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2011年5月23日 (月)

日記、伯父と「土浦の自然を守る会」

 土曜。茨城県土浦の伯父の入院見舞い。伯母と一緒の病室。思っていたより、御元気で安心する。さしあげた『東北学』を読んでおられ、「こりゃーむずかしいよ」といわれる。伯父にむずかしいといわれるようでは、細道に入ってしまっているのかも知れないと反省。
110521_154637  調子をくずされたのには地震の影響もあるようで、帰りにお宅にもよって、地震の被害、瓦や土が落ちた蔵の様子もみる。写真では蔵はみえないが、ここから奧が土浦の蔵町だったが、ほかの家の蔵も瓦が落ちたものもあったとのこと。家業をついだ従兄弟の子の新車の上に瓦が落ちてきて屋根がへこみ、ガラスがわれた。
 この家は、土浦の城への道、中城(なかじょう)の町の入り口の角店だった。いま店の前、道路になっているところは川が流れていて、伯父の店の前が船場になっていて、桜橋という橋が架かっていた。明治時代に、土浦の国鉄の駅がずっと東にできても、この通りは町の西の中心の一つだったが、七〇年代初頭、筑波学園都市の造成とともに、まちの中に高速の高架を通すという馬鹿な決定をした市長がいて、町の景観が壊れた。そのあと墓参りや法事や遊びで行くたびに、少しづつ少しづつもとの雰囲気も、街の賑やかさもなくなっていく。私は、その風景の変化を通じて、町の景観がこわすということは、一〇年・二〇年たつと町それ自身を壊すことになるということを実感してきた。
 私の小学生の頃は、霞ヶ浦に通ずる川の跡は途中から残っていて、そこを通って霞ヶ浦によくいった。江戸時代までは日本の町の相当部分は、水路がその近くを通っていた。いわゆる「水郷」的景観である。水を考えた都市計画は、江戸時代まではたしかにあった。土浦もそうだった。
 一部は暗渠のままになっているとも聞くので、ソウルのように川を戻して、元のような景観にできればよいがと、従兄弟たちと話す。しかし、町の構造そのものが変わったから、もうそれは無理だということをみんな知っている。七〇年代までは、霞ヶ浦と筑波山の観光によって、そして湖の漁業と汽船によって、土浦の水郷の景観を取り戻そうという議論が、議論だけでもできる条件はあった。しかし、その前後からの霞ヶ浦の締め切りとアオコの発生で、何をいってもむなしくなった。
 伯父は土浦の自然を守る会の中心メンバーの一人で、同時に、自宅の蔵をふくむ、この通りの町並み保存に執念をもっていたから、蔵のことなどが気になって仕方がないのだろうと思う。伯父の努力の経過をしっているだけに、環境保存は私などにとっては絶対的な価値。伯父は土浦の風土と民俗の風土記を出版していて、早くから霞ヶ浦の水質問題に取り組んできた。市の博物館の主催した講演会にきてくれた網野さんが、その講演で、霞ヶ浦に関わる伯父の行動と仕事を紹介してくれた時のことを思い出す。伯父は喜んでいた。

 町に高速を通すという決定をした市長は伯父とも知り合いだったが、それだけに伯父は怒っていた。市長は、土浦にとっては、結局、何の得にもならなかった都市計画を推進した。後に伯父に謝ったという噂を聞いたが、一般には、価値判断の間違いによる破壊的な結果の責任をとらないというのはこの国の行政の最大の問題。
 蔵の修復は、大工さんの予定も一杯で余震の様子をもう少し見てからということのよう。蔵を使って従姉妹が長く喫茶店をやっていたが、先年やめた。私の父、つまり伯父の弟が死んだこともあって、中学生の頃、毎夏、蔵の二階に泊まって自由にさせてもらった。そこにはレコードがあって、セロニアス・モンクとストラヴィンスキー。そして従姉妹の絵と仏像趣味、それから仕舞いと能の趣味にどれだけ助けられたか。
 伯父の見舞いに行くといったら、従姉妹の一人が途中まで車で迎えに来てくれた。高校の頃、カンディンスキーの『抽象芸術論』を彼女に借りたのだが返したかどうかの確信がなく、おそるおそる聞くと、返っているということ。ほっとする。しばらくまえ、展覧会にきたカンディンスキーの青騎士をみにいったと。私は時間がなく行けなかった。過去から続いているのはこういうことだけになっていく。

 考えたことは、それらの「実体」のないものは残るが、しかし、土浦の自然というような「実体」はすでに壊されていること。
 自然と景観の世代を通じた共有ということがなくなっていることの社会的な結果がどう現れているかということである。柳田国男のいう「故郷の風景」の喪失のもっている意味である。柳田は何といっていたか。「家の戸口から里にでるところの境界の風景」というようにいっていたか。親が小学生の頃、中学生の頃に、その中で育った景色というものが破壊されてしまえば、それを引き継ごうと思っても引き継げるものではない。次の世代は、一世代上の経験を自然の実感とともに引き継ぐことを最初から拒否されている。
 もちろん、世代間の共同経験というのは、強いもので、外側の自然の枠組みが残っていれば、建物や道路の配置それ自身が残っていれば、かならず一定部分は残される。しかし、成長するなかで、自分の肉体の周囲、家の周囲の自然のみでなく、いくつかの土地と風土を知っていてなじんでいるというのはどうしても必要なことで、そういう部分を、この列島は削りに削っている。またはせっかく経験しても、人がそれらをまとめるこのできる風土経験ともいうべきものをする余裕をあたえられず、経験をばらばらのままで放置するということを結果している。
 マイホーム主義というのは、家族が核家族化するということのみでなく、実際には、家族が共通の実感の下で経験できる自然、身体の記憶に残す複数の自然というものを失っているということだ。従姉妹・伯父・伯母・甥姪の関係の喪失だ。自分の肉体の周りの親族と一緒に経験をしていく余裕を社会から失わせると同時に、自分と親族の周囲の自然、子供が親や親族・姻族の保護の下で、小さな知識と経験で深く知ることのできる自然をも壊したということだ。
 伯父や伯母や従姉妹たちと話ながら、どういうところから元へ戻っていくことができるのかということを考える。この列島でいまでも支配的な勢力をもち、自然を壊してきた人々が、皮肉にも「家族道徳」を強調している。そういう中で、「道徳」というものを考えようという一致をうまく作ることに成功してこなかった、あるいはそれに十分に意識的にならなかったのかもしれない。

 いつのまにか、なぜ、親族が大事かということを、うまく説明できない生活様式になってしまっているというのはどういうことか。これはあるいは都会も田舎も変わらないのではないか。誰でもの実感としても、地域のコミュニティの喪失と血縁の親和性の喪失は、関係することだろう。

 しばらく前から、コミュニティということをほとんどはじめて実感的に考え始めている。いまふうにいえば、コモンズとしての自然と、コミュニティ・コミューンとしての人間の肉体の関係である。対象的自然と主体的自然。理念としては古いものだが、それを具体的に考えざるをえない時代に入ったということなのかもしれない。青い鳥は身近にいる。

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