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2011年6月13日 (月)

火山地震32東北の火山とアテルイの怒り

 昨日、プレートテクトニクスの新妻信明氏のブログをみていて、三陸沖地震と日本海側の地震の連動性に注意したいという記事をみたが、それは火山にも関係するはずである。新燃岳の噴火は、静岡大学の小山先生のブログで知ったhttp://blog.livedoor.jp/hananomura/の写真が正確なところを伝えてくれる。大きな火山弾と火山灰の厚さに驚く。

 東北の火山についての歴史家の側からの言及としては、誉田慶信氏の「国家辺境の守護神」(『山形県地域史研究』8、1986年に掲載。後に『中世奥羽の民衆と宗教』吉川弘文館に収録)がある。
 誉田氏は出羽鳥海山と陸奥鳴子火山群をむすぶ線が本来の(たとえば7世紀の)蝦夷地の領域であったのではないかという想定を述べている。たしかに、出羽に移住した信越地方の人々、陸奥に移住した関東地方の人々にとって、この二つの火山がたいへんに目立つものであり、東北の自然を代表する物として畏怖の対象となった、そして、そこから向こうは蝦夷の人々の領域と考えられていたということはありそうに思う。火山と地域文化ということを考える上で魅力的な想定である。
 いま、朝の総武線の中、『東北学』の「貞観津波と大地動乱の九世紀」という論文のゲラの最終校正を仕上げなければいけない。週末、疲れてさぼってしまった。この論文に出羽鳥海山と陸奥鳴子火山群をむすぶ線がわかるような地図を入れようかと考えている。次が該当の部分。ほとんど誉田氏の論文にある。

 蝦夷の人々の強さは大地動乱の深まりとともに明瞭になったように思われる。まず陸奥では、八三七年(承和四)に玉造温泉の上の鳴子火山が噴火した。この温泉石神の噴火はすさまじいものであったようで、「地震はこれ頻りなり」と地震も続いた。このために、「妖言」がさかんとなり「奥県の百姓、多く以て畏れ逃」げたという。
 続いて八三九年(承和六)、出羽でも鳥海山が噴火する。「大神」が、雲の裏で、十日間、「戦声」を上げるのが聞こえ、その後に、「石兵」が、降ったというのである。大神とは鳥海山の大物忌神のことで、これも、鳴子火山と同様、神の怒りとして受けとめられたに違いない。出羽では噴火に関係した騒乱の状況、「妖言」や人々の逃亡の記録などは残されていないが、状況は陸奥と相似していたはずである。ここには、王朝側が戦闘には勝利したものの、陸奥出羽の自然そのものに対峙しなければならないという状況がよく現れているというべきであろう。

 貞観地震の「前兆」としては、この二つ火山の噴火の位置はきわめて大きかったと思う。「前兆」というのは、当時の人々の感じ方、受けとめ方の問題であるが、北国の自然への恐れというのは、アテルイを騙し討ちにした経過からしても、中央貴族にとってはなまなかなものではなかったと思う。
 よく知られているように、陸奥国では、七七四年(宝亀五)から八一一年(弘仁二)まで三八年の間、律令制王国による対蝦夷戦争が続いた。この戦争は、八〇二年坂上田村麻呂が胆沢城を築き、和平と降伏を望んだ蝦夷の首長アテルイらを上京させ殺害したことによって終結する。しかし、アテルイが京都に向かったのは和平儀礼の延長で、その殺害は騙し討ちであったという事情にも明らかなように、この戦争終結は蝦夷の側の一方的な敗北という訳ではなかった。
 八〇五年(延暦二四)、死去を翌年にひかえた桓武が、面前で、式家の藤原緒嗣と皇太子平城の側近の津田真道に論争させ、緒嗣の主張をよしとして、徳政を理由に「軍事」の方針を転換する姿勢を取ることができたのは、あくまでも、この騙し討ちとペテンを前提にしたものであることを忘れてはならない。
 歴史教科書などでは、この桓武の政策転換について肯定的に叙述するのが一般である。「国力の疲弊を洞察した桓武が、軍事と造作をやめよと指示して平安な世がやってきた」という訳である。こういう立論は、史料が言う通りのことを繰り返しただけで、そこに感性的に疑問を感じないようでは、歴史家失格である。このまえのエントリーで述べたように、歴史家の仕事は、史料に没入し、史料に憑かれることを必須としている。しかし、一般に史料は、その時代に声の大きかった人々の言葉と思想を反映している。それを聞いているだけでは人間は馬鹿になる。聞こえるものだけを聞いていては人間が馬鹿になるのはいつの時代も同じである。大塚久雄先生が「神はかすかな声でささやく」といっているが、かすかな声をこそ聞き取らねばならない。歴史家が大声になってはどうしようもない。
 なによりも、この「徳政論争」は、桓武死後の政策をめぐる皇太子平城派とその弟で桓武の晩年の寵愛をほしいままにした淳和を支持する藤原氏の式家の間での論争であり、式家の勝利と平城の没落の道の原点となったものである(なお、これはずっと以前、『平安王朝』で述べたことだが、まだ議論は進んでいない)。
 さらに、このような桓武=徳政王という考え方は、まったく地方からの目を排除している。こういう場合には、多数者の立場にたち、アテルイの立場からものごとを考えなければならないのは当然のことである。アテルイの子孫、同族の子孫の人々を無視する教科書叙述はおかしいと思う。職業としての歴史家は、不生産労働をしながらも社会に飼われている存在である。とくに大学教員などは、多かれ少なかれ税金を収入の原資にしている訳であるから、納税者全員への平等性を第一にして仕事をしなければならない。無意識であれ、一部の目、中央の目に乗っかって仕事をすることなどは職業倫理に反するのである。
 さて、ずっと誉田さんにはあっていないが、同世代の歴史家として考えることは同じである。彼の「民衆神学」論は、いまどう展開されようとしているのだろう。
 民衆神学といえば、ラテンアメリカのカソリックの自己刷新の動きを代表する言葉だが、こういう言葉で研究の志向をあらわしていた時代がなつかしい。

 先日、チリの詩人、ネルーダの死が病院での毒殺によるものであったという新聞報道を読んだ。ネルーダはよく読んだのでショックである。それまで安定していたネルーダが、奇妙な注射の後に容態を急変させたという。
 もう三十年前のことであろうか。いま、チリではプジェウエ火山の巨大な噴火。ラテンアメリカの神話は火山噴火と深く関係しているという。あの頃は、ラテンアメリカの火山噴火とか、それを背景とする神話などということを研究の問題として考えることがあるとは思っていなかったが、時代はめぐる。

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