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2011年7月

2011年7月31日 (日)

火山地震37日本と韓国の地震の連関性

 今日の朝の新聞に椎名誠が「海は広くも大きくもない」というエッセイを書いている。私は椎名が好きで、一時は本当によく読んだが、今日のエッセイは、地球の相当部分を旅して歩いてきた人の静かな常識が伝わってくる。水は稀少な資源である。核の汚染水を流す某企業の関係者の顔を唖然としてみていた。彼らは「海は広いな大きいな」などと小学生唱歌のようなことを考えているのではないかというのが椎名の感想。椎名は、レイチェル・カーソンは「地球は人類が思っているほど巨大でふところ深く頑丈な存在ではないのだ」ということを教えてくれたという。カーソンを読まずに大人になった人が環境に深く関係する企業の中枢に入っても、まだそれに気づかないというのは恐るべきこと。これは経済の中枢にいる人々の教養の問題である。

110731_094716  『季刊・東北学』28号、「地震・津波・原発」の特集号が発刊された。

 私も「貞観津波と大地動乱の九世紀」という題で書いている。
 すでにいくつも追補しなければならない部分ができているが、日本と韓国の地震の連動性については、すでに7月14日の東京大学海洋アライアンス講演会「震災を科学する」で発表したので、ここでも紹介しておきたい。
 それは『三国史記』によると、870年代に新羅で何度も地震が起きているという問題である。詳細の記録ではないが、870年四月(王都慶州)、872年4月(同)、875年2月(王都および東部)という地震記事がある。被害記事はない。
 東北海溝津波(貞観津波)は、869年だから、その一年後から韓国で地震が続いているということになる。8・9世紀は韓国でも「地震の旺盛期」だが、870年代の集中は特異である。これらは『大日本地震史料』では採録漏れになっているので、知られていなかったが、現在、ジャパンナレッジで索引をみれる『東洋文庫』版の『三国史記』で地震を引くとでてくる。
 東北学の論文では日本と韓国での地震の連関性については、「貞観地震の前後の史料には、このような韓半島にまで及ぶ地殻運動の連動性を示すものはない」としたが、それを示唆する史料である。
 『東北学』の論文では、貞観地震と同型の地震で「奥州ニ津波入テ(中略)カヘリニ、人多取ル」といわれた室町時代、一四五四年一二月二一日(日本王朝暦、享徳三年一一月二三日)の地震が韓半島での地震と連動していた可能性が高いことは指摘した。つまり、この室町時代の地震の、ちょうど一月後、一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでたというのである(『朝鮮王朝実録』)。
 そうだとすると、九世紀と一五世紀の双方で、日本と韓国の地震の連関性が推定できることになる。
 東北学の論文では、都司嘉宣氏の意見によって「そもそも日本列島から韓半島・中国東北部はアムールプレートの動きとの関係で、地殻の動きはしばしば連動するという。たとえば中国でも史上最大級といわれる山東省の郯城地震が一六六八年に起き、続いて一六八一年に韓国の歴史地震の中で最大規模といわれる江原道の地震、さらに日本でも、しばらくして、一七〇三年の相模トラフに淵源する江戸・関東大地震、一七〇七年の富士山の大噴火をともなった東海・南海地震が起きている。これは偶然的なこととは考えにくいという(都司嘉宣「韓半島で発生した最大級の地震」歴史地震20号)」と述べた。

 また、一〇世紀初頭に日本の有史時代で最大の噴火といわれる十和田カルデラの噴火と韓半島北部の白頭山の噴火という二つの大噴火が連続したことも偶然とはいえない(町田洋「火山噴火と渤海の滅亡」、中西進編『謎の王国・渤海』)。
 私は、八六九年の東北沖地震(貞観地震)、そして八八七年の東海南海地震(仁和地震)という二つの大規模なプレート間地震が二〇年の間をおかずに列島を襲ったということが、列島社会に住む人々の自然観や国土意識に大きな影響をおよぼしたことは明らかであると考えるようになった。しかし、問題は、そこにとどまらず、この二つの巨大地震の影響を、列島社会の「国土意識」という枠内でのみ考えることが適当でないのかもしれないという結論にたどり着こうとしている。
 こういう東北アジアの地殻の関係構造というものは、現在も生きているはずである。

 日本と韓国が同じ自然地帯を占有しているということは、韓国での大雨が、一昨日の新潟・福島の大雨に連動するのでも実感する。こういう実感は天気予報と情報手段の共有によって可能になっているのだが、それを歴史意識の上でもはぐくんでいくということが歴史家の役割なのだと思う。
 それにしても、福島の檜枝岐は民俗学にとっては大切なところなので、河川と浸水の様子はショックである。ただ、豪雨が福島県海通りには大きく及ばなかったことは原発にとってはラッキーであった。逆に、一昨日、昨日は、豪雨が汚染水をしみ出させるのではないかと非常に心配であった。それにしても、原発の周辺の雨がどうなっているかをいわないテレビというものは一体なんなのだろうという疑問。そういう心配をしないという顔をして報道し、「平常心」をもって天気情報を流すアナウンサーというものは通常の神経をもっていないのではないかと感じる。

 椎名に戻ると、レイチェル・カーソンにいわせれば「地母神」の思想は、神話の時代にのみ許された、地球へのマザコン的な依存心ということになるのかもしれないと考えた。もちろん、「地母神」は神話の思想として、そして母系制的社会の思想としてさまざまな意味をもっていたということもいうまでもない。『かぐや姫と王権神話』を書いてから地母神論に注目してきた。そして、私は、実は、東アジア的な地母神の思想、神話の思想は、日本では九世紀に最終的に解消されたと考えてきた。
 しかし、椎名がカーソンを引いているのを読んで、歴史家の仕事に戻ってくると、地母神の思想は、その最悪の部分、本質的なマザコン性の部分ではその残滓は現在でも残っているのかもしれないと考えた。

2011年7月27日 (水)

火山地震36スクナヒコナ(続き)

