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2011年6月

2011年6月27日 (月)

大徳寺文書の重書箱と曝涼

 コンピュータの中を整理していたら、大徳寺文書と「法衣箱・重書箱」という、以前『紫野』に載せた文章がでてきたので、WEBページに載せた。曝涼の時の文書の扱いが室町時代からわかる。

橘大学での講演、「鉢かづき」と「女性の座態」

 昨日、京都橘大学の女性歴史文化研究所の講演が終わって、いま、京都の朝。講演会の後、昨夜は、橘の田端泰子先生、細川・横田両氏と院生の方々で懇親会。
 この講演会は、田端さんが橘の学長も終わり、退任された後の記念のような要素もあったようで、講演会の最後の挨拶にそれを述べる細川氏の挨拶は、彼らしい温かなもの。もう20年以上前になるのだろうか、遺跡の保存運動の頃は、細川氏とはほとんど毎週会っていた。
 私の講演は、「鉢かづきから長谷寺の夢へ」で、鉢かづき民話の原型が平安時代の散逸物語の一つ、「山蔭中納言物語」に相当程度よっていたことを推測し、この山蔭中納言物語は長谷寺霊験譚の一つであることを論証したもの。さらに長谷寺の観音信仰がその古層に三輪山信仰に対応する水の祭祀、さらにアマテラスの信仰を含んでいたという西郷信綱氏の仕事によって『更級日記』を見なおしてみた。私見では、『更級日記』の記主の菅原孝標の娘と山蔭の家柄は、仲が悪いとはいえ姻戚関係の上では、それなりの近さにあったことの意味は大きい。そして、『更級日記』の大枠は、いわばアマテラスをめぐる物語ではないだろうかというのが、最近、考えるようになったこと。つまり、『更級日記』は、最初は、アマテラスという神をよく知らなかったような少女が、徐々にそれを知っていき、けれども神からうけたお告げ、託宣の意味を十分に自覚できないまま失敗していった女性の悲しい物語ではないかということである。
 これを敷衍すると、『更級日記』におけるアマテラスの扱いは、10世紀にはまだ有名ではない隠された女神であったアマテラスが女房世界に長谷寺を通じて入ってきて、院政期にかけて著名になっていくというルートがあるのではないかということになる。これは『解釈と鑑賞』に書いた「平安文学と神祇・神社」という短文に、その趣旨だけはすでに書いたもの。
 もう校正も済んだので、ここで紹介してもよいと思うし、『物語の中世』に書いた「秘面の女と鉢かづきのテーマ」を発展させたものである。これが正しいとすれば、「鉢かづき」は、『御伽草子』の中でも、その原型を平安時代まで追える希有な物語ということになる。講演でも述べたが、中学校・高等学校では、『源氏物語』『徒然草』などを読ませるよりも、より明解でメッセージ性の強い「鉢かづき」あるいは『竹取物語』をじっくり読ませたいというのが私の持論である。歴史文化の教育は、歴史学だけではになうことはできない。

 田端さんの講演は「中世女性の座態からみた衣と住」で、『日本中世の村落・女性・社会』に収められた同名の論文をかみ砕くようにして語りかけたもの。女性の立て膝の座り方、あぐらの座り方を、様々な図像を使用して、その背景とともに説明し、それが近世にむけて変化していく事情を衣服の変化と、畳の登場との関係で論じたもの。田端さんは講演が実にうまい。
 聴衆は年輩の方が多かったが、むかしは立て膝が正式の座り方だったというのは、相当意外な話しであるようで、質問が多かった。その中でも多かったのは、それでは「正座」がいつどうでてきたかという話しで、田端さんは茶道との関係や床のあり方で説明をされていた。

 講演会の後の懇親会でも、これが話題となったが、私は、平安時代末期に描かれた『彦火々出見尊絵巻』で、兄のヤマサチヒコが、弟の前で「敬屈」している姿はたしか正座であったと思う。そして、絵巻の詞書きは、そのような姿勢を「ツブネ」と説明していたと思うと申し上げる。
 今、講演の翌々日、月曜の朝の総武線の中だが、出勤前に『彦火々出見尊絵巻』を確認してきた。すると、たしかに兄の山幸は弟の前で畏まって「従属」を誓約している。「兄の皇子あにのみこつふねになるところ」というのが詞書き。その姿勢は正座で手を前に組んでいる。「ツブネ」の語義は、同じく『物語の中世』の「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」で説明をしたように、「丸くなる」ことである。つまり、「つぶら」な目などという時と同じ語法で、人が丸くなって畏まる姿勢を「つぶね」といい、これは、「奴」という字を和語で読むと「つぶね」なのである。「奴」とは人の前で丸くなって畏まるものということになる。
 年中行事絵巻にある、罪人を引き据える場面でも、罪人は正座をさせられているようにみえるから、「正座」というのは、「畏まり」の姿勢なのだと思う。それが、なぜ、江戸時代になると徐々に一般的になるかは、田端さんが留保をしながらいわれたように、茶道あるいは茶礼の影響を中心に考えるのが一般で、それを代表するのは、山折哲雄氏の『坐の文化論』(講談社学術文庫)である。山折氏の文化論は、禅の茶礼が「対話的空間」における瞑想の作法であって、そこでは相手をみながら、身体を極小化する方法として「正座」が好まれたというもので、文化論としてはたいへんに説得的で面白いものである。ここに「視線」の問題が入ることは確実であろうと思う。
 しかし、懇親会でも話題になったように、これは室町時代から江戸時代への姿勢・衣食住のすべての変化にかかわる問題であって、たとえば労働の姿勢の変化が、その根底にあるというのが、歴史家ならば誰でも考えることである。その意味で、これはまだほとんど解かれていない問題だと思う。
 私などは、やはり「立て膝から正座」という一直線を仮定するのではなく、「つぶね」という隷属関係を表現するような坐法が、時代をこえて連続して存在していたことを十分に勘定にいれた一般化が必要だと思う。「真理は細部に宿る」というのは、どのような場合も事実であるが、しかし、実際に困難なのは、発見した細部を一般化する手法である。細部から文化論的に一般化してしまうというのは、歴史家がもっとも警戒しなければならない手法なのである。その自由さに憧れる時もあるとはいっても。

 懇親会に参加した女性の方々の夫君に自然科学関係の方が多く、夫君が福島原発の状況に怒りをおさえきれない様子であるという話しもあった。講演では地震・津波・原発震災の話しも少しする積もりであったが、時間に迫られてできなかった。
 私はこういう講演の度に、日本の歴史的伝統、歴史文化は大事にしなければならないと強調するのだが、しかし、原発はすべてを壊す。歴史文化を大事にしなければならない、文化の継承と保守を考えなければならないということは、現状に対する批判的な見方を必要とするという事情が、講演の中身からわかるような話しをしたいものだと思う。

2011年6月21日 (火)

『千と千尋の神隠し』ーー今日は「神道」の日。

 今日は病院。いつもの喫茶店に宮崎駿『千と千尋の神隠し』があったので読む。さいごに「ハク」という男の子は、千尋が「コハク川」という川に落ちて溺れそうになった時に、千尋を救った。この川の神で、正式には「ニギハヤヒ・コハクヌシ」というのだという名前がでてきて驚く。饒速日である。
 ニギハヤヒは生駒山地に降臨した天孫、最初、長髄彦に擁立されたことで知られる神格である。長髄彦またはその一族の「安日」(安比スキー場のアッピ)がイワレヒコ(神武)の討伐をうけて、東北に逃げて蝦夷の祖先となったというのが『曾我物語』の伝説であることは、しばらく前のエントリで述べた通り。コハクはしばしば東北地方で採取されるから、コハク川は東北の川として設定されていると思う。千尋が住んでいたのも東北ということになるだろう。あの風景は東北の夏なのかもしれない。そう考えても、今年の東北の夏が心配である。「ぱっとはぎとってしまった後の世界」。
 私は、宮崎駿のラピュタ・ナウシカをよく読んだ。とくにナウシカは、我々の世代だと最後の聖廟の描き方はスターリニズム批判であるとすぐに読み解けるもので、その点でも共感した。しかし、よく読んでいたダイアナ・ウェイン・ジョーンズの『ハウル』の脚色があんまりであったこともあり、また「モノノケ姫」以降、あまりに自分の研究対象に近いこともあって、率直にいって眉につばをつけていて、『千と千尋の神隠し』はみていなかった。けれども、入間田宣夫さんが宮崎駿が好きで、しばらく前の『東北学』(二五号、二〇一〇年秋)に「もののけ姫と歴史学」というエッセイを書いていて宮崎駿の目ざしたものが何かがわかる感じがしはじめていたところである。
 入間田さんは「アシタカがエミシ(蝦夷)の出身だったとは驚きでした」「下北半島の先端、大間崎に近接する『異国間』の海村に『アシタカ酋長』『アシタカと云蝦夷種居住し、その子孫、今にオコッペ村に住せりーーとする記録も残されていました。そこまで調べ尽くしたうえでのキャラクター設定だったとすれば、歴史のプロも顔負けの取材能力です」としているが、たしかに相当のものである。
 『千と千尋の神隠し』をはじめて読んで、これが「神祇」「神道」というもの、日本の土俗の神のイメージをすくい取る作業であることがよくわかった。ただ、私は物語としてのまとまりや思想性が不完全なように感じる。それを絵が救っているという構造があるように思う。そして、これは宮崎氏の焦慮の現れのように思うし、氏の議論の行方がいまひとつ不鮮明なのと関係していると思う。しかし、現代的な自然の破壊とヘドロの生産に対する自然の怒りと、その清浄化の幻想が土俗の神たちのイメージの下で描かれるのは自然なことであり、実際に迫力がある。千尋と親たちの関係も、トトロの娘たちと両親との関係とは違う時代に生きて行かざるをえない、今の子供たちの真理を反映していると思う。
 私は、『かぐや姫と王権神話』を書いてから、急に神道について考えることが増えた。去年、「神道・神祇」の項目で書いたが、私は大学学部(国際キリスト教大学)で大塚久雄先生の影響をうけながら歴史学の勉強を始めたので、自分でいうのも変だが、一〇分の一クリスチャンのようなところがあって、「神道」の思想のもつ宗教的な意味などということを考えるようになったのは、自分ながら大きな変化だった。それにしても、宮崎駿がアマテラスではなく、ニギハヤヒを選んだのは、意味深長である。歴史学の側でも「神道」「神祇」について負けないように追究しようという気持ちになる。
 110621_125408 自転車で花見川ルートをまわって帰ってくると、井上寛司さんから本が届いている。力作『神道の虚像と実像』(講談社現代新書)である。井上さんからは、『かぐや姫と王権神話』の神道理解について批判をいただいており、意見の違うところはたいへんに多いと思う。しかし、現代の神道研究は論理必然的に「国家神道・皇国史観」批判を内に含むものであるべきなのは、井上さんのいう通りだと思う。

