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2011年7月 8日 (金)

火山地震34東大での14日講演「貞観津波ーー」の準備

 7月14日に、東大の海洋アライアンスのシンポジウム「震災を科学する」で「貞観津波と大地動乱の九世紀」という講演があり、その準備で自宅仕事。
 だいたいのところは先日、この七月にはでる『東北学』に同じような題で書いたので、それを繰り返せばよいのだが、よい機会なので、問題を整理してみたい。
 とくにほかの講演者は、全員自然科学。地震研・海洋研・理学系・生産技術研究所などの方なので、どういう話しの仕方をしたらよいものかを考える。もっぱら理系のデータにより語るという印象のものにできればと思う。

 まず必要なのは、八九世紀の地震の概説。

 八世紀、つまりいわゆる奈良時代には、前半が地震の活発期で、中央構造線沿いの活断層が動いている。もちろん、7世紀最後の南海地震は、記録上、最初のプレート間地震とされるが、8世紀前半は局地地震が多い。たとえば、(1)7世紀最後の筑紫地震ーー水縄断層、(2)七一五年(和銅八)遠江・三河地震ーー天龍川上流の平岡断層あるいはその若干南を走る中央構造線自身、(3)七三四年(天平六)畿内地震ーー誉田断層などの生駒断層系、(4)七四五年の美濃国地震ーー養老山地の東縁から桑名市と四日市をつらぬく、養老・桑名・四日市断層帯ということになっている。この畿内地震と美濃国地震は聖武に対する衝撃が強く、政治史を強く規定した。
 そして、八世紀後半は、地震活動はおさまるが、逆に火山活動が活発化する。しかも最初は、別符鶴見岳・桜島付近の海底火山噴火、そして阿蘇カルデラ湖の水位減少など九州の火山フロントが活発化するが、800年に富士の大爆発が起きて、日本人の火山認識が、阿蘇から富士を中心にするものに変わる大画期となる。
 九世紀には、天皇でいうと、桓武・嵯峨の時期は、京都では、地震・噴火はそう多くないが、嵯峨の時期は関東地震がある。その弟の淳和は極端なほどの京都群発地震に襲われるが、退位とともに群発地震はおさまり、嵯峨の子供の仁明の時期は地震は静か、これは仁明が「聖帝」であるとされたことの一つの理由になっているかもしれない。しかし、仁明は伊豆神津島の大噴火と阿蘇カルデラ湖の水位減少に神経的な対応をみせる。子供の文徳も地震に襲われ、陵墓まで狙われたという物語がある。東大寺大仏の頭が落ちたのは文徳の時期である。可哀想なのは清和で、きわめて地震が多く、富士の有史上最大の噴火にも襲われる。彼は大地に呪われた王といえるかもしれない。
 清和の子供の陽成の時期にも地震は多く、さらにその後を継いだ光孝天皇などは地震の直撃をうけて、その直後に死んでしまった。
 こういう政治史の話しは自然系の人も面白がるだろうが、できるかぎり、そこに話しを落とすのはさけ、環境史の話しとして趣旨を通したい。ただ、地震史・噴火史として、そういう話しの方向にもっていくのはなかなか困難なので、貞観津波の歴史的理解にも直結する気候史の話しもあわせてしようかと考える。

 この時代を考える時に、重要なのが、8・9世紀が、気候の温暖化の時期で、平均気温が1度あるいは2度は高かったとされていることである。

 この時期の気候史については、奈良女子大学の西谷地晴美氏がもっとも詳しいので、一昨日、電話で研究状況についての意見を聞いた。それによると、ようするに温暖化をめぐる「政治ー科学論議」の中で、気候学者の間でも微妙な分岐があり、現状の温暖化を危機ととらえる人々はむしろ8/9世紀の温暖化を低く評価し、現状の温暖化を通常の地球史の枠内で捉える人が逆に8/9世紀の温暖化を強調するという傾向があるのかもしれないということであった。しかし、ともかくも、8/9世紀の温暖化の傾向自身は従来と同じように考えておいてもよい、例の屋久杉の年輪分析は、現在でも生きているということであった。
 昨年、集中講義の時に聞いた自然系の研究にそのまま依拠するのは注意した方がよいという意見を受けとめることができなかったことを反省。西谷地氏のいうように、この温暖化が旱魃と疫病の流行の重要な条件となったことを再認識した。とくに九世紀後半は温度が高い時期になっているから、これが貞観地震の三年前、貞観八年をピークとする飢饉・疫病の大流行をもたらしたことはほぼ確実である。

 この時期の日本の気候史のもう一つの重要な根拠となっているのは、尾瀬の泥炭層の分析であるが、その話しは磯貝富士男氏に何度も聞いた。耳学問のありがたさを思う。

 ようするに、8・9世紀はプレート間地震だけでなく、局地的な地震もきわめて多く、しかも京都畿内の群発地震が多い。そして地震が少し収まったかと思うと火山が噴火する。しかも温暖化を一つの条件とした旱魃・疫病の流行によって飢饉が社会を直撃するという時代であった。
 これらの問題が、この時期の政治史にきわめて大きな影響をもたらしたことが、これまでの歴史研究の視野にまったく入っていなかったというのは、今回、史料を点検してみて驚いたこと。私たちの先輩の研究者は、歴史学の現代的な役割は何か、社会的な役割は何かということを中心にして彼らの歴史学を作ってきた。我々が、それに何をつけ加えることができたかはおぼつかない。意図だけはあったが、十分なことができたとは思えない。その総点検が、こういう形で強制されるということなのだろうと思う。

 原発震災を前にすると、学術の反省は全面的に行われなければならないことは確実である。第二次大戦後、「学者・専門家」というもののいい加減さがこれだけ社会的にさらされたのは初めてのことだと思う。
 それを考えると、学術の全体性、統合性のためにも、学術の社会的責任・責務のためにも、各分野の研究者が必要な内省をし、それを伝え合うことが重要だろうと思う。それは文理融合ということでもあるが、同時に、人文社会系・自然系の学術の内部での意見交換が必要である。文系の内部でもそれは相当深刻な問題であるが、現状では、とくに地震学・都市工学・防災学・土木工学、そして原子力に関わる学問分野での意見と意思の統一は、学術の社会的責任・責務に属する問題として是非考えていただきたいことである。

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