 昨日、駅から自転車に乗って帰る途中、左目に小さな痛みが走り、夜から痛み始め、よく眠れず。朝になっても痛いので、午前中の史料撮影の仕事を15分早く切り上げさせてもらう。Uさんどうも失礼。赤門から信号をわたって眼鏡屋の上の眼科へ。10年か15年か前にもかかったが、K先生は御変わりない様子。
 検眼鏡でくわしくみてくれた。「異物」ですということで取ってくれたら、一挙に痛みが引く。薬の会計をしながら、気になって伺うと、「小さくひらべったい透明なもので、ぺったり張りついていた。そこが血管が腫れていた。黒目にはかかってませんから安心していい」と。
 いま職場に帰って消炎の目薬をさして直った。異物は何なのかはわからないということだが、怖い話しである。こういう事故が、たとえば昔の人にあったら、直せるものであろうか。目から異物を取るのは自分でやる人も多いが透明な小さな異物などは専門でなければとれないのではないだろうか。昔の眼病の研究もしなければ、論文はあっただろうか、などと考えるのは、歴史家のサガ。貧乏性。しかし、眼科の史料は『病草紙』ぐらいしか思いつかない。
 ちょうど職場の前で、職場のU氏にあうと、彼からスクナヒコナについて吉田先生が「火の粉」の神ではないかといっていたという情報。たしかに、柳田国男を通してみていくと「硫黄」をふくむ、燃焼性の粒、金気のものという印象なので、的確な言い方かもしれないと思う。
 一つは「火の粉」それ自身というと、柳田国男がいうように忌部の神の一つ、天一箇目命=鉱業神が隻眼の理由は目に金粉が入ったためであるという議論との関係で興味深い。
 さらに問題なのは、U氏もいうように、スクナヒコナは粟柄から飛んで常世の国に帰るという神話の一節である。これは粟の焼畑との関係を思わせる叙述で、その意味では「火の粉」一般の方が説得性がある。とくに大林太良氏のオオゲツヒメ論があるので、オオゲツヒメとスクナヒコナが列島の農業神話の最基層を形成している可能性が、さらに火山神話にむすびつく可能性があることになる。南アメリカの火山神話が焼畑と地母神としての女性に結びついているということから考えると、もしスクナヒコナを火山神と結びつけてよければ、図式としては共通することになる。
 あるいは伊豆神津島の火山の女神の名前、「阿波神」はオオゲツヒメとダブルイメージなのではないかというのが大林太良さんの議論を考えたときの印象である。なお、史料の実態論的な解釈をブログですぐに書くのは研究状況からいって避けている。年取った人間が史料に即した議論をブログで自由にいろいろいうことはひんしゅくの元である。ただ、他分野に関わる語源論的な「思いつき」は御許し願う。
 いずれにせよ、スクナヒコナが火山との関係があることは確実なので、スクナヒコナの神格の中心が硫黄にあるという小路田氏の創見は揺るがせないと思う。
 さて、東北地方の地震で各地で液状化が起きているが、その中に、戦後、燃料不足の時に企業的な採掘が行われた「亜炭」採掘後の農地に液状化がきびしいという話しがある。この「亜炭」が「スクモ」であることはいうまでもない。こういう被害、つまり生産手段が異なる社会的分業の対象となった場合、生産手段の切り替えにともなう見えない瑕疵をどう社会的に扱うか、とくにこういう自然災害の中で明らかになった瑕疵をどう扱うかというのは社会経済にとっては基本的な問題だと思う。これは調整者としての公権力が必要な保障をするべき問題だと、私は、思う。
 社会正義というものを広くとらえて保障の範囲が広くなっているのはヨーロッパの趨勢である。それを日本社会も熟慮の上で採用するべきだと思う。自由勝手、強いモノがちという「規制緩和」なるものを主張していた(主張している)某・某政治家などは、震災後の状況をみていると、政治家としての何の先見性もなかったことが明らかになっていると、私は思う。私は主要責任がどこにあるかを曖昧にしたまま、社会一般・文明一般に問題をつけまわしするような三文知識人の意見にはとても賛成できないが、しかし、某・某政治家の意見が強く流通した時期があったのは事実で、これは社会における熟慮・熟議の伝統の軽さの表現でもあるのかも知れないとは思う。
 先日、ドイツの外務大臣が、ドイツの原発廃止は、「熟慮・熟議」の上に、従来の議論を拡大したものでくつがえることはないと、新聞で語っていた。歴史学はそういう意味での「熟慮」「熟議」のための学問であることはいうまでもないが、そういう力を本当に、現実に発揮できるのかが問われている。
 それにしても、現在は「熟慮」よりも行動の時なのだろう。私はほぼ毎日、防災科研の高感度地震観測網をみているが、福島第一原発のすぐ近くまで双葉断層の地震マークが、かさぶたのように密集し、海側をあわせてあと10キロもないというところまで迫っているのをみて、クワバラ・クワバラである。さっき、そのページを開いたら、12時55分にM2,5の小震が原発のすぐ沖で起きている。それは報道はされないし、地震波は我々にはみえない。
 しかし、このかさぶたが毎日毎日盛り上がってきて、問題の地帯を呑み込もうとするようにみえるのは、目の錯覚か。ともかく、防災科研のHPで、一度、御覧になることを御勧めする。

2011年7月23日 (土)