 また社会と歴史を大づかみに捉えて、その中で神道を位置づけるというのは、歴史学にとってはどうしても必要な作業である。井上氏は黒田俊雄氏の指導を受けているだけに、黒田説がわかりやすい形で出ているところもあり、それを乗り越えるのはやりがいのある仕事である。 ともかくも、神道の研究は環境史・災害史にとっても一つの重要な論題である。批判をいただいたことを機縁として、井上さんの仕事を一つの基礎にし、さらに研究を続行したいと思う。
 それにしても「ハク」には驚いた。

2011年6月19日 (日)

福島第一原発の状況がたいへん心配である。

 福島第一原発の状況がたいへん心配である。このままでは汚染水がさらにあふれる可能性がきわめて高いと思う。

  以下は、金融ファクシミリ新聞のTOPインビュー「情報を開示し子供と妊産婦を守れ」という松本市長菅谷昭氏の談話である。私は余震・大雨その他の状況によってきわめて深刻な事態が導かれる可能性は依然として強いと思う。
 早く地震論について歴史家として語りうることを最後まで確認したいと考えている。

聞き手 編集局長 島田一

――今や日本国民は何を信じればいいのかわからない状態だ。チェルノブイリ原発事故の医療支援活動を5年半にわたり従事されたご経験からいかにお考えか…。

菅谷 もはや、国、東電、安全保安院の3つとも信じられないというのが一般論だ。日本国民は、自国の政府が信じられないという一番不幸な状態にある。また、そういった大変な状況にあるということを、政治家たちの多くが認識していないということも、さらに日本国民を不幸にしている。そんな中で民主党だの自民党だのといがみ合っている日本という国は、国際レベルで馬鹿にされても仕方がない。残念だが、海外からの日本の評価は本当に落ちてしまっている。国家の使命とは、国民の命を守り、国を守ることだ。確かに産業経済も大事かもしれないが、国民の命があってこそ、その上に産業経済があり、金融があり、国際的な立場がある。私は今のような状況を見ていると本当に残念で、寂しくて仕方が無い。

――次から次に後出しで悪いニュースが発表されている。このような政府の対応の仕方については…。

菅谷 非常にまずい。それは、誰も原発事故を身近に経験したことがないために、何もわからないからだ。私は、チェルノブイリで経験してきたことをもとに、事故発生時から「最悪の事態を想定して対策を考えておくべきだ」と主張してきた。しかし結局、今回の事故で政府や東電は何ひとつ対応出来ていなかった。すべて経験がないからだ。そもそも、自然災害と原子力災害が全く違うものだという認識も、今の日本人には少ないと思う。被災者には大変お気の毒だが、地震や津波の瓦礫だけであれば、みんなで力を合わせて片付ければ、そこは必ず復興して住めるようになる。阪神淡路大震災の時も、日本人の皆が頑張って、その能力や財力を集中したことで現在の兵庫県のように見事に復興した。しかし、放射能災害では汚染された場所に再び定住することは基本的に難しい。実際にチェルノブイリ原発事故が起きた周辺30キロゾーンは、25年たった今でも強制避難区域が解除されていない。それだけ土壌汚染が酷いということだ。

――避難区域にしても、徐々に拡大させるような方法ではなく、まずは50キロ圏外に避難させて、その後、安全を確認しながら範囲を狭めていくような方法をとるべきだった…。

菅谷 私は事故当初からマスコミなどの取材に対して、最低30キロ圏外に避難するように言ってきた。そして、最悪の事態を想定して、放射性ヨウ素による内部被曝から子供を守るために、無機の安定したヨウ素剤を飲ませるという放射性物質のブロック策を提言していた。しかし、内部被曝がどういうものなのかも知らず、中央政府には、松本という地方から発せられた声はまったく届かなかったのだろう。暫くたってから、そういった提言が当たっているということで報道関係等から呼び出しがかかるようになったが、放射性物質が体内に入ってしまってからヨウ素剤を内服したところで、もう遅い。一旦、体内に入った放射性物質は身体の中にとどまって被曝し続ける。そういった意味でも、日本は本当に不幸な国だ。

――内部被曝の問題は、今一番の心配事だ。特にこれからの日本を担う子供たちのことを考えると、放射能被曝基準をもっと慎重に議論する必要がある…。

菅谷 基本的にICRP(国際放射線防護委員会)では、一般の人の年間許容被曝量を、内部被曝と外部被曝を合わせて1ミリシーベルトと定めている。20ミリシーベルトというのは、放射線に携わる人たちが非常事態に陥ったときの許容量だ。「非常時」と「居住する」という状況では訳が違う。もともと原発推進派だった小佐古東大教授も、20ミリシーベルトを小学生などの基準に認めることは出来ないとして内閣官房参与の辞表を出したが、あの時、彼の口から「自分の子供だったら」という言葉が出た。それが本当の人間のあるべき姿だと思う。私は外科医なので、手術をする場合は必ず、「患者が自分の子供だったら、妻だったらどうするか」と考え、当事者意識を持つようにしている。

――食品の安全性については…。

菅谷 原発大国日本において、これまで食品における放射性物質の基準値がなかったというのは驚くべきことだ。今回の事故があって初めて厚生労働省は、ICRP(国際放射線防護委員会)とWHO(世界保健機構)とIAEA(国際原子力機関)が決めている値を参考にして、日本独自の暫定規制値を定めたのだが、私はその時の食品安全委員会への諮問に呼ばれて参加した。委員会のメンバーは、基本的には学者ばかりで実体験のない人たちだ。私はそこで、「規制値は出来るだけ厳しくした方が良い」と提言した。もちろん、私も自治体のトップという立場から、生産者の立場も理解しており、何でもかんでも厳しくしてしまうのが良いわけではないということも理解している。ただ、今回の場合、子供たちのためを思うならば、厳しくしておかなくてはならない。大人については、基準値以下であれば仕方が無いとして口にするものでも、せめて、子供や妊産婦はきちんと守ってあげなければならない。しかし、会議では「甲状腺がんは性質が良いから命には関り無い」と、平然と言う学者もいて愕然とした。私はチェルノブイリで、小さい子供が癌の手術を受けて、毎日切ない思いを抱えているお母さんたちを実際に見ているから分かる。こういった思いを抱える人たちを、これ以上出したくないから、規制値も厳しく設定すべきだと思う。しかし、そういった光景を目の当たりにしたことの無い人たちには、癌に侵された子供や、その母親がどれだけつらいものなのか、どれほど切ないものなのか、わからないから、放射線の専門家という立場で意見を述べ、それをもとに規制値が決まっていく。日本ではこういった実体験を持たない人たちが、政府の諮問委員会に入って色々な物事を決めていってしまうということを初めて知り、驚いた。国民の本当の立場など考えていない。それはとても恐ろしいことだと痛感した。私は、食品に関しては、汚染されているということが分かっているのであれば、乳幼児や学童、妊産婦はできる限り口にしない方が良いと思う。被曝許容量にしても、学者によって20ミリシーベルトで大丈夫と言う人もいれば、駄目だと言う人がいるが、それは結局、放射線被曝に関して将来のことがよく分かっていないからであり、そうであれば、厳しい基準を適用するのが当然だと思う。「あまり厳しいことを言うとパニックになってしまう」と考えて緩い基準を推奨し、「でも、30年後のことは私にはわかりません」というようなことは、無責任ということに尽きる。

――チェルノブイリ事故では、政府が情報を隠蔽してしまったことが一番の問題だった…。

菅谷 当時、旧ソビエト連邦の中で一番大きな祭事だったメーデー直前の4月26日にチェルノブイリ事故は起きた。それは国民に知らされること無く、子供たちは学校のグラウンドで、国をあげての一大イベントのために一生懸命リハーサルに励んでいた。その結果、被曝した子供達が癌に侵された。放射性物質に汚染された地域と知りながら、今もその場所に住み続ける人ももちろんいるが、そこに住む子供たちは、免疫力の低下で感染にかかりやすく、貧血の症状も出ている。また、そういった母親たちから新たに生まれる子供たちも、子宮内胎児発育遅延で、低出生体重児や未熟児となる確率が高くなっており、早産も多いという。こういった現実を、日本の人たちは知らない。政府や東電、安全保安院は、時間をかけて小出しに情報を公開していけば国民の気持ちが収まると考えているのかもしれないが、とんでもない。それは、放射能の怖さを知らなすぎる行為だ。今、現実に日本で汚染された地域に住んでいる人たちは放射線を浴び続けている。それは、チェルノブイリとまったく同じ状況だ。先日ようやく発表されたメルトダウンという最悪の事態についても、放出された核種が何で、どの時点で、どの程度放出したのか、汚染状況がまったく国民にオープンにされていない。測れないといっているが、そういうことを言っている事自体、本当に日本は不幸な国だと思ってしまう。きちんと数値を把握して汚染マップを細かく出さなければ、日本国民は納得しない。二度とチェルノブイリのようなことをしてはいけない。情報はきちんとディスクローズし、とりわけ子供と妊産婦を守らなければならない。

――福島の子供たちは、皆疎開させるべきだ…。

菅谷 松本市では、市営住宅や教員住宅を利用して学童を持つ避難家族の受け入れを行っている。こういったことは、政府が考えなくてはならないことだ。先日発表された米国のデータをみると、福島県が広範に汚染されていて、それはかつて私が住んでいたチェルノブイリの汚染地の値よりも高いものだ。正確に内部被曝検査をするには高度な設備が必要で、大人数を一気に行うことはとても難しいが、せめて子供たちには長期にわたり定期的な健康診断を行う必要があるのではないか。

