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2011年6月 8日 (水)

武士の成立とモノノフ・モノノベ

 6月7日午前。京都へ出張の新幹線車中。この時間、京都出張の多い私にとっては、長い間、物を考える貴重な時間になっている。
 いま、掛川あたりか。昨日、『東北学』から依頼された「貞観津波と大地動乱の九世紀」のゲラが届き、総武線車中から校正をかけていて、一応、終わる。「おわりに」のところで、以前から考えていた『曾我物語』の冒頭にでる蝦夷の出自に関する歴史神話についてふれさせてもらう。よく知られているように、『曾我物語』は、蝦夷の祖先は神武天皇と覇権を争った「安日」(アッヒ)という鬼王であったとする。そしてアヒの一族はイワレヒコ(神武)に天から下された宝剣の力によって津軽外が浜に追われたという。これは安日が生駒の長髄彦本人、またはその親類であったことを意味するが、ぎゃくにいうと、この宝剣が物部氏の氏神・石上神社に祭られるフツノミタマであったことが重大になる。つまり、ここからは、蝦夷の祖先についての『曾我物語』の記述は、おそらく東国に広く分布する物部伝承と関係するのではないかという想定が可能になると思う。
 「ホツマツタエ」といったか、その他、奇書の伝承が東北には多いが、それも「物部」、モノノベと関係があるということになると、歴史家の専門意識では論外となりがちな伝説の類もあたまから無視すべきものではないということになるのかもしれない。畑井弘さんの『物部伝承』という本を読んだことがあるが、「古代史」からは論外ということになるだろうし、私も批判が多い。けれども畑井さんの本来の専攻の論文や焼畑論を知っており、戸田芳実さんに噂を聞いたこともあるので、頭から無視したくないと思う。ともかく日本の歴史家の専門意識というのは、東アジアの「史官」の伝統があって、やむをえないところがあるのだが、しかし、以外とせせこましい場合があるので注意である。
 さて、しかし、昨日、PDの希望の方などのことで急に時間がかかり、出張前の最終準備、荷物の整理が遅れて、仕事が一つ残っているので、遅くも名古屋についたら、そちらにかからなければならないが、上記の物部=モノノベ、モノノフについて、もう一つ追加。
 以前、岩波ジュニア新書の『平安時代』で少し書いただけだが、私は、武士の形成過程について「持論」がある。それは神話時代から奈良時代にかけて「物部氏の職能」こそが「武士」の職能の中心であったのだから、9世紀における武士身分の形成は、物部=モノノベから武士=モノノフへの変化と考えなければならないというもの。これまでの歴史学の武士論は、佐藤進一・黒田俊雄の両先達の古典的な研究以来、「武士=芸能者論」である。最近では高橋昌明氏がそれをまとめ、これによって、歴史学の通念は、「武士=質実剛健な地方領主」というような教科書的な偏見とはまったく異なっていることがわかりやすく提示された。
 これはもちろん、正しい。それは私などの研究者世代の常識である。しかし、ただ、これらの従来の見解は、武士=モノノフが律令制王国の内部からどのようにして形成されてきたの変化過程を論じない点で、歴史学の学説としては、決定的な欠陥があるというのが、私の持論。黒田さんに移行論がないという永原慶二さんの痛烈な批判にどう答えるかというのが問題なんだよと、戸田さんには何度もいわれた。
 『平安時代』の該当部分を詳しく説明しただけだが、『東北学』の論文では、蝦夷の先祖論の関係で、ついでに、この説明もさせてもらった。
 そもそも、神道の清浄イデオロギーは、「忌み」の世界の外側を「穢」として排除する社会システムをともなっていた。その第一の内容は、蝦夷を「穢」の極みにいるものとして武力をもって排除し管理することであり、その担い手が武士であったことはいうまでもない。そして、第二の内容は「地霊=穢」を排除し、処理するキヨメのシステムであって、それは各レヴェルの社会集団の下層、最下層では、非人・河原者の身分によって担われた。このシステムは九世紀から一〇世紀にかけて形成されていったのであるが、それが平安朝の都市王権をささえたのである。これが神道の裏側にあったことを忘れてはならない。
 そして、この二つのシステムはモノノフという言葉によってまとめることができる。モノノフの「もの」とはモノノケ、悪霊を意味し、モノノフとはその悪霊を遠ざける力をもつ役割を意味する。物部氏の物部がモノノフとも読まれることでわかるように、これは本来、物部氏の氏族的職能であった。物部氏は王の側近を護衛し、悪鬼を遠ざける役割をおい、また王に対する犯罪を裁き、犯人の処刑を担当していた。そして、九世紀から一〇世紀頃には、この物部氏の役割が武士ー非人によって担われるようになったのである。
 詳しくいうと、奈良時代には衛門府の下役としての「内物部」がいたが、九世紀には、蔵人の武官の位置が高くなり、さらに九世紀末には滝口の武士が担うようになった。滝口の武士が天皇の身辺から鬼気を遠ざけるための鳴弦の呪術を行ったことはよく知られているが、鳴弦は、雷などと同様に、おそらく地震に際しての天皇の身辺守護の呪術でもあったろう。史料はないものの、私は、この鳴弦の呪術は、九世紀の地震にさいしても内裏で行われたと考えている。
 他方、都市京都には、京都の獄や市庭におかれた刑吏としてのモノノフがいた(直木孝次郎「物部連と物部」『日本古代兵制史の研究』)。彼らは、検非違使の配下に属するようになり、一〇世紀以降には、その中から検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になる。検非違使はいわば都市警察であるが、彼らは「穢」と密接する存在としてのモノノフ・非人を駆使して、都市の「穢」をキヨメる役割をおったのである。そして、この検非違使ー非人のシステムの原型として、武士ー家人・下人の組織が地方社会をふくめて広がっていったことを忘れてはならない。
 こうして、本来、物部氏を意味したモノノフが武士のシステムに変化していったのであって、その中で、武士は、自身、「穢」を扱う職能者として登場したのである。従来の議論のうちで、唯一、この武士形成過程に肉薄したのは、かって戸田芳実氏が、武士は「穢」多い「屠児」として賎視されるものとして登場し、それと武士が「夷狄」として蔑視されたことは関係していると述べたことであろう(『初期中世社会史の研究』)。戸田は、モノノフ=武士の形成の背後に狩猟民がいたことも強調しているが、それは同時に九世紀の東北の大地が、その舞台であったことを含意していた。
  これを考えても、大石直正・入間田宣夫・斉藤利男・誉田慶信・伊藤清郎・菅野成寛・川島茂裕・平川新などの諸氏の、東北から考える歴史学の姿勢に長く学んできたことを実感する。こういう学習は、じわじわと効いてくるものである。ほとんど論文で読んでいるというだけでも歴史家の人間関係、相互関係というのは、ようするに視点と感性をはぐくむネットワークなのだと思う。
 あと少しやすんで仕事にしよう。

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