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2011年8月 8日 (月)

火山地震41騎馬民族国家説か、火山神話国家説か

 昨年、『かぐや姫と王権神話』を書いたときに、いわゆる騎馬民族国家説にはじめて興味をもった。タカミムスヒ論をやらざるをえず、そのなかで、「騎馬民族国家説」ではなく、東北アジア「火山神話国家説」が必要だと考えたからである。

 東北アジアが地震・噴火の多発地帯であった以上、この地域で活動した諸民族に共通する自然条件として、歴史地震と噴火を考えておくべきことになると思う。それは各地域の民族社会と文化に同じような影響をあたえ、その相互関係にとっても重要な条件となっていたのではないだろうかということだ。この地域の歴史を長期的な展望の下で見ようとする場合、一民族・一国家の視野に閉じこもっていてはならないということはよくいわれることであるが、これまでの研究では、その大きな条件として自然を具体的に考える視点や方法意識が希薄であったように思う。
 こう考えた場合に、民族学の岡正雄と石田英一郎、東洋史の江上波夫、考古学の八幡一郎などが、一九四八年に行った座談会で提起された騎馬民族国家説が大きな問題となるということになる。
 よく知られているように、この仮説は、ユーラシアの北東部にひろがるウラル・アルタイ系の諸民族の活動を、日本国家の成立に深く関わる問題とし、その広域的な文化や世界観の理解にまで立ち入るという雄大なものであった。いま読んでみても、彼らが縦横無尽に展開した学際的な議論は魅力的なものがある。
 彼らの主張は、実際上、第二次世界大戦前の「皇国史観」の中枢をなしていた偏狭な民族主義的な歴史観を突きくずす上で、大きな役割を発揮したと思う。天皇家の祖先はユーラシアから、この列島に侵入してきた。天皇を中心とした神話はモンゴルや朝鮮の諸民族と同じものだという主張が社会の耳目を集めたのは当然のことである。とくに日本の人文学の学史の中でみれば、騎馬民族国家説は、神話学・人類学・民俗学が、「皇国史観」の時代の反省の上に立って、はじめて協同して展開した社会的主張として特筆すべき価値をもっていたことは明らかである。

 とはいえ、現在では、騎馬民族国家説をそのまま承認することは無理が多いように思う。江上波夫がまとめた歴史学説としての騎馬民族国家説は、東北アジアの騎馬民族が新鋭の武器や騎馬をもって朝鮮半島を経由し、四世紀に北九州付近に侵入してきて、五世紀には畿内に進出して強大な勢力をもった大和朝廷を樹立したというものである。記紀の王統譜に対応させた図式では、北九州への第一次侵入の時の王は崇神、大和への移動の時は応神という想定である。これはやはり「日本史家」にとっては賛成しにくいものなのである。
 この仮説を立ち入って検討することは私の手にはあまるが、確認しておかねばならないのは、東洋史家・江上が、これを朝鮮史の理解として展開したということがである。たんなる「専門意識」でいっている積もりではないが、これの結論は、そっちょくにいって「東洋史」の側でまずは議論を立ててほしい。
 つまり、江上は、朝鮮半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)が三世紀に「辰王」という王をいただいていたことに注目し、北九州に侵入した騎馬民族の一統は、この辰王の子孫であるか、その権限を受け継いだものであるとした。
 この辰王とは、衛氏朝鮮(紀元前二世紀頃)の時代に南朝鮮に存在していた辰国の王の末裔をいうが、江上は、その末裔について『魏略』に「その流移の人たることを明にす。故に馬韓のために制せらる」とあり、『後漢書』(東夷伝)に「馬韓は最も大、共にその種を立てて辰王と為す、月氏国に都し、尽く三韓の地に王たり」とあるのに注目した。そして、この二つの史料を「辰王は外部から流移してきた人だったので馬韓諸国の承認をえなければみずから立って王となることはできなかったが、実際は王位を世襲して」おり、「馬韓の月支国に都して、馬韓・辰韓・弁韓の半数をあわせた地域を支配した征服王朝的性格の強い王であった」と解釈したのである。しかし、四世紀前半には馬韓に百済の建国があり、後半には辰韓に新羅が成立した。その中で、残った弁韓=「任那(伽耶)」が圧迫され、「辰王」(あるいはその関係者)が「たぶん弁韓(任那)から倭国に乗り出してきて、いわゆる倭王という倭韓連合王国の王になった」という訳である。
 これは時代順をうまく整合的に説明したものであると思う。しかし、四世紀初頭に「辰王」が北九州に侵入したという筋書きは、やはり仮説であって、「日本史家」の立場からそのまま承認することはむずかしい。とくに「辰王」の性格については、あくまでも共立されて名義的に対外関係に関わるといった存在であって、とても「征服王朝的性格の強い王」とはいえないというのが朝鮮史研究の一般のようである(武田幸男『朝鮮史』)。少なくとも征服王朝的性格が強いというのは史料解釈として無理が多い。繰り返すように江上の理解はそれ自身としては朝鮮史の理解なのであるから、この点に瑕疵があるということになると、「東洋史」の側でもう少し考えてくれないものかという気になる。