――現在、汚染された地域にいる人たちが自分の身を守るには…。

菅谷 放射能災害から自分の身を守るには、とにかく逃げるしかない。本当に心配するのであれば海外へ、日本国内であれば西の方へ。それも難しければ、比較的汚染の少ない場所に住むしかない。放射性物質は大気中に浮遊し、風によって飛んでいく。そして、雨が降ることで地表に落ちる。チェルノブイリでは、原発から300キロ離れたところまで放射性物質が運ばれて汚染地になったところもある。日本でも、神奈川県のお茶の葉や長野市の汚泥からセシウムが検出されたことを考えると、放射性物質はあらゆるところに飛んでいると考えられて当然だ。そういった国民の不安を少しでも解消するために、地域毎にセンサーを設置して放射線量を明確にしたり、食品に安全表示を義務付けたりする必要がある。こういったことに対して、国はもっと迅速に動くべきなのに、まったく国民の気持ちが分かっていない。この政府の危機意識の無さは、経験が無いからなのだろうか。日本の政治を動かしている方々が党派を超えて、今の福島の状況をもっと自分のこととして捉え、「自分の子供だったら、自分の孫だったらどうするか」という思いで、すべてのことに、政治屋ではなく、真の政治家として真正面から取り組んでもらいたいと、つくづく思う。(了)

菅谷昭氏……01年にベラルーシ共和国より帰国し吉川英治文化賞受賞。04年3月14日に松本市長選で初当選。同28日に同市長に就任。
る。

2011年6月17日 (金)

源義経と島津忠久・近衛基通について(『黎明館調査研究報告』)

 WEB-PAGEに「源義経・源頼朝と島津忠久」と「頼朝の上洛計画と大姫問題」という鹿児島黎明館での講演とその付論をのせた。いま中断している義経論の前提になっている講演。2007年の講演であったと思う。

 別の仕事をやっていても史料と筋書きは徐々に集まってくるので、少しづつ仕事を、そちらに戻さねばならない。大姫問題がすべてのキーになるはずである。

 入間田さんの編集した『平泉・衣川と京・福原』(高志書院)を松岡正剛氏が取り上げてくれ、私見の紹介がある。松岡氏の書評は時々みるのだが、歴史の方まで視野の広い人だと思う。平泉を歩いたことがあるということがよくわかる。

 紹介の部分は以下の通り。

 義経は、なぜわざわざ奥州藤原氏の平泉に入ったのだろうか。この義経奥州下向の問題は、これまで多くの歴史家の謎とされてきた。
 たとえば、秀衡が奥州で政権を牛耳ろうとして“貴種”としての義経をほしがったとも見られるが、そのわりには兵馬の機動に長けていた義経の軍事力をいかした戦いへの準備が見られない。その義経が兄の頼朝によって討たれた理由についても、多くの物語に登場しているような兄弟間の怨恨や怨嗟の説明だけでは、とうてい納得できるものではない。
 ちょっと変わった説は、後白河法皇の計略だったというものだ。後白河院はもともと清盛のあとの後継者に義経を指名しようとしていたのだが、そこへ頼朝が登場した。そこで頼朝と義経の仲を断って、頼朝に東国を統括させ、義経には西国を治めさせ、秀衡には北国を統率させようと企んだのだが、これを頼朝と北条政子が嫌ったため、義経は秀衡と結ぶことになったというものだ。
 これは後白河による「天下三分の計」とでもいうべきもので、もしそのままいけば三国志の魏・呉・蜀のような日本が、西国・東国・東北にできていたかもしれなかった。
 しかし、後白河がブレーンもなくてそこまで考えていたかどうかの証拠ははっきりしないし、仮にそういうことが試みとして仕組まれていて、途中で計画倒れになったのだとしても、では、それによってなぜ義経が奥州に下向してまで秀衡と結託することになったのかという説明には届かない。
 こうして新たな仮説を出したのが保立道久(東大史料編纂所教授)だった。本書では『義経・基成と衣川』という論考になっている。仮説の概要はいっとき話題になった『義経の登場』(NHKブックス)であらかた書かれているが、本稿ではそのあとの推理にまで及んでいた。

 保立は「平安時代は京都王朝を中心とした時代ではなくて、むしろ地方の時代だった」と捉えてきた研究者である。鎌倉幕府はその地方の勃興を確立に向かわせないための権力だったとも捉えている。
 その視点からみると、衣川遺跡群とは鎌倉幕府によって押し潰された地域だということになる。
 このことは逆に、それだけ京都と奥州平泉は隔絶してはいなかった、つながっていた、だからこそ平泉は地方権力として押し潰されるべき内実に富んでいた、ということにもなっていく。保立の義経論は、そうした京都と平泉との裏腹の関係線の上に成り立っていた結び付きを、義経の背後のネットワークからほぐしていくものだった。とくに義経と藤原基成の関係が強調される。例のキーパーソンだ。
 義経の母は常盤御前である。夫の義朝が殺されて一条長成と再婚をした(させられた)。長成は歌舞伎では『一条大蔵譚』が有名で、18代勘三郎の襲名披露にも選ばれていたが、ぼくは吉右衛門のほうに軍配を上げる。それはともかく、その長成の母方の祖父に藤原長忠がいた。長忠の血はこのあと基隆・忠隆をへて基成(!)へと続く。
 つまり陸奥守として衣川に入った基成は、もともとが義経とは遠い血でつながっていたわけだ。あまつさえ、その基成の娘が秀衡に嫁いだわけだから、秀衡が衣河館に義経を招いたということそのことが、京都と平泉の結び付きから派生した別格ヴァージョンだったのである。

 以上のことは、基成が後白河法皇や平清盛の中央の意図や、新たな権力機構を奪取しようとしていた頼朝の意図から見て、はなはだ気がかりな存在だったということを暗示する。
 基成は康治2年(1143)から10年にわたって陸奥守になっている。のみならず、そのあとの15年のあいだ、甥の藤原隆親、弟の信説、伯父の藤原雅隆、従兄弟の源国雅といった基成の親類筋が、次々に陸奥守になった。ということは、基成の一族が陸奥守を独占していた時期があったということなのだ。
 しかも同時期、義経の父の義朝は下野守に、基成の弟の信頼は武蔵守になっていた。秀衡がその名を天下に轟かせる渦中、関東から奥州を広域的にネットワークしていたのは義朝と基成を結ぶネットワークだったのだ。

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系図 (「陸」と記してある人物が陸奥守)

 実はここまでの仮説は、あらかたは角田文衛によっても提起されていた。しかし、以上のことだけで義経が奥州に行く理由になっていたかといえば、なんだかまだまだ動機が浅い。保立はそこにもう一人のキーパーソン、源頼政を浮上させた。
 源頼政は歌人としてはもっぱら「三位の頼政」(源三位頼政)として知られる人物で、若いころは摂津の源仲政の長男として渡辺党を率いていた。その後、白河院や鳥羽院の北面の武士として西行とも同期の日々をおくり、美福門院や八条院とも親しかった。保元の乱のときは後白河の方に参戦し、平治の乱では最初は義朝に与したが、のちに清盛方に転じた。その後、従三位に叙して公卿に列したのだが、以仁王(もちひとおう)の令旨に応えて平家打倒のために挙兵して、宇治川の戦いで戦死した。
 そういう頼政がどんなふうに義経にかかわっていたのかというと、ここに一人の目立たぬ仲介者がかかわっていた。義経の奥州下向で金売り吉次とともに義経に同行していた陵助重頼という者だ。あまり義経もののドラマには登場しないが、このことは『平治物語』に書いてある。この陵助重頼が「私は深栖の三郎光重の子で、頼政と仲がいいんだ」と言っていた。義経もそれを聞いて自分の身分をあかしたというふうになっている。
 深栖光重は下野国の住人で、頼政の父親の仲政の養子だった。重頼は頼政の義弟の息子にあたる。義経は、そういう頼政との縁が深い者を同行させる気になったわけである。母の常盤と頼政が信頼関係でつながっていたからだ。
 常盤は一条長成(例の大蔵卿)の後添えとなり、長成が皇后宮の次官だったこともあって、後白河の側室たちとも昵懇になっていた。このときの皇后宮は徳大寺氏出身の忻子という女性だ。皇后太夫には忻子の兄の徳大寺実定が就いていた。源頼政はこの徳大寺とそうとうに親しく、頼政の和歌も徳大寺家の歌集に収められるほどの間柄だった。
 それよりなにより、平氏によって世間が席巻されつつあったとき、頼政は都で唯一の実力をもっていた源氏であったのである。平治の乱で義朝に与し、のちに清盛方に転じたものの、その後は以仁王の令旨に応えて平家打倒のために挙兵した人物である。
 義経としては、そういう頼政に縁のある子分なら同行させてもいいはずだった。こうした因縁や背景にもとづいて、義経は平泉に入ったというのである。この仮説、どのくらい説得力があるのかはぼくにはわからないが、今後はいろいろ膨らんでいきそうな感じもする。

 ふくらませようとしているのだが、別のこともあって息が続かない。歴史家は頭が三つあればよいのだが。

2011年6月15日 (水)

『竹取物語』と『鉢かづき』ーー講演準備に四苦八苦

朝の総武線の中。
 6月25日に京都の橘大学の女性歴史文化研究所の講演があって、一昨日、レジュメを送る約束の日が過ぎているという電話があって、あわてて昨日からその準備にかかる。私は頭を切り換えるのが下手で、鈍い。さかんに頭が抵抗している。「一昨日まで考えたことや発想を十分なメモにもしていないではないか。中途半端のままに残して、それを覚えていろというのか」と、頭が乱暴な主人に抗議している。
 昨日は、一日どうするか迷う。以前、『物語の中世』で書いたことのある「鉢かづき姫」を組み直す積もりで、昨年、御引き受けしたもので、もうテーマを書いたポスターもでている。昨年は、十分な時間があると思っていた。しかし、3月以降、急遽、地震の研究を進めているので、書いたものを組み直し、史料を点検しなおす余裕がなかった。
 田端泰子さんと一緒の講演なので、前に書いたものと同じというのは失礼であるし、組み立て途中のあまりみっともない話しもできない。
 夜寝ながら、ともかく「降臨した天女」というところから始めようということに決め、メモを残し、朝、見なおしてみた。
 すでにほとんどは書いてあることなので、ブログにメモをしても同学の方々の迷惑にはならないと思うが、実は「鉢かづき」は天女譚の一種である。その意味では『竹取物語』とセットになる話である。しかし、『竹取物語』が昇天した天女の話であるとすれば、これは山蔭中将という九世紀の清和天皇側近の貴族の家に降臨した天女の物語である。そして、山蔭の血筋は、中正ー時姫とつらなって、時姫が兼家の妻、つまり道長の母となって、王母の家柄を作っていくという話しなのである。平安王朝の母系をたどると天女の血筋につながるという訳である。
 話しは、この鉢かづきの結婚、山蔭中将の血筋から始める倒叙法にすることにした。天女の結婚というところから始めて、物語をさかのぼって説明していくことに決めた。つまり、鉢かづきが、山蔭中将の「湯殿の火焚き」として住み込んだというのは、山蔭中将の家が、ながく天皇が大嘗会などで湯浴みする際の世話をする家柄であったことに関係がある。天皇は湯浴みの後に「天の羽衣」を着るが、その着脱の世話をするのが天女の血を引く貴族であるという王権神話が、鉢かづき物語の本質であるという話しになる。
 鉢かづきが着る「鉢」は乞食の姿なのであるが、同時に、その秘面の意味は、天女の容貌を秘匿するという点にもあったということになる。
 ただ、前に書いたことで十分に解けなかったのが、鉢かづきが長谷観音の申し子であることの意味であった。これは西郷信綱さんの論文「長谷寺の夢」(『古代の夢』平凡社)で解くことができるのに昨年気が付いたのである。西郷さんによると、長谷寺のある初瀬は、三輪山信仰に対応する水の聖地だという。水は母性原理であって、それ故に美福門院が長谷観音にこもって胎内の女子を男子に変成させ、近衛天皇を生んだという御産の神となるということになる。こうして、鉢かづきが長谷観音の申し子であるというのは、じつに話が合っていたのである。
Uhoudoui110615_104520  さて、これを結論にしようということはよいが、西郷さんもいうように、長谷はアマテラスと同体である。佐藤弘夫氏の『アマテラスの変貌』(法蔵館)は長谷のアマテラスの神体が、雨宝童子という童形の仏であったことを実見したショックから話しがはじまっている(右の著書から長谷寺の雨宝童子の像をコピー)。ようするに問題は必然的に宗教論・神話論に結びついていく。『物語の中世』には「神話・物語・民話」という副題をつけたが、民話論が中心で、神話は不十分であった。その残り仕事という頭の動きがあるのだろう、最近の仕事が神話に引きつけられていくことに気づく。よく事柄の全体と、その目ざすものを考えて、そして歴史学者としての地盤を確認しながら進まなければならない、そして早くもっと後の時代へ引き返さねばならないと気持ちを引き締める。

