。
 自然と景観の世代を通じた共有ということがなくなっていることの社会的な結果がどう現れているかということである。柳田国男のいう「故郷の風景」の喪失のもっている意味である。柳田は何といっていたか。「家の戸口から里にでるところの境界の風景」というようにいっていたか。親が小学生の頃、中学生の頃に、その中で育った景色というものが破壊されてしまえば、それを引き継ごうと思っても引き継げるものではない。次の世代は、一世代上の経験を自然の実感とともに引き継ぐことを最初から拒否されている。
 もちろん、世代間の共同経験というのは、強いもので、外側の自然の枠組みが残っていれば、建物や道路の配置それ自身が残っていれば、かならず一定部分は残される。しかし、成長するなかで、自分の肉体の周囲、家の周囲の自然のみでなく、いくつかの土地と風土を知っていてなじんでいるというのはどうしても必要なことで、そういう部分を、この列島は削りに削っている。またはせっかく経験しても、人がそれらをまとめるこのできる風土経験ともいうべきものをする余裕をあたえられず、経験をばらばらのままで放置するということを結果している。
 マイホーム主義というのは、家族が核家族化するということのみでなく、実際には、家族が共通の実感の下で経験できる自然、身体の記憶に残す複数の自然というものを失っているということだ。従姉妹・伯父・伯母・甥姪の関係の喪失だ。自分の肉体の周りの親族と一緒に経験をしていく余裕を社会から失わせると同時に、自分と親族の周囲の自然、子供が親や親族・姻族の保護の下で、小さな知識と経験で深く知ることのできる自然をも壊したということだ。
 伯父や伯母や従姉妹たちと話ながら、どういうところから元へ戻っていくことができるのかということを考える。この列島でいまでも支配的な勢力をもち、自然を壊してきた人々が、皮肉にも「家族道徳」を強調している。そういう中で、「道徳」というものを考えようという一致をうまく作ることに成功してこなかった、あるいはそれに十分に意識的にならなかったのかもしれない。

 いつのまにか、なぜ、親族が大事かということを、うまく説明できない生活様式になってしまっているというのはどういうことか。これはあるいは都会も田舎も変わらないのではないか。誰でもの実感としても、地域のコミュニティの喪失と血縁の親和性の喪失は、関係することだろう。

 しばらく前から、コミュニティということをほとんどはじめて実感的に考え始めている。いまふうにいえば、コモンズとしての自然と、コミュニティ・コミューンとしての人間の肉体の関係である。対象的自然と主体的自然。理念としては古いものだが、それを具体的に考えざるをえない時代に入ったということなのかもしれない。青い鳥は身近にいる。

2011年5月20日 (金)

地震火山29銅鐸は昔の震度計か?東京新聞、津波の本の紹介。

 朝、久しぶりの余震。出がけに玄関につってある飾りタイルが壁に当たってカタカタいう。これがだいたい震度3にあたるというのが分かった。いま総武線の中。
 奈良・平安時代の地震史料のほとんどは京都の記録、貴族の日記にでる。京都有感地震の記録ということになる。これも地震学の定義ではだいたい震度3あるいは震度2ということになっている。カタカタという音をきくと、それが日常的な事実を反映していることがわかる。
 『三代実録』などの『六国史』があって史料が整っている9世紀の統計をとると、年20回から30回、ひどいときは40回という年もある。これだけあればたしかに歴代の天皇と、その宮廷が、対応にキリキリ舞いしていることがよくわかる。
 九世紀の震度計のスタイルはよくわからないが、寒川旭さんの『地震の日本史』にあるように、原型としては中国の地震計があり、史料にも「銅龍」などとでるが、それは理念のレヴェルのものであったようである。しかし銅の鐘のようなものがあったのだろうと考える。たとえば漏刻の「水盛」が銅でできているなど、陰陽寮の計測機械が銅製であることは明らかなので。
 九世紀には銅の鐘のようなものが出土した(若狭)という記録があるが、これは銅鐸のこと。実は、自宅のタイルの壁飾りがカタカタいうたびに、銅鐸というのは一種の地震計としても機能したのではないかと考えている。
 これは『東北学』にだした論文を書いた時に考えたことだが、さすがに論証不能なことで書くことができずにいた。しかし、このカタカタの音を聞くたびに、あるいはありうるかもと考えている。あなたの銅鐸がなり出したとからかわれるが、銅鐸が地霊祭祀に関わることは三品彰英さんの仕事以来、ほとんど決まっていることなので、頭の中に宿っている。
 