 もちろん、騎馬民族国家説は、そこにとどまるものではない。歴史的時間の順序にそって筋道を立てるためには、文献史料に依拠することがどうしても必要であるから、歴史家として江上が、このようなシェーマを立てたことは当然のことなのであるが、しかし、騎馬民族国家説の独自性は、むしろ考古学的・民族学的な視野にたって、ユーラシアの騎馬民族全体に目を配って多様な議論を展開したことにあった。岡正雄が神話・宗教・社会組織の全体にわたって騎馬民族と日本民族の比較を行い、江上が、日本の馬具・武器・衣服装束や風俗などについて、考古学的な遺物を中心として、同じような比較を行ったことの意味は大きい。
 それらの特徴が岡や江上のいうように「新しい」時期、四世紀以降の騎馬民族の侵入にともなって形成されたかどうかは、論証されていないといわざるをえないが、私は、このような研究の方向自体はきわめて重要であると思う。ユーラシアと日本の文明・文明の共通性という問題は、日本の歴史研究にとってもっとも根本的なテーマであることはいうをまたないのである。

 問題は、この騎馬民族国家説の開いた視野の中で、現在、もっとも確実な成果として受け継がれているのが、神話論であるということである。『日本書紀』『古事記』で語られる日本の建国神話、天孫降臨神話が、朝鮮からモンゴルにかけて分布する神話の変形であるということである。
 それはまず(1)高天原神話の主神はタカミムスヒであって、高天原神話のおもな要素は天神タカミムスヒが孫のニニギを「筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)峯」(『日本書紀』第九段一書第一)、「日向の襲の高千穂の添山峯」(『同』第九段一書第六)に下したものである、(2)このような高山への王朝の始祖の降臨神話は朝鮮半島からモンゴル付近にまで同じものが分布しており、『日本書紀』『古事記』の開国神話はそれの変形である。(3)たとえば、六伽耶国の神話では始祖は「亀旨峯」に天下ったが、この「亀旨峯」は「槵触峯」と同じ地名である。「フル」は韓語で村の意。また「添山峯」(そほりのたけ)のソホリは百済の都を所夫里、新羅の都を蘇伐(徐伐)というのと同じであって、地名まで一致しているという三つの点にまとめることができようか。
 ただ、これは三品彰英の比較神話学の成果であって、三品の仕事は昭和初年のものであるから、座談会で岡が展開した神話についての意見はほとんどは三品のものの繰り返しである。その引用関係が明示されていない理由は私にはわからないが、この三品の意見をうけた岡の一般化が大林太良・吉田敦彦によって日本の神話学の中に大きな影響をもったということになる。
 
 さて、ここからが火山の話なのであるが、右の座談会で驚いたのが、文庫本の40頁。江上が提出したチンギス・カンの伝説との関係で、岡が、それは草原地帯の「鍛冶王」の神話との関係はないのかと問題を提起し、それに対して江上が中央アジアの遊牧民が同時に採鉱と鍛冶を職能としていたこととの関係で彼らの建国神話にでてくる鍛冶王の姿について言及していることである。これはユーラシア史では著名なことなのだろうが、私は昨年の勉強ではじめて知った。この部分は、三品彰英の見解ではなく、この座談会で提出されたオリジナルな論点である。
 意外だったのは、この「鍛冶王」という問題を日本史の側ではじめて取り上げたのが、岩波新書の『アマテラスの誕生』(溝口睦子)だったことで、溝口は、タカミムスヒが「日月の神」の祖として「天地を溶造」した功績をもっているというのは、タカミムスヒが「鍛冶」の神であったことを示すとしたのである。『アマテラスの誕生』は、そのような推論によって(五五頁)、「タカミムスヒは天孫降臨神話とともに朝鮮半島からやってきた外来の神である」(九四頁)と結論している(『日本書紀』(顕宗紀、「天地を鎔造した功」)。
 溝口は、「鍛冶の力による天地開闢」の建国神話が突厥からモンゴルにいたる騎馬民族がもっていた鍛冶技術と神話に由来するという村上正二の推論を引用しているが、最初のヒントは『日本民族の源流』にあったことになる。

 しかし、タカミムスビの「天地を鎔造」とは鍛冶の技術を表現すると同時に、火山噴火についての神話的なイメージを背景としているのではないだろうか。「天地鎔造」について溝口は「金属をとかして鋳型にいれて物をつくることである」と説明する(55頁)。この「天地鎔造」、天地の裂け目を鋳直すという神話のイメージも火山爆発そのものではないだろうか。天孫降臨神話と鍛冶伝承は別のものではない。どちらも天地の関係に関わって存在している。
 こうして、東アジアの建国神話の共通性は、「鍛冶王」と「山上降臨」をつなぐもの、つまり火山に求めなければならないということになる。ここまでは昨年、『かぐや姫と王権神話』で考えたことだが、以上、長くなった。
 総武線もそろそろ東京である。騎馬民族国家説は、「戦後歴史学」の学史にとっても大きな問題なので、この続きは、忘れないうちに帰りの電車で書くことにする。

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