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2011年8月23日 (火)

上行寺東遺跡の保存うんどうパンフレットに書いたもの。

 昨日、久しぶりに、部屋で、下記の遺跡保存運動の提起者であったT先生にあう。なつかしい。いま朝。いまから、撮影だが、職場のPCのデスクトップに、この小文が貼り付けてあったのをみて、ここにアップし、データを削除。ブログはデータ整理にも便利だと思う。ここに全部まとえmてしまえばよい。

 この文章は上行寺東遺跡の保存運動パンフレットに書いたもので、もうどこでもみられない。なつかしい。こういう種類の文章を書いたはじめだと思う。最後の方、文章がみだれていたので、もしかすると、入校原稿そのものではないかもしれない。

 追記。撮影の仕事の昼休み。パンを食べながら。

 もう25年くらい前のことか。Tさんが問題提起をしてくれたことの意味をいま実感している。私は、その提起に賛同したことで学び、自分の意見を変えた部分が多い。歴史学者の役割論と保守ということへの考え方。

 Tさんと私が関わった保存運動は遺跡保存という形では身を結ばず、遺跡は破壊された。いろいろな迷惑をかけた。しかし、運動ということになって、文献史学と考古学の間の関係の議論をせざるをえなかったのが、「中世史」学界にとってはよいことであったと思う。

 先週の歴史教育の関係の講演で、昼食を食べながら、なぜ、例の旧石器のねつ造のような問題が起きたと思うかとある先生に真顔で尋ねられた。それは、結局、旧石器の遺跡の保存運動をやらなかったからだというのが私の意見。遺跡の保存という形で社会資源と土地を使用するようにという真剣な訴えなしには、異なる分野の学会・研究者が本気で議論することはないのだと思う。上行寺・一の谷の保存運動の時は、行政の責任のある立場の人が、「あなた方そんなことをいったって、旧石器の遺跡は壊され放題ですよ」といっていた。それらの遺跡がねつ造されたものであることが20年経って知れたのである。その時、我々が思ったのが上記のようなことであった。

 学者は最後は学者の責務に関わることでは社会的行動をしないと、あるいは、最低、問題の社会的側面を確実に認識しておかないと、結局、責任のとりようのないところに追い込まれるのだと思う。それは政治や市民としての個人的な立場よりも前の、職業倫理の問題である。学者は職をえた場合は、どのような場合も一種の特権を意味するので、職業倫理の問いはきびしくなる。原子力工学も同じことである。