荘園をどう教えるか(1)歴史教育ー鈴木哲雄『社会史と歴史教育』を読んで

「荘園をどう教えるか」1ー鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』(岩田書院1998)を読む
 今日は行き来の電車で鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』を読む。
 教科書の執筆やアドヴァイスの関係で、必要があって探していたのにでてこないで困っていたら、昨日、ふと机の左手の本棚の一番手前にあるのを発見。
 この本は、いわゆる「中世史」の教材研究の中では、私の知る限りもっともまとまった本で、考える問題も共通しているので、確認をしたかった。
 この本は、二つの問題で書かれている。第一は「荘園をどう教えるか」、第二は「社会史を教材としてどう位置づけるか」である。
 第二の社会史を教材としてどう位置づけるかは、私も書いたことがあり、WEBPAGEに「教材としての社会史」(歴史教育者協議会編『前近代史の新しい学び方』)という文章を掲げてある。それから、いま、WEBPAGEに東京大学出版会のシリーズ『学びと文化』4に載せた「歴史を通して社会をみつめる」をあげておいた。これはPCの中でテキストが紛失して、何処にあるかわからなくなっていたもの。これはいま発見。
 鈴木氏の「社会史」を歴史教育の中にどう位置づけるかという問題提起は、私と問題関心が共通する。いわゆる社会史は、歴史常識や「歴史物語」の常識を民衆史的なレヴェルから問い返し、歴史文化の全体を変化させようという仕事だった。それは当初の目的を果たす道の半ばにもいっていないが、この仕事にとってもっとも頼りにすべきは歴史教育の場、教育の場であるはずである。鈴木氏はそのことがよくわかっている。
 しかし、むずかしいのは、やはり第一の「荘園をどう教えるか」である。
鈴木氏は、この本で千葉習志野高等学校での授業の経験を通じて、どういうように「荘園を教えるか」、どういう教材とカリキュラム構成が必要かを論じている。授業というのは、どういう場合も個性的なものだということを前提にしながら、自分自身の授業の経験を追跡し、どういうように変化させたかを紹介しているので、その内容は説得的である。
 「荘園を教えるのがむずかしい」のは、通常、荘園というものが奈良時代末期から、室町時代まで続く土地制度の一部をなしていて、奈良時代および九世紀までの初期荘園、一〇世紀から一二世紀の国衙の土地制度に従属して存在する荘園(免田型の荘園)、一二世紀以降の領域性を明瞭にもった荘園、室町時代の土地制度の基軸システムとしては残るが、全体としてより複雑化した地域社会の中で形を変えている室町期荘園の四段階に区別されるからである。
 言葉としてはどれも同じ「庄」なので、歴史研究でも歴史教育でも大きな混乱のもとになっている。これをはじめて明瞭に指摘したのは峰岸純夫氏で、なんともうすでに25年前、1986年の『歴史学研究』553号にのった座談会での発言である。いわく「荘園が摂関政治のところで出てきて、それからその後でも出てくるということになって、必ずしも全体が整合的でなく、混乱を招いている。そこで思い切って、これを中世社会の基本の土地制度と位置づけることによって、他の事象との整合性をはかった方がすっきりすると思う」という訳である。氏の言葉にされにつけ加えておけば、奈良時代の墾田だとか、私有の発展だとかも「荘園(初期荘園)」なのでいよいよ混乱はますということである。
 しかし、実際には状況はかわっておらず、歴史教育の現場では、この25年間すっきりしないままで来たということになる。こういうのは歴史学の社会的責任としてどういうように考えるべきだろうというのが、峰岸発言が1986年の座談会であったということを、いま確認して感じること。私も、この座談会の後に発言をしたことがある。その一例としてやはりPCの中から出てきた「コメント」(前記、歴史教育者協議会編『前近代史の新しい学び方』に掲載した藤原千久子先生の教育実践へのコメント)を挙げておく。ただ、こういう問題は、結局、誰かしかるべき人が議論してくれるだろうと思っているうちに、私も60を過ぎてしまった。
 こういうことになったもっとも基本的な理由は、鎌倉時代から南北朝室町時代への土地制度の連続・不連続について、いまだに明瞭な議論が組み立てられていないためであって、学問的にはやむをえない理由があり、学界も手をこまねいていたということではない。しかし、あらためで確認してみると、「かくも長き不在」には困惑する。別の分野の学問でいえば、たとえば病気治療のための新薬の諸分野共同での開発の必要性が確認されながら、25年もたってしまって、その間の総括もされていないということだから、忸怩たるものを強く感じるべきであろうとも思う。そして、当時よりも歴史学の研究と教育の間の職能的な関連や連携は緊張度を減らしているのも問題である。
 さて、鈴木氏の授業とその自己分析の貢献は、奈良時代から平安時代末期までの荘園を区別して教材化する試論を提出したことである。(1)律令制王国時代の初期荘園」は、「墾田永年私財令」との関係で「墾田」の一部として説明してしまう、(2)10・11世紀の荘園は、「免田型」荘園とか「公田」として説明してしまう、(3)12世紀の院領荘園を中心とする領域型の荘園を「荘園公領制」の一部をなす荘園として説明するというものである。鈴木氏は、このうちの(2)を越後国の石井庄の荘園史料を使用し、(3)を紀伊国のカセダ荘の絵図を教材として、高校生にも理解でき、討論ができるような形で授業を組み立てた経験を報告している(なお、石井庄の史料で、種籾用に、稲を貸しつけるという一節があるが、これを説明するのに『一遍聖絵』の常陸国の土豪の家の裏手にみえる「稲積」の絵画史料が有効ではないかということ。これも近く追加説明をしてみたい)。
 細かな議論がさらに必要なところはあるにしても、私は、この大筋は、確認をしてよいのではないかと思う。その上での問題は、それでは(3)でいう「荘園公領制」というのはどう教材化することが可能か、そして次の南北朝期以降への関係をどうするのかということになる。
 これについて、この夏をかけて、徐々にシリーズで書いていくことにしたい。

2011年7月15日 (金)

