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2011年8月

2011年8月31日 (水)

肥田舜太郎氏の談話、原発事故にどう対処するか。

ブログ「院長の独り言」(東電元社員で、今は熊本のお医者さんという人のブログ)より引用。鎌仲ひとみ氏との共著『内部被ばくの脅威』(ちくま新書)は買ったが、まだ読んでいない。来週の出張にもっていっていそいで読む積もり。http://onodekita.sblo.jp/article/46361502.html

われわれは原発事故にどう対処すればよいか(肥田舜太郎氏)

肥田舜太郎(ひだしゅんたろう)氏
1917年広島生まれ。1944年陸軍医学校卒。軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。1945年広島にて被ばく。被ばく者救援にあたる。全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。全日本民医連会長などを歴任。全日本民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。鎌仲ひとみ氏との共著『内部被ばくの脅威』(ちくま新書)は内部被ばくのメカニズムを解き明かし、その脅威の実相に迫る

「福島で被ばく初期症状が始まっている。今年秋から来年たくさん出てくる」

全国保険医新聞(5月5・15日)から(一部引用させていただきます)-医師向けです

 原発事故の放射能被害の事態をどう見て、どう考えたらよいのかが医師に問われている。65年にわたって被ばく医療を実践し、原爆認定集団訴訟の中心的役割を担って国と戦ってきた肥田舜太郎医師に緊急インタビューした(『埼玉保険医新聞』4月5日より転載紹介)
放射線被ばくの治療について
-開業医の中では、放射線に対する治療を知らない人がたくさんいると思いますので、まず、治療について伺います。
肥田
 放射性降下物による内部被ばくには治療法はまだありません
-開業医の先生方にとって被ばくを治療する知識は、どういうものがあるのでしょうか。
肥田
 一番マークしなければならない症状は、「非常にだるい」「仕事ができない」「家事ができない」という、原爆症の中で一番つらかった『ぶらぶら病』だ。
-避難者の中でそういう症状が現れれば原爆病・・・。
肥田
「ぶらぶら病」という概念にあたる、原因の分からない後遺症。治療法は分からない。命が危険になる病気ではない。周期的にくる。大部分はその人特有の現れ方をする。ぜんそく発作のように、始まると4,5日止まらないとか、何週間、何ヶ月も続くとか、その出方も症状もみんな違う。
 いろんな検査をして、広島ではぶらぶら病の患者に対して「病気じゃない。原爆にあったショックの精神障害だからだんだんよくなる」と言うと、他の医療機関を受診し、同じことの繰り返しになる。これが特徴だ。
-例えば白血病などはどうでしょう。
肥田
 白血病はまだでない。3年以降で、白血病はピークが5年、がんが7年だった。これは必ずピークは出る。医師は知っておいた方がいい。被災者のみんなが放射能障害を心配している中で、「心配しなくていいよ」という医者では通用しなくなる。
-日本の専門機関では内部被ばくの治療に取り組んでいるのでしょうか。
肥田
 内部被ばくの治療法はないからやっていないと思う。内部被ばくについて本が出ているのは米国とイギリスとスイス。僕が知っているのは全部で5冊。本を出すほどまでに内容を知っている人は少ない。書く材料があまりない。
 チェルノブイリの時、ソ連も被害を隠し続けて、医師にも研究させなかった。しかし最近は、学問的にすごく進歩して、今までは細胞核の中にある遺伝子が傷つくと病気になり、遺伝障害が起こるとされていたが、今は、原形質のミトコンドリアの生涯よる遺伝子以外の放射線障害も分かってきた。
 今までの医学は細胞単位の医学だったが、放射線被害は分子段階で被害が起こる。新陳代謝は体内の1000個と少しの原子が参加する。その中で主役を務めるのは酸素分子である。
 最近そのエネルギーを測定できるようになり、すべての分子が100電子ボルト以下のエネルギーであることが分かった。ところがウラニウムの分子が一つ入ったとすると、この分子は270万電子ボルト。100円単位で取引しているところへ270万円持って入ってくることになる。エネルギー単位が全く違う。それで細胞の新陳代謝がばらばらになって動揺して、崩壊する。
 細胞は死ねば無害だが、悪いことにそのままの状態で生きていく。細胞は寿命が来たら死んで、自分と同じ細胞を二つ残す。放射線でめちゃめちゃになった細胞がそのまんまの姿で再生する。そしてがんになる。がん細胞は、人間ではない別な生き物だ。だから治せない。
-内部被ばくはメカニズムが違うと言うことですね。
肥田
 分かってみたら今までの常識の常識の正反対だったと。
 例えば、外からの放射線は、強ければ強いほど大きく影響を受ける。少なければ影響も少ないというのが常識だ。ところが細胞の中で放射線が影響を与えるときは、たくさんの放射能物質があると影響が出ない。
 放射線が体内に入って核分裂して、アルファ線とかベータ線とか出す。細胞の回りにはたくさんの酸素分子があり細胞を出入りしている。その酸素分子に放射線が当たり活性酸素に変えてしまう。活性酸素になると荷電する。
 細胞膜はどうやって異物を中に入れないようにしているかというと、脂質と燐が結合した燐脂質という分子が電気を持っており、細胞の回りに存在して電気の膜で守っている。放射線の分子は入れてもらえない。それが活性酸素で電気の穴が開き、その中に入ってしまう。だから270万円を持ったやつが100円しか持たないものの中に入っていき、活動を始める。そこまで今の医学は分かってきた。
 そういう一番の基礎を勉強して、細胞の中で人間の命が作られ、その元を壊してしまう、放射線はそういう人間の壊し方をするんだと言うことが分かれば、どんなにすくなくても防がなくてはならないという考え方が、知識人ならできる。
(中略)
今後の取り組みについて
-この問題にどう取り組んだらいいか、ご提言いただけますか。
肥田
 医師として、福島原発のヒバクシャの診療に関わる機会が増えるのではないかと予測される。 内部被ばく者診療の重点は2つ。
 第1は、主訴が「頑固な倦怠感」の場合は、患者の話をじっくりと聞くこと。聞くだけで患者の不安はかなり癒され、医師への信頼が強まる。
 第2は「患者を励ますこと。」患者は極端な無力感に陥っている。何より重要なのは強烈な「生きる意志」である。


 我々医師はもちろん、日本国民全員が読むべき内容です。

 94歳肥田医師が非常におおきな熱意を持ってされておられるのですから、我々もあとにつづきましょう。

2011年8月29日 (月)

協同組合と野菜と、おいしいものと世界

 昨日は、帰国前のNATSUちゃん、連れ合いのTさんと食事。シモン君も呼び出す。
 新宿駅の南口のホテルで待ち合わせだが、南口の変化におどろく。ずっといったことがない。そもそも前の(普通の)南口にでる階段よりさらに南、ホームの一番南に「サザンテラス」という出口ができている。いったい何年前にできたのかもしらないが、ここはどこだと出ていくと、南から人が歩いてくる。どん詰まりに国鉄をまたぐ跨線橋があって、その向こうが高島屋。そういえば高島屋が、ここにできたころに、そのそばを歩いた。もう何年前なのであろう。こんなところにデパートを建ててどうするんだと思ったことを思い出す。東京の消費文化と無縁な生活を送っている証明。
 ホテルのロビーは20階。御苑がみえ、あっちが新宿高校かという方向感覚だけはわかる。少し遅れてシモンが来て、東京がむやみに広いことに驚いている。そして、山がないんだと感心している。スイスの人には山がない風景は面白いらしい。彼にいわせるとスイスはボアリングだと。NATSUちゃんたちの部屋は30階。「東京には空はあるが、山はない」というところか。高いところからみた東京はあまり感心しない。どうしても虚飾の場という印象になってしまう。
 跨線橋をまたいで、伊勢丹の方面へ。「農家の台所」という店。伊勢丹の向こう。これはあたりであった。
110828_185716  シモンは生野菜のままのサラダバーが気に入って6回も交換。冬瓜、白ゴーヤ、トウモロコシの輪切りがうまい。今、こういう店がはやっているのだそうである。NATSUの旦那さんはシェフなので、日本に来たのは食材の取材がてらである。グローバリゼーションが食べ物から始まるというのは、15世紀以来の通則であるということを説明するが、そのくらいのことならば、私の英語でも通ずるようである。
 こういう店はたいへんに面白い。本店は国立。ようするにまずは東京の畑でできるものを中心にした協同組合で、その販売組織を基盤にした台所ということだろうか。天井からは提供者の農家の名前を書いた垂れ幕
がさがっている。

 110828_190143 どういう風に計画し、資本を集め、起業したのか。協同組合的な組織と商品、資本、利潤の関係を具体的に考えると、どういう理論理解になっていくのだろう。これが将来社会のあり方を考える上でも基本問題であることはいうまでもない。農家という職能的な専門性と資本・販売・消費の一般性の関係。職能組織や地域組織が商品関係を含みこみ、それによって商品や資本の貪欲な自己運動を押さえ込む多様な仕掛けなしには、将来社会の構想は不可能である。そして、肉を切らせて骨を断つためには、社会の肉と骨を自己自身のものとして理解する感性と文化・知識の水準がないとならないということになる。

 商品経済は、さまざまな歴史的な社会構造の中に併存するというのが経済学の定式であるが、どのように生まれ、どのように併存しているかということについての精細な理論は存在しない。そもそも併存というようなレヴェルの問題ではないだろう。理解の共通性もなく、議論の方向もない。私などは大塚久雄先生の「前期的資本」論に戻って考えてしまうが、大塚さんの理解の基底には、商品生産は共同体間の世界に始まるという定式があって、そこから組み立てられている。それはそうなのだが、しかし、その共同体間分業論は形式的に過ぎるというのが、大学時代以来の考え方。少なくとも、その組み立てはあくまでもデッサンにとどまっていると思う。
 歴史理論にとっては、まずは共同体あるいは職能組織と商品経済の関係の多様性という問題である。商品生産が商品生産として発展するのは、村落の生産物が共同体間の商品市場をめあてとして営まれることなしにはありえない。それは一方で、共同体内部の規律化の条件となり、実際にはこの規律化を条件として、「特産物の貢納」と地代化という問題が起こる。そして、共同体間の世界は公的世界であるとともに、無法世界。網野さんのいう「無縁」の世界。国家がそこから生まれる世界である。ここに目を注いで、東アジアにおける国家と商品経済の関係の理論的な理解まで汲み上げていかなければならない。この問題はどうしても理論が抽象的になってしまう。宮崎市定氏の仕事に違和感をもつのはここ。『東洋的近世』に書かれた単純な「宋代=マニュファクチャー」論は、どうして、こんなに図式的なことがいえるのか。まったく理解できない。
 問題は社会的分業(精神労働と肉体労働の対立)が職能の身分的体系として現象する局面と、社会的分業を媒介する商品経済との関係という種類の原論的な問題になる。これを労働論、価値論の基礎レヴェルから解いていくというのが、私の考える大塚先生批判の初心である。これは大塚先生に直接に御話ししたことはない。こういう方向で考えようとした時には、もうなくなられる前であった。
 どのような社会でも、社会の最終的な理解のためには、社会の向こう側に存在する自然との関係まで見通すことが必要である。社会の網の目の体系を理解し、その総体を相対化して、それを背後において、正面から自然と向き合うところまで進まなければならない。こういう視座をつねに研究過程に確保すること。これは現代社会ならば、いわゆる資本の三位一体定式のレベルから自然をみることであり、それは経済学的には大地・土地・地代までを理路一貫して理解することを最大の前提としている。どのような社会構成でも、このような全体的理解の上にたって、経済的・社会的利害の配分の体系をとらえ直すことによって、社会的職能の体系の理解が可能になる。そして、それが可能になって始めて、社会的利害状況の対立、社会の内部における敵対的対立構成の理解が可能になり、社会の現実的な運動の根本的な理解は、理論的にはその上で可能になる。人間労働・蓄積生産手段・土地の三位一体、トリアーデの理解が職能理解の基本になることは『資本論』でも書いてある。
 大塚先生の山田盛太郎講演にあるように、再生産論は、このレヴェルの理解に展開することなしには現実的な社会認識にはならない。前近代史の研究者には、この職能論と身分論の理解が決定的な位置をもつ。

 NATSUちゃんの話で面白かったのは、町に有名人を作り出すというパフォーマンスアートの授業の話。授業で役割をきめ、脚本を決めて、街角に待機し、スポットと時間順序にそって、クラスのある子の名前を有名にして、物見高い人々で、道を一杯にするというパフォーマンスアート。これは面白いらしい。適当な町の大きさでないとできないので、東京のようにだだっぴろい文化果てる地ではできない。社会の操作性、猿芝居性を実感的に考える機会を提供する芸術は教養であるということ。

 有名というのは、みんなが注目するから有名になる。ところが有名人は俺は有名人だから、みんなが注目するという錯覚をもつ。この有名関係を物化させるのが商品関係であるというのが現代。しかし、この同じ単純な構造が前近代の身分の本質にあることは、マルクスがフィフィテをからかいながら述べたこと。「王と臣下の弁証法」である。人々が王を王としてあがめるから、王は王になるのであるが、王は、特定の身振り・扮装などと自己を二重化させる過程に臣下の共謀を連続的に獲得することによって、俺は王だから王なのだという身分意識を確保する。そしてそれが空気伝染するという訳である。この錯覚がうまく組織されると、人々は、王が王だから臣従し、あがめるのだという逆転した意識をもつことになる。ここでは王も、学者も俳優も同じ論理で職能が固定されるということになる。
 商品も自己が流通力をもつから商品であるというように理解するが、これは購買が基本になる。商品の流通力の幻想が商品フェティシズムの物化の原点であり、その媒体が貨幣であるという考え方。商品論からトリアーデまで社会的職能・機能をめぐる一貫した理路を復元する仕事に早く取りかかりたい。

 それにしても、民主党の猿芝居をみていると怒り心頭になる。あれはまったくの猿芝居である。下手であることも自覚していないのをみるといよいよ怒りがつのる。家にかえって、NHKのETVの放射能計測と「徐染」に関わる木村さんの奮闘の番組をみる。木村さんに意見を聞くNHKのディレクターの話振りがいい。「政治不快情報」を流す垂れ流すマスコミはどうしようもないが、これは一貫した追及。しかし、それだけに、みているといよいよ怒りがつのる。政治=猿芝居は長い間の「日本の伝統」であるが、現状、これでは困るだろうと話す。
 こういうのをみていると、「本当の」日本の伝統を誉めあげたくなるという心理が発生するのは自然である。それが健康で発展的なものになるように下支えするために、歴史家もパトリオティズムに共感する能力をもたなければならないと思う。「農家の台所」での結論は、愛国主義は、食事と野菜のうまさから出発するということになる。そしてうまいものは国籍が違ってもうまい。食物のうまさを知り合うというのが、よい意味でのコスモポリタニズムの原点である。NATSUちゃんには「おじちゃんのこむづかしい」ブログといわれたが、以上が単純な結論。
 さて、しかし、いつかNATSUちゃんの彼、Tさんの店に行くことを約束した。いつ行けるか、楽しみである。

2011年8月26日 (金)

常陸国の地域史と教育、エッセイ

 今、帰りの総武線。PCの中をみていたら、常陸国の地域史についてのエッセイがでてきた。
 私の父は、茨城県の土浦の出身で、土浦には大事な親戚がいる。その関係で常陸国の地方新聞に依頼されて連続記事を書いた。もういつのことだか記録が残っていない。6話読み切りである。
 先日、歴史教育関係の講演をし、その中で『一遍聖絵』の常陸国の地主の家について言及したが、いま、このエッセイの中にも同じ画面についての言及があるのを知った。その他歴史教育についての言及もあるので、これを上げておくことにした。下記のようなもの。