 次は東京新聞に連載している。「地震・津波・噴火」の読書紹介の二回目。


津波
 中世の津波については、初回にも挙げた矢田俊文『中世の巨大地震』(吉川弘文館)がある。紹介したように、本書は室町時代、一四九八年地震の全体像をはじめて明らかにした仕事であるが、その被害の中心は津波であった。おのおの数千を超える死者を出したという伊勢・駿河・遠江・紀伊の津波被害の分析は臨場感にあふれている。断片的な史料をもとにして、遺跡の情報や江戸時代の伝承を組み合わせて推理をしていく矢田の仕事に歴史学の醍醐味を感じる人も多いだろう。本書には平安時代の津波の分析もあり、海村や海運の歴史の本としても、興味深いものである。
 江戸時代の津波についてまとまった歴史書はないが、災害史研究において画期をつくった北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館)に、東大地震研究所の都司嘉宣が、コラム「日本における歴史津波」を書いている。都司は古文書を読みこなす力をもつ地震学者として有名である。
 山下文男『津波てんでんこ』(新日本出版社)は近代日本の津波史である。山下は祖母を一八九六年の三陸大津波で失い、自身、九歳の時に一九三三年の三陸大津波を経験し、定年後に津波研究を究めたという異能の人物である。今回の津波の時、岩手県陸前高田市の病院の四階に入院して二度目の津波に襲われたが、カーテンレールにつかまって身体を支え、かろうじて流されずにすんだという。
 津波について歴史学は遅れをとっている。すでに「地震噴火史料データベース」(石橋克彦代表の科学研究費グループ作成)があり、この充実に協力するのが急務だろう。
 このデータベースを引いてみると、一四五四年に奥州の津波という史料があるのを知った。「山の奥百里入って、返りに人多く取る」という。同時に千葉も襲ったようだ。今回の津波は千年に一度の大地震・津波ではなく、ほぼ六百年周期ということになる。
 つまり最近よく聞く「千年に一度だから想定外」という言い方は正しくないのである。日本の大地が動乱の時代に入った、と地震学が警告していたことの意味は実に大きい。

2011年5月17日 (火)