 今、橘から電話があって、講演題目の確認。この画面をみながら、あわてて考えて、講演題目は「鉢かつぎ物語から長谷寺の夢へ」と変えてもらう。ここに記録すれば忘れない。

 私にとって講演がたいへんなのは、一つは材料の仕込みがあるという当然の事情がある。材料と筋立てが熟してないうちに話すことになるのがきつい。そして、そのほかに、何らかの現在性のようなものがないと話しができないという性格である。いわゆる淡々とした話しということができない上に、歴史事実の謎解きの過程を御話しするのがあまり好きでない、得手でない、あるいは謎解きができないのである。そう考えていると、やはり歴史というものは書くものであると感じる。
 とくに鉢かづきで心配なのは、以前に授業で話した時、学生が話しの内容を知らなかったことである。鉢かづきの謎解き(ヴェールの意味など)は、原話を共感をもって聞いたことがないと、感動を呼ばないのである。
 それにしても、『竹取物語』と『鉢かづき』は、できるかぎり原文に近いテキストを作って、小学校で教えてほしいものだと思う。以前やっていたテレビの『日本昔話』のような番組にまかせておくべきものではないと思う。

2011年6月13日 (月)

火山地震32東北の火山とアテルイの怒り

 昨日、プレートテクトニクスの新妻信明氏のブログをみていて、三陸沖地震と日本海側の地震の連動性に注意したいという記事をみたが、それは火山にも関係するはずである。新燃岳の噴火は、静岡大学の小山先生のブログで知ったhttp://blog.livedoor.jp/hananomura/の写真が正確なところを伝えてくれる。大きな火山弾と火山灰の厚さに驚く。

 東北の火山についての歴史家の側からの言及としては、誉田慶信氏の「国家辺境の守護神」(『山形県地域史研究』8、1986年に掲載。後に『中世奥羽の民衆と宗教』吉川弘文館に収録)がある。
 誉田氏は出羽鳥海山と陸奥鳴子火山群をむすぶ線が本来の(たとえば7世紀の)蝦夷地の領域であったのではないかという想定を述べている。たしかに、出羽に移住した信越地方の人々、陸奥に移住した関東地方の人々にとって、この二つの火山がたいへんに目立つものであり、東北の自然を代表する物として畏怖の対象となった、そして、そこから向こうは蝦夷の人々の領域と考えられていたということはありそうに思う。火山と地域文化ということを考える上で魅力的な想定である。
 いま、朝の総武線の中、『東北学』の「貞観津波と大地動乱の九世紀」という論文のゲラの最終校正を仕上げなければいけない。週末、疲れてさぼってしまった。この論文に出羽鳥海山と陸奥鳴子火山群をむすぶ線がわかるような地図を入れようかと考えている。次が該当の部分。ほとんど誉田氏の論文にある。

 蝦夷の人々の強さは大地動乱の深まりとともに明瞭になったように思われる。まず陸奥では、八三七年(承和四)に玉造温泉の上の鳴子火山が噴火した。この温泉石神の噴火はすさまじいものであったようで、「地震はこれ頻りなり」と地震も続いた。このために、「妖言」がさかんとなり「奥県の百姓、多く以て畏れ逃」げたという。
 続いて八三九年(承和六)、出羽でも鳥海山が噴火する。「大神」が、雲の裏で、十日間、「戦声」を上げるのが聞こえ、その後に、「石兵」が、降ったというのである。大神とは鳥海山の大物忌神のことで、これも、鳴子火山と同様、神の怒りとして受けとめられたに違いない。出羽では噴火に関係した騒乱の状況、「妖言」や人々の逃亡の記録などは残されていないが、状況は陸奥と相似していたはずである。ここには、王朝側が戦闘には勝利したものの、陸奥出羽の自然そのものに対峙しなければならないという状況がよく現れているというべきであろう。

 貞観地震の「前兆」としては、この二つ火山の噴火の位置はきわめて大きかったと思う。「前兆」というのは、当時の人々の感じ方、受けとめ方の問題であるが、北国の自然への恐れというのは、アテルイを騙し討ちにした経過からしても、中央貴族にとってはなまなかなものではなかったと思う。
 よく知られているように、陸奥国では、七七四年(宝亀五)から八一一年(弘仁二)まで三八年の間、律令制王国による対蝦夷戦争が続いた。この戦争は、八〇二年坂上田村麻呂が胆沢城を築き、和平と降伏を望んだ蝦夷の首長アテルイらを上京させ殺害したことによって終結する。しかし、アテルイが京都に向かったのは和平儀礼の延長で、その殺害は騙し討ちであったという事情にも明らかなように、この戦争終結は蝦夷の側の一方的な敗北という訳ではなかった。
 八〇五年(延暦二四)、死去を翌年にひかえた桓武が、面前で、式家の藤原緒嗣と皇太子平城の側近の津田真道に論争させ、緒嗣の主張をよしとして、徳政を理由に「軍事」の方針を転換する姿勢を取ることができたのは、あくまでも、この騙し討ちとペテンを前提にしたものであることを忘れてはならない。
 歴史教科書などでは、この桓武の政策転換について肯定的に叙述するのが一般である。「国力の疲弊を洞察した桓武が、軍事と造作をやめよと指示して平安な世がやってきた」という訳である。こういう立論は、史料が言う通りのことを繰り返しただけで、そこに感性的に疑問を感じないようでは、歴史家失格である。このまえのエントリーで述べたように、歴史家の仕事は、史料に没入し、史料に憑かれることを必須としている。しかし、一般に史料は、その時代に声の大きかった人々の言葉と思想を反映している。それを聞いているだけでは人間は馬鹿になる。聞こえるものだけを聞いていては人間が馬鹿になるのはいつの時代も同じである。大塚久雄先生が「神はかすかな声でささやく」といっているが、かすかな声をこそ聞き取らねばならない。歴史家が大声になってはどうしようもない。
 なによりも、この「徳政論争」は、桓武死後の政策をめぐる皇太子平城派とその弟で桓武の晩年の寵愛をほしいままにした淳和を支持する藤原氏の式家の間での論争であり、式家の勝利と平城の没落の道の原点となったものである(なお、これはずっと以前、『平安王朝』で述べたことだが、まだ議論は進んでいない)。
 さらに、このような桓武=徳政王という考え方は、まったく地方からの目を排除している。こういう場合には、多数者の立場にたち、アテルイの立場からものごとを考えなければならないのは当然のことである。アテルイの子孫、同族の子孫の人々を無視する教科書叙述はおかしいと思う。職業としての歴史家は、不生産労働をしながらも社会に飼われている存在である。とくに大学教員などは、多かれ少なかれ税金を収入の原資にしている訳であるから、納税者全員への平等性を第一にして仕事をしなければならない。無意識であれ、一部の目、中央の目に乗っかって仕事をすることなどは職業倫理に反するのである。
 さて、ずっと誉田さんにはあっていないが、同世代の歴史家として考えることは同じである。彼の「民衆神学」論は、いまどう展開されようとしているのだろう。
 民衆神学といえば、ラテンアメリカのカソリックの自己刷新の動きを代表する言葉だが、こういう言葉で研究の志向をあらわしていた時代がなつかしい。

 先日、チリの詩人、ネルーダの死が病院での毒殺によるものであったという新聞報道を読んだ。ネルーダはよく読んだのでショックである。それまで安定していたネルーダが、奇妙な注射の後に容態を急変させたという。
 もう三十年前のことであろうか。いま、チリではプジェウエ火山の巨大な噴火。ラテンアメリカの神話は火山噴火と深く関係しているという。あの頃は、ラテンアメリカの火山噴火とか、それを背景とする神話などということを研究の問題として考えることがあるとは思っていなかったが、時代はめぐる。

2011年6月12日 (日)

史料の力・歴史学者の残すもの

 御寺の出張が昨日、金曜に終わり。今日、土曜は午前中が学術会議の分科会。午後は職場で御寺への出張のまとめ。そして、今は、土曜日深夜。岩手の救援のボランティアにでかけていた子供が帰ってきたのを迎えたところ、状況はたいへんそうで、疲れて言葉すくなである。
 御寺では和尚さんに東は津波がたいへんですと申し上げると、「保立さん。放射能はどうなんです」といわれる。別の和尚は津波の直後にトラック二台・ユンボをもって現地に向かい、今日あたりから三度目に出かけると聞く。禪僧の言葉と行動は鋭いので気後れするのがいつもの経験だが、同時に感動する。
 学術会議の議論は、細分化された科学の盲点をどう考えるか、理系と文系の融合が科学・技術に何をあたえるかを考えようというもの。私は、「国土観」ともいうべきものを共有する上で、文理融合の位置は高いかもしれないという意見をいった。「狭い国土」だが、そこで起きていることは多様である。そして、この列島は自然条件の上でも多様性に富んでいる。火山と地震という自然条件は、文化と歴史にも決定的な影響をあたえていることを常識化することを考えたいという趣旨。
 それは、今も新燃岳は噴火をしており、誘発地震は確実に起こるという国土で生活しているという認識を社会の基礎にすえるということだと思う。新燃岳の噴火がほとんど報道されないのはどういうことだろう。火山と地震は同じ地殻の運動だというのに。絶壁の上で踊っていてはならないだろうに。