火山地震35スクナヒコナは硫黄神、小路田泰直『邪馬台国と鉄の道』の発見

 最近、近代史家の小路田泰直は、大穴持命と対になる少彦名命の「ス」を、「酸」(ス)であり、硫黄の神であるとした。それをふくむ小路田氏の本『邪馬台国と鉄』(洋泉社新書y)は、私にはたいへんに面白い。「古代史」のアカデミズムからは無視されるであろうが、一読する価値がある本だと思う。この本の中心的な論点である魏使のとった邪馬台国へのルートを丹後ルートするのは十分に学説として成立すると思う。それだけでも読む価値がある。
 もちろん、私も「古代史」の史料は読むので、小路田さんのいうことに違和感がないかといえば嘘になる。しかし、ある考古学の研究者と彼の噂をしていた時、その人の感想は「頭のいい人だ」ということであったが、たしかに論理の運びをおっていると、頭のよい人だと思う。そして実際に勝れた発想が上の邪馬台国ルート論以外にも多いと思う。いろいろなところへ身軽に車で行き、その現場で考える。「方法は旅である」という小路田氏の宣言はうらやましいし、読んでいて気持ちがいい。
 その中でも、私が教えられたのは、冒頭にふれたスクナヒコナを硫黄の神であるとする議論である。これによってスクナヒコナを対となるオオアナムチ=大穴持命=大国主命と同様に、火山の神と考えることが可能になる。
 「古代史」の研究者からは、こういう発想はでてこない。それも氏の旅好きからきていて、東北にいった時に、出羽蔵王の酢川温泉神社にも少彦名命が祭られている。東北地方に多い「酢」「酸」のつく温泉や地名の「酢」「酸」はすべて「ス」と読むが、酸川温泉の湯が酸っぱかった。これは硫黄のためだ。そしてこの酸川温泉はいうまでもなく、全国の硫黄泉のあるところ、紀伊白浜温泉、伊予道後温泉、摂津有馬温泉には少彦名命が祭られている。そして、硫黄は皮膚病その他に薬効があり、薬問屋の町として栄えた大坂道修町の鎮守が少彦名神社であるのもそのためであるという。
 私は結論からいって、スクナヒコナは硫黄の神だという、小路田氏の意見に賛成である。いままで、そういう学説がどこかで一言でもいわれているかどうかが問題だが、知る限りでは小路田さんの意見がはじめてだと思う。しばしば学者は、重要な発想や言及を「思いつき」を書いただけの文章だとして無視する。しかし重要な発想の場合は、尊重するべきだと思うし、それが研究の柔軟性を保証するのだと思う。もし、この学説が一つの学説として存在することになれば、小路田さんの仕事の意味が大きいのは当然である。もちろん、将来、(賛成した私の意見をふくめて)否定される可能性はあるが、ともかくひとつの「説」としては成立しうるのではないかと思う。
 ただ、「スクナ」の語源として「酢粉」(スコナ)をいうのは、私には疑問がある。これは小路田さんの語源論の方法がやや「素人」的ではないかということで、これはまずいのではないかということでもある。もちろん、「専門家の手法にとらわれず、素人的に」(あとがき)というのはありうると思う。「近代史家」が「古代史」の「専門家」に対して「素人」を称して別の意見を提起するのは許されると思う。しかし、歴史史料の分析が他の学問分野にも関わる場合、他の学問分野(たとえば言語学)に対しての向き合い方は、やはり慎重にするべきなのではないかと思う。他の分野の学問から奈良女子大学教授が歴史の「専門家」として扱われるのは当然なのだから、そこでは「素人」ということはできない。
 もちろん、語源論の方法というものが日本言語学でそう明瞭に展開されている訳でもないように思うし、また以下に述べることも十分に根拠がある訳でもないので、申し訳ない言い方ではあるが、しかし、この語源論に本書を読んでのもっとも強い違和感があることも事実である。
 それでは、別案をどう考えるかであるが、最初は、前のエントリでいった「クナ」から考える方向が一つあるのではないかと考えた。「ス」の取れる「クナ」、スクナ、聖なる土地、占有した土地ということになる。「ナ」は「土」という意味の「ナ」に違いないということになる。柳田国男は会津八一からきいた話しとして「妙高山の谷には硫黄の多く産するところがあるが、天狗の所有なりとして近ごろまでも取りに行くものはなかった」(『定本柳田国男集』(4)158、筑摩書房)という話しを紹介している。こういう硫黄がとれる場所のことを「スクナ」といったということになるのかもしれない。しかし、ただ、若干、これは語法としては、コジツケという感じがしないではなく、言語論的には傍証や類例に欠けると思う。
 むしろ考えたのは、「すくも」との関係で考えることである。「スクモ」にはいろいろな意味があるが、もっとも重要なのは泥炭という意味である。泥炭と硫黄は、意味上も、火性のものとして通ずるのではないか。「スクナ」と「スクモ」というのは音韻からいって通ずる可能性も高い。
 これについては柳田「燃ゆる土」(著作集30,383頁)が重要で、スクモを泥炭のこととして、さまざまな異称の説明もしている。そのうちで特に重要なのは、『四隣譚藪』(一)なる本に「土くれにて燃ゆるもの也。水田に地しぶ浮きたるところに出る。春に至りて蘆のきざしをふくめるや、焼き捨つるに火消えず、硫黄の気多し」とあるということである。硫黄の気が多いというのが印象深い。
 残念ながら、硫黄の気が多い泥炭というものが具体的にどういうものなのかは、私にはわからないが、『日本国語大辞典』がスクモの語義の一つを「泥炭(でいたん)をいう語」と説明していて、*多識編〔1631〕一「石炭 今案伊志乃阿良須美 又云毛乃加幾須美 近江国栗本郡掘地取土加炭燃之代薪 曰須久毛(スクモ)」、*大和本草〔1709〕三「すくも〈和品〉近江国野州郡老曾村は〈略〉其辺の地をほればすくもと云物多くいづ。土にあらず、石にあらず、木にあらず。柴の葉のくさりかたまりたるが如し。火にてたけば能もゆる。里人これをほりて薪とし、是をうりて利とす」、*随筆・松屋筆記〔1818~45頃〕八六・一七「薪土(たきぎつち)すくも 簷曝雑記四巻〈十九丁ウ〉河底古木灰条に〈略〉亦掘之至五六尺許輙得泥如石炭者然不可食以作薪火乃終日不熄其質非土非石」などの用例を上げているのも追加しておきたい。また「スクモイシ」という言葉は「石炭(せきたん)の異称」という説明で、*和英語林集成(初版)〔1867〕には「Szkumoishi スクモイシ 石炭」とあるという。
 ようするに、「スクモ」というのは、硫黄気、金気などの燃えやすい物質のある「毛」のようなものという意味なのであろう。「すくも」については、実はもっと考えなければならないことは、右の柳田の文章を読めば明らかで、それについてもそのうち考えてみたい(これは煙の関係で出てくるスクモというものは堆肥肥料・野焼き・畑焼きなどの農法に関係するかもしれないという話)。ただ、柳田の索引を引いていて(まだ全部引いた訳ではないが)、驚いたのは、著作集26巻の544頁にある、次の折口の連歌の上句であった。

  手のひらにすくもはたけば光る也

 これは大国主命=大穴持命が少彦名命にあった時、少彦名命を「取置掌中に取りおいて翫そんだ時に、則はち跳ねて其頬を囓る」(『日本書紀』巻一第八段一書第六)という話しを彷彿させる。柳田国男は、この連歌上句に解説をつけて「すくも」について解説しているが、折口はあるいは、この連歌をスクナヒコの関係で詠んだのであろうか。折口の方を点検しないとならない。
 さて、タカミムスビが「天地鎔造」といわれるのは、タカミムスビが天地創造神であることを意味しているが、この「鎔造」は、タカミムスビが鉱業、金属産業の神であることを意味している。そして、タカミムスビの子供といわれ、忌部氏の祖神である「天一箇目命」が鉱業神であるのは、柳田国男のいう通りである。やはりタカミムスビの子ともされる少彦名命が硫黄神であるというのは、この点からも話しがあうように思う。
 

2011年7月10日 (日)