火山地震28津波の塩害と貞観津波からの復旧

 今日の朝日(2011年5月17日)に、津波による塩害と地盤沈下による水田の被害は「復旧に10年はかかる」という記事。
 稲作には土壌の塩分濃度を重量比0,1%以下にする必要があり、過剰な塩分は根腐れや枯死を引き起こす。東京農大の駒村正治教授が名取市の南の岩沼市で調査したところ、軒並み限界値をうわまわる記録で、一部では13倍の1,3%を示したところもあったということ。
 貞観津波からの陸奥の復旧も同じ困難があったはずということになる。貞観津波も5月であったから、その年の田植えをした直後であろうか。今回の震災では作付けそれ自身ができなかった。貞観津波は八六九年(貞観一一)五月。少なくとも、その後、三年間は不作であったという史料が『三代実録』にある。つまり、八七三年(貞観一五)三月、陸奥国の「連年不作」であるために「賑給」を行ったという。賑給とは、緊急給付のこと。ここからは、津波の翌年の八七〇年、八七一年、八七二年が「連年不作」であったこと、つまり作付と収穫が不調であったことがわかる。
 石巻・仙台平野は、9世紀にすでに稲作が一般化していたから、これは陸奥国には大きな痛手であったろう。これはいまと同じことだが、当時、大きく違ったのは、住民の一定部分が蝦夷の人々であったことである。
 仙台平野は6世紀くらいから稲作の開発が進んでいた。千葉県などの土器に似た関東系の土器がでていて、東国からの移住が活発であったことがわかるという。しかし、蝦夷の人々も稲作に関わりはじめ、その位置も大きいはずである。
 たとえば、しばらく前の宮城郡郡司として「外從六位上勲七等物部已波美」という人物がみえるが、彼は私力で池を造って公田八十餘町を灌漑し、多量の稲を蓄積していたという。彼は物部の姓をもっていることからして、移住者の裔である可能性もあろうが、「キハミ」という名前からして蝦夷の豪族であったことも確実である。
 私は、貞観津波からの復旧では、生業や生活様式が多様で風土的な強さをもつ蝦夷の人たちの方が強かったろうと思う。右の「賑給」を行った年の年末、陸奥国は「俘夷境に満ち、ややもすれば叛戻をこととす。吏民は恐懼して、虎狼を見るがごとし」という状況を報告している(『三代實録』卷二四貞觀十五年(八七三)十二月七日)。この国司の言い方は特権意識丸出しであるが、一応現代語訳すれば、「蝦夷が国内に満ちていて、すぐにでも反乱と抵抗に走ろうとする。官吏や非蝦夷の民は蝦夷を恐れ、虎や狼をみるように感じている」という訳である。
 九世紀の初めまで三八年間も戦争をやって原アイヌの人々の国を占領しておきながら、こういうことをいい、こういう文章を作る役人の心理とはどういうことだろう。文字と文化に毒されているということであろう。歴史家としては、こういう文言をふくむ史料をみた時に、何を感じるかが重要なところである。いつの時代にも強欲で差別的な人間はいるという常識的な見方にのみとらわれず(もちろん、それは大事な前提。そういう一般的なヒューマニズムや正義感なしに歴史学の仕事はできない)、その先をどう考えるかだが、私は、ここで陸奥国司が「蛮夷の野心」を強調しているのは、問わず語りに、貞観津波にも関わらず、相対的に蝦夷の人々の活力が高かったことを物語っていると考える。
 「野心」=「野性の力」であるということでもあるが、まず戦争で国を占領された陸奥国の蝦夷の人々の気力を、ここにみるべきであろうと思う。このような状況こそが、結局、平安時代に平泉の繁栄をもたらした原点だったのだと思う。
 震災の状況の中で通知があった「平泉」の世界遺産化が、新しい歴史への見方や感覚によって支えられることを願う。ともかく、その場合、蝦夷戦争の基本事実を小学生の時から知っておいてもらう必要があると思う。
 陸奥国では、七七四年(宝亀五)から八一一年(弘仁二)まで三八年の間、律令制王国による対蝦夷戦争が続いた。この戦争は、八〇二年坂上田村麻呂が胆沢城を築き、和平と降伏を望んだ蝦夷の首長アテルイらを上京させ殺害したことによって蝦夷の「敗北」によって終結する。
 しかし、アテルイが京都に向かったのは和平儀礼の延長で、その殺害は騙し討ちであったという事情にも明らかなように、この戦争終結は実際には蝦夷の側の一方的な敗北という訳ではなかった。それは九世紀の蝦夷の人たちに関わる史料をみてもわかることである。たとえば、陸奥では、八三七年(承和四)に玉造温泉の鳴子火山の噴火記録が残っている。「温泉石神(ゆのいしがみ)雷響・振動して、晝夜止まず。温泉の流河はその色漿のごとし。しかのみならず、山焼け、谷塞がり、石崩れ・折木、さらに新沼を作る。沸く声、雷のごとし。かくのごとき奇怪、あげて数うべからず」というのである(『続日本後紀』承和四年四月一六日条)。これは「災星しばしば見え、地震はこれ頻りなり」ともあって、当然に地震をともなっており、このために、「奥県の百姓、多く以て畏れ逃ぐ」という状態が展開した(839年(承和六)四月二六日条)。
 ここで「百姓」というのは、非蝦夷の移住者たちとその裔の人々。九世紀の王朝側は、陸奥出羽の地震や噴火を「神の怒り」と恐れた。そして地震や噴火、山の神・地の神が蝦夷の側に立っているのではないかとつねに疑心暗鬼であったようである。しかし、蝦夷の人々は、そこが彼らの郷土であった以上、噴火や地震を「畏れ逃ぐ」ということはなかっただろうと思う。
 
以上は、いま作業をしている『東北学』の論文で書いたことの一部。「速報」という形式は歴史学の発表手段の中にはないので、専門研究者は無視してください。
 東北の現地では歴史史料と歴史文化の保存のために歴史家の仲間たちが必死の努力をしている。本来参加しなければならない。以前遺跡の保存運動に関わっていた時などは、そんなことをやっていていいのかと他者を批判した記憶がある。申し訳なく思うが、私も年。足腰が続かない。

