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2011年8月 1日 (月)

地震火山38「貞観津波」という言い方は正しいか?

 『東北学』の「貞観津波と九世紀の大地動乱」を執筆してから、いくつか考えを詰めなおしたことがあるが、一つは、貞観津波という言葉をどうするかということである。私は歴史事実をあらわすのに元号を使うという風習には賛成できないという考え方をもっている。もちろん、経過的に元号を使用することはやむをえない。たとえば元禄文化であるとか、応仁・文明の乱であるとか、子供のころから覚え込まされてしまった言葉を人々が使うのはしょうがないことである。たとえば「平治の乱」という用語は無内容だから、不愉快である。事件名は事件の本質を表現するべきだから、「二条天皇重婚騒動」という言葉を使えばよいというのが私の意見であるが、それにすぐに賛成をえられるとも思えない。ようするに、事件や事態の本質について共通認識が学界や社会のなかで熟していかないと用語・ターミノロジーの変化は起きないのである。
 しかし、そういう立場からすると、「貞観津波」という言葉には何としても抵抗がある。歴史学者は元号を覚えざるをえないが、市民・国民には必ずしも必要はない。それにまずは、「貞観」といえば、東アジアでは唐の太宗李世民の「貞観の治」『貞観政要』の方が有名であって、日本の元号の「貞観」はいかにもマイナーである。マイナーというとナショナリスティックな感情には抵抗があるかもしれないが、そもそも日本の元号の貞観は、唐の元号の真似であるから、人が神経をさかなでられるとしても、それは事実に根拠があるのであって、学者としては勘弁していただくほかないのである。
 問題は、それでは何とよぶかということであるが、最初は九世紀東日本太平洋沖地震とよぶべきかと考えた。それは今回の3,11津波をどうよぶかということにも関わっている。今回の津波を東日本大震災とよぶというのが、どこかで決まった了解事項であるらしいが、これは私は、今回の震災が東北で発生し、しかも東北の福島第一原発の暴走を引き起こしたということがターミノロジーに反映していないように感じる。そして、東日本大震災というほど、東日本の人々が身にひきつけて感じているかということにも若干の躊躇がある。ネーミングというのは感覚的なものなので、とくに学者が何も公称なるものにこだわることはないのは、当然のことである。そこで私は、今回の地震・津波については、3,11東日本太平洋沖地震というように表現している。これで東北から房総半島まで、東日本の太平洋岸あるいは太平洋の沖で発生した地震ということが表現できると思うのである。
 ただ、そう考えたとき、第一の問題は九世紀東日本太平洋岸地震というのが、本当かどうかで、これは石橋克彦氏からのメールで意見を聞いたのだが、彼は、「貞観地震」(という言葉を使ってしまったが)は、当日の京都有感地震の記録が残っていないから、おそらく実際に京都で有感ではなかったのではないか、それに対して、今回の3,11東日本太平洋岸地震は京都で震度3はあった。ということは、「貞観地震」の震源は、今回の地震よりも遠かったのではないか、より北にあったのではないかという。これはたしか石橋さんがすぐに『世界』に書いた文章でもそうであったと思う。石橋克彦氏の歴史史料の読みは端倪すべからざるものがあって、論文「」には舌をまいたことがある。この指摘も、史料の読みとしては正しいのではないかと思う。
 もちろん、これは今後、茨城・千葉での「貞観津波」の痕跡調査が進み、「貞観津波」が茨城・千葉に波及しているかどうか、波及しているとしてもその強さはどうかということが地質調査によって確定してから、結論をだせばよいことであるが、そうだとすると、現在の段階で、九世紀東日本太平洋岸地震という言葉を使うのは、事態を予断によって判断することになりかねないと思う。
 そこで、次ぎに考えたのは。九世紀東北沖地震・津波ということになる。これでよいのではないかと思うのであるが、しかし、さらに考えたのは、これでは「貞観地震」がプレート間地震であったということが十分に表現できないのではないかということである。また東北沖というと出羽の側との関係で問題が残る。
 もちろん、ネーミングの権限は、地震学の固有の権限になるので、歴史学者としては何ともいえないところはあるが、しかし、そもそも東北沖というよりも、日本海溝で起きている訳であるから、東北海溝地震・津波とした方がよいのではないかというのが、たどり着いた意見。
 もっといえば、陸奥沖海溝地震がよいかもしれない。だから、最終的には九世紀陸奥沖海溝地震がよいのではないか。歴史家としては、また自称伝統主義者、保守主義者としても、是非、陸奥という言葉は覚えてほしい言葉である。これで必要な知識は提供できる。貞観などという用語は市民・国民の歴史知識としては必要ないだろう。
  以上、電車の中で書き、昼ご飯の時に書き、その後、念のために『世界』を確認したが、石橋克彦先生の文章は、『世界』ではなく、中央公論の6月号であった。
 『歴史学研究』編集部から、10月号の3,11東日本太平洋岸地震特集に執筆した原稿についての要約を送れ、締め切りを過ぎてると連絡。あわてて書いて送る。以下の通り。
 こういう風に書いてみると、最近、「歴史学の社会的責任」という言葉を聞かないように思うと実感。

 3・11地震の歴史的原型といわれる八六九年の陸奥海溝地震を含め、8・9世紀は地震・噴火の多い大地動乱の時代であった。しかし、この時代の自然史についての本格的な研究業績は存在しない。この状況を打開するためには、これまで史料分析を担ってきた地震学研究の成果や、ヨーロッパの環境史研究に学ぶことが必要である。それは歴史学の社会的責任であると同時に、歴史環境学というべき文理融合のスタイルの研究を発展させるための試金石となっている。なお、歴史学全体の問題としては、原発の問題性を、自然史・環境史の具体的な研究の立場から指摘する動きを生み出せなかったことを反省し、総括しておくことが必要であると考える。

 ここでも陸奥海溝地震とすることにする。

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