大地を区切ることと「国」の語源

 くに【国・邦】の語源について『日本国語大辞典』(小学館)に掲げられた語源説は15もある。しかし、「クニ」の「二」については「土」であるというのが多数意見である。「土」を「ナ・二」と読むのが、朝鮮・日本に共通する言語らしいこともよく知られている。
 問題は「ク」であるが、『字訓』が「所(ク)、処(ク)、陸処(クガ)」のクであるとするのにしたがって良いと思う。『字訓』は「所(ク)、処(ク)
」について、「もと神聖な場所を示す語であったらしい」とする。
 面白いのは「クナ」という言葉。これは、「ニ」と「ナ」が通ずるところからすると、実際上、「クニ」と同じ言葉だと思うが、これは方言では、「農作物の連作」(神奈川県津久井郡316)、「連作の畑。《くなばた〔─畑〕》とも」(静岡県磐田郡546)、「豆を作った翌年の畑。次に粟(あわ)を作る。《くなばたけ》」(青森県三戸郡083)、「焼畑の二年目。《くな》」(山梨県南巨摩郡464)、「焼畑の三年目。《くな》」(静岡県磐田郡546)、「一年中作物のある牧畑」(島根県隠岐島725)のことをいうという。
 つまり、「土」=ナ=大地のうちで、囲い込んで利用しているものを「クナ」といっているということになる。なお、文献でこの「クナ」という言葉があるのは、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、現在のところ一例のみで、玉塵抄〔1563〕二六に「こぞの秋いねをかったもとの茎のみじかうのこってたをくなと云ぞ。此の字を田舎にいた時に人に問たぞ。古納(クナ)とかくと云たぞ」とあるものであるというが、つまり、そこでは「クナ」とは、「稲を刈り取った後に残った切り株」であるということである。これは、上記のように、方言で「クナ」が「農作物の連作」であることに対応して生まれた用語法であろうと思う。
 興味深いのは、上記の方言の用例では、連作していること、とくに二年目・三年目になると「くな」として占有しているということが言葉の上で表現されるということで、これは逆にいうと、三年使用していなければ、「くな」から外れるということを意味するのではないだろうか。
 昔から考えていることなのだが、いわゆる「墾田永年私有令」なるものの段階からみえる「三年不耕」の原則はまずは農事慣行として存在していたはずである。「クナ」とは、まさにそれを示す民俗語ではないかと思うのである。方言では「住居から離れた普通の耕地」(山梨県南巨摩郡464)、「水田」(岡山県真庭郡746)のことをもいうようだが、ようするに「自分の領分のナ=地」ということを、こういっていたのではないだろうか。沖縄では「組織すること。まとめること。《くな》」(沖縄県首里993)というのも面白い。
 この方言の分布からみて、この言葉の淵源はきわめて古いと考えてよいのではないかと思う。そして、『字訓』が「ク」について「もと神聖な場所を示す語であったらしい」というのに反対する訳ではないが、より深い言語層、より古い言語層では、日常的な関係としての「占有」を表現するといってよいのではないだろうか。日常的な語彙とより宗教的・イデオロギー的な語彙は、関係しつつも、一応、区別して考えるべきであろうと思う。そして、歴史学にとってまず解明が必要なのは、ブローデルではないが「日常性の構造」であると思う。
 「クニ」の語源説でもっとも有名なのは、本居宣長の「垣」(クネ)説であるようである。『日本国語大辞典』(小学館)から、その語源説を引いておくと「(4)古語で分界のことをいうクマリの転で、クム、クモと同根〔東雅〕。 クモニ、クムニの約〔古事記伝〕。(6)限りの意〔古事記伝所引賀茂真淵説〕」ということになる。「クニという名は限りの意なり。東国にて垣根をクネというにて知るべし」(『古事記伝』)ともある。
 しかし、現代の学問あるいは学問条件というのは、やはり進歩しているもので、この「クネ」についても『日本国語大辞典』(小学館)を引けば、用例が相当でてくる。そして、それを読んでいると、これは上記の「クナ」に深く関わる言葉で、こうして「クナ」「クネ」はたしかに「クニ」に関わるということが、本居のレヴェルを越えて具体的にわかることである。けっして本居の判断や直観をなみする訳ではないが、学問を一つ一つ新しくしていく決意が、現代の学者にも必要だと思う。こういうことをいうと、学問条件の進歩に乗っかっていい加減なことをいうと怒られることがあるが、なにしろうまくやれば「簡単」にできるのだから。
 「クネ」について、『日本国語大辞典』(小学館)が文献からあげるもので、もっとも古いのは、虎寛本狂言・瓜盗人〔室町末~近世初〕で、「瓜つるを引立てのけう。〈略〉腹も立つ。くねをも引ぬいてやらう」とある。そして、読本・飛騨匠物語〔1808〕三「垣のくねより覗き見るに」、歌舞伎・隅田川花御所染〔1814〕中幕「『道は無いが、それともくねを破って』『なにサ、荷を担いでは垣を破って行けまいて』」、菊池俗言考〔1854〕「西国にては屋鋪廻りの藪を久禰と云」などが上げられている。
 たしか「くくね」という形で、私の編纂した文書か、研究した文書にあったように記憶するので、もっと古くから「竹などを編んだ垣根。また、いけがき。くね垣」という意味で使用されていたことは明らかである。これはこの前発表した「地頭領主権と土地範疇」という七面倒くさい論文で、田畠の境界、畔についての細かな議論をやったので、その関係でもう一度再検討はする予定である。
 仕事の話しはやめて、「クネ」の方言を『日本国語大辞典』(小学館)で紹介すると、下記のようである。長いのでとばし読みしてください。
(1)垣根。生け垣。《くね》石巻†055会津†062常陸†064東国†035岩手県092秋田県130山形県144福島県163茨城県188栃木県198群馬県234埼玉県258千葉県261東京都310神奈川県319新潟県361山梨県461長野県470488静岡県520長崎県西彼杵郡054宮崎県西臼杵郡038《くねばら》新潟県中頸城郡384《くに》阿波†025《けね》宮崎県東諸県郡952《くぎい》長崎県西彼杵郡054
(2)屋敷の周りに植えた木。屋敷林。防風林。《くね》栃木県安蘇郡208東京都八丈島335新潟県西蒲原郡371長崎県南高来郡905《くねばやし〔─林〕》長野県諏訪481《けねやま〔─山〕》鹿児島県肝属郡970《くねやぶ〔─藪〕》西国(屋敷周りのやぶ)†131
(3)やぶ。竹やぶ。《くね》千葉県安房郡001山梨県455
(4)屋敷の周囲。《くね》新潟県岩船郡362長野県諏訪481静岡県小笠郡537宮崎県西臼杵郡038
(5)田の周囲の畔(あぜ)。《くね》伊勢†035長野県東筑摩郡054三重県伊勢002高知県長岡郡869《くねいり》岐阜県稲葉郡498《ふね》石川県河北郡404《くな》島根県隠岐島740
(6)畑の境の垣根。《くね》青森県上北郡082
(7)里近くに所有する山。持ち山。《くねやま》とも。新潟県佐渡358
(8)山の立ち木。山林。《くね》山梨県南都留郡459長野県東筑摩郡480
(9)年古い樹木。《くね》静岡県庵原郡521
(10)山腹の峰のような形の所。《くね》愛知県北設楽郡062
(11)山のふもと。《くね》新潟県佐渡348
(12)境。《くね》新潟県佐渡352
(13)杭。《くね》福島県東白川郡157千葉県市川市040《くねんぼ》福島県南部155
(14)農作物などの支柱。《くね》群馬県勢多郡236新潟県上越市382長野県493《くねぼう〔─棒〕》長野県小県郡469《くねぼや》長野県北佐久郡469《くねぼよ》新潟県上越382《くねそだ〔─粗朶〕》長野県北信469
(15)芝草を長方形に切り取ったもの。《くね》岩手県九戸郡088
(16)一定の長さに切った薪。《くね》新潟県中頸城郡382
(17)植物、うつぎ(空木)。《くね》青森県036秋田県036《くねしば》秋田県003
(18)植物、いぼたのき(水蝋木)。また、ねずみもち(鼠黐)。《くね》山形県飽海郡139
 【語源説】に、〔俚言集覧〕が上げられていて、「界限のあることをいうところから、クニ(国・邦)と同語」という解説がされているから、以上、述べてきたことは、いってみれば昔から分かっていたことということになるかも知れず、上記の広言が恥ずかしくはなるが、議論が細かく、明解になってきたことだかへ確かだろうと思うので、御勘弁を願いたい。
 私と同じ時代の研究者、平安時代から戦国時代までの研究者ならば、上記をみてもっとも感動するのは、おそらく(17)の「植物、うつぎ(空木)」を《くね》というという部分だろうと思う。『日本国語大辞典』(小学館)は、
「くね‐うつぎ」という言葉もとっている。ウツギはいうまでもなく、卯の花のことで、これが氏神の花とされて、平安時代の田堵百姓の宅地・耕地をめぐる垣根の花として和歌に頻出することは、戸田芳実氏の著名な研究以来、知らない研究者ないないはずである。
 しかし、それにしても思うのは、こういう「クネ」「クナ」という言葉が、東アジアでは異様に大量に存在する日本の「古文書」にほとんどまったくあらわれないことである。その意味では、私の記憶する「ククネ」という古文書は大事な意味をもっているはずであるが、古文書にはまったく登場しない言葉を、昔の人々、庶民が使っていたということを十分にふまえて、土地所有に関わる議論はしないとならない。そこに到達できないと、実際上、大地、土地、土地占有ということの具体性がわからないということである。
 歴史学が、こういう議論を平安時代から江戸時代まで通して処理できるようになるのは何時のことになるのだろう。ともかく、現代は、「大地」と人間の関わりが問われている時代であることは明らかであるから、迷うこと、そしてきついことも多いし、多かろう
が、急いで急いで前進しないとならないと思う。
  昨日「地頭領主権と土地範疇」を送った、T・Y氏から懇切な手紙をいただき、研究仲間の大事さを思う。もう30年前か。