①石岡市「鹿の子遺跡」の漆紙と日本の人口
 八世紀、つまり奈良時代の歴史史料はきわめて少ない。これが増加するなどということは、私が歴史の研究に興味を持ち出した頃には考えられなかった。もちろん、ちょうどその頃は「木簡」(荷札など、文字の書かれた木の札)が歴史史料として注目され始めた頃で、特に静岡県の浜松市の伊場遺跡という地方の役所の遺跡から木簡が発見され、地方にも木簡が存在する可能性が明らかになって、古代史学会は騒然としていた。
 ところが、最近は、全国各地から木簡に加えて「漆紙文書」が発見され、地方の古代史史料の増加は著しいものがある。漆紙とは、漆壷の蓋紙に使用されたために漆が染み透ってコーティングされ、保護・強化された紙のことである。漆は壷の口にそって丸く染み透るから、漆紙の形は必ず丸くなる(詳しくは平川南『よみがえる古代文書』岩波新書を参照されたい)。
 この漆紙文書が常磐自動車道の建設にともなって調査された石岡市の鹿の子C遺跡から大量にみつかったのである。御承知のように、石岡は古代の国衙(国の役所)の地であり、この遺跡は国衙の付属工房の跡であろうといわれている。そして、この漆紙は、だいたい延暦年間(七八二ー八〇六)に反古として払い下げられた国衙の帳面類であるとされている。これが地方公文書としてえがたい価値をもっていることはいうまでもないが、その量も、これまで発見された漆紙文書の中で最大のものであり、これによって、おそらく常陸国は地方ではもっとも多くの古代の文献史料をもつ国となったのである。
 ここでは、その内の一通の文書断片によって、奈良時代末期の常陸国の人口が明らかになったことについて紹介してみたい。それは図のような帳面の断片(直径約19センチ)である。この図の内、線で囲われている部分は字がないところを復元したもので、その推理は、四行目と五行目から始まる。四行目の下の二行の細字(双行という)の数を足すと一八九七五〇。まず、これが何かの人口であることは「口」とあることからわかるが、郡の人口としては多すぎるから国の人口、しかも当然、常陸国の人口に関わる数字であることになる。そして、五行目の双行は奴婢の人口を記したものだから、上の一九万弱の数字は平民の人口であり、この平民の人口と奴婢の人口を足したものが四行目上部の「□□□□萬壱仟陸佰陸拾」という数字となる。この時代の東国の奴婢の人口は平民の一パーセント程と考えられるから、この足し算の繰り上がりは最小限とみなすことができ、□□□□は「口壱拾玖」と置くことができる(奴と婢の各々の数は分からないが、その総数は一九一〇となることも計算していただければわかる)。
 まさに小学校の算数の「虫食い算」そのものである。ここから先の詳しい考証の紹介は省略するが、戸籍には平民の外に、封戸・神戸(おのおの貴族と神社に割り当てられた人口)があるから、それを勘定にいれると、当時、おそらく延暦の常陸国の人口は約二二万四〇〇〇から二四万四〇〇〇人の間であったということができるのである。
 人によっては、「何だ、それだけのことか」と思うかもしれないが、今から一二〇〇年前の地方の国の人口が確実な証拠によって明らかになるというのは、世界的にみても稀有なことで、歴史家からみれば常陸国は実に恵まれているということになるのである。
 そして、このことは様々な問題の理解に波及してくる。その内の最大のものは、これによって奈良時代末期・平安時代初期の日本の総人口が約六〇〇万であったろうという計算が可能になることである。そして正倉院に残されている戸籍関係史料によって、奈良時代前半の人口を約五〇〇万と推定することができるから、奈良時代一〇〇年間に、だいたい一〇〇万の人口増加があったという計算も成り立つのである。もし、人口増加率が全国並だったとすれば、奈良時代の間に、常陸国でも約4万人の人口が増加したことになる。

 これだけのことが、一片の漆紙から明らかになってくるというのは、やはり驚きではないだろうか。私も平川南氏が漆紙を解読する場面を見学させてもらったことがあるが、漆紙はそのままではほとんど字の跡を見ることはできない。赤外線を照射することによって初めてビデオカメラに画像が浮き出るのである。だから、この方法が開発されるまでは、漆紙は正体不明の物品として破棄されていた可能性があるともいわれている。
 分析方法の発達によって、遺跡の価値は将来にむけて無限に高まっていくのであり、そのためにも、できるだけ遺跡を保存し、将来の研究の素材を生の形で残していくことが必要だと思う。それは将来の人々に新たな「驚き」の機会を贈ることになるはずである。
②「常陸国風土記」と亀城公園の椎の木
 前回は、石岡市の鹿の子遺跡から出た漆紙文書を「虫食い算」の方法で分析すると、奈良時代末期の日本の総人口は約六〇〇万、そして奈良時代一〇〇年の間に約一〇〇万の人口増加があったと推計できることを紹介した。
 私は、日本の小学校、特に茨木県の小学校では、かならず前回紹介した漆紙文書を使って「虫食い算」の練習をさせるのがよいと思う。教室に漆紙文書の写真を持ち込んだりすれば、算数の勉強も印象が違ってくるのではないだろうか。また、過去を事実にもとづいて正確に知る習慣を身につけること、あるいはそういうことが可能であることを教えることは歴史学にとってもきわめて大事なことである。
 その上で、小学校・中学校の日本古代史の授業では、奈良時代の間に人口が増加したことの意味を教えるべきだろう。その際にまず使用するべき史料は、いうまでもなく「常陸国風土記」である。
 「常陸国風土記」の行方郡の条は、古代における耕地開発の歴史を語ったものとして歴史家の間では有名なものである。「風土記」の伝えるところでは、継体天皇の時代に、箭括氏麻多智という男が、行方郡の谷地を開発しようとして「夜刀の神」といわれる蛇体の神と闘争し、「山の口」に掘った「堺の堀」に堺の印となる棒杭を立てて「神の地」と「人の田」の境界とし、蛇神のためには神社を設けて祭ったという。そして、孝徳天皇の時代には茨城の国造の地位にあった壬生連麻呂が、この谷に池を築いてさらに本格的な開発に乗り出し、「池の辺の椎の樹」に昇り集まって抵抗する蛇体の神を排除して池堤の構築を完成させたという。
 この「夜戸」・ヤトの神とは「谷戸」の神、つまり谷に開けた湿地の神のことをいうのだろう。常陸にはどこにもそういう谷地が多い。人間の力が及ぶ前は、そこは、当然、山蛇の栖だったのである。「風土記」の説話には、そのような「谷戸」の開発を経験した奈良時代の民衆がもっていた伝承がはっきりと現れている。こういう開発が先述のような人口増加を支えたことは明らかである。
 ところで、私がこの説話を読んで思い出すのは、小さな頃よく遊んだ茨城県の土浦の亀城公園の大きな椎の木である。私は父を中学校一年の時に亡くしたが、それ以降、父の郷里の土浦の家に世話になることが多かった。特に伯父・保立俊一は半ば父代わりの役割を果たしてくれ、私が歴史学の研究に進んだことにも、伯父の影響があったように思う。
 そして、伯父によると、伯父の小さな頃には、右の亀城公園の椎の木には蛇が棲んでいた。よくあるように、この椎の木は地表から約五メートルほどのところで四方に枝別れしており、そこが台のようになっていて登って遊んだものだが、そこに蛇が棲み付いていたというのである。
 「風土記」で蛇の蝟集した「池の辺の椎の樹」も相当の巨木であったことは間違いない。樹木の上に蛇が多数あつまったというのは、ただの神話のようであるが、脱皮の季節などに蛇は群集をつくる生態をもっているから、そのようなことも実際に起こりえたのではないだろうか。これは動物学者に聞いてみたいことだが、日本の蛇で、そういう風習をもっているとしたら、それは何という蛇だろう。
 ともあれ、「風土記」の伝承には、集合する蛇たちをみておそれ崇めた古代人の心意が反映しているのではないかと思うのである。神社の神体の蛇が境内の巨樹に棲みついているというのはよく聞く話である。巨木にはしばしば樹上をふくめて大きな洞が形成され、蛇はそこを栖とするのである。
 大海の東に「扶桑」という巨樹があり、夜、太陽がそこで休むというのは中国の神話であり、イグドラジルの木が天地をつらぬいて聳えていたというのはゲルマンの伝説である。そのような伝承は、原始の人間の自然観として世界中で共通のものだったのだろう。日本にも、古くから、そのような巨樹の信仰があったのである。そして、蛇神の信仰は、そのような巨木信仰と結合して、生きていたのである。
③常陸国風土記と広場のケヤキ
 前回みてみた「常陸国風土記」で、蛇体の神が昇り集まった「池の辺の椎の樹」は、『風土記』が語られた奈良時代には「池の西に椎の株あり」とあるように、すでに失われていたという。興味深いのは、そこの地名を「椎の井」といい、「清水の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。すなわち香島に向かふ陸の駅道なり」という立地であったことである。
 つまり、この椎の巨木は、道のそばにあったのである。井戸があったというから、この椎の木の下はおそらく広場になっていたのではないだろうか。そこは、男女が集まり、子どもたちも集まり、旅人も立ち寄る地域の水場だったのだろう。
 古代の広場というと、ギリシャのアゴラが有名だが、日本の古代にも広場はあった。郡衙=郡役所には広場があったというのが、考古学の発掘成果による最近の見解であるが、文献史料でそれを明示しているのも、「常陸国風土記」の行方郡の条の記事である。
郡家の南の門に一つの大きなる槻あり。その北の枝、自ら垂りて地に触り、還りて空中に聳ゆ。その地に、昔、水の沢ありき。今も霖雨に遇へば、庁の庭に湿□れり。
 つまり、行方郡の郡衙(郡役所)の南門の前は「庁庭」・広場になっていて、そこには大きな槻の木があったというのである。槻とは欅のことで、ケヤキは、若い枝がしだれる性質があり、この槻の木は枝が垂れて根付き、一本の木になったというのであろう。このことに気づいてからは、私は、公園や道のほとりのケヤキの姿に興味をひかれるようになった。また、友人がケヤキの大机を手に入れたという話を聞いてうらやましいと思うようになった。
 ほかの史料によっても、郡家の庭には、しばしば槻の大樹がそびえていたらしい。『続日本後紀』という九世紀の歴史書によれば、京都の葛野郡の郡家の前にも「槻樹」があったが、その樹を伐って太鼓を作ったところ祟りがあったという。さらに『万葉集』(四三〇二)に「家持の庄の門の槻の樹の下にて宴飲せる歌」(天平勝宝六年三月十九日)とあるのは、郡家ではなくて庄園の役所の門にそびえていた欅の木の下が広場になっていたという例であるが、そこで饗宴をふくめてさまざまな集会が行われたことは確実である。槻の樹の下の広場は、このように、地域の中で宴会をしたり集会をしたりするような公的な空間と考えられていたのではないだろうか。
 図は、そのような槻の聳える古代の広場の情景をつたえる稀有にして唯一の絵画史料であるといえるだろう。これは、現在佐倉の歴史民俗博物館の所蔵になっている国宝「額田寺伽藍並条里図」の一部、額田寺の南門の辺りの様子を見取り写ししたものであるが、そこに「槻本田」という地字があり、それらしい木が描かれているのである。
 日本の古代で、槻の木の下が広場になっていたのは、郡衙にかぎらない。それは中央でも同じことであった。少しお年の方ならば、「大化改新」を起こした中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を打倒する密約を結んだのが、都の「飛鳥寺の槻の木の下」の広場で、毛鞠をやりながらのことであったという説話をご存じだろう。
 彼らが「大化改新」に勝利した後、この場所は中大兄が群臣に服従の誓約をさせる大集会の場所になっているのである。さらにまた、種子島からの朝貢者や、蝦夷を迎える饗宴の場でもあり、「壬申の乱」において軍営がもうけられるなど、古代の国制において最も、公的な集会場であったのである。
 槻・ケヤキは古代人にとって生命力を象徴する樹木であったらしい。槻の木は「枝を数多く分出して周囲は三メートルにも拡がるところから、生命力の強い木として、『百枝槻』とも『百足る槻が枝』ともいった」そうである(土橋寛『日本語に探る古代信仰』、中央公論社、一九九〇)。たしかに古代人にとって、槻の木は家と生命の持続と繁栄を象徴する巨木として最もふさわしいものであったのかもしれない。
 もとより、各地の郡衙や「館」の前に聳えていたこれらの槻の木は移植したものではないだろう。本来生えていたものであるか、あるいは彼らが郡衙などの役所を建設する際に伐り残したものであったのだろう。そして、その枝葉の茂りに、古代の地域の歴史が象徴されていると考えられていたのである。
④那賀郡の兄妹と雷神
 「常陸国風土記」の那賀郡の条には、古代人のもっていた雷神信仰の様子が、よく描かれている。その話を簡単に紹介してみよう。
 昔、茨城里にヌカビコ、ヌカビメという兄と妹が住んでいた。ところが、妹のところに、夜、誰とも知れない男が通ってきて、昼には帰っていく。子どもが生まれる月になって、妹はついに「小さき蛇」を産んだ。この子どもは、杯にもっておくと、一夜のうちに杯一杯になり、甕にもっておくと、またその内にいっぱいになるというように、どんどん大きくなっていく。母が、「お前は神の子だろう、もう養うことはできない。父のところに帰れ」というと、蛇は「それでは父のところに帰ろうと思うので、小子(ちいさご)を一人、お供につけてくれ」という。母が「家に兄一人、妹一人しかいないのはお前も知っているではないか、無理をいわずに帰ってくれ」というと、蛇は怒り出して、兄のヌカビコをカミナリのように蹴殺して天に上ろうとした。驚いた母が甕を投げ付けたので、蛇はそれにつまづいて天に上ることができず、村の北にあるクレフシ山という峰に留まって山神となり、神社に祭られたという。
 こういう雷神伝説は古代では非常に広く語られていたようである。その中でも、もっとも有名なのは、山城国・京都の賀茂の上社、賀茂別雷社の起源伝説で、同じように父の名前が知れない子どもが家の屋根を突き破って天に上り、後に父が山城国の火雷神であるとわかったという。これらの伝説で、私が興味深く思うのは、雷神が小童の姿で印象されていることである。その外にも、尾張国の農夫の前に、雷とともに天から小子が落ちてきて、妻の腹に宿り、頭に蛇をまとった赤ん坊となって生まれ、異様に強力な男に成長したなどという種類の説話は多い(『日本霊異記』)。
 しかも興味深いのは、これらの伝説の背景には、雷がなっている時のセックスによって孕んだ子どもは異常な力をもっているという観念があったらしいことである。たとえば、雄略天皇が后と「婚合」している最中、その場にお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり、ことを妨げられた天皇が激怒したという話(『日本霊異記』)は、王の後継ぎの受胎は、雷によって聖別されねばならないという観念を示している。
 これがきわめて古くからの観念だったことは、図に略図を掲げた奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡が示している。辰巳和弘氏の『高殿の考古学』によれば、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には、キヌガサがさしかけられていること、戸がしまっていることなどから首長が在宅であることは確実で、この画像は、首長は妃が同衾して神の来臨をまっている様子を表現したものであるという。
 仁徳天皇が、ある朝、高殿の上で国中をみまわし、「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は、戦前は、民衆の生活を憐れむ仁徳天皇がいかに偉かったかという話として語られたものである。しかし、高殿の上での王の生活を詳しく検討した辰巳氏の仕事によれば、仁徳は妃と同衾していたのであって、この話でまず注目しなければならないのは、王が妃とともに神の来臨をまつ性的な儀礼なのである。
 現在の世相をみてもわかるように、こういう迷信は、そう簡単には社会から消えていかないもので、江戸時代になっても、金太郎は山姥に雷神が受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っている。ともかく、カミナリというのは、昔の人にとっては、いろいろなことを考えざるをえなくなるような極めて異常な出来事だったのだろう。
 それは日本ばかりではなく、ヨーロッパでも同じで、カソリック教会ではゴッシクの高い塔への落雷は神の戒めと考えられていたそうである。だから、フランクリンが雷は空中の電気放電であると発見したことは世界観全体の変化にかかわっていたのだともいう。
 さて、話を古代の東国に戻そう。奈良時代の後期、常陸・武蔵などの東国でしばしば「神火」によって役所の正倉が焼けるという事件が発生した。たとえば常陸国の新治郡衙が焼けたという事件はよく知られている。その相当部分は実際には放火だったらしいが、神火という以上、それは雷神の仕業であると考えられていたようである。その事情が詳しくわかるのは、武蔵国の入間郡の郡衙の正倉の「神火」で、それは「郡家の内外にあるところの雷神」によるものであったという。
 「内外にあるところの雷神」というのだから、この雷神は一つではなかった。むしろ、地域社会には、最初にふれたヌカビメの息子の雷神の神社のような神社が相当数あったことを想像できるのではないだろうか。そしてその神体は落雷によって異様な形になった巨木であり、しばしば「カントキの木」といわれていた。
 Dscn2403 追記、まだ総武線の中。PCの中のテキストの改行部分がうまくいっておらず壊れているので、なおしながら読んでいた。ここに「カントキの木」がでてくるのをみたので、昨年、奈良女の小路田先生に案内してもらって御参りした生駒神社のカントキの木の写真を載せておく。

