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2011年7月23日 (土)

荘園をどう教えるか(1)歴史教育ー鈴木哲雄『社会史と歴史教育』を読んで

「荘園をどう教えるか」1ー鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』(岩田書院1998)を読む
 今日は行き来の電車で鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』を読む。
 教科書の執筆やアドヴァイスの関係で、必要があって探していたのにでてこないで困っていたら、昨日、ふと机の左手の本棚の一番手前にあるのを発見。
 この本は、いわゆる「中世史」の教材研究の中では、私の知る限りもっともまとまった本で、考える問題も共通しているので、確認をしたかった。
 この本は、二つの問題で書かれている。第一は「荘園をどう教えるか」、第二は「社会史を教材としてどう位置づけるか」である。
 第二の社会史を教材としてどう位置づけるかは、私も書いたことがあり、WEBPAGEに「教材としての社会史」(歴史教育者協議会編『前近代史の新しい学び方』)という文章を掲げてある。それから、いま、WEBPAGEに東京大学出版会のシリーズ『学びと文化』4に載せた「歴史を通して社会をみつめる」をあげておいた。これはPCの中でテキストが紛失して、何処にあるかわからなくなっていたもの。これはいま発見。
 鈴木氏の「社会史」を歴史教育の中にどう位置づけるかという問題提起は、私と問題関心が共通する。いわゆる社会史は、歴史常識や「歴史物語」の常識を民衆史的なレヴェルから問い返し、歴史文化の全体を変化させようという仕事だった。それは当初の目的を果たす道の半ばにもいっていないが、この仕事にとってもっとも頼りにすべきは歴史教育の場、教育の場であるはずである。鈴木氏はそのことがよくわかっている。
 しかし、むずかしいのは、やはり第一の「荘園をどう教えるか」である。
鈴木氏は、この本で千葉習志野高等学校での授業の経験を通じて、どういうように「荘園を教えるか」、どういう教材とカリキュラム構成が必要かを論じている。授業というのは、どういう場合も個性的なものだということを前提にしながら、自分自身の授業の経験を追跡し、どういうように変化させたかを紹介しているので、その内容は説得的である。
 「荘園を教えるのがむずかしい」のは、通常、荘園というものが奈良時代末期から、室町時代まで続く土地制度の一部をなしていて、奈良時代および九世紀までの初期荘園、一〇世紀から一二世紀の国衙の土地制度に従属して存在する荘園(免田型の荘園)、一二世紀以降の領域性を明瞭にもった荘園、室町時代の土地制度の基軸システムとしては残るが、全体としてより複雑化した地域社会の中で形を変えている室町期荘園の四段階に区別されるからである。
 言葉としてはどれも同じ「庄」なので、歴史研究でも歴史教育でも大きな混乱のもとになっている。これをはじめて明瞭に指摘したのは峰岸純夫氏で、なんともうすでに25年前、1986年の『歴史学研究』553号にのった座談会での発言である。いわく「荘園が摂関政治のところで出てきて、それからその後でも出てくるということになって、必ずしも全体が整合的でなく、混乱を招いている。そこで思い切って、これを中世社会の基本の土地制度と位置づけることによって、他の事象との整合性をはかった方がすっきりすると思う」という訳である。氏の言葉にされにつけ加えておけば、奈良時代の墾田だとか、私有の発展だとかも「荘園(初期荘園)」なのでいよいよ混乱はますということである。
 しかし、実際には状況はかわっておらず、歴史教育の現場では、この25年間すっきりしないままで来たということになる。こういうのは歴史学の社会的責任としてどういうように考えるべきだろうというのが、峰岸発言が1986年の座談会であったということを、いま確認して感じること。私も、この座談会の後に発言をしたことがある。その一例としてやはりPCの中から出てきた「コメント」(前記、歴史教育者協議会編『前近代史の新しい学び方』に掲載した藤原千久子先生の教育実践へのコメント)を挙げておく。ただ、こういう問題は、結局、誰かしかるべき人が議論してくれるだろうと思っているうちに、私も60を過ぎてしまった。
 こういうことになったもっとも基本的な理由は、鎌倉時代から南北朝室町時代への土地制度の連続・不連続について、いまだに明瞭な議論が組み立てられていないためであって、学問的にはやむをえない理由があり、学界も手をこまねいていたということではない。しかし、あらためで確認してみると、「かくも長き不在」には困惑する。別の分野の学問でいえば、たとえば病気治療のための新薬の諸分野共同での開発の必要性が確認されながら、25年もたってしまって、その間の総括もされていないということだから、忸怩たるものを強く感じるべきであろうとも思う。そして、当時よりも歴史学の研究と教育の間の職能的な関連や連携は緊張度を減らしているのも問題である。
 さて、鈴木氏の授業とその自己分析の貢献は、奈良時代から平安時代末期までの荘園を区別して教材化する試論を提出したことである。(1)律令制王国時代の初期荘園」は、「墾田永年私財令」との関係で「墾田」の一部として説明してしまう、(2)10・11世紀の荘園は、「免田型」荘園とか「公田」として説明してしまう、(3)12世紀の院領荘園を中心とする領域型の荘園を「荘園公領制」の一部をなす荘園として説明するというものである。鈴木氏は、このうちの(2)を越後国の石井庄の荘園史料を使用し、(3)を紀伊国のカセダ荘の絵図を教材として、高校生にも理解でき、討論ができるような形で授業を組み立てた経験を報告している(なお、石井庄の史料で、種籾用に、稲を貸しつけるという一節があるが、これを説明するのに『一遍聖絵』の常陸国の土豪の家の裏手にみえる「稲積」の絵画史料が有効ではないかということ。これも近く追加説明をしてみたい)。
 細かな議論がさらに必要なところはあるにしても、私は、この大筋は、確認をしてよいのではないかと思う。その上での問題は、それでは(3)でいう「荘園公領制」というのはどう教材化することが可能か、そして次の南北朝期以降への関係をどうするのかということになる。
 これについて、この夏をかけて、徐々にシリーズで書いていくことにしたい。

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