2011年7月 8日 (金)

火山地震34東大での14日講演「貞観津波ーー」の準備

 7月14日に、東大の海洋アライアンスのシンポジウム「震災を科学する」で「貞観津波と大地動乱の九世紀」という講演があり、その準備で自宅仕事。
 だいたいのところは先日、この七月にはでる『東北学』に同じような題で書いたので、それを繰り返せばよいのだが、よい機会なので、問題を整理してみたい。
 とくにほかの講演者は、全員自然科学。地震研・海洋研・理学系・生産技術研究所などの方なので、どういう話しの仕方をしたらよいものかを考える。もっぱら理系のデータにより語るという印象のものにできればと思う。

 まず必要なのは、八九世紀の地震の概説。

 八世紀、つまりいわゆる奈良時代には、前半が地震の活発期で、中央構造線沿いの活断層が動いている。もちろん、7世紀最後の南海地震は、記録上、最初のプレート間地震とされるが、8世紀前半は局地地震が多い。たとえば、(1)7世紀最後の筑紫地震ーー水縄断層、(2)七一五年(和銅八)遠江・三河地震ーー天龍川上流の平岡断層あるいはその若干南を走る中央構造線自身、(3)七三四年(天平六)畿内地震ーー誉田断層などの生駒断層系、(4)七四五年の美濃国地震ーー養老山地の東縁から桑名市と四日市をつらぬく、養老・桑名・四日市断層帯ということになっている。この畿内地震と美濃国地震は聖武に対する衝撃が強く、政治史を強く規定した。
 そして、八世紀後半は、地震活動はおさまるが、逆に火山活動が活発化する。しかも最初は、別符鶴見岳・桜島付近の海底火山噴火、そして阿蘇カルデラ湖の水位減少など九州の火山フロントが活発化するが、800年に富士の大爆発が起きて、日本人の火山認識が、阿蘇から富士を中心にするものに変わる大画期となる。
 九世紀には、天皇でいうと、桓武・嵯峨の時期は、京都では、地震・噴火はそう多くないが、嵯峨の時期は関東地震がある。その弟の淳和は極端なほどの京都群発地震に襲われるが、退位とともに群発地震はおさまり、嵯峨の子供の仁明の時期は地震は静か、これは仁明が「聖帝」であるとされたことの一つの理由になっているかもしれない。しかし、仁明は伊豆神津島の大噴火と阿蘇カルデラ湖の水位減少に神経的な対応をみせる。子供の文徳も地震に襲われ、陵墓まで狙われたという物語がある。東大寺大仏の頭が落ちたのは文徳の時期である。可哀想なのは清和で、きわめて地震が多く、富士の有史上最大の噴火にも襲われる。彼は大地に呪われた王といえるかもしれない。
 清和の子供の陽成の時期にも地震は多く、さらにその後を継いだ光孝天皇などは地震の直撃をうけて、その直後に死んでしまった。
 こういう政治史の話しは自然系の人も面白がるだろうが、できるかぎり、そこに話しを落とすのはさけ、環境史の話しとして趣旨を通したい。ただ、地震史・噴火史として、そういう話しの方向にもっていくのはなかなか困難なので、貞観津波の歴史的理解にも直結する気候史の話しもあわせてしようかと考える。