 以下は、昨日の帰りの新幹線で、今回の御寺の調査を考えながら、書き始めたもの。あまりメリハリがきかないが、歴史学者の内省のレヴェルから「歴史哲学」のようなものを考え直してみたい。以前読んだ三木清の『歴史哲学』の歴史学的認識についての観察の節は、歴史学の仕事に内在できていないと思う。その時から考えていること。

 相当量の数のある文書群でこれまでまったく整理も調査も行われていないいものの調査ははじめてである。自分の分担の時代とはまったく違う。勉強になることも多いが、しかし、さすがに疲れる。今、目が覚めるともう小田原が近い。
 歴史学者の仕事が残るとはどういうことかを考える。残るのはおそらく三つ。第一はいうまでもなく広い意味での「史料」の保存ということ。第二が学説が残るということ。第三が直接の社会的な影響が残るということ。
 調査の帰りのムードの中で、ここでは第一の「史料の保存」について考えてみたい。この場合にまず問題なのは、歴史史料というものが、文書にせよ、遺跡にせよ、どれも「物」としてはきわめて脆弱な性格をもっていることである。紙は破けるし、遺跡は破壊される。
 それ故に歴史が不要な人々にとって史料は邪魔者であり、極端な場合は史料自身が意図的に消滅させられる。だから、直接の所蔵者あるいは保管者だけでなく、社会がそれを保護しなければならない。そのための社会的装置、社会的な記憶装置がアーカイヴズ=史料館であって、その専門職がアーキビストであることはいうまでもない。歴史家の研究は、この史料保存機能の上に存在することができるし、あるいは歴史家自身がアーキビストの役割を果たすことがある。
 しかし、「もの」としての史料は、脆弱であっても、史料の内容自身は、自分で自分を残すだけの力をもっている。歴史家は自分が残す力をもっているかのように幻想するが、しかし、実際には史料自身がその力をもっているのだというのが、とくに原蔵状態のままの史料にふれている時の実感である。これを忘れないことが大事だろうと思う。
 アーキビストの仕事は、その史料自身がもっている力を顕在化させ、史料それ自身のもっている自身を残す力を組織する作業であるということになるし、歴史家の仕事もほぼ同じである。
 こう考えると、歴史学の研究それ自身も、結局のところ、史料を使用した研究であって、史料の語るところを聞く作業である。歴史学研究それ自身がその仕事内容からいえば、すべて史料の力を解き放つ作業であるということになる。歴史家の仕事は、過去の史料を、そのもっている内容に即して現在の社会に戻していく作業であって、歴史家の仕事は、それを媒介するに過ぎないということになる。
 
 「史料の力を解き放つ作業」というのは、別の言い方をすれば、史料を通じてみえてくる過去の風景・情景を語るということである。語るというのは歴史家を主体とした言い方であるが、正確にはそれは歴史家を媒体として過去自身がものを語るのであって、歴史家は史料という「もの」に憑いていた過去の一端を語るのである。
 いうまでもないことながら、その意味では歴史家は「物語」を語るのである。しかし、一時もてはやされた「言語論的転回」という歴史学方法論の立場は、そこから飛躍して、この史料の声の客観性、史料に憑かれた歴史家の声の客観性、物語の客観性を否定しようとする。もちろん、史料がそのままで歴史の事実を語らない以上、ある意味で、これは正しい方法的な態度なのであるが、歴史家が史料を通じて過去の情報によって頭脳の一部を占有されているということ自身が時を越えた客観的な関係であるという単純な事実をわすれてはならないと思う。史料を前にした歴史家は、その向こう側にその史料を書き、使った人々、その「もの」としての史料に結ばれた人々、そしてその時代が存在することを実感する。史料は嘘をつくし、すぐには分からない言葉で語り、示すべき前提をわざわざ隠す。しかし、そこにも過去の客観と事実は反映しているのである。歴史家は、史料に憑かれるのが、その第一の心的態度であって、この憑依関係の客観性からはなれて主観というものをもってはならないのである。
 もちろん、それは極めてむずかしいことだが、歴史家は過去との出入り口のそばにいて、その前を通る、細かな過去の断片を映し出す事物に目をこらしているのであって、その自然な心理には、過去自身の実在を否定したり、史料が客体としての過去を反映していること自身を疑うということはありえない。素朴実在論といわばいえ、そういう人々こそ過去の絶対性ということを事物に即して感じることができないに過ぎないと思う。
 以上は、メモに過ぎないが、次の問題は歴史学の仕事にとって、現在と未来はどういう意味があるのかということに関わってくる。

2011年6月 8日 (水)

武士の成立とモノノフ・モノノベ

 6月7日午前。京都へ出張の新幹線車中。この時間、京都出張の多い私にとっては、長い間、物を考える貴重な時間になっている。
 いま、掛川あたりか。昨日、『東北学』から依頼された「貞観津波と大地動乱の九世紀」のゲラが届き、総武線車中から校正をかけていて、一応、終わる。「おわりに」のところで、以前から考えていた『曾我物語』の冒頭にでる蝦夷の出自に関する歴史神話についてふれさせてもらう。よく知られているように、『曾我物語』は、蝦夷の祖先は神武天皇と覇権を争った「安日」(アッヒ)という鬼王であったとする。そしてアヒの一族はイワレヒコ(神武)に天から下された宝剣の力によって津軽外が浜に追われたという。これは安日が生駒の長髄彦本人、またはその親類であったことを意味するが、ぎゃくにいうと、この宝剣が物部氏の氏神・石上神社に祭られるフツノミタマであったことが重大になる。つまり、ここからは、蝦夷の祖先についての『曾我物語』の記述は、おそらく東国に広く分布する物部伝承と関係するのではないかという想定が可能になると思う。
 「ホツマツタエ」といったか、その他、奇書の伝承が東北には多いが、それも「物部」、モノノベと関係があるということになると、歴史家の専門意識では論外となりがちな伝説の類もあたまから無視すべきものではないということになるのかもしれない。畑井弘さんの『物部伝承』という本を読んだことがあるが、「古代史」からは論外ということになるだろうし、私も批判が多い。けれども畑井さんの本来の専攻の論文や焼畑論を知っており、戸田芳実さんに噂を聞いたこともあるので、頭から無視したくないと思う。ともかく日本の歴史家の専門意識というのは、東アジアの「史官」の伝統があって、やむをえないところがあるのだが、しかし、以外とせせこましい場合があるので注意である。
 さて、しかし、昨日、PDの希望の方などのことで急に時間がかかり、出張前の最終準備、荷物の整理が遅れて、仕事が一つ残っているので、遅くも名古屋についたら、そちらにかからなければならないが、上記の物部=モノノベ、モノノフについて、もう一つ追加。
 以前、岩波ジュニア新書の『平安時代』で少し書いただけだが、私は、武士の形成過程について「持論」がある。それは神話時代から奈良時代にかけて「物部氏の職能」こそが「武士」の職能の中心であったのだから、9世紀における武士身分の形成は、物部=モノノベから武士=モノノフへの変化と考えなければならないというもの。これまでの歴史学の武士論は、佐藤進一・黒田俊雄の両先達の古典的な研究以来、「武士=芸能者論」である。最近では高橋昌明氏がそれをまとめ、これによって、歴史学の通念は、「武士=質実剛健な地方領主」というような教科書的な偏見とはまったく異なっていることがわかりやすく提示された。
 これはもちろん、正しい。それは私などの研究者世代の常識である。しかし、ただ、これらの従来の見解は、武士=モノノフが律令制王国の内部からどのようにして形成されてきたの変化過程を論じない点で、歴史学の学説としては、決定的な欠陥があるというのが、私の持論。黒田さんに移行論がないという永原慶二さんの痛烈な批判にどう答えるかというのが問題なんだよと、戸田さんには何度もいわれた。
 『平安時代』の該当部分を詳しく説明しただけだが、『東北学』の論文では、蝦夷の先祖論の関係で、ついでに、この説明もさせてもらった。
 そもそも、神道の清浄イデオロギーは、「忌み」の世界の外側を「穢」として排除する社会システムをともなっていた。その第一の内容は、蝦夷を「穢」の極みにいるものとして武力をもって排除し管理することであり、その担い手が武士であったことはいうまでもない。そして、第二の内容は「地霊=穢」を排除し、処理するキヨメのシステムであって、それは各レヴェルの社会集団の下層、最下層では、非人・河原者の身分によって担われた。このシステムは九世紀から一〇世紀にかけて形成されていったのであるが、それが平安朝の都市王権をささえたのである。これが神道の裏側にあったことを忘れてはならない。
 そして、この二つのシステムはモノノフという言葉によってまとめることができる。モノノフの「もの」とはモノノケ、悪霊を意味し、モノノフとはその悪霊を遠ざける力をもつ役割を意味する。物部氏の物部がモノノフとも読まれることでわかるように、これは本来、物部氏の氏族的職能であった。物部氏は王の側近を護衛し、悪鬼を遠ざける役割をおい、また王に対する犯罪を裁き、犯人の処刑を担当していた。そして、九世紀から一〇世紀頃には、この物部氏の役割が武士ー非人によって担われるようになったのである。
 詳しくいうと、奈良時代には衛門府の下役としての「内物部」がいたが、九世紀には、蔵人の武官の位置が高くなり、さらに九世紀末には滝口の武士が担うようになった。滝口の武士が天皇の身辺から鬼気を遠ざけるための鳴弦の呪術を行ったことはよく知られているが、鳴弦は、雷などと同様に、おそらく地震に際しての天皇の身辺守護の呪術でもあったろう。史料はないものの、私は、この鳴弦の呪術は、九世紀の地震にさいしても内裏で行われたと考えている。
 他方、都市京都には、京都の獄や市庭におかれた刑吏としてのモノノフがいた(直木孝次郎「物部連と物部」『日本古代兵制史の研究』)。彼らは、検非違使の配下に属するようになり、一〇世紀以降には、その中から検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になる。検非違使はいわば都市警察であるが、彼らは「穢」と密接する存在としてのモノノフ・非人を駆使して、都市の「穢」をキヨメる役割をおったのである。そして、この検非違使ー非人のシステムの原型として、武士ー家人・下人の組織が地方社会をふくめて広がっていったことを忘れてはならない。
 こうして、本来、物部氏を意味したモノノフが武士のシステムに変化していったのであって、その中で、武士は、自身、「穢」を扱う職能者として登場したのである。従来の議論のうちで、唯一、この武士形成過程に肉薄したのは、かって戸田芳実氏が、武士は「穢」多い「屠児」として賎視されるものとして登場し、それと武士が「夷狄」として蔑視されたことは関係していると述べたことであろう(『初期中世社会史の研究』)。戸田は、モノノフ=武士の形成の背後に狩猟民がいたことも強調しているが、それは同時に九世紀の東北の大地が、その舞台であったことを含意していた。
  これを考えても、大石直正・入間田宣夫・斉藤利男・誉田慶信・伊藤清郎・菅野成寛・川島茂裕・平川新などの諸氏の、東北から考える歴史学の姿勢に長く学んできたことを実感する。こういう学習は、じわじわと効いてくるものである。ほとんど論文で読んでいるというだけでも歴史家の人間関係、相互関係というのは、ようするに視点と感性をはぐくむネットワークなのだと思う。
 あと少しやすんで仕事にしよう。

