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2011年6月27日 (月)

橘大学での講演、「鉢かづき」と「女性の座態」

 昨日、京都橘大学の女性歴史文化研究所の講演が終わって、いま、京都の朝。講演会の後、昨夜は、橘の田端泰子先生、細川・横田両氏と院生の方々で懇親会。
 この講演会は、田端さんが橘の学長も終わり、退任された後の記念のような要素もあったようで、講演会の最後の挨拶にそれを述べる細川氏の挨拶は、彼らしい温かなもの。もう20年以上前になるのだろうか、遺跡の保存運動の頃は、細川氏とはほとんど毎週会っていた。
 私の講演は、「鉢かづきから長谷寺の夢へ」で、鉢かづき民話の原型が平安時代の散逸物語の一つ、「山蔭中納言物語」に相当程度よっていたことを推測し、この山蔭中納言物語は長谷寺霊験譚の一つであることを論証したもの。さらに長谷寺の観音信仰がその古層に三輪山信仰に対応する水の祭祀、さらにアマテラスの信仰を含んでいたという西郷信綱氏の仕事によって『更級日記』を見なおしてみた。私見では、『更級日記』の記主の菅原孝標の娘と山蔭の家柄は、仲が悪いとはいえ姻戚関係の上では、それなりの近さにあったことの意味は大きい。そして、『更級日記』の大枠は、いわばアマテラスをめぐる物語ではないだろうかというのが、最近、考えるようになったこと。つまり、『更級日記』は、最初は、アマテラスという神をよく知らなかったような少女が、徐々にそれを知っていき、けれども神からうけたお告げ、託宣の意味を十分に自覚できないまま失敗していった女性の悲しい物語ではないかということである。
 これを敷衍すると、『更級日記』におけるアマテラスの扱いは、10世紀にはまだ有名ではない隠された女神であったアマテラスが女房世界に長谷寺を通じて入ってきて、院政期にかけて著名になっていくというルートがあるのではないかということになる。これは『解釈と鑑賞』に書いた「平安文学と神祇・神社」という短文に、その趣旨だけはすでに書いたもの。
 もう校正も済んだので、ここで紹介してもよいと思うし、『物語の中世』に書いた「秘面の女と鉢かづきのテーマ」を発展させたものである。これが正しいとすれば、「鉢かづき」は、『御伽草子』の中でも、その原型を平安時代まで追える希有な物語ということになる。講演でも述べたが、中学校・高等学校では、『源氏物語』『徒然草』などを読ませるよりも、より明解でメッセージ性の強い「鉢かづき」あるいは『竹取物語』をじっくり読ませたいというのが私の持論である。歴史文化の教育は、歴史学だけではになうことはできない。

 田端さんの講演は「中世女性の座態からみた衣と住」で、『日本中世の村落・女性・社会』に収められた同名の論文をかみ砕くようにして語りかけたもの。女性の立て膝の座り方、あぐらの座り方を、様々な図像を使用して、その背景とともに説明し、それが近世にむけて変化していく事情を衣服の変化と、畳の登場との関係で論じたもの。田端さんは講演が実にうまい。
 聴衆は年輩の方が多かったが、むかしは立て膝が正式の座り方だったというのは、相当意外な話しであるようで、質問が多かった。その中でも多かったのは、それでは「正座」がいつどうでてきたかという話しで、田端さんは茶道との関係や床のあり方で説明をされていた。

 講演会の後の懇親会でも、これが話題となったが、私は、平安時代末期に描かれた『彦火々出見尊絵巻』で、兄のヤマサチヒコが、弟の前で「敬屈」している姿はたしか正座であったと思う。そして、絵巻の詞書きは、そのような姿勢を「ツブネ」と説明していたと思うと申し上げる。
 今、講演の翌々日、月曜の朝の総武線の中だが、出勤前に『彦火々出見尊絵巻』を確認してきた。すると、たしかに兄の山幸は弟の前で畏まって「従属」を誓約している。「兄の皇子あにのみこつふねになるところ」というのが詞書き。その姿勢は正座で手を前に組んでいる。「ツブネ」の語義は、同じく『物語の中世』の「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」で説明をしたように、「丸くなる」ことである。つまり、「つぶら」な目などという時と同じ語法で、人が丸くなって畏まる姿勢を「つぶね」といい、これは、「奴」という字を和語で読むと「つぶね」なのである。「奴」とは人の前で丸くなって畏まるものということになる。
 年中行事絵巻にある、罪人を引き据える場面でも、罪人は正座をさせられているようにみえるから、「正座」というのは、「畏まり」の姿勢なのだと思う。それが、なぜ、江戸時代になると徐々に一般的になるかは、田端さんが留保をしながらいわれたように、茶道あるいは茶礼の影響を中心に考えるのが一般で、それを代表するのは、山折哲雄氏の『坐の文化論』(講談社学術文庫)である。山折氏の文化論は、禅の茶礼が「対話的空間」における瞑想の作法であって、そこでは相手をみながら、身体を極小化する方法として「正座」が好まれたというもので、文化論としてはたいへんに説得的で面白いものである。ここに「視線」の問題が入ることは確実であろうと思う。
 しかし、懇親会でも話題になったように、これは室町時代から江戸時代への姿勢・衣食住のすべての変化にかかわる問題であって、たとえば労働の姿勢の変化が、その根底にあるというのが、歴史家ならば誰でも考えることである。その意味で、これはまだほとんど解かれていない問題だと思う。
 私などは、やはり「立て膝から正座」という一直線を仮定するのではなく、「つぶね」という隷属関係を表現するような坐法が、時代をこえて連続して存在していたことを十分に勘定にいれた一般化が必要だと思う。「真理は細部に宿る」というのは、どのような場合も事実であるが、しかし、実際に困難なのは、発見した細部を一般化する手法である。細部から文化論的に一般化してしまうというのは、歴史家がもっとも警戒しなければならない手法なのである。その自由さに憧れる時もあるとはいっても。

 懇親会に参加した女性の方々の夫君に自然科学関係の方が多く、夫君が福島原発の状況に怒りをおさえきれない様子であるという話しもあった。講演では地震・津波・原発震災の話しも少しする積もりであったが、時間に迫られてできなかった。
 私はこういう講演の度に、日本の歴史的伝統、歴史文化は大事にしなければならないと強調するのだが、しかし、原発はすべてを壊す。歴史文化を大事にしなければならない、文化の継承と保守を考えなければならないということは、現状に対する批判的な見方を必要とするという事情が、講演の中身からわかるような話しをしたいものだと思う。

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