六浦の津と上行寺遺跡ーーー書状を読む
       参考文献ーー『中世の六浦と上行寺遺跡』(上行寺遺跡を考える会)
             『瀬戸神社』佐野大和
         座談会「六浦の文化と上行寺東やぐら群遺跡」(『有鄰』二一四号
                             一九八五、九、一0)
Ⅰ上行寺遺跡と律宗
 マンション建設にともなう遺跡保存が問題になっている上行寺遺跡は、東国における律宗寺院の遺構としてまた六浦の港湾遺跡の不可欠の一部として極めて重要な遺跡である。その重要性は、六月三0日からの三週間という短期間で二五九三人の全国の歴史研究者が、署名を集中したことに現れている(地域住民、学生などを入れると全体で四四七五人に上る)。この遺跡は横浜市によって六月二四日には破壊されることになっていたが、市議会への請願は否決されたものの、粘り強い保存運動によって、一0月県議会文教委員会で継続審議が決まり、次の県議会の開かれる一二月までは残される可能性が高くなった。ただし、県文教委員会に懸けられた理由は、建設予定地内の急斜面が県によって危険地域に指定されており、その開発は県の指定解除の認可が必要なためであるが、市および建設会社は遺跡部分の工事はこの認可なしにもできるという姿勢を維持しており、事態を楽観することはできない。
 この遺跡の発掘調査の結果は市に対する中間報告(公表されていない)以外にはなく、口頭および保存運動側の調査・見学による他ないが、調査されたやぐら四一基、建築物遺構六棟、墓壙一四基、発見された五輪塔四00個以上、宝篋印塔・板碑各一0個程度、人骨一00体以上、陶磁器類多量という概数を見ても一般のやぐら遺構との相違を知ることができる。中でも注目されるのは、従来知られていた京浜急行の線路の上方に並ぶやぐらでなく、頂上部分で発掘された五輪塔レリーフを刻んだ一九号「やぐら」と「阿弥陀如来」(?)のある二二号「やぐら」およびその前の平坦部に発見された阿弥陀と一体の御堂跡の柱穴である。柱間は二間三間の南北五、五㍍・東西三、五㍍であり、西には張出縁が付いている。そして、この御堂の南西には洲浜と中島をもつ小さな池がある。
 保存で問題になったのは、まずはこの遺跡が寺か「やぐら」かという点である。それは、①池の遺構の評価(単なる土壙か)、②やぐらの前の建物をどう評価するか(仮設的なものかどうか)③六浦の宗教的環境と律宗の問題などを巡るものであった。特異性のない、破壊もひどいやぐら群にすぎないという横浜市側に対して、保存運動の側は、寺院跡であると評価し、現在では県議会の答弁でも①②については保存運動側の見解が認められるに至っている。
 問題は③であるが、これについてはさらに文献史学の側からも研究を深めていく必要がある。上行寺の地にはもと龍華寺という寺があり、この寺はもと浄願寺といった。その縁起は、「山高からずといえども。奇岩霊窟あり、或いは壇場を構え、或いは□字五輪の塔を彫刻せり」と語っている。そして重要なのは、東国における律宗の祖、忍性上人が正嘉年中(一二五七ーー五九)、鎌倉に入る前に、この寺に住んだとされていることである。この正嘉年中は、忍性の師叡尊が北条時頼の招きで鎌倉に下向した際に、忍性が常陸三村寺から駆けつけた弘長二年(一二六二年)の三ー五年前にあたる。忍性が初めて鎌倉に拠点として新清涼寺釈迦堂を得た同年の直前に鎌倉の外港・六浦で着々と鎌倉入りの準備を進めていたということは十分有りうることである。そしてこの時、叡尊を招く動きの中心にいた北条氏の一流金沢氏の実時による称名寺の建設が進行しており、金沢に程近い六浦に忍性が住持する寺があることも理解できることなのである。
 ところで、六浦の津の情景は、既に平潟湾の埋め立てによって失われているが、深い入江と島を持つ天然の良港である。このような地理的条件によって、六浦は鎌倉の重要な外港であり、しかもよく知られているように、六浦は鎌倉の堺であり、元仁一(一二二四)年には、由比浜、江ノ島などとともに、祈雨のための霊所七所のはらいを行っている(疫病のこともある。『吾妻鏡』)。そして律宗の僧侶が、港湾の建設・管理や架橋などの社会事業を活発に行ったことは近年の研究によって明らかにされたところである。
 しかし、このような鎌倉時代の六浦の港湾としての様子については、まだ研究が少なく、保存運動の側からも早急に研究を深めることが要請されている。
Ⅱ六浦の港と称名寺
 次の『金沢文庫古文書』の中に収められた一通の書状は、恐らく鎌倉時代の六浦の港湾、海上交通の要衝としての姿を最もよく語っている史料であろう。