2011年6月 6日 (月)

通史と地主制論。江戸期社会=「地主満面開花」説

 朝の総武線の中。昨日、日曜日に会議で出たので、身体がボーとしている。少しゆっくりと研究を詰めてみたい。とくに通史をつめてみたい。これはずっとあった見果てぬ夢。昨日のような会議にでていると、研究をしながら、同時に教育に関わることの重要性を思い知る。
 昨日の会議では、藤木さんの「平和令」についての教師の側の受けとめ方について、若干の議論。私は、藤木さんが戦国期という時期に民衆の力量の蓄積の意味を強調する意見に基本的に賛成である。それに基礎をおくダイナミックな歴史の運動を措定することなしに江戸期社会はとけないのではないかと思う。
 問題は、それを前提とした上で、江戸期の農村支配の体制をどう考えるかということだが、「地主制満面開花」説ということになる。
 いま、『日本史研究』585の渡辺尚志論文「中世・近世移行期村落史研究の到達点と課題」を読み終える。勉強になり、好感がもてる議論だが、「小農自立論の創造的再生」ということには賛成できない。これは何といってもマルクスの誤読にもとづくシッポがきれていない。
 私見では、これでは上記の意味での藤木説との連続がとれない。つまり江戸期社会万々歳論になってしまう。江戸期研究者が藤木説に違和感を示すのは、結局、藤木説と小農自立論をつなげると、江戸期社会万々歳論になってしまって、それではいくら何でもということになるためだ。こういう理論枠組みでは、江戸期研究者の側で藤木説を受けとめるのはむずかしい。問題は、結局、江戸期にあるのではないか。
 「地主制満面開花」は、ただ、峰岸さんの意見が実感的に正しいという直観だけでやっているので、そして我々の世代では一般的な佐々木潤之介氏の『幕末社会論』のシェーマ(実際には小農自立はない)によっているので、実証的なものではない。藤木さんはそれではいわゆる「名主裏切り論」と同じだというかもしれない。
 けれども永原慶二氏のいう「領主制の自己否定」を経過して江戸期社会が形成されたという議論からすると、在地で地主制が上へ下へ満面開花してネットワークを張りめぐらせたのは当然ではないかと思う。小さな、いじましい私欲にまみた糞虫がさなぎになり、繭に入ったのち、多色のうす黒い蛾となって羽をのばし始める。これが地主制下の「下人支配」を徐々に縮めていくことを可能にした。これは下人が自己解放をしたという訳ではないと思う。そして百姓を代表し、同時に責任をとらせて、依存させるシステムを作り出した。もちろん、村方騒動のような色々な矛盾はあったが、こういう地主制の満面開花が見方によっては「小農自立」といえるような現象を生みだしたのではないだろうか。小農に社会構造上の基準線を求めるのではなく地主に求めるという立論からすると、こういうことになる。
 江戸期を、「非封建的な」、東アジア型の都市ー地主制国家のいちおうの完成、東アジア文明への最終的到達と考える根本理由がここにあるのだが、こういうイメージは、結局、70年代に作った意見。峰岸純夫・藤木久志の向こう側に稲垣泰彦・佐々木潤之介がいた時代に研究を始めたものからすると、ありうべき自然な意見の一つである。網野さんと社会史ショックの前の時代に戻ろうというのではないが、構造論の議論となると、地主論の主唱者のそばにいた立場からすると、こういうことになってしまう。
 歴史の運動論としては藤木説が正しい。そして歴史の構造論としては峰岸説が正しいというのが、私のように70年代の歴研中世史で勉強を教えられたものにはしみついているように思う。あまりに属人的・サークル的な研究史理解かも知れないから、もちろん考え直すべき点もあろうと思うが、やはりあの時代、いわゆる「民衆運動史」研究の時代はなつかしい。
 午前中は、科研の最終報告書を仕上げ、PDF化を終わらせてメールに添付。すべてが終わった。

 いま御弁当。
 歴史学研究会で盛本昌弘氏からもらった永松圭子さんの『日本中世付加税の研究』の書評(『ヒストリア』225号)をよんでいる。永松さんの詳細な仕事をよく追跡・評価して、ご自分の意見を展開している。彼の仕事は広い。
 この問題は、私も議論したことがあるが、この「付加税」というのは、結局のところ、収納過程で、都市と在地の地主層へのペイバックの方式である。こういうペイバックが国家を媒介として行われるようになるというのが、地主国家論の理解ということになる。

2011年6月 5日 (日)

保守でレパブリカンの歴史家。

 総武線の中。日曜。6月5日。歴史教育関係で午後から会議。千葉駅で階段を駆け上がったが、予定した電車を逃して10分遅れの電車。まだ汗だらけである。間に合うかどうか。
 昨日はややゆっくりしたが、毎日毎日、いろいろな状況と処理すべき課題と、情報の山をかき分けているという感じがやまない。トンネルの中。こういう慌ただしさが何によるのか、今週の出張で手仕事をしながら、よく考えてみたい。
 昨日は、仕事が一段落したので、部屋の整理。少し前から羽仁五郎の「レパブリカン・マニュフェスト」という文章を探している。気をつけるがまだ出てこない。まず『羽仁五郎歴史論著作集』が1巻でてこない。そこにあったのか、あるいは雑誌論文か。中身をよく覚えている訳ではないが、強い印象をもった。
 「デモクラット」と「レパブリカン」というと、アメリカのようだが、私は、デモクラットというよりもレパブリカンという方がしっくりくる。一種の事なかれ民主主義は日本社会の中から自然にでてくる側面がある。そうではなく、レパブリカンという行動原理が好きである。
 レパブリカンがアメリカではナショナリズム(あるいは実際は右翼)になるのは、パブリックを優先するという論理からだろうか。
 社会は、その内部に大きな利害対立をもっていて、その「利害状況」によって左右されるという形で、社会構成を語るのは大塚久雄先生。それはそうだが、どれだけの「利害」状況の相違、たとえば階級的利害の相違があっても、社会は一種の共同性をもっている。この共同性を大事にしよう、代表に任せることはせずに、いざとなれば行動するというのがレパブリカン。本来は、代表の中の代表、つまり「王制」を排除するというのが原初的な意味なのだろうか(これはつめて調べたことはない)。
 レパブリカンの政治的立場は、端的にいうと、市民という言葉も使うが、国民という言葉を使うことに躊躇しないということである。「国民」というレヴェルでの「利害状況」の一致や「責任」というのはたしかに存在し、それは「国民」が占有する「大地」によって存在させられているというのは、今回の大震災・原発震災を考えれば明らかなことだ。対自然と「国際関係」の中で、「国民」が一種の共同性をもたざるをえないのは、ずっと昔から同じことだと思う。もちろん、問題は、その共同性が幻想的な共同性か、多数者の共同性かなどなどという現実に関わってくるのだが。
 レパブリカンが行動的になり、一時期の羽仁さんのように偏っているのではないかと思われるような主張をしがちになるのは、危機に対する意識が「共和」「共同」ということに連動するからだと思う。デモクラットからレパブリカンへの移行が起こるのはそういう時である。そして、その「共和」が怖い問題を含むことをフランス革命は示しているが、この「共和」を経験したフランスの国民性が、サルコジ登場まではフランス社会に濃厚に残っていることは、最近のベッド本の池上夏樹氏のフランス便りを読んでいても思うことである。
 社会構成の共同性というのは、考えてみればあたりまえのことだが、これが社会構成論としては正しいと考えるようになったのは、ほぼ10年前のことだろうと思う。そして、その10年前、つまりおそらく今から20年前、私は「保守」と自分を意識するようになった。これは遺跡保存運動が大きかった。伝統を守れという運動である。これに取り組んで以降、歴史学は保守か、革新かといえば、私は「保守」と答えるという考え方になった。これは『歴史学を見つめ直す』という本に収めた論文で書いた。
 「保守で、レパブリカン」の歴史家といえば誤解をうけるかもしれないが、それでもかまわないと考えている。
 歴史学は「保守」か「革新」かという問題についてであるが、私は、そもそも「革新」という言葉が嫌いである。これは丸山真男から学んだこと。丸山真男の歴史論には根本的に賛成できないところがあるが、彼の理解を敷衍すると、革新というのは、「明治維新」という時の「維新」というのと同じ言葉であるというように考えた。
 「革新」という言葉は、2・11クーデターの「昭和維新」の「維新」であり、「革新」官僚の「革新」という言葉に通ずる。「維新」の「維」は「ここに」と読んで、「維新」というのは「ここに新たなり」という意味であるが、ようするに「過去を清算して、やり直し」ということである。この過去清算のイデオロギーが、日本の国家史・法史に骨絡みのものであることについては、笠松宏至氏に仕事があって、私はそれに賛成の立場から平安期国家の「維新」「新制」について考えてきた。この意味で、日本の歴史学者は、けっして歴史学が「革新」の学問であるなどという無教養なことをいってはならないと思うというのが、ずっともっている持論。
 そろそろ、錦糸町で、やっと汗が引いた。こういうことをズラズラと書いているのは、なかば自分の頭の整理であるが、以下は、念のために、つけ加えておきたいこと。
 歴史学は「保守」の学問であるが、決して「反動」の学問ではない。明らかに「進歩」の立場に立つ学問である。歴史の伝統を「保守」し、過去の教訓を生かし、現在の社会を知って、可能なかぎり犠牲のない「進歩」を目ざすのは当然のことである。