⑤常陸国の悪党と「女取」
 私の亡父は土浦の出身である。これも死んでしまった母が、よく話していたのでは、知り合った頃の父は、よく、「自分の祖先は紀州の九鬼の海賊で、黒潮にのって銚子に上陸し、霞ケ浦を荒らし回った」といっていたということである。私の知っている父は温和でむしろ文弱な方だったが、親戚によると若い頃はいたずら好きだったというから、恋人にそういう冗談をいっていたというのはありそうな話である。
 ただ、小さい頃に私を怒って部屋の向こうまで投げ飛ばしたことがあるというから、私と同じように根は短気なところがあったのかも知れないと思う。土浦の保立の家が九鬼海賊の流れであるというのは、伯父に聞いてもまったくの嘘らしいが、ただ、歴史の勉強をするようになって、笑ってしまったのは、鹿島神宮の社家の塙氏のもっている室町時代頃の文書の中に、「悪党帆立」という一節を発見した時である。保立という名字は珍しい方だが、今でも銚子には保立姓の人が多いというから、本来、黒潮に乗って活動していたというのは、まんざらの嘘ではないのかも知れないなどと思ったものである。
 ここで紹介するのは、鎌倉新仏教の内でも最大の宗派であった時宗の祖・一遍の行状を描いた『一遍聖絵』という有名な絵巻物に現れる、常陸国の「悪党」が「女取」をしようとしたという話である。悪党というのは、中世では、しばしば統制外の行動をする武士領主・地方有力者のことをいい、必ずしも犯罪者という意味ではない。また「女取」というのは、「辻取」ともいい、街道などであった女性を捕まえることだが、これもまったくの犯罪というのではなく、中世ではしばしば行われていた求婚方法の一つということもでき
るようである。
 たとえば、『古活字本、平治物語』には、源義経・牛若丸が平泉へ下る途中で伊豆国に流されていた頼朝に面会した時、頼朝が平泉藤原秀衡の郎等、信夫小大夫を紹介したという話がある。もちろん、牛若丸が奥州へ下るときに頼朝にあったという事実はないから、この話を信じることはできないが、興味深いのは、信夫小大夫の妻は源氏の家人の上野国大窪太郎の娘であって、若い頃、彼女は熊野詣の際に頼朝・義経兄弟の父の源義朝に見参し、義朝の死後、平氏を恐れて奥州へくだる途中、街道で信夫小大夫に「女取」されて、
その妻になったとされていることである。
 「道にてゆきあい、よこ取りして、二人の子をまふけたり、今も後家分を得て、ともしからであんなる」。つまり彼女は子どもも設けて、夫の死後も財産を与えられて豊かな生活をしていたというから、女取をただの路上強姦ということはできないのである。
 もちろん、『一遍聖絵』の場合、悪党が女取しようとした女性は、一遍に従って諸国を行脚していた尼であったから、これは明らかな犯罪行為であった。そのため、悪党の夢に念仏の行者が現れて杖で突き、悪党は「中風」を病んで起き上がれなくなってしまったという。心配した親が一遍上人のところへやってきて「助けさせ給へ」と訴え、その懇請に負けた一遍が、仕方なくその家を訪れたとたんに、男の病気はぬぐうように消えたという。
 このような奇跡が実際に起きたのかどうかは別として、この話自身は別に嘘という訳ではなく、時宗の教団で受け継がれてきた話であっただろう。時宗は踊り念仏で有名だが、僧も尼も、つまり男も女も一緒になって全国を遊行したことでも注目される教団で、そこには仏の前では男も女もないという一種の男女平等思想の萌芽が想定できるのである。そしてそうであればそうであるだけ、逆に教団内部の男女関係は大きな問題だったようで、その関係もあって、この話が記憶されたのだろうと思う。
 「女取」でもっとも有名なのは、中世末期に流行した「物ぐさ太郎」の説話で、京都に上った太郎が、「辻捕とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」と教えられて、挿し絵が示すように、京都の清水の辻で仁王立ちになって女取に及んだという話である。これは、不用心な姿で繁華街を歩く妙齢の女性はガールハントの対象になって当然であるという、なかば冗談のようにして語られた男本位の調子のいい論理に過ぎない。しかし、まだ社会に未開の様相が残っていた『一遍聖絵』の時代、鎌倉時代の常陸国で、地域の有力者の息子に挑まれた尼にとっては話は冗談ではないということだったに違いないと思う。
⑥常陸国の地主・領主と『一遍聖絵』
 図に掲げたのは、『一遍聖絵』に描かれた鎌倉時代頃の常陸国の大地主・領主の家である。茨木県の小・中学校では、この絵を歴史の授業で利用しているだろうか。
 自分の子どもをみていても、この頃の子どもはテレビやマンガなどで知っている気になっていることが多く、しかも、実際には土を知らず、農村をしらないから、歴史の授業はたいへんだと思う。授業が子どもの興味をひくための工夫だけで組み立てられることは、良いこととばかりはいえないだろうが、しかし、このままでは子どもたちが日本と地域の現実の生活から放れっぱなしになるのではないかというのは心配なところである。
 こういう状態をどうにかするためには、まずは近現代の歴史を事実にそくして伝えることが必要だし、最近のアジアの人々の日本に対する批判を聞いていると、それは歴史学にとって社会的な責務であるとも思えてくる。けれども、子どもに歴史を伝える上で何よりも最初にやるべきことは、まずは地域の身近な歴史を伝えることだろう。そして、そのための努力をするには、現在は、すでに若干手遅れという時期になっているのではないか。たとえば、私の伯父の書いた『水郷つちうら回想』(保立俊一、筑波書林)などを読んで、高度政庁以前の風俗がどしどし消えていっているのを知ると、そういう暗い気持ちになる。
 しかし、遅すぎてもやるべきことはやらねばならない。そして歴史学者は100年先に研究してもわかるようなことを研究するのはやめて、ともかく今の今、地域の歴史を伝えるために必要な仕事をしなければならないと思うのである。
 そういう意味で、この『一遍聖絵』の絵は利用できるように思う。本当はカラーでみていただくと、もっとよくわかるのだが、屋根にうっすらと雪が積もっていることから、季節は冬。残念ながら、常陸国の何処なのかはわからない。注目していただきたいのは、家の裏手に積まれた四つの丸い稲束の山である。これはいわゆる稲堆(イナツカ、イナニオ)で、戦前生まれの人にならば説明する必要もないことであるが、干しあげた稲を円形に積み上げて、その上を藁でふき、食料や種子料として貯蓄したものである。
 平安・鎌倉時代の地主は、こうして蓄えておいた稲束を、まずは、春になってから、自分の「佃」(直営田)の経営のための種子料として使用した。そして種子の用意のない農民には束のままで貸し付け秋に回収していた。ただで与えることもあったが、その場合は、ただほど高いものはないという訳で、その代わりに地主の家の田圃の耕作の賦役に動員する「たづく」という慣習もあった。もちろん、貸し付ける場合も、一束は十把の稲からなっているが、三把くらいの利は普通だったから、相当な高利である(なお、この「把の利」から、打率三割などという時の「割」という言葉が生まれたことは子どもたちに教えておいてもよいと思う)
 その上に、年貢を取ることはいうまでもない。しかも、収穫の時になって、稲を返させる時や年貢として取る時には、稲束を「秤」ではかって取ったことも重要で、「懸け稲のはかりの石の重くとも、今年は民の憂いあらじな」などという和歌は、年によっては、稲をはかる稲秤の石を重くして、余分の年貢を取ろうとしたことを示している。
 平安時代半ば以降、だいたい戦前まで、つまり約八〇〇年間にわたって、このような地主や領主への年貢の供出は普通のことであり、珍しいことではなかった。それが社会のシステムの根本にあったことはいうまでもない。しかし、今の子どもたちは、それがどういうことなのか、十分に説明しないとわからないだろう。説明してもわからないかもしれない。そういう子どもたちに話しをするための切っ掛けとして、しかも常陸国の子どもたちのために、この絵が十分に利用できることは御理解いただけるだろうか。地域に中世の領主の館跡があれば、それとあわせて説明すればもっとよいと思う。
 以上は、あくまでも一つの例にしか過ぎないが、私は、各地でこういう議論を歴史の学者と教師の間でしていく必要があると思う。何といっても地域の歴史をよく知っているのは教師や郷土史家だから、両者が上手く協力を続けて十年経てば、子どもたちが地域の歴史を身近に感じるようになるのに少しでも役に立つことは明らかだろう。
 そのためには、学者の側の研究も変わっていかねばならない。実は、ここで『一遍聖絵』の絵について説明したことは当たり前のことのようだが、普通の史料・古文書では、鎌倉時代の地主がこれだけの稲束を、こういう形で貯蓄していたことはわからないのである。子どもにもわかる史料と説明をたくわえていくこと、それは歴史学者にとっては、もっとも難しい仕事の一つなのである。

2011年8月24日 (水)

騎馬民族国家説ではなくて、海民移住「クニ」説。

 よる9時30分の総武線の電車。撮影の下準備で思い違いがあり、修正のため、急遽残業。夕食は大学と連絡。新刊の都出さんの岩波新書を生協で買って、それを読みながら、生協で食事。
 あとがきに、黒田俊雄氏が大阪大学に都出さんを招いた経過が書いてある。黒田さんが、歴史学はビッグサイエンスにならなければならないという持論をお持ちであったことは知っていたが、その理由は伺ったことがなかった。文献史学と考古学の学際的な関係ということを目的として、大阪大学の文学部に考古講座をつくる、その意味でもビッグサイエンス化が必要ということであったらしい。なつかしい。
 都出さんの本には騎馬民族国家説が「征服説」の代表として書いてある。「征服説」は一般的な歴史理論の問題として重要であるが、騎馬民族国家説は「征服」ということを具体的に論ずることには成功していない。騎馬民族国家説は、そういう国家論レヴェルの問題ではなく、より、歴史像や方法論に関わる部分で重要。その中心は「天皇族」の朝鮮由来という点であるが、私には、同時に、「学史」の問題として興味深いのである。
 そもそも、騎馬民族国家説に興味があるなどというと、歴史の学会では「莫迦な」という反応があるに違いない。残念ながら、私も、江上波夫氏の図式を中心にする、いわゆる「騎馬民族国家説」それ自体について賛成しようというのではない。その意味では、当時、日本史の側がほとんど拒否反応を示したのは無理のないことだと思う。東洋史からの反応としては三上次男氏の「日本国家=文化の起源に関する二つの立場」という『歴史評論』四巻六号(1950年6月)での批判があるが、これも穏当な批判であると思う。
 問題が「天皇族」の朝鮮渡来ということであっただけに、マスコミでやや興味本位に取り上げられ、学界がそれを嫌った雰囲気も顕わである。しかし、これは提起者に責任がある訳ではない。
 私が感じるのは、もう少し学際的な議論を続けることはできなかったのだろうかということである。もちろん、それは当時の歴史学をめぐる状況の中ではきわめてむずかしいことだったことはわかっているが、ここで戦後歴史学が学際的な議論の重要な糸口を失ったことは事実ではないだろうか。私は、とくに人類学の岡正雄の見解については興味深く思うし、その神話学への影響をふくめて考え直すべきことは多いのではないかと思う。石母田さんと柳田国男氏の対談というのがあって、印象深いものであるが、石母田さんと岡さんの間でなら、もう少し持続的な討議が可能ではなかったのかと考えるのは自然なことである。なにしろ石母田さんの晩年の仕事は岡の議論のフィールドであった南島に関わっているし、石母田が60年代に留学したのは同じウィーンで、Dr.スラヴィクとの関係まで共通するのだから。
 「戦後歴史学」は、学会の中枢を占めていただけに、しばしばアカデミックな雰囲気に流される場合もあった。アカデミズムが決して悪いわけではないが、悪い意味での保守と曖昧主義に流れやすいのはどの業界でも同じ病理である。学際的な議論となると、通常のアカデミズムの領域を半ばこえた最大限の柔軟性やいわゆる「蛮勇」が必要になるし、岡氏の「単系発展段階説」では困るという意見は、論争を必要とする問題提起であったことは正面から認めるべきであったと思うのである。
 さて、私は、「騎馬民族国家説」というよりも「火山国家説」をとったらどうかということを『かぐや姫と王権神話』で書いたのだが、もう一つ、朝鮮半島からやってきた人々の相当部分は、「騎馬民族」ではなくて、「海民」であったのではないかと考えている(これは『東北学』27号に少し書いた)。この面では、騎馬民族国家説ではなくて、「海民移住国家(?)説」ということになる。
 簡単に説明してみると、これは弥生時代の始まりが約五〇〇年さかのぼってBC10世紀から8世紀頃と考えられるようになったことに関わっている。私は、この問題は、学術的な論争のようにみえるが、実は、日本列島の文化の根本的な再考に関わってくる可能性がある問題であると考えている。ここでは、とくにそれが「海」の問題にかかわってくることが重要である。
 つまり、弥生時代が500年さかのぼるということになると、まずは、これによって、縄文文化と弥生文化が接触し関係しあう時期、その「移行」の時期がきわめて長くなり、両文化の連続性の側面がきわめて大きいことが明瞭になる。それは、日本文化の中での縄文文化のもつ非農業的な側面、とくに弥生文化との関係では、海川の漁撈・採集の側面を重視することに結びつく。
 もう一つは、東北アジアとの関係の見直しである。つまり、BC1500年頃、朝鮮半島における灌漑農耕の開始とともに、それまで続いていた朝鮮南部と北九州の間での交流が中断した(『農業の起源を探る』宮本一夫、吉川弘文館)。これは東北アジアの農耕文明の拡大の中に一足早く参加した朝鮮の人々にとって、日本列島との交流が魅力のないものになったためであるといわれている。たとえば、朝鮮半島では、それまで北九州の伊万里から黒曜石を仕入れていたが、その必要が無くなったというのである。
 そして、BC1000~800頃というのは、東北アジアをおおった気候の冷涼化とともに、そういう進んだ農耕文明に達した朝鮮の人々が、ちょうど東南の列島に移住を開始した時期なのである。弥生文明が朝鮮の人々の移住によってもたらされたものであることはよく知られていたが、しかし、それが東北アジアの気候変動と農業文明の動きの中に正確に位置づけられるようになったことの意味は大きい。
 対馬海峡を渡った人々は男が多かったといわれるが、彼らが北九州沿岸につくった村々は、ギリシャが地中海周辺に作ったコロニーに対比されている。そして、ここでも大きく問題になるのは、「海」である。こうして、ここにも、有名な騎馬民族国家説ではなく、海民移住国家説とでもいうべき問題群を発見できるのではないかと思うのである。
 遠賀川式土器の東への普及からみて、彼らの影響は、弥生前期には早くも伊勢にまで及んだという。彼らにとって瀬戸内海から伊勢湾にいたる内海の世界は胸躍るほど豊かなものにみえたに相違ない。そして、このような動きの起点となった北九州には弥生時代の後期にいたるまで何度も何度も朝鮮から人々が移住してきた。土井が浜貝塚の人骨の分析によれば、人類学的形質は、移住の初期から基本的に変わっておらず、それは、朝鮮の故地から世代を越えて同じ場所にやってきた人々の行動形態を示唆しているという。まさに朝鮮南部・加羅のコロニーである。
 さて、こういう風に議論してくれば、話の落ち着き先はいうまでもなく網野善彦説ということになる。つまり、網野さんは、岸俊男氏にさそわれて中央公論のシリーズ『日本の古代』に海村についての論文を出しているが、そこで、宮本常一氏の仕事に依拠して西国から東国への海民の移動を論じている。きっかけは岸さんの武内宿弥論、「紀氏論」にあるのであるが、これは平安時代以降の歴史学の立場からの海民論として重大な問題提起であると思う。驚いたのは、網野さんの紹介した、朝鮮済州島の海女たちが、戦前には定期的に房総の海にやってきたという話である。これを現代のこととのみ考えてはまずいと思う。
 朝、総武線の中。