2011年5月15日 (日)

火山地震27地震の歴史の本の紹介、東京新聞

 先日の『東北学』の座談会の延長で、『東北学』の次号(8月発行)に「貞観津波論」を書くようにということでやっている。「貞観津波と大地動乱の時代」ということで、八九世紀の地震噴火の概観、そして陸奥国の状況ということでやっている。そろそろ締め切りなので、書けなかったらたいへんであると押し詰められる。こういうパニックは、私の場合、さけられそうにない。しかし、夕方前になって、どうにかなりそうだという予感。ともかく気分を変えるのに、猫の砂を買いに出たら友人にあって疲労困憊した顔をみられた。床屋にも行かねばならないが、余裕がない。
 大震災の状況はいろいろなことを考えさせる。木村茂光氏が『歴史評論』6月号のエッセイに「最近明らかにされつつある貞観の大地震をもちだすまでもなく、日本列島の歴史にはこのような大災害が数多く埋まっていることは間違いない。そのような大災害によって失滅した歴史事実を復元しなければいけないという問題意識や、それを可能にする方法を私たちは収得してきているであろうか」と述べている。その他、共感するところが多い。「ああ我、何をなせし」ということではあるがーーー。

 次は、先週の日曜日の東京新聞(5月8日)にのせた地震についての読書紹介「地震列島の歴史」。

 東日本の太平洋岸を襲った大地震を歴史から考えるために、つまり根本から考えるために参考となる本を紹介したい。
 二一世紀前半にも発生が予想される東海・南海トラフ大地震の過去の諸事例については、矢田俊文『中世の巨大地震』(吉川弘文館)がある。中世では一〇九六年、一三六〇年、一四九八年の三回の東南海大地震が起きており、以降、だいたい百年から百五十年ごとに発生しているという。本書は徹底的な史料蒐集によって、これまで不明瞭であった中世の地震、特に一四九八年の明応地震の実像を明らかにしており、中世史研究は、本書によって初めて歴史地震についての詳細な叙述を提供することができた。
 歴史学は、百年、百年を越える時間を実感するためにあるという私の持論からすると、矢田は、この地震列島の歴史を読むという歴史学の責務をほぼ一人で果たしたことになる。本人はそう考えないかもしれないが、「大地と海原」の歴史分析を強調した網野善彦を継ぐ仕事であると思う。
 矢田の共同研究者の一人、地震学の石橋克彦の『大地動乱の時代』(岩波新書)も必読。地震とは何か、東海大地震とは何かを、その最初の予知者として臨場感をもって述べる。日本の地震学においてプレートテクトニクスの導入は世界水準から十年遅れたといわれるが、予知される地震への恐れと自分の従事する学問の現状への焦慮が重なっている叙述は独特の緊迫感がある。ほぼ半分が江戸時代の地震に当てられているから、矢田の本とあわせれば、地震史の全容が分かる。
 もう一点、通史の体裁をとった寒川旭『地震の日本史』(中公新書)も分かりやすく有益だ。寒川は、全国の発掘現場を歩いて、地下に残された地震による液状化遺構の発見の方法を伝授し、その中で、「地震考古学」という分野を作り出した。今回の東日本大地震の原型といわれる九世紀の大地震、「貞観地震」の津波痕跡にもふれている。本書の出版は四年前の二〇〇七年。それ以降、「貞観地震」の研究がさらに進み、昨年には原発との関係を含めて研究者が強い警告を発していたことは、よく知られている。

 

 記者の方が掲載の『東京新聞』を送ってくれる。いつも読んでいるAS新聞と雰囲気が違って面白く、共感できる記事も多い。社会面には福島第二原発の許可取り消しをもとめた原告の一人、早川篤雄さんの自宅は第二原発から6㌔、第一原発から16㌔で、現在、避難をされているということ。避難所から知人宅を転々としてやっとアパートに落ち着いたと。現在71歳になられたとのこと。私より一〇歳年長という方である。御怒りの様子と、しかし静かなお人柄が伝わり、共感。
 時々、新聞は替えるべきなのかもしれないと思う。

