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2011年6月 4日 (土)

火山地震31志賀原発

 6月3日。朝の総武線の中。昨日、峰岸純夫氏の著書の書評の原稿を提出し、一区切り。ほっとして、地震論にもどる。国会の状況には驚くが、ある意味ではわかっていること。そういうレヴェルなのである。国民としての立場、唖然・呆然と悪口の権利はあるものの、学者としては学者の専門性の中から、状況を変えていくことを考えざるをえない。
 昨日の日記に書き損なったが、昼間、講演の依頼。千葉の自治体から、「歴史学と災害というテーマで、市民向けに話してほしい」という要請。「大事な話ですから」と了承した上で、「全体の話を分かりやすく話せるかどうかは十分な自信はありません。貞観津波やそれに関わっての神話・地震・火山という話なら用意があります」といったところ、「歴史学は現在の事態についてどう考えているのか、歴史学が自然災害と地震ということをどう考えるのかは必ず話してほしい」という要請。ごもっとな正論で恐縮する。
 深夜に起き出して地震論の続きの構想に入るが、七・八・九世紀の個別の地震論と政治史の話は一応目途が立ったものの、それを神話論・宗教論につなげる部分の構想がうまく行かない。押し迫られてあきらめて寝る。しかし、押し迫られるというのは、叙述の条件を頭の中に、ともかく強制的に入れ込むという作業にともなう頭の抵抗であるらしい。朝、目が覚めると頭はあきらめてくれたらしく、スルスルと筋書きがでてくる。その作業をしてから、食事。相方には健康な人だと嘲笑される。
 

 帰り。総武線の中。
110603_171409  写真は、生協に夕食に出た時に、総合図書館前を通ったら、図書館前に地下書庫を建てる計画の関係で樹木の移植をやっている風景。長いあいだなじんだ木がしばらくたいへんな時期に入る。もう一本の方も植え替えるのだろうか。無事で過ごしてほしいと思う。
 

110603_171639  さて、昨日の朝日新聞。石川県の志賀原発の運転差し止め訴訟で差し止め判断をした時の裁判長、井戸謙一さんのインタヴユーがでている。「炉心溶融事故の可能性もある」「多重防護が有効に機能するとは考えられない」という判断をしたものの、原発事故が現実におきて愕然とされているとのこと。
 「愕然としました。三陸沿岸では貞観地震の大津波があったことが指摘されています。長い地球の歴史から見れば、わずか千年前に起こったことは、また起こりうる『具体的危機』だと思います。原発という危険なものを扱う以上、当然、備えるべきです。東京電力がまともに対応しなかったのは信じられません」
 見出しは「裁判官は素人。世論や専門家に迎合する誘惑」「国策に背く判決。汗噴き出し眠れず。司法の独立守った」というもの。「どこからも、何の圧力もなく、主張と立証だけをもとに裁判官三人だけで相談し、淡々と判決を言い渡す」という。そういうことが司法の独立であるという。「いくら世論と乖離していても、少数者の言い分にすぎなくても、主張に合理性があると思ったら認めなければいけません」と。
 これが専門性ということだと思う。司法の独立は、専門性にもとづく独立システムのうちもっとも典型的なもの。この専門性が社会に根づくためには、偽の専門性を排除することがどうしても必要なことで、井戸さんは、「国の原発の耐震設計審査指針は、立派な肩書きの方々の見解をもとに作られています。それに基づいて設計・建設されているから原発は安全というわけです。一般論でいえば自分で決断できないときに、肩書きのある人たちの見解にそったほうが無難かなという心理が働く可能性があります」という。
 偽の専門家は「肩書き」の下につくられるということだが、学問の独立とは「肩書き」からの独立であるはずで、「肩書き」からの独立を保障するシステムは学会・学界である。私は東京大学教授という「肩書き」・職業名をもっているが、学界・学会の中では肩書きは関係ない。つねに研究の内容が勝負である。学者が三人あつまって慎重に議論をすれば議論はたいていのところはおさまっていく。その意味で学会の独立のシステムーそしてそれと並ぶ大学の自治のシステムが基本的に重要なことは、私たちの世代の研究者の共通認識であるはずである。
 ただ、貞観津波の問題で、新聞の切り抜きをつくっているが、次のようなことがあった。東日本太平洋岸地震の直後、土木学会の原子力土木委員会・津波評価部会主査をつとめる首藤伸夫氏は、「記録根拠に対策、限界」として「”原発の津波対策になぜ貞観津波を考慮しなかったのか”との批判がある。しかし貞観津波は、古文書の短い記述と地層の痕跡があるだけで、討論に乗せられるデータではない」として、策定した原子力発電所の津波災害を評価する基準は、政府の中央防災会議の勧告にしたがった妥当なものだったと述べた(『朝日新聞』二〇一一年四月一三日)。
 これは残念なことである。たしかに、文献史料の「短い記述」それ自身が語るものは大きくない。しかし、その「短い記述」を蒐集し、詳しく点検して、さらに地質学的な調査を組み合わせれば、相当の事実を明らかにしうるのである。そして、何よりも、学会自身が作る委員会が「政府の勧告にしたがった妥当なものだ」という発想で動いていてはどうしようもないだろう。これでは学者に任せられないということになってしまう。
 しかし、これは、地震学会の貞観津波に関する一致した意見を、土木学会が無視したということを意味している。学者・研究者の役割は、政府の勧告に従うことではなく、記録と痕跡の精査を組織して事実をつかみだし、それを関係学界と共同して社会的な討論の場に乗せていくことにあるはずである。社会的・国家的な諮問に対しては、関係学会との合意が必要である。それは当然のことである。それなしに突っ走るのはシステムとして許されない。それを制御し、学界の共通した意思を作るシステム、つまり学術会議のシステムが、ここ20年ほどの政治のやり方によってくずされてきたことはよく知られている。
 近く、関係する学術会議の分科会に私もでるので、そういう意味での「学際的」で開かれた学問の独立性は社会システムの一部として必須のものであるということを議論しなければと思っている。
 しかし、それにしても井戸さんのインタヴューはよかった。私などの世代は家永先生の教科書訴訟と青年法律家協会のメンバーの任官拒否問題でゆれた世代である。司法の独立がいざという時の一つの希望というのは再び実感する感情である。
 昨日来た有斐閣の宣伝誌紙に「国会の執行権」という議論が法学界では起きていることの紹介があった。主権としての国民の下で、議会が立法権のみでなく執行に関わるということも、議会主義のあり方として本質的な問題であることは、我々の世代では重要な議論問題であった。その意味では三権分立というテーゼは限定的に捉えられるが、それならばそれで、司法の独立の意味はいよいよ大きくなる。

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