2011年8月23日 (火)

上行寺東遺跡の保存うんどうパンフレットに書いたもの。

 昨日、久しぶりに、部屋で、下記の遺跡保存運動の提起者であったT先生にあう。なつかしい。いま朝。いまから、撮影だが、職場のPCのデスクトップに、この小文が貼り付けてあったのをみて、ここにアップし、データを削除。ブログはデータ整理にも便利だと思う。ここに全部まとえmてしまえばよい。

 この文章は上行寺東遺跡の保存運動パンフレットに書いたもので、もうどこでもみられない。なつかしい。こういう種類の文章を書いたはじめだと思う。最後の方、文章がみだれていたので、もしかすると、入校原稿そのものではないかもしれない。

 追記。撮影の仕事の昼休み。パンを食べながら。

 もう25年くらい前のことか。Tさんが問題提起をしてくれたことの意味をいま実感している。私は、その提起に賛同したことで学び、自分の意見を変えた部分が多い。歴史学者の役割論と保守ということへの考え方。

 Tさんと私が関わった保存運動は遺跡保存という形では身を結ばず、遺跡は破壊された。いろいろな迷惑をかけた。しかし、運動ということになって、文献史学と考古学の間の関係の議論をせざるをえなかったのが、「中世史」学界にとってはよいことであったと思う。

 先週の歴史教育の関係の講演で、昼食を食べながら、なぜ、例の旧石器のねつ造のような問題が起きたと思うかとある先生に真顔で尋ねられた。それは、結局、旧石器の遺跡の保存運動をやらなかったからだというのが私の意見。遺跡の保存という形で社会資源と土地を使用するようにという真剣な訴えなしには、異なる分野の学会・研究者が本気で議論することはないのだと思う。上行寺・一の谷の保存運動の時は、行政の責任のある立場の人が、「あなた方そんなことをいったって、旧石器の遺跡は壊され放題ですよ」といっていた。それらの遺跡がねつ造されたものであることが20年経って知れたのである。その時、我々が思ったのが上記のようなことであった。

 学者は最後は学者の責務に関わることでは社会的行動をしないと、あるいは、最低、問題の社会的側面を確実に認識しておかないと、結局、責任のとりようのないところに追い込まれるのだと思う。それは政治や市民としての個人的な立場よりも前の、職業倫理の問題である。学者は職をえた場合は、どのような場合も一種の特権を意味するので、職業倫理の問いはきびしくなる。原子力工学も同じことである。

六浦の津と上行寺遺跡ーーー書状を読む
       参考文献ーー『中世の六浦と上行寺遺跡』(上行寺遺跡を考える会)
             『瀬戸神社』佐野大和
         座談会「六浦の文化と上行寺東やぐら群遺跡」(『有鄰』二一四号
                             一九八五、九、一0)
Ⅰ上行寺遺跡と律宗
 マンション建設にともなう遺跡保存が問題になっている上行寺遺跡は、東国における律宗寺院の遺構としてまた六浦の港湾遺跡の不可欠の一部として極めて重要な遺跡である。その重要性は、六月三0日からの三週間という短期間で二五九三人の全国の歴史研究者が、署名を集中したことに現れている(地域住民、学生などを入れると全体で四四七五人に上る)。この遺跡は横浜市によって六月二四日には破壊されることになっていたが、市議会への請願は否決されたものの、粘り強い保存運動によって、一0月県議会文教委員会で継続審議が決まり、次の県議会の開かれる一二月までは残される可能性が高くなった。ただし、県文教委員会に懸けられた理由は、建設予定地内の急斜面が県によって危険地域に指定されており、その開発は県の指定解除の認可が必要なためであるが、市および建設会社は遺跡部分の工事はこの認可なしにもできるという姿勢を維持しており、事態を楽観することはできない。
 この遺跡の発掘調査の結果は市に対する中間報告(公表されていない)以外にはなく、口頭および保存運動側の調査・見学による他ないが、調査されたやぐら四一基、建築物遺構六棟、墓壙一四基、発見された五輪塔四00個以上、宝篋印塔・板碑各一0個程度、人骨一00体以上、陶磁器類多量という概数を見ても一般のやぐら遺構との相違を知ることができる。中でも注目されるのは、従来知られていた京浜急行の線路の上方に並ぶやぐらでなく、頂上部分で発掘された五輪塔レリーフを刻んだ一九号「やぐら」と「阿弥陀如来」(?)のある二二号「やぐら」およびその前の平坦部に発見された阿弥陀と一体の御堂跡の柱穴である。柱間は二間三間の南北五、五㍍・東西三、五㍍であり、西には張出縁が付いている。そして、この御堂の南西には洲浜と中島をもつ小さな池がある。
 保存で問題になったのは、まずはこの遺跡が寺か「やぐら」かという点である。それは、①池の遺構の評価(単なる土壙か)、②やぐらの前の建物をどう評価するか(仮設的なものかどうか)③六浦の宗教的環境と律宗の問題などを巡るものであった。特異性のない、破壊もひどいやぐら群にすぎないという横浜市側に対して、保存運動の側は、寺院跡であると評価し、現在では県議会の答弁でも①②については保存運動側の見解が認められるに至っている。
 問題は③であるが、これについてはさらに文献史学の側からも研究を深めていく必要がある。上行寺の地にはもと龍華寺という寺があり、この寺はもと浄願寺といった。その縁起は、「山高からずといえども。奇岩霊窟あり、或いは壇場を構え、或いは□字五輪の塔を彫刻せり」と語っている。そして重要なのは、東国における律宗の祖、忍性上人が正嘉年中(一二五七ーー五九)、鎌倉に入る前に、この寺に住んだとされていることである。この正嘉年中は、忍性の師叡尊が北条時頼の招きで鎌倉に下向した際に、忍性が常陸三村寺から駆けつけた弘長二年(一二六二年)の三ー五年前にあたる。忍性が初めて鎌倉に拠点として新清涼寺釈迦堂を得た同年の直前に鎌倉の外港・六浦で着々と鎌倉入りの準備を進めていたということは十分有りうることである。そしてこの時、叡尊を招く動きの中心にいた北条氏の一流金沢氏の実時による称名寺の建設が進行しており、金沢に程近い六浦に忍性が住持する寺があることも理解できることなのである。
 ところで、六浦の津の情景は、既に平潟湾の埋め立てによって失われているが、深い入江と島を持つ天然の良港である。このような地理的条件によって、六浦は鎌倉の重要な外港であり、しかもよく知られているように、六浦は鎌倉の堺であり、元仁一(一二二四)年には、由比浜、江ノ島などとともに、祈雨のための霊所七所のはらいを行っている(疫病のこともある。『吾妻鏡』)。そして律宗の僧侶が、港湾の建設・管理や架橋などの社会事業を活発に行ったことは近年の研究によって明らかにされたところである。
 しかし、このような鎌倉時代の六浦の港湾としての様子については、まだ研究が少なく、保存運動の側からも早急に研究を深めることが要請されている。
Ⅱ六浦の港と称名寺
 次の『金沢文庫古文書』の中に収められた一通の書状は、恐らく鎌倉時代の六浦の港湾、海上交通の要衝としての姿を最もよく語っている史料であろう。
『金沢文庫古文書』④三一三一、写真帳三七の七七㌻
 畏令啓候、便船を相尋て候間、』令進下部十三郎男候、彼船人之方へ』任請取、材木出 候て可預候、但やう々々に』申(?)候て、賃も候はて入候て可下之由、或以□』あつ らへ申て候之間、船人かまいり候て、材□□(木を?)』請取申候事は、定よもと相存 候、しか□□(るに?)』六浦之西面に在所者候之由申候、せとの』橋下より小船なん どにつみ候てそ、よく』候ぬと相存候、一向御寺の御下部をた』のみまいらせ候、能様 に被仰付候者、□』相存候、        』彼まさにも御寺のこくいをうた』
 差出人は、恐らく東国のどこかの国の称名寺末寺の僧侶であろうか。文書の宛先の部分は切れて残っていないが、この文書が、称名寺の聖教の裏文書として現在に伝えられていることから見て、称名寺に充てられたものであろう。内容を最初から解釈していくと、彼は、まず、便船を尋ね求めることができたので、それに下部の「十三郎男」を乗せ、(恐らくこの書状を持たせて)称名寺まで遣わしますという事情を述べている。
 そして、彼は、同時に彼の署判を加えた請取状を船人に渡したらしく、その請取と引き換えに、この便船の「船人」(船頭)に材木を出し渡すように称名寺に依頼している。たとえばこの材木を末寺の建築に使うというようなことであったのであろう。ただし、色々なだめすかして船賃も支払わずに材木を載せて戻り下ってくるように「誂えた」(委嘱した)ので、船人自身に称名寺まで行って材木を請取れといっても了承することは、「定めてよも(あらじ)」と思ったようである。
 ところが、丁度よいことに船人と知り合いの「在所者」、つまりこの僧侶や船人の住んでいる地方の人が、「六浦の西面」に家を構えており、(船人とも懇意なためであろうか)近くの「瀬戸の橋下」から「小船」を出させて称名寺から運ばれてきた材木を船に積みかえる位のことは、世話させることができるということであったようである。つまり彼は船持ちであったのである.そして,ここで小船といっているのは,要するに港で動く一種のハシケ船であったのであろう.とすると「船人」の船は,さしずめ大船ということになり,「在所者」と「船人」の関係は,この手紙の差出人の住む在所の荷物の積載を一括して世話する荷揚げ業者と東京湾航路の船頭との関係ということになるであろうか.
 さてそうすると、称名寺の下部が瀬戸橋まで材木を運んで来てくれれば、(それは丁度称名寺から直線の道を通ることになる)あとはこの「六浦之西面」の住人に任せられるということになり、面倒だろうが、橋までの輸送については「一向御寺の下部をたのみまいらせ候」ということになったのである。勿論,材木を小船に載せる時,あるいは小船から大船に載せ替える時にも人手はいったろうから,それを手伝うことも「御寺の下部」には期待されたかもしれない.
 以上、六浦の海上交通の在り方の一端を見てみたが、また、『金沢文庫古文書』五二六九にあるように、瀬戸橋の内海は殺生禁断の場であり、ということは、外海では漁業が行われていたであろうから、ここは、漁船の行き来も盛んな場所であったであろうということも追加しておきたいと思う。たとえば,『枕草子』(第306段)には「船に乗りてありく人ばかり,あさましうゆゆしきものこそなけれ」として,「ものをいと多く積み入れたれば,水際はただ一尺ばかりだになきに,下衆どものいささかおそろしとも思わで走りありき,つゆあしうもせば沈みやせんと思ふを,大きなる松の木などの二三尺にてまろなる,五つ六つ,ほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ」
                                         興味深いのは、東京湾の海上交通が、地方(たとえば千葉)の僧と船人と「在所者」の間での私的な縁が情報回路となって動いていることである。顔見知りで無理がきくというような関係がなければ、これは動かなかったのである。そして、「在所者」と称名寺の下部も知り合いで、「お、お前か」というようことで材木の受け渡しがあったのではないだろうか。しかし、そういう縁にのみ頼っている訳ではなく、輸送する「柾」に御寺の「刻印」を打って、他の材木と混同されることのないようにと依頼したところで、この書状が中絶していることは、船人は、全面的に信頼されていたのではないのである。たとえば、この船人は地方の特産物を、朝比奈の切り通しを越えて鎌倉に運び込んだのであろう。商品関係が半ばは縁に取りもたれて展開する様相をここに見ても良いことになるであろうか。

Ⅲ瀬戸橋の造営
 寺の下部は、恐らく車で材木を運んだのであろう。六浦およびその金沢との堺に掛かる瀬戸橋は、陸上交通の要衝でもあったのである。ところで、この瀬戸橋は、嘉元三(一三0五)年、北条氏によって造営されたものである。『金沢文庫古文書』五三0三は、その暫く後の史料であるが、鎌倉時代の瀬戸橋の様子が解る。五六という槫板(橋板)四二0丁と桁と柱という材木の種類や石を使用する大規模な橋であったことが知れよう。しかも、この瀬戸橋造営は実際には、称名寺の僧侶が中心になったもので、先にふれたような律宗の僧侶による社会事業の東国における好例なのである。さきに触れた瀬戸の内海の殺生禁断も,この瀬戸橋の造営の一環として称名寺のために行われたものなのである.
 この点で興味深いのは、元□元年に「武州瀬戸護摩堂」で「馬頭観音法」の経典が書写されたことが分かり(『金沢文庫古文書』識語一九七六)、このような馬頭観音法の写経は律宗の僧侶にふさわしいものであったといえよう。そして、瀬戸橋は当然牛馬の交通も頻繁なところであったと思われるのである。
 史料に掲げたもう一つの書状は、女の書状であり、文意を取りにくいところもあるが、興味深いのは傍線部である。つまり、一人の子供は、無実の罪の下におり、別の子供は、「親取」、つまり、誰かに養子にして貰うために「瀬戸橋の橋柱(ランカンの柱のことか)」にしてしまおうという意味と理解したい。さんしょう大夫の物語で直江津の橋に宿った母子が人買いに取られる話は有名であるが、橋は子捨ての場であったのであろう。鎌倉から東国に下る旅人たちが、ここで子供を拾っていく様子を考えても、大きな問題はないであろう。
Ⅳ景観保存と中世考古学
 さて、以上の検討によるだけでも、鎌倉時代の六浦は港湾としての意味が高かったことは解ろう。そして、このような調査の中から上行寺遺跡の評価と保存の方法に関わる論点を蓄積していくことが課題になるのであるが、少なくとも東国には、中世港湾の遺構がめぼしいものがなく、金沢八景と六浦の景観自身そしてそれを見下ろす上行寺の景観全体が重要であることを了解頂けたであろうか。港湾自体の景観の相当部分は既に破壊されているが、しかし、周辺の寺院の様子は残されており、その調査の中で、今後何らかの港湾遺構が発見される可能性も皆無とはいえないのである。
 もう一度提示した史料に戻れば、まず海上交通の面では、先の「在所者」は船持ちであり、ハシケの業務を行っていることから、一種の問であると考えられることを指摘しておきたい。中世の海運業者・倉庫業者として問、特に地方の問の研究は今後重要な研究分野となると思われるが、六浦における問の史料は、南北朝時代以降について知られているだけであり、この史料は、一種の問の存在を示すデータとして貴重である。そして、実は、上行寺は、南北朝時代に千葉の中山法華経寺に六浦の豪商、問の六浦(荒井)妙法が帰依して自分の屋敷付近に堂を建て、それが発展して上行寺となったものなのである。私は、このような関係は、大規模なものではないとしても既に鎌倉時代の浄願寺と六浦住民の間にもあったのではないかと考えと思う。(千葉と縁の深いところであるという印象)
 また、瀬戸橋の史料では、特に注目されるのは、石切がいたことである。瀬戸速瀬といわれる様にここは潮流が速く、この石は橋柱を守るために橋脚の下に石を置いたものであろう(『石山寺縁起』)。周知のように律宗は例えば、現在上行寺に残されている宝篋印塔(日蓮宗の寺には宝篋印塔があることはないので、どこかから移動したものとされている)のような独特な石造美術を発展させており、またその土木事業のためにも石工を編成していたといわれている。忍性らは、畿内に発達した石造美術を東国に持ち込んだのであり、彼らは東国石造美術の上でも逸することのできない位置を持っているのである。その律宗の僧侶が造営の中心になった瀬戸橋の石工は恐らく、上行寺遺跡の多量の石造彫刻にも関わっていたのではないかというのが、私の想定である。そして右の宝篋印塔に「牛馬六畜平等利益」という特徴的な銘が刻まれていることは,それがあるいは瀬戸橋のたもと,あるいは旧浄願寺に置かれていたことを示すのではないか,と思うのである.
          