 以下、帰りの総武線。

 しかし、このごろ、「進歩」という言葉それ自身を、乗り越えられるべきこととして攻撃する議論が多い。しかし、「進歩」という考え方自身は必要なことである。もちろん、「進歩」とはいっても、19世紀の「進歩史観」ではない。それは文明の展開に一元的に「進歩」を求める「進歩」思想のことで、ブルジョアの時代、19世紀に特有なものである。そういう考え方は、これまでの延長線上に社会の発展を夢想するもので、それに賛成できないのは当然のことである。
 このような「進歩」「文明史観」を批判するのは重要なことである。しかし、いま、「進歩」思想を古いものだといって人々は、そのような批判を自分がいまはじめてしていると思っているようにみえる。それこそ無知と思い上がりと無教養というものであって、これまでの「文明」が私的な貪欲と汚辱を原動力としていたということは19世紀から十分に指摘されていた。もちろん、そこに現在からみれば不十分な点はあるが、しかし、その伝統をうけることなくして、ないしそれを知らずにいて何かが可能なものとは、私は思わない。

 自宅で、寝る前。今日の歴史教育の会議は疲れたが、面白かった。考えたのは、歴史における近代ということ。東アジアにおける近代をヨーロッパ起源とは考えない。歴史学の中では、いろいろな近代という問題がでていると、F氏がいう。問題は結局、「近代」ということをどう考えるかである。
 私の持論は「近代」はmodernの訳語であるが、modernは現代でもある。自分の生きている時代、modernが根本的にはいつからと考えるのか、それは自分と伝統の関わり方をどう理解するかに直結している。
 Modernとそれより以前の伝統の連続性を、自明のものとしている幸せな歴史意識をもっているのはヨーロッパ。それに対して、我々は一つのモダーンをもたず、伝統としてのModern、保守すべきModernをもたないということなのかもしれない。だからこそ逆に「保守と革新」という図式がでてくるのではないか。ここ20年ほど、この図式の現実的な意味が消えていったと思う。
 生きてきた歴史、おのもおのもの歴史の明瞭な像が重なり合って客観的にみえている歴史。社会と地域と協働の歴史。それをもたないModernは不幸なModernである。そのようなModernが構造化されている以上、未来と進歩をないがしろにすることはできない。

  テレビのETV特集。放射線測定を行った木村氏の仕事の放映をみる。偉い人だ。

 その後、荒俣宏氏がでてきて「我々の信頼していた文明がとわれている」という発言。驚いた。レトリックなのだろうか。それにしてもーー。

 私は、そして普通の歴史家は、決して、この日本社会の「文明」を信頼してはいなかった。問われているのが誰であり、何であるかはもっと明瞭なはず。その先に様々な問題があるということと、文明に問題を一般化することは違うだろう。

2011年6月 4日 (土)

スサノオの哭きいさちるか、安野さんの歌

 今日(土曜)は床屋さんへ。Kくんのお父さん。娘の保育園の父母会仲間。しばらく原稿と仕事に詰められていて、散髪の余裕はなかったので、本当にさっぱりする。これで来週の出張準備が終わり。お互い、髪が白くなった。
 差し上げてあった『かぐや姫と王権神話』がよかったといってくれる。このまえはむずかしいよということだったが最後まで読んでくれたらしい。貴族というものを『竹取物語』が嘲笑している面白さがわかった。それから、シンドバットの冒険にアスベストの服の話がでる。ギリシャの火山の話が、ユーラシアを流れて日本まで入ってきているのであろうか、などなど、面白がってくれた。
 一番おもしろかったのは「竹」の話だということ。彼の田舎は千葉なので、千葉の農村で「竹山」をもっているのは地主か金持ちであるという理由が分かったというのがもっとも実感的な話。山を歩いても、竹はそんなにない。たしかに竹は多くは意識的に植えているように思う。そうとうの価値があったものに違いないとおっしゃる。竹の植生を調べると、江戸期の農村がわかるのかもしれない。これは調べてみたい問題である。「竹縄」「竹綱」というのは鎌倉時代からあって、今のワイヤーロープのようなものだという話をする。
 それから『かぐや姫と王権神話』に載せた、日本の火山分布の図と私の簡単な説明を読んだあと、今回の地震があった。それで、地質学に興味をもってプレートということがよく分かったというのが意想外の反応だった。何も知らなかったのは、私も同じようなもの。
 ただ、これは絶対に見ておいた方がよいよといって、散髪用の椅子から立ち上がって、彼のコンピュータで、防災科学研究所のHi-net地震発生状況分布図を画面にだす。いまにも、福島第一原発に届きそうな地震の密集の状態に、彼も息を呑む。
 津波と原発の話。いろいろ聞かれる。最後にとくにあらたまって聞かれたのは、「原子力の学者たちは人並み以上に頭がよいだろうに、なぜ、あんな様子なのか。そんなにいいことがあるのか」という質問。「研究者個々人は最初はいろいろな意味があって、善意があって始めた場合もあるし、一つの仕事でもあったろうが、たしかに学問分野まるごと金で買われたということかもしれない」という。
 彼からは、さらに重ねて聞かれる。「それにしても、頭がよい人たちだから、危ないことを一番知っているだろうに、なぜ、あれで平気だったのか」と。
 そうなると、持論をいうほかない。私の持論。まずアメリカいうままの体制があって、アメリカ従属の技術を原発導入してアメリカー日本関係をガチガチに固定してしまうというのが第一。第二は、そのシステムの中で大きな利潤が確保されている。これは日本国家にとっての最大のシステム上の秘密で、この秘密の周りは確実に何重もの防護装置があった。それが意識的に振りまかれた何重もの「安全神話」。みんなが信じている、あるいはおかしいと思ってびくともゆるがないから神話なので、ーーーなどと説明する。
 「頭がいい」といっても、それは頭をうまく労働用具に利用することに成功したというだけで、頭=労働用具を使うのは人間だし、人間は弱いという話になる。お互い60を過ぎて社会のことだけいっていてもどうしようもないということは知っているが、さて、もうしばらく頑張りましょということになる。
 土曜朝から昼まで、ほかに客がないというのは心配でもある。その後、午後は図書館。個室を借りて、ある問題分野の本をすべて書棚からとってきてチェック。無限に仕事があることを確認。

 いま寝る前。しばらく貯まっていた机辺の整理。
 律令財政史の榎英一先生から「桐壺帝の政治ー『源氏物語』物語を政治史として読む」(『アリーナ』11号、中部大学)の抜き刷りをいただく。「現実の歴史より百年ほど早く、『源氏物語』の中では院政が開始された」という結語が興味深い。桐壺帝の政治は院政の様相が強いという指摘である。私も、院政を九世紀から王権の必然の方向であったと考え、摂関政治がむしろ偶然の例外的な展開と考えたいほうなので、たいへんに興味深く拝読していたが、御礼の御返事をする。
 しばらく前にいただいた安野真幸氏の「備前西大寺市公事定書」(『聖徳大学研究紀要』21号、2011年3月)にも礼状。これも鎌倉末期の地域の市庭の実状にせまったもので面白い。十分に読み込まねばならない。研究するべきこと、新たに分かっていくことはたいへんに多い。こういう仕事をじっくりと読みながら、研究の建て直しをしたい。安野さんの研究は広く、私がもっとも影響をうけているのは『下人論』。峰岸純夫さんの書評でもふれた。「秀吉政権と長崎」もいただくが、これは今はついていけない。
 何よりも驚くのは、彼の和歌。

 スサノオの 哭きいさちるか 地は震え
   海は陸地を のみ込まんとす。

 手紙をもらった時は、意識しなかったが、今、スサノオが地震神の中心であるという結論に達してから読むと、たしかにそういうことだと分かる。
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火山地震31志賀原発

 6月3日。朝の総武線の中。昨日、峰岸純夫氏の著書の書評の原稿を提出し、一区切り。ほっとして、地震論にもどる。国会の状況には驚くが、ある意味ではわかっていること。そういうレヴェルなのである。国民としての立場、唖然・呆然と悪口の権利はあるものの、学者としては学者の専門性の中から、状況を変えていくことを考えざるをえない。
 昨日の日記に書き損なったが、昼間、講演の依頼。千葉の自治体から、「歴史学と災害というテーマで、市民向けに話してほしい」という要請。「大事な話ですから」と了承した上で、「全体の話を分かりやすく話せるかどうかは十分な自信はありません。貞観津波やそれに関わっての神話・地震・火山という話なら用意があります」といったところ、「歴史学は現在の事態についてどう考えているのか、歴史学が自然災害と地震ということをどう考えるのかは必ず話してほしい」という要請。ごもっとな正論で恐縮する。
 深夜に起き出して地震論の続きの構想に入るが、七・八・九世紀の個別の地震論と政治史の話は一応目途が立ったものの、それを神話論・宗教論につなげる部分の構想がうまく行かない。押し迫られてあきらめて寝る。しかし、押し迫られるというのは、叙述の条件を頭の中に、ともかく強制的に入れ込むという作業にともなう頭の抵抗であるらしい。朝、目が覚めると頭はあきらめてくれたらしく、スルスルと筋書きがでてくる。その作業をしてから、食事。相方には健康な人だと嘲笑される。
 

 帰り。総武線の中。
110603_171409  写真は、生協に夕食に出た時に、総合図書館前を通ったら、図書館前に地下書庫を建てる計画の関係で樹木の移植をやっている風景。長いあいだなじんだ木がしばらくたいへんな時期に入る。もう一本の方も植え替えるのだろうか。無事で過ごしてほしいと思う。
 