『金沢文庫古文書』④三一三一、写真帳三七の七七㌻
 畏令啓候、便船を相尋て候間、』令進下部十三郎男候、彼船人之方へ』任請取、材木出 候て可預候、但やう々々に』申(?)候て、賃も候はて入候て可下之由、或以□』あつ らへ申て候之間、船人かまいり候て、材□□(木を?)』請取申候事は、定よもと相存 候、しか□□(るに?)』六浦之西面に在所者候之由申候、せとの』橋下より小船なん どにつみ候てそ、よく』候ぬと相存候、一向御寺の御下部をた』のみまいらせ候、能様 に被仰付候者、□』相存候、        』彼まさにも御寺のこくいをうた』
 差出人は、恐らく東国のどこかの国の称名寺末寺の僧侶であろうか。文書の宛先の部分は切れて残っていないが、この文書が、称名寺の聖教の裏文書として現在に伝えられていることから見て、称名寺に充てられたものであろう。内容を最初から解釈していくと、彼は、まず、便船を尋ね求めることができたので、それに下部の「十三郎男」を乗せ、(恐らくこの書状を持たせて)称名寺まで遣わしますという事情を述べている。
 そして、彼は、同時に彼の署判を加えた請取状を船人に渡したらしく、その請取と引き換えに、この便船の「船人」(船頭)に材木を出し渡すように称名寺に依頼している。たとえばこの材木を末寺の建築に使うというようなことであったのであろう。ただし、色々なだめすかして船賃も支払わずに材木を載せて戻り下ってくるように「誂えた」(委嘱した)ので、船人自身に称名寺まで行って材木を請取れといっても了承することは、「定めてよも(あらじ)」と思ったようである。
 ところが、丁度よいことに船人と知り合いの「在所者」、つまりこの僧侶や船人の住んでいる地方の人が、「六浦の西面」に家を構えており、(船人とも懇意なためであろうか)近くの「瀬戸の橋下」から「小船」を出させて称名寺から運ばれてきた材木を船に積みかえる位のことは、世話させることができるということであったようである。つまり彼は船持ちであったのである.そして,ここで小船といっているのは,要するに港で動く一種のハシケ船であったのであろう.とすると「船人」の船は,さしずめ大船ということになり,「在所者」と「船人」の関係は,この手紙の差出人の住む在所の荷物の積載を一括して世話する荷揚げ業者と東京湾航路の船頭との関係ということになるであろうか.
 さてそうすると、称名寺の下部が瀬戸橋まで材木を運んで来てくれれば、(それは丁度称名寺から直線の道を通ることになる)あとはこの「六浦之西面」の住人に任せられるということになり、面倒だろうが、橋までの輸送については「一向御寺の下部をたのみまいらせ候」ということになったのである。勿論,材木を小船に載せる時,あるいは小船から大船に載せ替える時にも人手はいったろうから,それを手伝うことも「御寺の下部」には期待されたかもしれない.
 以上、六浦の海上交通の在り方の一端を見てみたが、また、『金沢文庫古文書』五二六九にあるように、瀬戸橋の内海は殺生禁断の場であり、ということは、外海では漁業が行われていたであろうから、ここは、漁船の行き来も盛んな場所であったであろうということも追加しておきたいと思う。たとえば,『枕草子』(第306段)には「船に乗りてありく人ばかり,あさましうゆゆしきものこそなけれ」として,「ものをいと多く積み入れたれば,水際はただ一尺ばかりだになきに,下衆どものいささかおそろしとも思わで走りありき,つゆあしうもせば沈みやせんと思ふを,大きなる松の木などの二三尺にてまろなる,五つ六つ,ほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ」
                                         興味深いのは、東京湾の海上交通が、地方(たとえば千葉)の僧と船人と「在所者」の間での私的な縁が情報回路となって動いていることである。顔見知りで無理がきくというような関係がなければ、これは動かなかったのである。そして、「在所者」と称名寺の下部も知り合いで、「お、お前か」というようことで材木の受け渡しがあったのではないだろうか。しかし、そういう縁にのみ頼っている訳ではなく、輸送する「柾」に御寺の「刻印」を打って、他の材木と混同されることのないようにと依頼したところで、この書状が中絶していることは、船人は、全面的に信頼されていたのではないのである。たとえば、この船人は地方の特産物を、朝比奈の切り通しを越えて鎌倉に運び込んだのであろう。商品関係が半ばは縁に取りもたれて展開する様相をここに見ても良いことになるであろうか。