2011年8月21日 (日)

未来を語らなくなった歴史学

 早稲田で講演を終えて、さすがに疲労困憊。早稲田から本郷へのバスで職場へ戻るが、バスを降りて本郷の角でコーヒー。
 講演のテーマは「歴史教育と時代区分論ーーどう組み直すことができるか」というもので、聴衆は先生方。これまで話したことのないタイプの話。縄文時代から平安時代、院政期までの時代区分論である。長い時間の歴史について調べて、ともかくもたいへんに勉強になり、機会をあたえられてありがたいことであった。
 最初の部分は書いたので、下にコピー。
「はじめにーー歴史学にとっての未来
 一九八〇年代以降、日本社会は未来を語らなくなっているように感じます。しかし、問題は、それよりも早く、歴史学が未来を語らなくなったことではないでしょうか。歴史学が明瞭に未来を語ったのは、実際上、1967年の石母田正氏の講演「国家史のための前提について」が最後であったように思います。私は歴史学がいわゆる「戦後的価値」を維持するためにさまざまな努力を行っていると思いますが、しかし、このまま防衛的姿勢に追い込まれるだけでは、それも徐々に形だけになっていくのではないかと危惧しています。現実の社会の中に生まれてきている新しいもの、未来につながるものをどうみていくかというのが重要だと思います。
 非常に一般的な言い方をしますと、歴史学は過去の管理に責任をもつ学問で、そのような立場から、いわゆる熟考・熟議の社会意識を支える役割をもっています。私が危惧するのは、日本の社会では討論と熟議をへて過去をふり返り、未来を展望するという社会原則そのものが希薄になってきているようにみえることです。第二次世界大戦の敗戦の経験は、社会の各階層の上から下まで、その実力と実際は別として、ともかくも、このような雰囲気を作り出したという点で歴史上、大きな位置をしめていると考えますが、それがアメリカ化あるいはいわゆるグローバル化の中で、弱体化してきているように感じます。これでは歴史学の社会的にマイナーな地位はさらに狭くなっていくだけです。そろそろ、その全体を考え直す時期がきているのではないでしょうか。
 そうはいいましても、二〇世紀歴史学が蓄積してきた世界史に関する知識は、誰であっても、歴史家個人が全体を展望し、そこから現在と未来について考えるということは、個人ではほとんど不可能な量に達しています。それを読んでまとめるだけでも相当のエネルギーを必要とします。もちろん、それに努力するとしても、そもそも歴史家の仕事は広い意味での史料にもとづいて過去の世界を具体的に復元し、過去の歴史像の歪みをできるだけ少なくすることです。それが徐々に現在と未来に対する見方、それ故に未来に繋がる現実に影響をあたえることがあるかもしれません。しかし、どういう歴史像がどこでなにをもたらすか、これは不可知の領域をふくむことで、ですから歴史家が直接に「未来」を語るということには限度というものがあります。その意味では私は、歴史学は本質的に保守的な仕事であると考えてきました。私たち学者は、政治家ではなく、社会的な費用によって生きている存在ですから、市民としての立場を直接に学問に持ち込むことも許されていないのはいうまでもありません。 
 しかし、歴史学は人文科学・社会科学ですから、やはり学問としては、極限まで論理的である必要があります。それは端的にいえば、現代社会に対する論理的な理解を方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。過去の歴史は我々の主観からは独立して存在するすでに過ぎ去った客観的な世界ですが、それは逆にいうと、どこかで現代と客観的に繋がっているということですから、現代を理解する社会科学の過去への適用でなければならないのは明らかなことです。
 これは歴史学固有の課題ではなく、社会科学・人文科学あるいは自然科学をふくめた学問全体の仕事です。そのレヴェルでは、理論的に筋道を通す思考、明快な論理はどうしても必要なものだと思います。しかも、結局のところ、現代というものは未来への目がなければ認識できないものでしょうし、また同じように、未来への目がなければ過去も認識できないという性格のものです。過去がつまってこなければ未来は認識できないし、現代がつまってこなければ未来はみえないはずです。これはある意味では常識的にも明らかなことで、いわゆる「温故知新」という意識がなくて、何の歴史学かということになると思います。
 念のために申し上げますと、これは時間の客観性を否定するものではありません。時間が容易に認識を許さないような客観的な存在であるからこそ、そういうことが起こると考えるべきです。そして、そういうように考えると、「未来」という立場からみてはじめて認識可能になるような独自の過去の見方をとれるかどうかは、歴史認識にとって決定的なものとなります。そして、それがなければ過去の世界の具体的な復元を論理的に明瞭なイメージに組み立て直すことは不可能ではないでしょうか。そこには、知識を積み重ねるだけでは到達できない認識のレヴェルがあるのであろうと思います。歴史教育では、時代の全体像をとらえ、前の時代と後の時代の関係を明瞭に語ることが必要だという形で、これは一般にいわれていることだと思います。
 以上、ようするに、私は、歴史学が未来を語らなくないという状況は、歴史学の本質にかかわって考え直さざるをえないものだと考えるのです。
 以下が目次。中身は相当に「通説」とは違うもので、たとえば、東アジアレベルでみると、日本には「古代」が存在しないのが特徴であって、6/7世紀から「中世」、12世紀から「近世」という、「古代」「近世」の研究者にはとても賛同をえることができないようなもの。
 その他についても、これはあくまでも私見であって、学界の中では了解はないということを何度も繰り返さざるをえなかったが、先生方に親身に聞いていただいたことに感謝であった。
          目次
Ⅰ世界史の時代範疇と社会構成
Ⅱ東北ユーラシアと日本列島史
1異文明(Barbarei)縄文=新石器時代
① 「野性」(Wildheit、旧石器)からの移行(13000年前)
②縄文時代の開始
2列島の文明化と弥生時代。前8C~後2C
①弥生農耕の開始
②弥生社会の地域・民族性と首長国
3首長連合国家(前方後円墳国家)の成立と展開
①邪馬台国の成立ー政治センター移動
②崇神(ハツクニシラス)の実在性と前方後円墳神話
③高句麗戦「戦後」と倭の五王(5世紀)
4中世貢納制王国の形成ーー東アジア中世へのcatchup
①貢納制王国の原型ーー継体・蘇我王統と国家機構の芽生え(6・7世紀)
②律令型国家と王権ーー本格的な文明国家へ
③平安過渡期国家
5近世荘園制国家への移行(院政期国家)
①院政期王権と内乱。武家貴族
②院政期国家と荘園制ー地頭・古老・地主
③世界史上の「近世前期」と東北アジア
6荘園制をどう教えるかーー社会構成としての荘園制

2011年8月19日 (金)

銚子ヒゲタ醤油工場で「村の鍛冶屋」と「森の水車」を考える。

 何年か前、家にいたスイスからの留学生のシモンくんがまた日本にきているので、彼を案内して、犬吠埼の暁雞館に泊まり。高村光太郎と長沼智恵子の出会いの場所。
110819_05095400_2   日の出は4時58分。5時くらいに、犬吠埼の真東の雲の中に赤い太陽が浮かび上がる。携帯の写真ではその迫力は十分にとれないが、見る見る上がっていく。日の出の太陽の動きをみたのは10年ぶりか。静かな星空と動く太陽ということを忘れていた。
 110818_154814_2 犬吠埼の灯台の上の風は激しかった。
110818_154948

 ヒゲタ醤油の工場見学にいって、いま銚子駅。千葉へ帰る電車。工場には「もろみ」を発酵させる大きな杉桶があった(今は使っていない)。高さ2,4メートル。直径2,5メートルという見事なもの。史料館には杉桶をつくるための鉋などが展示。
110819_113942  「しょうゆソフトクリームアイス」がおいしく、シモン君も驚く。「ひしお」をおみやげにかってかえる。醤油の原料は大豆・小麦・塩。大豆はタンパク質、小麦は澱粉ということを始めて知る。大豆が植物性蛋白、小麦は澱粉ということはおのおの知っていたが、組み合わせが「醤」「醤油」とは考えたことはなし。たしか織豊期、多聞院日記に、酒造の大きな桶に女性が不注意で落っこて死んだという記事があるが、いつ頃から桶が巨大化したかは、桶樽研究会の110819_115300 論集でも最終的な結論はついていない。

 私は桧物についての論文を書いたことがある。そこで「木」と木工技術は、前近代の生産手段の筋骨系の基本であるが、日本ではそれよりもむしろ「容器系」の生産手段の位置が大きかったと論じたことがある(「蔵人所檜物作手と桧物の生産・流通」佐藤和彦編『中世の内乱と社会』)。そのうち、巨大な桶をつくる木工技術の研究に続けたいとは思っているが、そのままになっている。


 手工業は木工から始まる。ブローデルの仕事でしか知らないが、ミルから水車・風車にいく段階での木工技術は、日本の江戸時代の脱穀などのイネの調製のための木工技術と類似した印象のものである。しかし、より本格的で、これがヨーロッパ手工業からマニュファクチャーへの展開、つまりヨーロッパ「近代」の展開のもっとも大きな原点になったのだと思う。
 水車は地域に必ず置かれる。「緑の森のかなたから陽気な音がきこえます」、コトコトコットンの水車の歌である。そして同時に鍛冶屋がいる。「しばしも休まず槌うつ鍛冶屋」という「村の鍛冶屋」の歌。この二つの歌がもっている意味についての話は、大塚久雄先生の授業や御話しで何度かきいた。あの歌が歌われるようになったことの意味についても鮮明なイメージをあたえる説明があったと思う。詳しいことを忘れている。これは著作集に説明があったと思う。
 「村の鍛冶屋」と「水車」が大きな意味をもったのは、「小麦耕作→パン
」(そしてミルク)というヨーロッパの生態学的な生活様式によるものである。小麦を粉にするための「道具」、粉をパンにするための「火」が、農業過程から相対的に離れた生産工程となっていることが、中央アジアより西北の社会的分業の様式の大きな特徴であり、この「粉」を作るための労働はきついものと、シモン君もいっていた。彼の世代でも、「昔」は、家で麦打ちをやり、石皿をつかってパン粉をつくった。五分で疲れてやになったといっていた。しかし、彼の世代でも自分たちの分を製粉したことがあるというのは驚き。
 ブローデルを読んでいると、ミルを水車・風車に展開するための木工技術は相当のものであると思う。そして、このような木工技術は「鉄」加工と直結している。これが手工業の多様な展開を結果したのだということがよくわかる。ブローデルのいう「物質文明」は、より端的にいえば生産諸力のことであるが、それを「物質文明」といいかえつつ、具体的に、あるいは読みやすく論じたのがブローデルがよく読まれる理由なのだと思う。木でつくった10メートル以上の高さをもつクレーンの絵には驚いた。
 日本のイネ・米は、粉にしなくてよいし、炊飯も単純でうまいので、さぼっていてよかったということである。条件がよければ物事は展開しない。農耕と家内手工業の複合体という議論をする場合に、世界各地の自然環境や生活様式でまったく話が違ってくるというのが、大塚先生の江戸時代農業史の話をきいた時の感想。それをヒゲタの醤油工場で思い出すことになるとは思わなかった。日本では木工技術から手工業の離陸は織豊期まで下がったが、ヒゲタの工場内においていある「大杉桶」は、その原点。
 「物質文明」の相違を基本にして世界のことを了解するというのは、歴史学の重要な課題であるが、日本では醸造業から木工技術が展開したというルートを引けると思う。所詮、「物質文明」である以上、日常的な生活様式の根拠のない技術展開はありえない。醸造業の展開は、その意味では室町期手工業論の基本に位置する。ようするに、これは「日々のパン」を大事に考えられた大塚先生にいったら、「保立君は何をいいだすかわからない」と笑われるであろうが、日本の物質文明は醸造系、「酒、みそ、醤油」、とくに「酒」が原点ということかもしれない。
 「村の鍛冶屋」と「水車」のイメージが、いわゆる「大塚史学」の「局地的市場圏」論の基礎にあった。それは、農業と手工業の地域的な関係がねっこにある関係で、ここで価値法則が貫徹するというのが大塚先生の説明。これが「中世の民富」の原点にあったというのが、大塚さんの本源的蓄積論の原点でもあった。ある日の授業で、この局地的市場圏を原点にして民衆運動があったという説明があったが、正確な趣旨のノートはとっておらず、そのブリリアントな説明を復元することはできない。そういう言及がないかと著作集を探した記憶があるが、どういう説明だったのか、私には、もうわからない。
 ブローデルやウヲーラステインと大塚史学はまったく違うようにいわれる。たしかに資本主義起源論としては「上からの契機」を具体的に説明するブローデルの理解は説得性が高い。ウヲーラステインのは下手な理屈が多くて、あまり感心しないが、ブローデルの叙述はさすがである。しかし、経済理論の問題としては、ブローデルの市場経済理解は価値法則の貫徹を強調する点で、大塚さんと同じだと思う。これは当然のことかもしれないが、さすがのブローデルも東アジアの「物質文明」を対比基準として利用するだけで、中身には踏みこんでいないから、私にとっては大事なことである。
 ヒゲタは田中玄蕃の創業。『玄蕃日記』を積み上げた様子を示す画像が、ヒゲタの工場案内の最初にでてきたのは印象的。私にとっては禅僧の無本覚心が醤油の原点として名前がでてきたこと。醤油は、金山寺みそにあり、それは禅僧の無本覚心は、花山院氏の一族で中国の径山寺に留学し、紀州の興国寺に持ち帰ったみそが「金山寺みそ」となる。それを紀州の湯浅が移植して、産業化したが、金山寺みその「たまり」が醤油のもとという話。
 覚心上人は大徳寺の開山の宗峰妙超とも関係が深い。禅宗は、こういう形で、日本の文化、「物質文明」に根づいているのだと思う。
  さて、自宅に帰り着いて、いま、これを上げるために、PCをつけ、防災科研の地震データをみると、原発のすぐそばの海でマグニチュード3である。くわばらくわばら。いまから、明日の講演の準備の詰め。

2011年8月10日 (水)

火山地震43騎馬民族国家説(続きの続き)、夏季休暇のお知らせ

 このブログは、だいたい通勤の電車の中で書いて、昼休みか翌朝にアップしているのですが、夏の予定を組み立ててみると、通勤時間も仕事をしないとならない、それでも間に合わないという結果でした。とくに20日に重要な講演があり、それまでは暑い中、頑張らないとという結論です。
 このブログ、ひょんなことから、昨年8月頃に初め、自分でも頭や気分の整理に欠かせないものとなっています。また個人的なものですが、政治・社会批判を書くことも勉強になりました。忘れてはならないことは書く必要があると感じます。

 20日がすぎれば、また戻りますが、毎日、相当数の方がみてくれているようですので、夏季休暇であることを申し上げます。


 職場も今日は事務・図書は休み。
 本郷の交差点で、前回買い損ねたビッグイッシューを一冊、購入。彼も暑そうで、お互い大事にしようといいあった。いま10時、いまから、節季働きです。暑い中、お仕事に、ご家庭に、どうぞ御大事に。

 ただ、以下は、騎馬民族国家説についての続きの続きです。
 騎馬民族国家説が、ただ、「天皇族はどこから侵入してきたか」という問題提起でなかったことはもっと強調されてよいことであろうと思う。もちろん、彼らの展開した神話論は基本的に三品の比較神話学研究によったものであるが、騎馬民族国家説は、その上に、ユーラシア北部の遊牧民族の「鍛冶王」(シュミード・ケーニヒ)の神話の影響をつけくわえた。つまり、岡と江上は、いわゆる「神武東征」神話において神武=イワレヒコをみちびいたというヤタ烏=金鵄には、そのような鍛冶王の神話が反映しているのではないか。ユーラシアの建国神話には、同じ様に王の進軍をみちびいた鳥(鵄や鷹)の神話が多いが、その同じ地域に鷲・鷹・梟などをかたどったチュードという銅製品が分布している。それはシャーマニズムの呪物であって、山の神や天神の使者の依代であったというのである。