 この時代を考える時に、重要なのが、8・9世紀が、気候の温暖化の時期で、平均気温が1度あるいは2度は高かったとされていることである。

 この時期の気候史については、奈良女子大学の西谷地晴美氏がもっとも詳しいので、一昨日、電話で研究状況についての意見を聞いた。それによると、ようするに温暖化をめぐる「政治ー科学論議」の中で、気候学者の間でも微妙な分岐があり、現状の温暖化を危機ととらえる人々はむしろ8/9世紀の温暖化を低く評価し、現状の温暖化を通常の地球史の枠内で捉える人が逆に8/9世紀の温暖化を強調するという傾向があるのかもしれないということであった。しかし、ともかくも、8/9世紀の温暖化の傾向自身は従来と同じように考えておいてもよい、例の屋久杉の年輪分析は、現在でも生きているということであった。
 昨年、集中講義の時に聞いた自然系の研究にそのまま依拠するのは注意した方がよいという意見を受けとめることができなかったことを反省。西谷地氏のいうように、この温暖化が旱魃と疫病の流行の重要な条件となったことを再認識した。とくに九世紀後半は温度が高い時期になっているから、これが貞観地震の三年前、貞観八年をピークとする飢饉・疫病の大流行をもたらしたことはほぼ確実である。

 この時期の日本の気候史のもう一つの重要な根拠となっているのは、尾瀬の泥炭層の分析であるが、その話しは磯貝富士男氏に何度も聞いた。耳学問のありがたさを思う。

 ようするに、8・9世紀はプレート間地震だけでなく、局地的な地震もきわめて多く、しかも京都畿内の群発地震が多い。そして地震が少し収まったかと思うと火山が噴火する。しかも温暖化を一つの条件とした旱魃・疫病の流行によって飢饉が社会を直撃するという時代であった。
 これらの問題が、この時期の政治史にきわめて大きな影響をもたらしたことが、これまでの歴史研究の視野にまったく入っていなかったというのは、今回、史料を点検してみて驚いたこと。私たちの先輩の研究者は、歴史学の現代的な役割は何か、社会的な役割は何かということを中心にして彼らの歴史学を作ってきた。我々が、それに何をつけ加えることができたかはおぼつかない。意図だけはあったが、十分なことができたとは思えない。その総点検が、こういう形で強制されるということなのだろうと思う。

 原発震災を前にすると、学術の反省は全面的に行われなければならないことは確実である。第二次大戦後、「学者・専門家」というもののいい加減さがこれだけ社会的にさらされたのは初めてのことだと思う。
 それを考えると、学術の全体性、統合性のためにも、学術の社会的責任・責務のためにも、各分野の研究者が必要な内省をし、それを伝え合うことが重要だろうと思う。それは文理融合ということでもあるが、同時に、人文社会系・自然系の学術の内部での意見交換が必要である。文系の内部でもそれは相当深刻な問題であるが、現状では、とくに地震学・都市工学・防災学・土木工学、そして原子力に関わる学問分野での意見と意思の統一は、学術の社会的責任・責務に属する問題として是非考えていただきたいことである。

2011年7月 5日 (火)

千葉の大六天神社の小山ー千葉神社の東北

110703_174825  一昨日、日曜。図書館の帰り、以前に前を通って驚いたことがある「大六天神社」に行く。千葉市の道場坂下の交差点の北の小山。千葉駅近くの千葉神社を東北の方に進むと最初に突きあたる丘陵地帯の端山である。グーグルで確認することもできます。写真の階段を上った上に立派な神社がある。小山の高さは10メートルほどかもしれないが、広々としていて、裏庭も広い。摂社に道祖神と牛頭天王がいるのが興味深い。すぐ北に千葉刑務所がある。

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 東国における第六天魔王の信仰については、入間田宣夫さんの「津軽安藤の系譜と第六天魔王伝説」(『中世武士団の自己認識』)がある。この論文は「下国伊駒安倍姓之家譜」が室町時代の古体を存し、「境界権力」としての安110703_175313 東氏の性格を反映しているとした平川新氏の分析をうけて、平川氏が強調しなかった「安日長髄」と第六天魔王伝説の関係を論じたもの。
 第六天魔王伝説とは、第六天の魔王はオオアナムチ(大国主)の仏教的な表現であるが、彼こそがこの列島の本110703_175353 来の主であり、アマテラスは、「この国に仏法を広める積もりはない」という「虚言」をもってオオアナムチを騙して国を取ったという伝説である。これは破天荒なものにみえるが、入間田がいう通り、アマテラスによる仏教の内面的な擁護を宣伝するもので、それによってひいては神仏の連携によって支えられた天皇家の日本統治を正統化するという側面をもっていた。
 これに歴史家の中でもっとも早く注目したのは黒田俊雄「中世における顕密体制の展開」で、黒田などの宗教史家にとっては常識的な議論であったが、法制史の新田一郎が、東国においては、「虚言」を使ったアマテラスは起請文、誓約書を書くときには勧請しないという法制史料を紹介してから、よく知られるようになった。
 それに対して、入間田は、伊達政宗がアマテラスを起請文の神とはしないという史料を発見して、平川の議論をうけて、そこに東北権力のみでなく東国的な権力全体の、一種の境界権力としての性格をみたのである。その面では、この伝説は、仏教の内面的な擁護と天皇家の日本統治の正統化とのみはいえない性格をもってくるということになり、信長が第六天魔王に擬せられたというフロイスの記録の、その延長に位置付くことになる。
 そして、入間田は、この第六天魔王伝説は、東国での宗教論議、関東系説話を原点として、東北にも入ってきたのではないかとするのである。そうだとすると、千葉氏の本拠地のそばに「大六天神社」があるというのは、千葉氏と東北との関係からして興味深いことになるのではないかというのが、大六天神社の写真を取りにいった理由である。
 最近、入間田さんと赤坂憲雄さんと一緒に座談会をした『東北学』27号に、入間田さんが論文「千葉大王御子の物語によせて」を載せていて、これが面白い。入間田さんは、奥州遠島の漁村に分布する千葉王子の伝説が下総の千葉に由来することに注目している。これは奥州に進出した千葉氏の動きを背景として南北朝期に原型ができた伝承であろうというのである。興味深いのは、この千葉大王子は天竺から流れ着いたということになっていて、第六天魔王と同じくインドの神という素性をもっていることで、第六天魔王の伝承と、どこか共通するものを感じさせることである。
 そうだとすると、千葉氏は、東北への第六天魔王伝説の流布に関わる一方で、同時に、千葉王子の伝説の流布にも関わったのではないかという想定が可能になることになる。千葉氏というと妙見信仰、北辰信仰が有名だが、それだけではないことになる。
 新田・入間田は萩原龍夫の東国における第六天信仰についての論文(「伊勢神宮と仏教」同『神々の村落』318頁)を引用しているが、萩原は『新編武蔵風土記』などによって、第六天社の分布を「関東から東北にかけておびただしく分布する第六天社」は中世末から近世初頭にかけて流布したと一言するだけで、具体的な研究ではないから、これはさらに追跡するべきものなのかもしれない。千葉氏と東北との関係ということになると、大六天社の分布を中世末としていいかどうかは疑問になる。少なくとも室町期にはさかのぼるのではないだろうか。『曾我物語』冒頭の神祇論の奇怪さからいうと、『曾我物語』のころには似たような俗説がいろいろあったとしても不思議はないようにも思う。
 明け方に目がさめてしまって、以上のメモを書く。入間田さんの第六天魔王論は、上記以外にも面白いが、それはまた。

