未来を語らなくなった歴史学
早稲田で講演を終えて、さすがに疲労困憊。早稲田から本郷へのバスで職場へ戻るが、バスを降りて本郷の角でコーヒー。
講演のテーマは「歴史教育と時代区分論ーーどう組み直すことができるか」というもので、聴衆は先生方。これまで話したことのないタイプの話。縄文時代から平安時代、院政期までの時代区分論である。長い時間の歴史について調べて、ともかくもたいへんに勉強になり、機会をあたえられてありがたいことであった。
最初の部分は書いたので、下にコピー。
「はじめにーー歴史学にとっての未来
一九八〇年代以降、日本社会は未来を語らなくなっているように感じます。しかし、問題は、それよりも早く、歴史学が未来を語らなくなったことではないでしょうか。歴史学が明瞭に未来を語ったのは、実際上、1967年の石母田正氏の講演「国家史のための前提について」が最後であったように思います。私は歴史学がいわゆる「戦後的価値」を維持するためにさまざまな努力を行っていると思いますが、しかし、このまま防衛的姿勢に追い込まれるだけでは、それも徐々に形だけになっていくのではないかと危惧しています。現実の社会の中に生まれてきている新しいもの、未来につながるものをどうみていくかというのが重要だと思います。
非常に一般的な言い方をしますと、歴史学は過去の管理に責任をもつ学問で、そのような立場から、いわゆる熟考・熟議の社会意識を支える役割をもっています。私が危惧するのは、日本の社会では討論と熟議をへて過去をふり返り、未来を展望するという社会原則そのものが希薄になってきているようにみえることです。第二次世界大戦の敗戦の経験は、社会の各階層の上から下まで、その実力と実際は別として、ともかくも、このような雰囲気を作り出したという点で歴史上、大きな位置をしめていると考えますが、それがアメリカ化あるいはいわゆるグローバル化の中で、弱体化してきているように感じます。これでは歴史学の社会的にマイナーな地位はさらに狭くなっていくだけです。そろそろ、その全体を考え直す時期がきているのではないでしょうか。
そうはいいましても、二〇世紀歴史学が蓄積してきた世界史に関する知識は、誰であっても、歴史家個人が全体を展望し、そこから現在と未来について考えるということは、個人ではほとんど不可能な量に達しています。それを読んでまとめるだけでも相当のエネルギーを必要とします。もちろん、それに努力するとしても、そもそも歴史家の仕事は広い意味での史料にもとづいて過去の世界を具体的に復元し、過去の歴史像の歪みをできるだけ少なくすることです。それが徐々に現在と未来に対する見方、それ故に未来に繋がる現実に影響をあたえることがあるかもしれません。しかし、どういう歴史像がどこでなにをもたらすか、これは不可知の領域をふくむことで、ですから歴史家が直接に「未来」を語るということには限度というものがあります。その意味では私は、歴史学は本質的に保守的な仕事であると考えてきました。私たち学者は、政治家ではなく、社会的な費用によって生きている存在ですから、市民としての立場を直接に学問に持ち込むことも許されていないのはいうまでもありません。
しかし、歴史学は人文科学・社会科学ですから、やはり学問としては、極限まで論理的である必要があります。それは端的にいえば、現代社会に対する論理的な理解を方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。過去の歴史は我々の主観からは独立して存在するすでに過ぎ去った客観的な世界ですが、それは逆にいうと、どこかで現代と客観的に繋がっているということですから、現代を理解する社会科学の過去への適用でなければならないのは明らかなことです。
これは歴史学固有の課題ではなく、社会科学・人文科学あるいは自然科学をふくめた学問全体の仕事です。そのレヴェルでは、理論的に筋道を通す思考、明快な論理はどうしても必要なものだと思います。しかも、結局のところ、現代というものは未来への目がなければ認識できないものでしょうし、また同じように、未来への目がなければ過去も認識できないという性格のものです。過去がつまってこなければ未来は認識できないし、現代がつまってこなければ未来はみえないはずです。これはある意味では常識的にも明らかなことで、いわゆる「温故知新」という意識がなくて、何の歴史学かということになると思います。
念のために申し上げますと、これは時間の客観性を否定するものではありません。時間が容易に認識を許さないような客観的な存在であるからこそ、そういうことが起こると考えるべきです。そして、そういうように考えると、「未来」という立場からみてはじめて認識可能になるような独自の過去の見方をとれるかどうかは、歴史認識にとって決定的なものとなります。そして、それがなければ過去の世界の具体的な復元を論理的に明瞭なイメージに組み立て直すことは不可能ではないでしょうか。そこには、知識を積み重ねるだけでは到達できない認識のレヴェルがあるのであろうと思います。歴史教育では、時代の全体像をとらえ、前の時代と後の時代の関係を明瞭に語ることが必要だという形で、これは一般にいわれていることだと思います。
以上、ようするに、私は、歴史学が未来を語らなくないという状況は、歴史学の本質にかかわって考え直さざるをえないものだと考えるのです。
以下が目次。中身は相当に「通説」とは違うもので、たとえば、東アジアレベルでみると、日本には「古代」が存在しないのが特徴であって、6/7世紀から「中世」、12世紀から「近世」という、「古代」「近世」の研究者にはとても賛同をえることができないようなもの。
その他についても、これはあくまでも私見であって、学界の中では了解はないということを何度も繰り返さざるをえなかったが、先生方に親身に聞いていただいたことに感謝であった。
目次
Ⅰ世界史の時代範疇と社会構成
Ⅱ東北ユーラシアと日本列島史
1異文明(Barbarei)縄文=新石器時代
① 「野性」(Wildheit、旧石器)からの移行(13000年前)
②縄文時代の開始
2列島の文明化と弥生時代。前8C~後2C
①弥生農耕の開始
②弥生社会の地域・民族性と首長国
3首長連合国家(前方後円墳国家)の成立と展開
①邪馬台国の成立ー政治センター移動
②崇神(ハツクニシラス)の実在性と前方後円墳神話
③高句麗戦「戦後」と倭の五王(5世紀)
4中世貢納制王国の形成ーー東アジア中世へのcatchup
①貢納制王国の原型ーー継体・蘇我王統と国家機構の芽生え(6・7世紀)
②律令型国家と王権ーー本格的な文明国家へ
③平安過渡期国家
5近世荘園制国家への移行(院政期国家)
①院政期王権と内乱。武家貴族
②院政期国家と荘園制ー地頭・古老・地主
③世界史上の「近世前期」と東北アジア
6荘園制をどう教えるかーー社会構成としての荘園制
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