 ようするに、ユーラシアの「鍛冶王」の神話は、人々のシャーマニズムをベースとして、しばしば「鳥」などの姿を依代として自己の意思を示したのであるが、それが「神武東征」神話にも反映しているのではないかというのである。

 東洋史家の護雅夫は、この「鍛冶王」についての議論を引き継いで、「鍛冶王」をシベリアからユーラシア北部で活発に活動していることがしられているシャーマンに結びつけた。その分析のおもな題材となったのは、五世紀初頭にモンゴル高原に建国した突厥(テュルク、トルコ族)の建国神話である。それによると、突厥(テュルク、トルコ族)の始祖神話は、牝狼もしくは狼の血をひく族祖が高山の山頂に天下り、その山の洞窟で男子を産んで養ったという物語である。これは、王族の墳墓から発見された狼のレリーフなどによると、突厥の族長が本来は狼の姿をしたシャーマンであったことに由来するということで、『隋書』に突厥が「鬼神を敬し、巫覡を信じた」という巫覡=シャマニズムが、狼をトーテムとするものであったことを示しているという。
 狼のこもった山の洞窟は巨大で、内側が広く、そこで育った十人の男子の家は多数の子孫に分かれたというが、その山は天山山脈東部に位置するボグド・ウーラ(「聖なる山」)と想定できる。そして、後に、彼らはその洞窟をでて、金山(アルタイ山脈)の南麓に移って鍛冶、鍛鉄の業に従事したと伝えられるが、このボグドーウーラも、金山も、鉄を初めとする鉱物の大産地であって、後に遊牧帝国を構成する彼らの実力が、鍛冶をめぐる諸技術にあったことは確実であるという(護雅夫『古代遊牧帝国』、中公新書)。これは突厥が最初に従属していた柔然(モンゴル系の民族)に「鍛奴」という扱いを受けていたことによって論証できるというのが中央アジア史研究の結論である。
 突厥の王は「毎年、もろもろの貴人をひきいて、その祖先である狼のいた洞窟を祭る」(護の現代新書。一三七頁)ということであるが、「狼」は突厥のシャーマニズム、「洞窟」は、そこで身につけた鍛冶の技術を象徴するものであろうか。突厥の王が「鍛冶王」であり、同時にシャーマンの宗教の元締めであったことは、相当の確度をもって論証されているといってよいようである。実際に、七世紀にモンゴル高原にいたトルコ民族の史料には「身体は人間で頭は狼」の姿をしうた「乞食」(シャーマン)が存在していたというが(140頁)、護雅夫は、こういうシャーマンの権威は、鍛冶師としての異常な能力、聖なる能力をもつことによって支えられていたと推定している。突厥の王制は、歴史的にはそこに淵源していたということになる『遊牧騎馬民族国家』(講談社現代新書一九六七)。

 そして、この「鍛冶王」という観念が日本の神話の中にも大きな問題として存在することは、溝口睦子『アマテラスの誕生』(岩波新書)が論じている。騎馬民族国家説の問題提起は、ここ五〇年ほどの間、日本の「古代史」の学界ではほとんど無視されていたといってよい。もちろん、この学説を同世代の研究者として受けとめた人々は別であるが、こういう状況の中では、溝口の仕事は画期的なものであったということができる。新書のもとになった著書(吉川弘文館)をふくめ、溝口の議論全体に騎馬民族国家説の影響が強いのをどう評価するかは別であるが、この点は大事だと思う。
 溝口の注目したのは、前のエントリでふれたように、タカミムスビである。(ただ指摘それ自体としては、谷川健一氏の『青銅の神』(30頁)が早いはずである)。それをただ「鍛冶王」ではなく、「火山」を入れようというのが、『かぐや姫と王権神話』以来の私見であることは何度も述べた。

2011年8月 9日 (火)

火山地震42騎馬民族国家説と火山国家説(続き)

戦後歴史学と騎馬民族国家論
 8月8日。帰りの総武線。
 私は、都立大学の大学院を修了して、現在の職場に入ったので、都立大学では村上正二先生の話を何度かきいたことがある。残念だったのは授業をとっていなかったことである。大学院ではもっぱら戸田先生の授業とゼミだけで、別に日本史以外の授業をとる必要がなかったので、自然なことではあるのだが、今から考えると、いろいろな「課外」のことをやっていたのであるから、せめてもう少し御話しをうかがっておくのであったと思う。生活と話題は学問だけ、物静かという、我々より二・三世代前の学者らしい方であったが、その世代らしい学者の自信を感じさせる方であった。モンゴル史の中での村上先生の位置を考えれば、それは当然のことというのはしばらく前、『黄金国家』を書くときに気がついたことである。
 さて、そういうことで、突厥からモンゴルにいたる騎馬民族がもっていた「鍛冶の力による天地開闢」は彼らの鍛冶技術と独特な神話に由来するという村上先生の論文、『史学雑誌』の論文を昨年読んでみて、先生に質問ができたら本当によいのにと思ったことがわすれられない。もちろんもう亡くなっている。ともかく先生というものは、何かをいってくれるので、私のような(研究過程に入ると)「藁をもつかむ」というタイプの研究者には、これほどありがたいものはないのである。
 どうも、騎馬民族国家説、とくに江上波夫氏の『騎馬民族国家』(中公新書)では、直接に「天」との垂直関係が強調され、東北アジアの大地のイメージがもっぱら疾駆する騎馬民族の下に広がる単一のイメージで作られているという感をまぬがれない。江上氏は騎馬民族以前に「遊牧民族」を措定するのであるが、遊牧民族になると、いよいよ大地は単調なものとしてとらえられ、遊牧民は「単調で空漠な環境のなかに」、「孤独で無為な生活をしいられた」というとらえ方である(15頁)。それに対応して騎馬民族は「都市文明から物欲を教えられ、侵攻作戦に身命を賭する」という基本的な視座がすえられている。こういう考え方が、江上氏の騎馬民族国家説には、陰に陽に影響をあたえているように思うのである。

 ともかく、この本を読んでいると、江上氏はあまり「遊牧民族」というものが好きではないのではないかという感じがする。村上先生はそうではなかった。

 広いということはそんなに単調なものなのだろうか。広さを生活の中に入れている生活は、大地の多様性のとらえ方が違うだけではないかと思う。一般に大地は位置と豊度によって規定される。そして、我々は、とかく位置を固定して考えがちであるが、位置移動が基本の社会の大地というものはまったく別の様相をあらわすのではないかと思う。
 「地」はそんなに単調なものではなく、もっと具体的なものではなかったか。つまり火山のような「地」の具体性を前提にして、「天地」を考えないとならないのではないか、そしてとくに中央アジアであるから、鉱山の位置はきわめて高いのではないか、それを具体的に論ずる方法はどこにあるのであろうかというのが大きな疑問である。
 10年ほど前にモスクワ大学で講義をした時に、ロシアの東洋学研究所の先生に中央アジアの金鉱山の遺跡調査の話しをきいたが(これも十分なメモが残っていないが)、それは相当の規模のものである。もちろん、これは松田寿男氏の『アジアの歴史』などにも書いてあることで、有名なことではあるのだが、どうしても山というものが具体的に見えてこないのである。

 これは結局、中央アジアにおける火山、とくにアムールプレート北辺の火山帯のことがよくわからないからではないか。これは火山学の小山真人氏の
論文「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年ポスターセッション発表内容)で片鱗にふれただけ。

 日本列島の火山神話は、たしかにこういう遊牧騎馬民族の火山信仰に由来するのだと思う。「中国」の周縁部をまわって日本まで来るルートがあるのは確実である。文明の周縁部では、大きな建物の周りのように風圧が強くなり、人々の動きは周縁地帯をまわるようにして活発になる。その中で、中国周縁の北から南の火山地帯の文化と諸技術が組み合わされる。その組み合わせが、北と南の組み合わせが、朝鮮半島の南部と日本列島を場として展開したのであろうと、思う。
 そして、その場合、北と南の両方に火山があったことが重要である。そして、その中でも日本列島の火山も地震はきわめて活発だから、ユーラシアの南北の火山神話は、日本列島で肥大化したのではないか、それが火山神話(地震神話)が日本の神話の中で特殊に中心的な意味をしめるようになった原因なのではないか。だから、騎馬民族の神話の直接持ち込みのみで日本の神話を考えることはまずいのではないかという疑義である。

 さて、以上、東京駅から書きだして、いま、津田沼なので、もう少し書ける。朝、前のエントリーを書き終わった時に、帰りに書こうと思っていたのは、「戦後歴史学」と騎馬民族国家説という問題である。
 これは、岡正雄氏の、騎馬民族論のシンポジウムの冒頭近くでの下記の発言のことを書こうということであった。
 「今までの研究は、階級とか、発展段階とかいうようなことに興味の中心があって、歴史的過程に於ける種属的、民族的な要素ないし条件についてはいちじるしく閑却されていたと思うのです」「「いわゆる日本民族は異質的な諸民族=種族によって混成されたものであることも考えておかねばならない」「また一般に史的発展においては内的な発展の原則とともに、伝播・混合・中絶などなどによる発展ないしは史的過程が大きな役割を演じている。このことはすなわち、一系的直線的な発展を公式的に考えることは無理であるということである」。
 こういう「戦後歴史学」に対する批判は明らかに正しい部分がある。これは、戦後歴史学に対する「一系的・直線的な発展を公式的に考える」という趣旨の批判としてははじめてのものではないかと思う。梅棹忠夫氏の戦後歴史学批判は、あきらかにこれを受けたものであったということになる。そういう意味では、「戦後歴史学」論は、このシンポジウムをどうとらえるかを一つの原点にしなければならない。「そうであったか」という感じである。歴史学の方法論の再検討の視野を広げることが、どうしても必要な時代。歴史学内部の議論ではなく、とくに人類学・神話学などの他分野全体との関係の中で、徹底的に考えていくことが必要だと考える。
 ともかく、ここにいわれていること自身に限れば、歴史学者は誰も反対しない正論である。(1)一系的・直線的な発展段階論は問題が多い、(2)種族的・民族的な要素は歴史の現実の中ではきわめて大きい役割をもつ、(3)日本民族は異質的な構成、民族多元性をもつ、(4)歴史の過程では「伝播・混合・中絶」の意味が大きい、(5)その上で「内的な発展の原則」は揺るがせないという形でいえば、これに反対する歴史家はいない。
 しかし、『歴史学をみつめなおす』でも、WEBPAGEに上げてある河音能平氏の著作集の解題でも述べたように、「戦後歴史学」はそれだけのものではない。人類学・民族学的な視野から「一系的・直線的ではない」イメージを議論することはたしかに可能であり、そこには重大な意味がある。「戦後歴史学」の弱点はたしかにあるし、そして人類学的な視野と方法の有効性を否定するわけではない。
 しかし、歴史学のように史料にそって時間の筋を通していくという立場から「一系的でない」全体像を描くというのは、人類学とは異なる困難がある。それをすべて、「戦後歴史学」は「公式的」だからだ、戦後歴史学は公式的だからだ、「マルクス主義」の図式性だ批判するのだとしたら、フェアではないと思う。なによりも、「一系的・直線的ではない」歴史像を筋道を通して描くというのは、結局、「実際にやってみたら」という話になる。「戦後歴史学」をになった人々、たとえばすぐに梅棹忠夫氏と論争をすることになる太田秀通氏などは、そう思っていたことは『歴史学をみつめなおす』でも書いたことである。そして、逆に、歴史家江上波夫氏の『騎馬民族国家』を読んでいると、歴史家としての江上氏の歴史の見方も図式的であることをまぬがれていないと感じるのである。
 このシンポジウムは1948年5月。私が生まれた年。数ヶ月前のことである。そのころから、「民族をどうとらえる」「一系的でない歴史像とは何か」と、同じじ問題を繰り返し繰り返し議論してきたのが「戦後歴史学」の歴史であるということになると思う。
 こういう形で、自分の研究自身に関わる問題となってきたので、そのうち、正確に点検してみたいものだと思う。これは新しいことをやりたいということではなく、歴史学の過去を取り戻したい。歴史学の過去の中から現在に通ずるものの中にいたいということなのだと思う。若い歴史家はすでにそういう感覚をもたない。若い歴史家は、歴史学の過去には興味はない。しかし、それは必要なことではないかと思う。
 そうはいっても、私も前の世代からみれば、そういう「若い歴史家」であったのかもしれない。直接に知っていた「戦後歴史学」の歴史家に対する共感が強い反面、過去の歴史学の中に存在した多様な立場、あるいは過去の歴史学と他分野との関係には強い興味を維持していなかったと思う。
 石井進さんに岡正雄氏の『異人その他』は読んだことはあるかと聞かれたことがある。網野さんには遺跡保存運動との関係で、八幡一郎氏は端倪すべからざる人ということをきいたことがあった。結局、それは宿題のままで過ぎ、そして村上先生にもいろいろな話を伺わないままに過ぎたのである。
 以上、結局、9日の朝。

2011年8月 8日 (月)

火山地震41騎馬民族国家説か、火山神話国家説か

 昨年、『かぐや姫と王権神話』を書いたときに、いわゆる騎馬民族国家説にはじめて興味をもった。タカミムスヒ論をやらざるをえず、そのなかで、「騎馬民族国家説」ではなく、東北アジア「火山神話国家説」が必要だと考えたからである。

 東北アジアが地震・噴火の多発地帯であった以上、この地域で活動した諸民族に共通する自然条件として、歴史地震と噴火を考えておくべきことになると思う。それは各地域の民族社会と文化に同じような影響をあたえ、その相互関係にとっても重要な条件となっていたのではないだろうかということだ。この地域の歴史を長期的な展望の下で見ようとする場合、一民族・一国家の視野に閉じこもっていてはならないということはよくいわれることであるが、これまでの研究では、その大きな条件として自然を具体的に考える視点や方法意識が希薄であったように思う。
 こう考えた場合に、民族学の岡正雄と石田英一郎、東洋史の江上波夫、考古学の八幡一郎などが、一九四八年に行った座談会で提起された騎馬民族国家説が大きな問題となるということになる。
 よく知られているように、この仮説は、ユーラシアの北東部にひろがるウラル・アルタイ系の諸民族の活動を、日本国家の成立に深く関わる問題とし、その広域的な文化や世界観の理解にまで立ち入るという雄大なものであった。いま読んでみても、彼らが縦横無尽に展開した学際的な議論は魅力的なものがある。
 彼らの主張は、実際上、第二次世界大戦前の「皇国史観」の中枢をなしていた偏狭な民族主義的な歴史観を突きくずす上で、大きな役割を発揮したと思う。天皇家の祖先はユーラシアから、この列島に侵入してきた。天皇を中心とした神話はモンゴルや朝鮮の諸民族と同じものだという主張が社会の耳目を集めたのは当然のことである。とくに日本の人文学の学史の中でみれば、騎馬民族国家説は、神話学・人類学・民俗学が、「皇国史観」の時代の反省の上に立って、はじめて協同して展開した社会的主張として特筆すべき価値をもっていたことは明らかである。