Ⅲ瀬戸橋の造営
 寺の下部は、恐らく車で材木を運んだのであろう。六浦およびその金沢との堺に掛かる瀬戸橋は、陸上交通の要衝でもあったのである。ところで、この瀬戸橋は、嘉元三(一三0五)年、北条氏によって造営されたものである。『金沢文庫古文書』五三0三は、その暫く後の史料であるが、鎌倉時代の瀬戸橋の様子が解る。五六という槫板(橋板)四二0丁と桁と柱という材木の種類や石を使用する大規模な橋であったことが知れよう。しかも、この瀬戸橋造営は実際には、称名寺の僧侶が中心になったもので、先にふれたような律宗の僧侶による社会事業の東国における好例なのである。さきに触れた瀬戸の内海の殺生禁断も,この瀬戸橋の造営の一環として称名寺のために行われたものなのである.
 この点で興味深いのは、元□元年に「武州瀬戸護摩堂」で「馬頭観音法」の経典が書写されたことが分かり(『金沢文庫古文書』識語一九七六)、このような馬頭観音法の写経は律宗の僧侶にふさわしいものであったといえよう。そして、瀬戸橋は当然牛馬の交通も頻繁なところであったと思われるのである。
 史料に掲げたもう一つの書状は、女の書状であり、文意を取りにくいところもあるが、興味深いのは傍線部である。つまり、一人の子供は、無実の罪の下におり、別の子供は、「親取」、つまり、誰かに養子にして貰うために「瀬戸橋の橋柱(ランカンの柱のことか)」にしてしまおうという意味と理解したい。さんしょう大夫の物語で直江津の橋に宿った母子が人買いに取られる話は有名であるが、橋は子捨ての場であったのであろう。鎌倉から東国に下る旅人たちが、ここで子供を拾っていく様子を考えても、大きな問題はないであろう。
Ⅳ景観保存と中世考古学
 さて、以上の検討によるだけでも、鎌倉時代の六浦は港湾としての意味が高かったことは解ろう。そして、このような調査の中から上行寺遺跡の評価と保存の方法に関わる論点を蓄積していくことが課題になるのであるが、少なくとも東国には、中世港湾の遺構がめぼしいものがなく、金沢八景と六浦の景観自身そしてそれを見下ろす上行寺の景観全体が重要であることを了解頂けたであろうか。港湾自体の景観の相当部分は既に破壊されているが、しかし、周辺の寺院の様子は残されており、その調査の中で、今後何らかの港湾遺構が発見される可能性も皆無とはいえないのである。
 もう一度提示した史料に戻れば、まず海上交通の面では、先の「在所者」は船持ちであり、ハシケの業務を行っていることから、一種の問であると考えられることを指摘しておきたい。中世の海運業者・倉庫業者として問、特に地方の問の研究は今後重要な研究分野となると思われるが、六浦における問の史料は、南北朝時代以降について知られているだけであり、この史料は、一種の問の存在を示すデータとして貴重である。そして、実は、上行寺は、南北朝時代に千葉の中山法華経寺に六浦の豪商、問の六浦(荒井)妙法が帰依して自分の屋敷付近に堂を建て、それが発展して上行寺となったものなのである。私は、このような関係は、大規模なものではないとしても既に鎌倉時代の浄願寺と六浦住民の間にもあったのではないかと考えと思う。(千葉と縁の深いところであるという印象)
 また、瀬戸橋の史料では、特に注目されるのは、石切がいたことである。瀬戸速瀬といわれる様にここは潮流が速く、この石は橋柱を守るために橋脚の下に石を置いたものであろう(『石山寺縁起』)。周知のように律宗は例えば、現在上行寺に残されている宝篋印塔(日蓮宗の寺には宝篋印塔があることはないので、どこかから移動したものとされている)のような独特な石造美術を発展させており、またその土木事業のためにも石工を編成していたといわれている。忍性らは、畿内に発達した石造美術を東国に持ち込んだのであり、彼らは東国石造美術の上でも逸することのできない位置を持っているのである。その律宗の僧侶が造営の中心になった瀬戸橋の石工は恐らく、上行寺遺跡の多量の石造彫刻にも関わっていたのではないかというのが、私の想定である。そして右の宝篋印塔に「牛馬六畜平等利益」という特徴的な銘が刻まれていることは,それがあるいは瀬戸橋のたもと,あるいは旧浄願寺に置かれていたことを示すのではないか,と思うのである.
          

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