110603_171639  さて、昨日の朝日新聞。石川県の志賀原発の運転差し止め訴訟で差し止め判断をした時の裁判長、井戸謙一さんのインタヴユーがでている。「炉心溶融事故の可能性もある」「多重防護が有効に機能するとは考えられない」という判断をしたものの、原発事故が現実におきて愕然とされているとのこと。
 「愕然としました。三陸沿岸では貞観地震の大津波があったことが指摘されています。長い地球の歴史から見れば、わずか千年前に起こったことは、また起こりうる『具体的危機』だと思います。原発という危険なものを扱う以上、当然、備えるべきです。東京電力がまともに対応しなかったのは信じられません」
 見出しは「裁判官は素人。世論や専門家に迎合する誘惑」「国策に背く判決。汗噴き出し眠れず。司法の独立守った」というもの。「どこからも、何の圧力もなく、主張と立証だけをもとに裁判官三人だけで相談し、淡々と判決を言い渡す」という。そういうことが司法の独立であるという。「いくら世論と乖離していても、少数者の言い分にすぎなくても、主張に合理性があると思ったら認めなければいけません」と。
 これが専門性ということだと思う。司法の独立は、専門性にもとづく独立システムのうちもっとも典型的なもの。この専門性が社会に根づくためには、偽の専門性を排除することがどうしても必要なことで、井戸さんは、「国の原発の耐震設計審査指針は、立派な肩書きの方々の見解をもとに作られています。それに基づいて設計・建設されているから原発は安全というわけです。一般論でいえば自分で決断できないときに、肩書きのある人たちの見解にそったほうが無難かなという心理が働く可能性があります」という。
 偽の専門家は「肩書き」の下につくられるということだが、学問の独立とは「肩書き」からの独立であるはずで、「肩書き」からの独立を保障するシステムは学会・学界である。私は東京大学教授という「肩書き」・職業名をもっているが、学界・学会の中では肩書きは関係ない。つねに研究の内容が勝負である。学者が三人あつまって慎重に議論をすれば議論はたいていのところはおさまっていく。その意味で学会の独立のシステムーそしてそれと並ぶ大学の自治のシステムが基本的に重要なことは、私たちの世代の研究者の共通認識であるはずである。
 ただ、貞観津波の問題で、新聞の切り抜きをつくっているが、次のようなことがあった。東日本太平洋岸地震の直後、土木学会の原子力土木委員会・津波評価部会主査をつとめる首藤伸夫氏は、「記録根拠に対策、限界」として「”原発の津波対策になぜ貞観津波を考慮しなかったのか”との批判がある。しかし貞観津波は、古文書の短い記述と地層の痕跡があるだけで、討論に乗せられるデータではない」として、策定した原子力発電所の津波災害を評価する基準は、政府の中央防災会議の勧告にしたがった妥当なものだったと述べた(『朝日新聞』二〇一一年四月一三日)。
 これは残念なことである。たしかに、文献史料の「短い記述」それ自身が語るものは大きくない。しかし、その「短い記述」を蒐集し、詳しく点検して、さらに地質学的な調査を組み合わせれば、相当の事実を明らかにしうるのである。そして、何よりも、学会自身が作る委員会が「政府の勧告にしたがった妥当なものだ」という発想で動いていてはどうしようもないだろう。これでは学者に任せられないということになってしまう。
 しかし、これは、地震学会の貞観津波に関する一致した意見を、土木学会が無視したということを意味している。学者・研究者の役割は、政府の勧告に従うことではなく、記録と痕跡の精査を組織して事実をつかみだし、それを関係学界と共同して社会的な討論の場に乗せていくことにあるはずである。社会的・国家的な諮問に対しては、関係学会との合意が必要である。それは当然のことである。それなしに突っ走るのはシステムとして許されない。それを制御し、学界の共通した意思を作るシステム、つまり学術会議のシステムが、ここ20年ほどの政治のやり方によってくずされてきたことはよく知られている。
 近く、関係する学術会議の分科会に私もでるので、そういう意味での「学際的」で開かれた学問の独立性は社会システムの一部として必須のものであるということを議論しなければと思っている。
 しかし、それにしても井戸さんのインタヴューはよかった。私などの世代は家永先生の教科書訴訟と青年法律家協会のメンバーの任官拒否問題でゆれた世代である。司法の独立がいざという時の一つの希望というのは再び実感する感情である。
 昨日来た有斐閣の宣伝誌紙に「国会の執行権」という議論が法学界では起きていることの紹介があった。主権としての国民の下で、議会が立法権のみでなく執行に関わるということも、議会主義のあり方として本質的な問題であることは、我々の世代では重要な議論問題であった。その意味では三権分立というテーゼは限定的に捉えられるが、それならばそれで、司法の独立の意味はいよいよ大きくなる。

2011年6月 2日 (木)

日記から菅首相不信任案否決の話へ

 今、帰りの電車の中。
 御寺への出張が近いので、昼前、出張の書類の申請に事務におりていったが、新年度からすべて中央システムに入力することになっていて、記入する書式が以前のボックスからなくなっていた。困った様子をみて事務の人がわらっていて、こちらも笑ってしまう。
 親切に、データをもらえれば、やりましょうかといってくれるが、いくら職場で最年長の一人とはいっても、それは頭の対応力の低下を自認するようで甘えられない。自分のことは自分でというのが大学事務の原則である。情報化は大事だということもよく分かっている。
 しかし、新しい入力システムができるとそれに対応するのに時間がかかるのです。ようするに気後れである。別に人に気後れしている訳ではないが、機械あるいはシステムに気後れするのである。
 かくてはならじ。そこで構内で用をすませた後、部屋に戻ってともかく以前にもらったマニュアルを探すが、マニュアルという物は(私の場合は)探すとでてこない。整理の悪いのに自己嫌悪というなじみの感覚がそこらへんをフワフワするが、まずはシステムの中を最初からさがしてログイン画面に到達する。アカウントを確認し、PWを決め、ログインし、入力画面を開く。ここまでやって一人でできるぞという気持ちになるが、ともかく最初の画面なので小さなことに引っかかる。システムの中にマニュアルがあるのをみつけ、やっと入力を終わるが、これで30分はかかったか。頭と指の連結エネルギーが切れているのである。フーッ。
 実際にやってみれば、一度やってみればたいしたことではない。二回目は忘れてなければスムースなはずである。大学事務の原則は云々などということでもない。

 それ以外は無事に仕事。朝、会議前に御寺に電話して、久しぶりに和尚さまとお話して、先日の速達にそってこの間の仕事の状況を御報告し、手はずなどの御願いをすませたので、仕事をするだけの日だった。和尚さまの声がなつかしい。今週は週末も会議。来週は出張。この山を越えればよい。

 ということで、すでに帰宅しており、食事の前、「不信任案」「否決」なる国会の状況はいったい何だという話をしている。夕刊には「首相、辞任の意向」というのがトップ見出し。「震災対応メドついた段階で」というのが笑ってしまう。辞任の意向の首相が、これだけの大問題にメドをつけられると思っているのが、どうかしている。
 がんばってもらうほかないが、もう少し常識のある政治家はいないものか。といっても、自分が常識人であるという積もりはないが、原則のない政治家たちが、こうなるのは一種の必然。政治家は、結局、原則の強さと人柄がでるからこわい。

 相方の話だと、自民党・公明党・みんなの党(これも変わった名前だ)が不信任案を出し、民主党内の小沢派はほとんど否決に賛成したという。この二三日は何だったのだということで、馬鹿かというのが普通の反応。東北の方々は呆れているだろう。

 戦前社会には家族国家論というのがあった。「国家は家族のようなものだから我慢、我慢」という論理である。国家と家族は違うから、こういう論理はもちろん成り立たない。しかし、当時は、国家のイメージは家族のイメージと同様に分かりやすかったのであろう。
 現在の国家はいってみれば「非家族国家」。その意味は、家族の中ならできないような常識はずれのことをやっても平気な国家という意味である。あるいはすでに家庭も崩れているから「現代家族国家」でもよいという意見もあるかもしれない。たしかに政治家たちの姿をみていると「家族・親族」の中のおかしなオジサンという感じも強い。

 こういう国家がはじまったのはもう20年前か、中曽根某氏が「絶対に消費税は上げません。この顔が嘘をつく顔にみえますか」と大見得をきって選挙に勝ち、手のひらを返したようにではななく、手のひらを返して消費税を導入して以来のことである。政治家はうそつき、常識はずれというのがあれ以来決定的になった。「うそつきは泥棒の始まり」という人生訓の効き目が一挙になくなった。道徳を人並み以上に強調していた政党が社会倫理を壊した。この政党はなにしろ「道徳教育法案」というのをだした。たしか私が小学生のころのことである。小学校時代の恩師が怒っていた。倫理を壊し家庭を壊してきた人々、「非家族国家」であれ、「現代家族国家」であれ、そういう国家を作ってきた人々である。
 そういう人々を、それでも選出し続けていたから、こういうことになる。日本社会はつねに上からくずれるから、あるいはこれは国民の高等戦術か。

 だいたい、今回の原発の大事故の原因は使用済みの核燃料の処理方法もわからない段階で、アメリカの軍事技術からでてきた原発を日本で実験的に使わせてもらいますという態度をとって原発政策を押し通した自民党の責任が大きい。民族主義を標榜する政党が何かあるとアメリカ・アメリカ、アメリカ従属というのも、社会の普通の価値基準を徐々に壊してきた。

 それにもかかわらず、政策も展望もださず、「あんたではだめだ」というだけで国会で不信任をだすというのは、子供の喧嘩ともいえない。普通の家庭ではおきない話である。自民党の中でも原発政策に最大の責任がある政治家はよく知られているように中曽根氏である。

 菅首相は、もう少しどうにかなるものかと思っていたが、どうしようもない。民主党自身が原発政策をもっておらず、今でも原発推進という話だから、これは政策によって規定されているところもあろうが、しかし、政治家は(学者も)人の金で食っているという最低の認識もないのではないかという疑問が第一にくる。初期対応を誤ったことは確実。それでもニコニコしていられるというのが信じられない。
 政治家というのは、ようするに神経が強い強面人間であるということなのであろう。もちろん、強面もいい。馬鹿とはさみは使いようというように、そういう人間も必要である。しかし、同じ強面ならば、現在の状況の中では、強面で経済界から救援のための金を出させるのが政治家の役割だろう。日本の巨大資本は莫大な内部留保をもっている。それをはき出して「日本列島」の資本をまもるのが資本のためであろう。経団連のいっていること、ただの私利資本主義で、普通の資本主義ではない。

 そんなことも分からずに首相というのは恐れ入る。また消費税云々という議論をやっている訳だから、何ともかともというところである。

 電気がまのスウィッチを入れ損なっていたということで、食事前の時間が長くなった。別におなかがすいてブツブツいっているという訳ではないが、いま9時前。BBCは不信任案騒動を報道。菅首相が泣きそうな顔で不信任案否決に感謝の「お辞儀」しているのを、10回分くらい、クローズアップしている。彼らからみていると、よっぽど面白いのだろう。

 こういうあたりまえの怒りは日記に書いて忘れるのがよいので、「御読みぐるしい」でしょうが、以上、勘弁。

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