2011年7月 1日 (金)

火山地震33最古の噴火史料と阿蘇

 文献に残る最古の噴火史料は、「壬申の乱」、つまり天智の子供の大友皇子に対して、天智の弟の天武が反旗をひるがえした内乱を過ぎて、天武の時代の7年、六七八年十月に、長さ五六尺、広さ七八寸ばかりの「綿のごとき」物が難波に降って、松林や葦原に垂れ下がったという記録である。
 残念ながらはっきりとした証拠はないが、これは火山噴火物であろうとされており、実際、その三年後には「灰ふれり」という記録があるから、この時期、どこかで大規模な火山噴火が起きていたと考えることができる。
 注意しておかねばならないのは、人々がこの「綿のごとき」物を「甘露」といって珍重したということである。「甘露」とは、いわゆる「祥瑞」、つまり王者の徳や善行を褒め讃えるために出現するとされる奇跡の一種で、天から降ってくる甘い露のような飴であり、「神霊の精」であるという。『宋書』(符瑞志)に、王が老人や賢者を敬うと、この甘露が松や竹葦の上に宿るとあるから、この「綿のごとき」物が、松林や葦原に降ったというのも、それに対応させた文章かもしれない。
 「綿のごときもの」の正体は分かりにくいが、もしそれが実際に火山噴出物であるとすると、あるいはハワイのキラウェア火山に特徴的なレティキュライトに類似したスポンジ状の火山噴出物であろうか(鎌田『火山噴火』76頁)。「綿のごとき」物が、「長さ五六尺(一・六メートル)、広さ七八寸(幅二二センチ)」というのはレティキュライトとしても大きすぎるように思えるが、しかし、八三八年(承和五)の伊豆国神津島の大噴火の時には、火山灰は西に飛んで、河内・播磨・紀伊などにまで降った。そして、人々は、その「灰のごとき」物を「米花」と呼んで縁起のよいものとしたという。「米花」というのが、白いふわふわしたものを表現するのだとすると、二つは相似したものであった可能性はあるだろう。そうだとすると、あるいは伊豆火山群の噴出物であるとも考えられるのである。実際に伊豆火山はしばらく後に噴火している明証がある。
 ただ、もう一つの可能性は阿蘇であろうか。実は、時間がはっきりした噴火記事としては、「綿のごときもの」の降下がたしかに噴火の最古の記録であるが、日本の火山それ自身についてのもっとも古い記録が残るのは阿蘇山である。阿蘇山については『隋書』倭国伝に「阿蘇山あり。其の石、故無くして火起こり天に接するは、俗もって異となし、因って禱祭を行う」とある。『隋書』は六三六年には成立していたというから、それ以前、たとえば有名な聖徳太子の遣隋使の頃には大陸に阿蘇火山のことが伝わっていたことになるだろう。
 そして、あくまで推測であるが、この「綿のごときもの」が降下した翌年、六七九年(天武七)に大地震が九州を襲っているから、この時期、九州の地殻が不安定であったことはいえると思う。
 この地震は、『理科年表』の推定ではマグニチュード六、五から七、五。年末一二月のある夜のことであったという。この地震によって、広さ二丈(六㍍)、長さ三千余丈(九〇〇〇㍍余)の断裂が地上を走り、百姓の家が各地で多数倒壊し、また山崩れも起きたという。山崩れで、岡の上にあった家が麓まで滑り落ちたが、中にいた家族は寝ていてそれをしらず、朝になって山崩れをしって驚いたというのは、少なくともそういう噂が広まったというレヴェルでは事実だったのであろう(『日本書紀』天武七年一二月二七日条)。
 地震の震源は、久留米市の東側に連なる水縄山地の北辺を走る水縄断層。この断層は水縄山地とその北の筑紫平野を作り出した大断層である。この地域には、七世紀後半の地震において液状化したと考えられる砂層が何カ所も確認されており(寒川『地震の日本史』)、さらに水縄山地を西に越えた豊後の日田郡でも山崩れと温泉の湧出がおきた。『豊後国風土記』によると、日田郡五馬山(現在の栄村五馬市付近の山)の稜線が崩れて温泉が噴きだし、その内の一つは直径三㍍ほどの湯口をもつ間歇泉で、「慍湯」と呼ばれたという。現在も栄村に温泉があるのは、ここに由来するということになろう。
 岩波の『風土記』の頭注はこの時阿蘇が噴火したとしているが、筑紫と豊後で地震が発生した以上、この時、阿蘇山の噴火活動が活発化した可能性も高いのではないだろうか。ただ、私は、この頭注にそって阿蘇のことを考えてきたのだが、この頭注自身にはとくに根拠がある訳でもないようで、これはあくまでも推測である。
 問題は、阿蘇火山の噴出物はハワイ火山と似ている部分があるということで(渡辺一徳『阿蘇火山の生い立ち』)、その意味では「綿のごときもの」れはあるいは阿蘇からの飛来であったかもしれない。ペレーの涙などといわれるハワイ火山の独特の噴出物とにたものがあるという。
 なお、歴史家としては、なによりも興味深いのは、『隋書』の記述は、阿蘇山が「禱祭」の対象となっていたことを示すことである。これは、『肥後国風土記』が阿蘇山の頂上には「石壁」の「垣」の中に「霊しき沼」・「神宮」があるとしていることに対応するといってよい。「石壁」とは阿蘇カルデラの外輪山を意味するのであろう。重要なのは、その「灰石」と呼ばれた石材が、五世紀のころ畿内の古墳の石棺にしばしば利用されたことである(渡辺『古代文化』42巻、1号、1990)。この灰石はピンク色をした溶結凝灰岩で、軟らかく細工しやすいというが、古墳石棺への利用は、たんに加工しやすいということではなく、「神宮」の素材にふさわしいという観念があったとすべきであろう。阿蘇の噴火は、後々まで異変の徴として大きな意味をもったが、その理由は、相当に根深いものであったと考えられるのである。
  以上は、ほとんどこれまで指摘されていることであるが、『かぐや姫と王権神話』で論じた火山と古墳という問題は、やはり、奧があるように思うのである。阿蘇が諏訪と同体とされているのも興味をひくことである。

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