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2011年7月 1日 (金)

火山地震33最古の噴火史料と阿蘇

 文献に残る最古の噴火史料は、「壬申の乱」、つまり天智の子供の大友皇子に対して、天智の弟の天武が反旗をひるがえした内乱を過ぎて、天武の時代の7年、六七八年十月に、長さ五六尺、広さ七八寸ばかりの「綿のごとき」物が難波に降って、松林や葦原に垂れ下がったという記録である。
 残念ながらはっきりとした証拠はないが、これは火山噴火物であろうとされており、実際、その三年後には「灰ふれり」という記録があるから、この時期、どこかで大規模な火山噴火が起きていたと考えることができる。
 注意しておかねばならないのは、人々がこの「綿のごとき」物を「甘露」といって珍重したということである。「甘露」とは、いわゆる「祥瑞」、つまり王者の徳や善行を褒め讃えるために出現するとされる奇跡の一種で、天から降ってくる甘い露のような飴であり、「神霊の精」であるという。『宋書』(符瑞志)に、王が老人や賢者を敬うと、この甘露が松や竹葦の上に宿るとあるから、この「綿のごとき」物が、松林や葦原に降ったというのも、それに対応させた文章かもしれない。
 「綿のごときもの」の正体は分かりにくいが、もしそれが実際に火山噴出物であるとすると、あるいはハワイのキラウェア火山に特徴的なレティキュライトに類似したスポンジ状の火山噴出物であろうか(鎌田『火山噴火』76頁)。「綿のごとき」物が、「長さ五六尺(一・六メートル)、広さ七八寸(幅二二センチ)」というのはレティキュライトとしても大きすぎるように思えるが、しかし、八三八年(承和五)の伊豆国神津島の大噴火の時には、火山灰は西に飛んで、河内・播磨・紀伊などにまで降った。そして、人々は、その「灰のごとき」物を「米花」と呼んで縁起のよいものとしたという。「米花」というのが、白いふわふわしたものを表現するのだとすると、二つは相似したものであった可能性はあるだろう。そうだとすると、あるいは伊豆火山群の噴出物であるとも考えられるのである。実際に伊豆火山はしばらく後に噴火している明証がある。
 ただ、もう一つの可能性は阿蘇であろうか。実は、時間がはっきりした噴火記事としては、「綿のごときもの」の降下がたしかに噴火の最古の記録であるが、日本の火山それ自身についてのもっとも古い記録が残るのは阿蘇山である。阿蘇山については『隋書』倭国伝に「阿蘇山あり。其の石、故無くして火起こり天に接するは、俗もって異となし、因って禱祭を行う」とある。『隋書』は六三六年には成立していたというから、それ以前、たとえば有名な聖徳太子の遣隋使の頃には大陸に阿蘇火山のことが伝わっていたことになるだろう。
 そして、あくまで推測であるが、この「綿のごときもの」が降下した翌年、六七九年(天武七)に大地震が九州を襲っているから、この時期、九州の地殻が不安定であったことはいえると思う。
 この地震は、『理科年表』の推定ではマグニチュード六、五から七、五。年末一二月のある夜のことであったという。この地震によって、広さ二丈(六㍍)、長さ三千余丈(九〇〇〇㍍余)の断裂が地上を走り、百姓の家が各地で多数倒壊し、また山崩れも起きたという。山崩れで、岡の上にあった家が麓まで滑り落ちたが、中にいた家族は寝ていてそれをしらず、朝になって山崩れをしって驚いたというのは、少なくともそういう噂が広まったというレヴェルでは事実だったのであろう(『日本書紀』天武七年一二月二七日条)。
 地震の震源は、久留米市の東側に連なる水縄山地の北辺を走る水縄断層。この断層は水縄山地とその北の筑紫平野を作り出した大断層である。この地域には、七世紀後半の地震において液状化したと考えられる砂層が何カ所も確認されており(寒川『地震の日本史』)、さらに水縄山地を西に越えた豊後の日田郡でも山崩れと温泉の湧出がおきた。『豊後国風土記』によると、日田郡五馬山(現在の栄村五馬市付近の山)の稜線が崩れて温泉が噴きだし、その内の一つは直径三㍍ほどの湯口をもつ間歇泉で、「慍湯」と呼ばれたという。現在も栄村に温泉があるのは、ここに由来するということになろう。
 岩波の『風土記』の頭注はこの時阿蘇が噴火したとしているが、筑紫と豊後で地震が発生した以上、この時、阿蘇山の噴火活動が活発化した可能性も高いのではないだろうか。ただ、私は、この頭注にそって阿蘇のことを考えてきたのだが、この頭注自身にはとくに根拠がある訳でもないようで、これはあくまでも推測である。
 問題は、阿蘇火山の噴出物はハワイ火山と似ている部分があるということで(渡辺一徳『阿蘇火山の生い立ち』)、その意味では「綿のごときもの」れはあるいは阿蘇からの飛来であったかもしれない。ペレーの涙などといわれるハワイ火山の独特の噴出物とにたものがあるという。
 なお、歴史家としては、なによりも興味深いのは、『隋書』の記述は、阿蘇山が「禱祭」の対象となっていたことを示すことである。これは、『肥後国風土記』が阿蘇山の頂上には「石壁」の「垣」の中に「霊しき沼」・「神宮」があるとしていることに対応するといってよい。「石壁」とは阿蘇カルデラの外輪山を意味するのであろう。重要なのは、その「灰石」と呼ばれた石材が、五世紀のころ畿内の古墳の石棺にしばしば利用されたことである(渡辺『古代文化』42巻、1号、1990)。この灰石はピンク色をした溶結凝灰岩で、軟らかく細工しやすいというが、古墳石棺への利用は、たんに加工しやすいということではなく、「神宮」の素材にふさわしいという観念があったとすべきであろう。阿蘇の噴火は、後々まで異変の徴として大きな意味をもったが、その理由は、相当に根深いものであったと考えられるのである。
  以上は、ほとんどこれまで指摘されていることであるが、『かぐや姫と王権神話』で論じた火山と古墳という問題は、やはり、奧があるように思うのである。阿蘇が諏訪と同体とされているのも興味をひくことである。

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