なお、文中の「本人はそう考えないかもしれないが」というのは、矢田さんが網野さんの学説について、どう御考えかはわからないが、というのが正確な表現。この文章は何となく失礼かと気になるので弁明。今の段階で、網野さんの「大地論」をどう考えるか、仲間の率直な意見を聞きたい。

2011年5月 7日 (土)

地震火山26白頭山の南北朝鮮共同調査

 白頭山の共同調査を南北朝鮮が合意したという記事が新聞にあった(2011年4月13日朝日)。中朝国境の白頭山の火山活動をめぐる二回目の専門家会議を開き、6月半ばに現地で共同調査を行うことを合意したということである。韓国が白頭山の現地調査に参加するのははじめてで、5月に学術討論会も開くという。
 これに日本・中国も参加していくということになると、東北アジアの自然史、地震史、火山噴火史の研究は進むだろう。それが同じ地質学的な自然の下で生活しているという常識に結びついていくとよいと思う。
 私は、九州大学の江原幸雄先生の『中国大陸の火山・地熱・温泉』(九州大学出版会)を読んで最初に知ったのだが、この地域は火山を共有する地域である。地球科学では、西北部九州の地震・噴火は、アムールプレートの下に沈み込んだフィリピンプレートからのマントルの上昇に由来し、それは韓国から東北中国までの地震・噴火の運動と地殻の運動としては連続するものだという。
 地殻の運動は、日本列島に極限されて動くものではなく、ユーラシア東北端全体で連動しており、そのため、東北中国、韓国、日本の地震活動は連動し、しばしば同時的に発生するという。とくにアムールプレートの動きは複雑で、アルタイ山脈ーバイカル湖付近ースタノボイ山脈と続く、プレート西北端の周縁地帯や、中国大陸に位置するプレート南部周縁地帯にも地震地帯を発生させている。この問題ではアムールプレートの実在の論証が大きかったらしい。
 このようなユーラシア東北端のプレートとマントルの運動の全体像が、現在、プレートテクトニクスの研究の一焦点となっているらしいが、そこに広範囲な連動が存在することは認められている。たとえば韓国の歴史地震の中で最大規模といわれる江原道の地震は一六八一年に起きているが、中国でも史上最大級といわれる山東省の郯城地震が一六六八年に起きている。そして日本でも、その後しばらくして、一七〇三年の相模トラフに淵源する江戸・関東大地震、一七〇七年の富士山の大噴火をともなった東海・南海地震が起きている。これは偶然的なものであるとは考えにくいという(都司嘉宣「韓半島で発生した最大級の地震」歴史地震20号)。
 このような東北アジアレヴェルの地殻運動の連動を素人が考えてもしょうがないのだろうが、貞観地震との関係で注意しておきたいのは、貞観地震と同型の地震で「奥州ニ津波入テ(中略)カヘリニ、人多取ル」といわれた室町時代、一四五四年一二月二一日(日本王朝暦、享徳三年一一月二三日)の地震が韓半島での地震と連動していた可能性が高いことである。
 これは『大日本地震史料』をみれば書いてあることだが、この室町時代の地震の、ちょうど一月後、一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでた(『朝鮮王朝実録』)。
 貞観地震の前後の史料には、このような韓半島にまで及ぶ地殻運動の連動性を示すものはないが、ただ貞観地震の約二月後に、肥後国において相当の規模をもつ津波地震が発生している。今回も雲仙の噴火が活発化していて、熊本は地震が増えている。そうだとすると、史料は残っていないものの、貞観地震の地殻変動が肥後国のみでなく、小規模なものであったとしても、韓半島の地殻に影響をあたえていた可能性はないのだろうか。室町時代の陸奥国津波が韓半島南部に大地震をもたらした地殻構造は、約六〇〇年の時をへだてて同じ延長線上にあったに違いないと思う。
 日本の大地動乱の時代は、東アジアの地震と火山噴火が動く時代になる可能性があるのだと思う。それを考えさせられる機会が増えるというのは、相手が地震や噴火であるだけにきついことになる可能性は高いが、事態の認識が客観的なものとして共有されていくとよいと思う。
 6月の共同調査がその出発点になるかどうか。こういう東アジアの研究者相互の関係をとっていく上で、韓国の知識人の役割は非常に大きい。

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