 とはいえ、現在では、騎馬民族国家説をそのまま承認することは無理が多いように思う。江上波夫がまとめた歴史学説としての騎馬民族国家説は、東北アジアの騎馬民族が新鋭の武器や騎馬をもって朝鮮半島を経由し、四世紀に北九州付近に侵入してきて、五世紀には畿内に進出して強大な勢力をもった大和朝廷を樹立したというものである。記紀の王統譜に対応させた図式では、北九州への第一次侵入の時の王は崇神、大和への移動の時は応神という想定である。これはやはり「日本史家」にとっては賛成しにくいものなのである。
 この仮説を立ち入って検討することは私の手にはあまるが、確認しておかねばならないのは、東洋史家・江上が、これを朝鮮史の理解として展開したということがである。たんなる「専門意識」でいっている積もりではないが、これの結論は、そっちょくにいって「東洋史」の側でまずは議論を立ててほしい。
 つまり、江上は、朝鮮半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)が三世紀に「辰王」という王をいただいていたことに注目し、北九州に侵入した騎馬民族の一統は、この辰王の子孫であるか、その権限を受け継いだものであるとした。
 この辰王とは、衛氏朝鮮(紀元前二世紀頃)の時代に南朝鮮に存在していた辰国の王の末裔をいうが、江上は、その末裔について『魏略』に「その流移の人たることを明にす。故に馬韓のために制せらる」とあり、『後漢書』(東夷伝)に「馬韓は最も大、共にその種を立てて辰王と為す、月氏国に都し、尽く三韓の地に王たり」とあるのに注目した。そして、この二つの史料を「辰王は外部から流移してきた人だったので馬韓諸国の承認をえなければみずから立って王となることはできなかったが、実際は王位を世襲して」おり、「馬韓の月支国に都して、馬韓・辰韓・弁韓の半数をあわせた地域を支配した征服王朝的性格の強い王であった」と解釈したのである。しかし、四世紀前半には馬韓に百済の建国があり、後半には辰韓に新羅が成立した。その中で、残った弁韓=「任那(伽耶)」が圧迫され、「辰王」(あるいはその関係者)が「たぶん弁韓(任那)から倭国に乗り出してきて、いわゆる倭王という倭韓連合王国の王になった」という訳である。
 これは時代順をうまく整合的に説明したものであると思う。しかし、四世紀初頭に「辰王」が北九州に侵入したという筋書きは、やはり仮説であって、「日本史家」の立場からそのまま承認することはむずかしい。とくに「辰王」の性格については、あくまでも共立されて名義的に対外関係に関わるといった存在であって、とても「征服王朝的性格の強い王」とはいえないというのが朝鮮史研究の一般のようである(武田幸男『朝鮮史』)。少なくとも征服王朝的性格が強いというのは史料解釈として無理が多い。繰り返すように江上の理解はそれ自身としては朝鮮史の理解なのであるから、この点に瑕疵があるということになると、「東洋史」の側でもう少し考えてくれないものかという気になる。

 もちろん、騎馬民族国家説は、そこにとどまるものではない。歴史的時間の順序にそって筋道を立てるためには、文献史料に依拠することがどうしても必要であるから、歴史家として江上が、このようなシェーマを立てたことは当然のことなのであるが、しかし、騎馬民族国家説の独自性は、むしろ考古学的・民族学的な視野にたって、ユーラシアの騎馬民族全体に目を配って多様な議論を展開したことにあった。岡正雄が神話・宗教・社会組織の全体にわたって騎馬民族と日本民族の比較を行い、江上が、日本の馬具・武器・衣服装束や風俗などについて、考古学的な遺物を中心として、同じような比較を行ったことの意味は大きい。
 それらの特徴が岡や江上のいうように「新しい」時期、四世紀以降の騎馬民族の侵入にともなって形成されたかどうかは、論証されていないといわざるをえないが、私は、このような研究の方向自体はきわめて重要であると思う。ユーラシアと日本の文明・文明の共通性という問題は、日本の歴史研究にとってもっとも根本的なテーマであることはいうをまたないのである。

 問題は、この騎馬民族国家説の開いた視野の中で、現在、もっとも確実な成果として受け継がれているのが、神話論であるということである。『日本書紀』『古事記』で語られる日本の建国神話、天孫降臨神話が、朝鮮からモンゴルにかけて分布する神話の変形であるということである。
 それはまず(1)高天原神話の主神はタカミムスヒであって、高天原神話のおもな要素は天神タカミムスヒが孫のニニギを「筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)峯」(『日本書紀』第九段一書第一)、「日向の襲の高千穂の添山峯」(『同』第九段一書第六)に下したものである、(2)このような高山への王朝の始祖の降臨神話は朝鮮半島からモンゴル付近にまで同じものが分布しており、『日本書紀』『古事記』の開国神話はそれの変形である。(3)たとえば、六伽耶国の神話では始祖は「亀旨峯」に天下ったが、この「亀旨峯」は「槵触峯」と同じ地名である。「フル」は韓語で村の意。また「添山峯」(そほりのたけ)のソホリは百済の都を所夫里、新羅の都を蘇伐(徐伐)というのと同じであって、地名まで一致しているという三つの点にまとめることができようか。
 ただ、これは三品彰英の比較神話学の成果であって、三品の仕事は昭和初年のものであるから、座談会で岡が展開した神話についての意見はほとんどは三品のものの繰り返しである。その引用関係が明示されていない理由は私にはわからないが、この三品の意見をうけた岡の一般化が大林太良・吉田敦彦によって日本の神話学の中に大きな影響をもったということになる。
 
 さて、ここからが火山の話なのであるが、右の座談会で驚いたのが、文庫本の40頁。江上が提出したチンギス・カンの伝説との関係で、岡が、それは草原地帯の「鍛冶王」の神話との関係はないのかと問題を提起し、それに対して江上が中央アジアの遊牧民が同時に採鉱と鍛冶を職能としていたこととの関係で彼らの建国神話にでてくる鍛冶王の姿について言及していることである。これはユーラシア史では著名なことなのだろうが、私は昨年の勉強ではじめて知った。この部分は、三品彰英の見解ではなく、この座談会で提出されたオリジナルな論点である。
 意外だったのは、この「鍛冶王」という問題を日本史の側ではじめて取り上げたのが、岩波新書の『アマテラスの誕生』(溝口睦子)だったことで、溝口は、タカミムスヒが「日月の神」の祖として「天地を溶造」した功績をもっているというのは、タカミムスヒが「鍛冶」の神であったことを示すとしたのである。『アマテラスの誕生』は、そのような推論によって(五五頁)、「タカミムスヒは天孫降臨神話とともに朝鮮半島からやってきた外来の神である」(九四頁)と結論している(『日本書紀』(顕宗紀、「天地を鎔造した功」)。
 溝口は、「鍛冶の力による天地開闢」の建国神話が突厥からモンゴルにいたる騎馬民族がもっていた鍛冶技術と神話に由来するという村上正二の推論を引用しているが、最初のヒントは『日本民族の源流』にあったことになる。

 しかし、タカミムスビの「天地を鎔造」とは鍛冶の技術を表現すると同時に、火山噴火についての神話的なイメージを背景としているのではないだろうか。「天地鎔造」について溝口は「金属をとかして鋳型にいれて物をつくることである」と説明する(55頁)。この「天地鎔造」、天地の裂け目を鋳直すという神話のイメージも火山爆発そのものではないだろうか。天孫降臨神話と鍛冶伝承は別のものではない。どちらも天地の関係に関わって存在している。
 こうして、東アジアの建国神話の共通性は、「鍛冶王」と「山上降臨」をつなぐもの、つまり火山に求めなければならないということになる。ここまでは昨年、『かぐや姫と王権神話』で考えたことだが、以上、長くなった。
 総武線もそろそろ東京である。騎馬民族国家説は、「戦後歴史学」の学史にとっても大きな問題なので、この続きは、忘れないうちに帰りの電車で書くことにする。

2011年8月 7日 (日)

地震火山40、火山ガスの飛散と放射能

110807_061728_2  朝。5時起き。花見川の自転車コースを走って、その後、ファミリーレストランでコーヒー。汗をかいてさすがに気持ちがいい。
 この夏は、どこにもでかけないが、そろそろ予定が詰まってくる。明日からは気をかえて行動開始しないと間に合わない。
 火山学の早川由起夫氏が、火山灰の飛散ルートの予測の技法を使って、放射能マップを作ってオープンしている。火山灰の拡散と放射能粒の拡散は同じ流体力学の法則にしたがうから、火山学の知識を応用可能であるというのに驚く。早川さんには八・九世紀の「大地動乱」をどう考えるかについて今村明恒の見解に疑義を提示した、私の見解からすると十分に検討せざるをえない重要な論文があって、それでお名前を知っていた。
 八・九世紀の噴火によって発生した火山灰の飛散を示す史料のうち、興味深いわりに、これまで注目されてないように思うのは、八八五年(仁和一)の薩摩国開聞岳の噴火と、翌八八六年(仁和二)の伊豆新島の噴火であろう。
 まず前者は、七月一二日夜と八月一一日、二回にわたっておきたもので、七月の噴火では、肥前国まで「粉土・屑砂」交じりの雨が降下し、水田・陸田の苗や草木に降り積もって、植物がいっせいに枯死直前にまでいったという。幸いに、大雨が降って、「塵砂」を洗い流したために、枯苗が再生したというが、薩摩と肥前の間の肥後国をふくめれば、相当の被害がでたことは確実であろう。とくに薩摩国では、火山灰降下が続き、八月には、砂や石が地面に五六寸から一尺ほどの厚さで降り積もり、田野が埋没して大騒ぎとなったという。七月・八月は、水田稲作にとって重要な季節であるだけでなく、養蚕や麻の収穫の季節でもあるから、「蚕・麻・穀」の損耗はきわめて大きかったという。
 翌年、八八六年(仁和二)五月二四日の伊豆新島の噴火では、噴火の翌々日、五月二六日に、安房國から「砂石・粉土」が広範囲にふり、ある場所では「二三寸」も積もり、水での苗や、山野の草木が一斉にかれてしまったという。これは伊豆から西風にのって房総半島に降下する火山灰が顕著であったということであろう。注目すべきなのは、それらの草をたべた馬や牛が多数、ばたばたと倒れ死んだということで、これは降下した火山灰、「粉土」に、火山ガスの有毒成分に共通する物質がふくまれていたということを示す珍しい史料であるといえる。地質学的には、これをどういう成分と考えることができるだろう。江戸時代などには、同様の史料があるのだろうか。

 さて、長い目でみれば、噴火は日本の自然の中では避けることができないから、こういう記録も、その地域に住む人にとっては重要な知識になるのかもしれない。小学校・中学校の頃から教えてよいことだと思う。火山についての概説をするよりも、教材として実際的だろう。
 興味があるのは、このように噴火は甚大な被害をもたらすものとして恐れられたのであるが、それが、被害不可思議な現象として「恠異」としてとらえられたことである。
 火山灰降下が「恠異」である事情は、神祗官が、右にふれた八八五年(仁和一)の開聞岳噴火を「粉土の恠、明春、彼国に、まさに災疫あるべし」と占ったということに現れている。これは広汎な火山灰の降下は疫病の直接的な原因となるという判断を前提にしているのではないだろうか。そして、翌年の伊豆諸島噴火でも、火山灰が苗・草木を枯らし、それらにおおわれた草を食べた馬牛が中毒死したことを、陰陽寮が「鬼気の御靈、忿怒して祟りをなす」、つまり悪霊が怒って祟りをしたのだと解釈し、疫病の流行を予言しているのも同じことであろう。
 これは、噴火が「奇怪」「恠異」であるという場合には、農業被害をはじめとするさまざまな生産活動に対する被害のみでなく、人畜の身体に対する直接の被害の位置への恐れが内在していたということを示している。
 永原慶二『富士山宝永大爆発』(三〇頁)が紹介しているように、新井白石の『折りたく柴の記』には一七〇七年(宝永四)富士の大噴火が、江戸の人々の間に咳病をはやらせたという記録が残っている。これは、江戸時代のみではなく、つねに起こる可能性のあることであったということができるだろう。
 火山噴火への恐れは、単に物質的な被害というだけではなく、神秘的な恐れ、「祟」への恐れがふくまれている理由は、ここら辺にあるのかもしれない。「祟り」という観念は、火山ガスや火山灰の有毒性が目に見えないことによって倍加されたに違いない。これは占いや呪術という形式をとった知識がともかくも「見えないものをみえるようにした」のである。

 私などの立場からすると、原発に「安全神話」があったというのは、言葉の使い方として、とても了解できない。神話というのは、神話の時代には、知識と経験の形式である。もちろん、神話は呪術と迷信を内部にふくんでいるが、それは一つの世界観であり、知識体系をなしている。そしてそれによって、ともかくも「みえないものがみえるようになる」のである。
 しかし、原発の「安全神話」というのは、「見えているものを見えなくする」ためのさまざまな操作である。そういうものは神話とはいわない。見えているものを見えなくするのは詐偽であって、神話ではない。「安全宣伝」というべきもの。多額な広告料によるマスコミの買収、危険を指摘する研究者への抑圧、「公共事業」の名のもとでの税金から詐取その他その他。実際にそういうことがあったことが多くの人々の目にふれてしまった。
ようするにこれは、社会の中枢で権限を握っている人々による半意識的な詐欺行為である。それがなかば虚偽であることを心の片隅では知りながら自己呪縛する。これがシステムとしてあるのが怖い。

 詐欺罪を詐欺罪としてあつかえないのは、現代の日本社会には、「罪」という価値基準がないためである。日本社会は、「中枢の人々が失敗するのをみている社会」、それによって社会をイノヴェートするという戦術で庶民がやってきた社会であるというのは、内田樹『武道的思考』(284頁)の至言であるが、これは今回は、ことがことだけに通用しない困った戦術である。
 あまりに当然のことであるが、「罪」を正面からとらえる目がなければ「倫理」もない。

 「神話」というものは本質的には作ることができるものではないと思う。大学時代には羽仁五郎の神話論を正しいものとして読んだが、あれはやはりまずいと思う。ただ、神話も、その時代の社会的な利害対立を反映していることは確実である。そして、歴史学にとっては、そういう大塚先生がいう意味での「利害状況」を神話の中に読み込むのがもっとも困難な課題である。こういうものをどのようにして教育の素材としたらよいのであろう。昨年から、時間ができたら、益田勝実氏の神話教育論を読んで点検しようとしているが、時間がないままに過ぎている。この夏も駄目だろう。
 

2011年8月 6日 (土)

日記。20110806

 今日は休み。いまは朝。
 昨日は、寝る前、頭のクールダウンに、内田樹さんの武道の本を少し読む。内田樹さんは哲学と武道を仕事の領域にしている。両方とも身体的な作業である。意識が意識を見るのではなく、頭脳が身体の中に合一するルートを意識の内部に確保しておくことによって、身体が頭脳をたすけてくれる。そういう関係を日常化すること。読んでいるとうらやましいと思い、耳の痛いことも多い。
 しかし歴史学は、なかなかそうはいかない。内田氏は朝の頭が一番いいということであるが、私だけなのかも知れないが、どうも歴史学の原稿書きには朝が一番よくない。そこで、調子がでないまま、こういう文章を書いて頭の準備運動をしている。学者というのは、頭のスポーツを仕事としている人種であるから、頭の機嫌を取り、調子を整える技術をもたないとならないのだが、私は朝に弱いのである。
 これは一つは長い間の生業が編纂であるためかもしれない。今の仕事を始める時に、I先生から「朝に編纂をやって仕事を進めれば、午後3時くらいには時間ができるから、それから好きな勉強をやればよい。よい職場だ」といわれた。朝は通勤と編纂の時間のはずなのである。
 編纂は史料を読む仕事で、そういう意味では受動的な仕事である。次々に史料を読んで、その字を書いていく仕事である。ただ、次々に史料が読めるようにするためには、大量の準備実務と雑務が必要で、実務に弱い私などは、I先生に教えられた通りにやることはできなかった。悔恨。しかし、ともかくも史料を処理していくということの基本は教わったと思う。頭を空にして、目の前の史料と勤勉に向き合うということである(もちろん、書いた翻刻は正確に覚えこだわっていないといけない。けれども次の史料のために一度は忘れないといけない)。
 けれども、研究上の原稿書きということになると、そうはいかない。そこでは逆に頭を一杯にしておかねばならない。史料の中身をまず頭の中に入れて、頭の中になじむようにして、隣りの史料ともなかよくさせる。下ごしらえは、その前に済ませておかねばならない。というよりも、使用する史料としてリストアップするというのが下ごしらえのほとんど全部で、いわば土がついたままの材料である。そしてほとんどは捨てる。
 そういう慌ただしい作業の中で、頭の中で排列を造り、史料のおのおののが語ることを記憶し、全体の像を組み立てる。これは分析と総合ということとも違い、むしろ総合が先にきて、総合の必要性があって、分析に進む。総合の方向がでないと分析もできないという形である。
 こういう砂上の楼閣のようなものを、たくさんたくさん作りながら、十中八九はうまくいかないので、それを崩しながら、間違わないように文章を書いていく作業をやっていると、たいへんに疲れる。けれども疲れた時の頭が一番効率がよいのである。つまり執筆用具としての頭は、その時頭に入っている史料で一杯になっているから、それに適合した執筆用具になっている。そういう形で毎回、毎回、執筆用具を作らないとならない。朝起きて、昨日の作業が頭の中から消えていると、同じペースの仕事に戻るには時間がかかってしょうがないのである。
 こうやって手作りの仕事をしていくのであるが、こういう仕事はやはりあまり人間にはよくないのではないかという感じもする。粘液質という言葉が心理学的にどういう意味か、正確なところは知らないが、あまり健康ではない仕事のように思う。意識の中に存在する史料(活字)との無限の対話を続けることが健康によい訳はない。そして、私はご多分に漏れず、ほとんどの作業をPCでやるので、いよいよ無限感は増大する。
 こういう結論になっていつもやってくるのは、机の周りを整理し、本棚を整理し、研究課題を整理し、もう少しゆっくりと仕事をしようという見果てぬ夢。


 学者は頭のスポーツであるといったが、内田先生によると、「武道」はスポーツではない。修養であるということである。これはその通り。御説ごもっとも。哲学と武道のマッチングが幸せなことはよくわかります。
 しかし、そもそも頭脳労働というものそれ自身は修養にはならないから、そういうことで毎日を占有されている人間にはどういう救いがあるのであろう。学問はそれ自身はスポーツでしかありえないのではないか。もちろん、学問はさまざまな身体的能力を必要とするが、それは身体を搾取するだけである。学問それ自身が修養になるなどということはありえない。しかも時と場合によっては低級きわまりないスポーツであり、時と場合によっては、(たとえば過去の時空、時間と空間の復元に成功したと思った時は)麻薬のように楽しい仕事。
 そういう空虚な重荷をもって生きていくことが、学問外の修養を、人一倍、必要とさせるのかもしれない。そうだとすると、歴史学者にとくに必要な修養というものがありそうに思うが、どうもそういうものを積み重ねてきたという自信はまったくない。人間としての修養それ自身にも自信がない。どうしたらよいか。これは、今度、和尚さんにきいてみよう。

 以上は朝書いたもの。今は真昼。すでに気分が違う。
 そして思うのは、歴史学にとっての他者、他の研究者のもっている意味。それは机辺に並ぶ友人の論文や著書の形態で私の眼前に存在するが、その中に入っていくことが、意識の無理のない拡大をもたらす。久しぶりに水林彪氏の著書を読んでそう思う。彼のいっていたことの意味が少しわかり、そして同時に若干のオーバードライヴも可能かもしれないという気持ちがする。頭脳スポーツでも他者を前において労働をしていれば、修養にもなるのかもしれない。

2011年8月 3日 (水)

地震火山39、地震神スサノオ・広峰神社・播磨国地震、

 朝、電車で、昨日の仕事からこの文章を作り出していて、「これを出すかどうかはよく考えること」という下のメモをした。その事情は、最後に掲げた文章を参照されたい。結局、読んでいただくことにする。
 昼休み、弁当を食べながら、SAVE CHILDのページから、東大先端研のアイソトーヴセンター長、児玉龍彦氏の国会での参考人としての証言をみた。自然科学者としてまっとうな発言であると思う。政府・国会・責任企業はなにをしているのかという怒りは当然のことである。
 歴史学は実効性の遅い学問であるが、地震・原発・震災は歴史学にとっても、日本の文化にとっても根本的な問題だと思う。歴史学がどういう役割を負うべきかをあらためて考える。
 
これを出すかどうかはよく考えること 
 先日、7月14日、東京大学の海洋アライアンスで「貞観津波と大地動乱の八・九世紀」という講演をした。これは現在のターミノロジーでいえば「陸奥沖海溝津波と大地動乱の八・九世紀」ということになる。
 そこでふれた「広峰神社と播磨国地震」の関連について紹介しておきたい。またこれはスサノオが地震神であるという『東北学』で述べた想定を追補するものでもある。これは、史料についての、本来は論文なり著書でふれるべき内容を含んでいるが、上記講演で話したものでもあり、前に『日本経済新聞』の電子版からのインタビユーにこたえた時にも祇園会と陸奥沖海溝津波(貞観津波)関連がある可能性があることを示唆もしたので、ブログでも執筆することにする。
 貞観地震の前後において、地震を引き起こした神がどのような存在と考えられていたかを考える上で、もっとも重要なのは、八六九年の陸奥沖海溝地震の前年に起きた京都群発地震である。この地震の震源は播磨国の山崎断層にあり、それが六甲山地東南縁断層帯から、地盤の弱い淀川地帯を走る何本かの断層を通じて京都にまで伝わったものである。
 前のエントリーですでに述べたように、朝廷は、この地震の根元を、六甲山断層地帯の線上に位置する広田社・生田社の「フシゴリ」(怒り)によって起きたと認識していた。そもそも、このルートは瀬戸内海と京都・近畿地方をむすぶ交通・運輸の大動脈であって、そこを地震波が走り、被害を引き起こしたのである。それ故に、このルートは朝廷ばかりでなく、多くの人々によって認識されたことは明らかであろう。

 そして、その視線が、もっとも被害が大きく、地震の震源と考えられた播磨国に延びていくのは当然であった。そして、それが播磨国の姫路市の北部、夢前川が山間の峡谷から流れ出る場所の東の丘陵にあった広峰神社を一挙に有名にした。山崎断層はこの峡谷のもう少し北を東西に走って、播磨平野にでてくるのであるが、あるいは、この渓谷の奧を走る地震波が鳴り響いたのであろうか。広峰神社は、しばらく前、八六六年(貞観八)七月に從五位下の神階を授けられた播磨国速素戔烏神(スサノオ神)の神社が名前を変えたもので、式内社でもなく、京都にはほとんど知られていなかった神社である。それがこの地震以降、一挙に有名になったのは、この広峰神社の位置に関わっていたに相違ない。つまり、広峰神社は、八六八年の播磨ー摂津ー京都群発地震の震源の地震神として有名になった神社なのである。
 一〇世紀になると、同じ渓谷の出口の西側の山に、書写山円教寺が立てられたが、その建立者の性空上人が、地震を身辺に起こす験力をもつとされているというのも、この立地に関係しているのであろう。性空上人は一一世紀始めの頃、時の法皇・花山院と面会したことがあるが、絵画趣味のある花山院が従者の絵師に性空上人の影像を描かせたところ、描く前と後に地震が起こると預言し、実際に地震が起きたという(『今昔物語集』巻一二ー三四話)。(この霧島の問題については古代中世地震噴火データベースを参照。なお、性空は、別府鶴見岳の開山であるというのも興味深い話である)。性空が霧島岳で修行した時に、噴火の中に「不動」が顕現したというのは、仏教的には火山神と不動明王との関係が深いのではないか。それは不動の背後の火炎にもよるのであろうという想定をみちびく。
 いずれにせよ、この土地は、そのような僧侶が寺院を建立するにふさわしい場であったのである。そして、これが広峰社と祇園感神院の関係、祇園御霊会の起源、そして牛頭天王=スサノオの問題など多様な問題にかかわってくることはいうまでもない。
 なお、書写山とは「スサ」山の音便であるというが、この地域は播磨国飾磨郡の曽左村といい、速素戔烏神の神社があったことでわかるうように、スサノオの伝承を古くからもっていたらしい。その事情は、スサノオという神は、本来、地震神としての性格をもっていたためではないだろうか。スサノウが、アマテラスの仕打ちに怒って天上に昇る時に、「山川ことごとくに動み、国土みな震りき」(『古事記』上)とあることからすると、この想定は無理なものではないと考えられるのである。スサノオが地霊の神、地底に棲む神であったことは明らかなのである。
 これは、現在のところ、地震神の神名が明瞭になる唯一の例である。もちろん、さきに広田社の神の「ふしごり」(怒り)によって八六八年の地震が起きたという伝承を紹介したが、それは広田社に鎮座する神が地震を起こしたということで、残念ながら人格神としての地震神の名前を正確に知ることはできない。また古く、『日本書紀』には、五九九年(推古七)四月に発生した地震を恐れて「地震の神」を祭ったという記録がある。その記事は「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ。則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」というものであるが(『日本書紀』推古七年四月二七日条)、これも「地震神」というものがいたとわかるだけの記事である。

 その意味で、播磨国地震と広峰神社、書写山円教寺に関係する諸史料によって、地震神=スサノウの存在が明らかになるのはきわめて貴重なのである。
 もちろん、これまで、神話学の側でも、「国土みな震りき」という表現からスサノオは「地震を引き起こす神格である」とされてきた。ギリシャ神話のポセイドンは地母神のデメテルと同じ父母(クロノスとレイア)から生まれた弟であり、海の支配者であるが、その原初的な性格においては、地下水をつかさどり、地震を起こすなど、大地、ことに地下の世界と関係深い神格であるが、スサノオとポセイドンの神格はそっくりであるというのである(吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書一九七六)。しかし、こうして、このポセイドン=スサノオ=地震神という神話学の想定は、『古事記』の一節のみでなく、九世紀(およびそれに関わる)歴史史料の側からも論証できたということになる。

(このブログで何度も述べているように、現在の人文系の学界の常識では、普通の研究情報は、しかるべき発表手続きをへて公表するのが通例で、自説をブログで述べ立てることは抑制すべきと考えています。しかし、東日本太平洋岸地震とその後も続いている原発震災に関わる歴史知識を、すこしでも早く提供することは必要なことだと考えています。また、これは若干のことを新聞取材にも示唆していますので、その意味でも執筆することにします。なお、以前も述べているように、ここで述べることには学者としてのプライオリティを主張しません。研究者の方は、引用元を明示せずに自由に引用してもいいですし、無視していただいてもよいという性格のものです。ただしこういう性格の研究速報ですので、論証手続きの瑕瑾がまったくないという保障はできません)。
 

2011年8月 1日 (月)

地震火山38「貞観津波」という言い方は正しいか?

 『東北学』の「貞観津波と九世紀の大地動乱」を執筆してから、いくつか考えを詰めなおしたことがあるが、一つは、貞観津波という言葉をどうするかということである。私は歴史事実をあらわすのに元号を使うという風習には賛成できないという考え方をもっている。もちろん、経過的に元号を使用することはやむをえない。たとえば元禄文化であるとか、応仁・文明の乱であるとか、子供のころから覚え込まされてしまった言葉を人々が使うのはしょうがないことである。たとえば「平治の乱」という用語は無内容だから、不愉快である。事件名は事件の本質を表現するべきだから、「二条天皇重婚騒動」という言葉を使えばよいというのが私の意見であるが、それにすぐに賛成をえられるとも思えない。ようするに、事件や事態の本質について共通認識が学界や社会のなかで熟していかないと用語・ターミノロジーの変化は起きないのである。
 しかし、そういう立場からすると、「貞観津波」という言葉には何としても抵抗がある。歴史学者は元号を覚えざるをえないが、市民・国民には必ずしも必要はない。それにまずは、「貞観」といえば、東アジアでは唐の太宗李世民の「貞観の治」『貞観政要』の方が有名であって、日本の元号の「貞観」はいかにもマイナーである。マイナーというとナショナリスティックな感情には抵抗があるかもしれないが、そもそも日本の元号の貞観は、唐の元号の真似であるから、人が神経をさかなでられるとしても、それは事実に根拠があるのであって、学者としては勘弁していただくほかないのである。
 問題は、それでは何とよぶかということであるが、最初は九世紀東日本太平洋沖地震とよぶべきかと考えた。それは今回の3,11津波をどうよぶかということにも関わっている。今回の津波を東日本大震災とよぶというのが、どこかで決まった了解事項であるらしいが、これは私は、今回の震災が東北で発生し、しかも東北の福島第一原発の暴走を引き起こしたということがターミノロジーに反映していないように感じる。そして、東日本大震災というほど、東日本の人々が身にひきつけて感じているかということにも若干の躊躇がある。ネーミングというのは感覚的なものなので、とくに学者が何も公称なるものにこだわることはないのは、当然のことである。そこで私は、今回の地震・津波については、3,11東日本太平洋沖地震というように表現している。これで東北から房総半島まで、東日本の太平洋岸あるいは太平洋の沖で発生した地震ということが表現できると思うのである。
 ただ、そう考えたとき、第一の問題は九世紀東日本太平洋岸地震というのが、本当かどうかで、これは石橋克彦氏からのメールで意見を聞いたのだが、彼は、「貞観地震」(という言葉を使ってしまったが)は、当日の京都有感地震の記録が残っていないから、おそらく実際に京都で有感ではなかったのではないか、それに対して、今回の3,11東日本太平洋岸地震は京都で震度3はあった。ということは、「貞観地震」の震源は、今回の地震よりも遠かったのではないか、より北にあったのではないかという。これはたしか石橋さんがすぐに『世界』に書いた文章でもそうであったと思う。石橋克彦氏の歴史史料の読みは端倪すべからざるものがあって、論文「」には舌をまいたことがある。この指摘も、史料の読みとしては正しいのではないかと思う。
 もちろん、これは今後、茨城・千葉での「貞観津波」の痕跡調査が進み、「貞観津波」が茨城・千葉に波及しているかどうか、波及しているとしてもその強さはどうかということが地質調査によって確定してから、結論をだせばよいことであるが、そうだとすると、現在の段階で、九世紀東日本太平洋岸地震という言葉を使うのは、事態を予断によって判断することになりかねないと思う。
 そこで、次ぎに考えたのは。九世紀東北沖地震・津波ということになる。これでよいのではないかと思うのであるが、しかし、さらに考えたのは、これでは「貞観地震」がプレート間地震であったということが十分に表現できないのではないかということである。また東北沖というと出羽の側との関係で問題が残る。
 もちろん、ネーミングの権限は、地震学の固有の権限になるので、歴史学者としては何ともいえないところはあるが、しかし、そもそも東北沖というよりも、日本海溝で起きている訳であるから、東北海溝地震・津波とした方がよいのではないかというのが、たどり着いた意見。
 もっといえば、陸奥沖海溝地震がよいかもしれない。だから、最終的には九世紀陸奥沖海溝地震がよいのではないか。歴史家としては、また自称伝統主義者、保守主義者としても、是非、陸奥という言葉は覚えてほしい言葉である。これで必要な知識は提供できる。貞観などという用語は市民・国民の歴史知識としては必要ないだろう。
  以上、電車の中で書き、昼ご飯の時に書き、その後、念のために『世界』を確認したが、石橋克彦先生の文章は、『世界』ではなく、中央公論の6月号であった。
 『歴史学研究』編集部から、10月号の3,11東日本太平洋岸地震特集に執筆した原稿についての要約を送れ、締め切りを過ぎてると連絡。あわてて書いて送る。以下の通り。
 こういう風に書いてみると、最近、「歴史学の社会的責任」という言葉を聞かないように思うと実感。

 3・11地震の歴史的原型といわれる八六九年の陸奥海溝地震を含め、8・9世紀は地震・噴火の多い大地動乱の時代であった。しかし、この時代の自然史についての本格的な研究業績は存在しない。この状況を打開するためには、これまで史料分析を担ってきた地震学研究の成果や、ヨーロッパの環境史研究に学ぶことが必要である。それは歴史学の社会的責任であると同時に、歴史環境学というべき文理融合のスタイルの研究を発展させるための試金石となっている。なお、歴史学全体の問題としては、原発の問題性を、自然史・環境史の具体的な研究の立場から指摘する動きを生み出せなかったことを反省し、総括しておくことが必要であると考える。

 ここでも陸奥海溝地震とすることにする。

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