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2011年9月

2011年9月28日 (水)

『歴史学研究』特集2

 『歴史学研究』の特集号の続き。他分野で興味深かったのがアメリカの実情。平田光司「マンハッタン計画の現在」、石山徳子「原子力発電と差別の再生産」。前者はマンハタン計画の全体が分かり、勉強になる。後者は、ミネソタ州のプレイリーアイランドという、ミシシッピの小さな島に先住民に無断で立てられた原子力発電所の話。
 アメリカ文化の最良のものは、M。トウェインのハックとウェーブスターの足長おじさん。それはもうないということがわかる。
 『ご冗談でしょ、ファインマンさん』という本がある。これは岩波書店から何冊かのシリーズででた、原子物理学者の回想録で、面白いものではあった。しかし、ファインマンさんが頭角を現したのは、原爆の開発計画の中であって、どうもそれを考えると、素直には読めなかった。たしかに人のいい、典型的なアメリカ人であるが、少々舞いあがっているのではないか、この人は、という感じがあってなじめなかったのである。
 ああいう、原子物理学者の舞いあがりというのは、学問の発展期、しかもそこに相当の金がそそがれ、野心的な人物が集まってくるという自然科学に独特な世界なのかもしれない。そして、そもそも原爆の開発というのは、そういう量子力学の発展の初期の熱中のようなものと、ナチスに勝利するという一種の正義感、軍事的必要とがからまりあって展開したのだと思う。

 ともかくも、量子力学の軍事利用、核開発は、第二次世界大戦がなければ、あるいはナチスの異様な行動がなければ、あのような形では展開しなかったのではないかということを考える。これは風が吹けば桶屋がもうかるという類の話ではない。現実の世界史の動きにも、相当の偶然性をみておかねばならないということである。それにしても、こういう形で19世紀から、20世紀の世界史が個々人の運命に影響してくる時代という世界史のあり方は独特のものである。

 私は、現代史をいつから設定するかという場合に、フランス革命からという考え方をとっている。日本の歴史学界では、一時、長くロシア革命からという時代区分をしてきたが、ロシア革命の実際上の根っこは、その暴力革命路線もふくめてフランス革命にあると考えるからである。25日の日曜日に、ある編集会議で話したのだが話したのだが、ロシア革命が19世紀ヨーロッパ史の結果であることはいうまでもない。そして、辛亥革命の崩壊とほぼ同時にそれが展開したことが巨大な影響をあたえた。だから、当時の「社会主義」の強力な影響力は、前近代王制の崩壊の一つの局面、コロラリーである。そしてそれが逆に前近代帝国に「社会主義」の側が逆規定される結果もまねいた。これは和田春樹さんの本を読んで考えたこと。
 けれども、だからといって、19世紀末から20世紀初頭の時期の画期性を否定することは出来ないだろう。江口朴郎さんの現代の規定、つまり、現代とは、人々が世界を実際に、ある程度、客観的に意識して行動し始める時代のことであるという規定をとるとすれば、その開始は、たしかに、この時代になる。そして物質代謝の形態転換ということになれば、これは原爆の時代から始まる。
 和田春樹さんがいう20世紀とは世界戦争の時代であるというのは、それらを含んでのことである。そのような問題をふくめて日本が第二次世界大戦の開戦に責任のあることを考えておかねばならない。そう考えると、日独伊の中で、日本だけが原発に固執しているというのは莫迦みたいな話である。

  先日、近代史の安田浩氏がなくなった。我々の世代で亡くなる人はしばらくいなかっただけにショックである。長く御会いしていないまま。彼の職場は、千葉。すぐそばなのに会ったことがないというのが悔恨。近現代史の話をする余裕などない人生を送ってしまった。内容のあることを話したのはおそらく20年くらい前か。
 私の大学はICUなので大学には日本前近代史の教師がおらず、教育大と都立大の大学院をうけた。受験のために友人を訪ねていったとき、ばったり御会いしたのが最初。結局、都立に行ったが、そのあと、廃学直前の教育大に家永先生の訴訟事務の手伝いに何度も通った。教育大も都立大もすでにない。あるいは少なくとも形を変えている。何ということかと思う。

2011年9月27日 (火)

『歴史学研究』東日本大震災特集

 110927_203210                          『歴史学研究』の3,11東日本太平洋岸地震特集がでた。私も書いているが、平川新・矢田俊文・北原糸子・奥村弘さんの文章は、これまでの長期にわたる実践と研究をふまえているだけにきわめて説得的なものである。各地の歴史史料ネットワークの動向も頭が下がる。
 私の文章は、このブログでいろいろ書いているので断り切れずに書いたというもので、若干、うわずっているという感じをいなめない。自分たちの世代の感じ方というようなことも書いてしまった。しかし、宣言してしまった以上、しばらく他の研究を放棄して、火山と地震の研究に集中することとしようかと考えている。

 しかし、火山と地震の「神話」という問題が難物で、先週は『古事記』の神話の分析のところで、頭がとまってしまった。『古事記』の勉強など本格的にしたことはないのだから、これはあたりまえであるが、しかし、災害・自然・社会ということを考えると、神話論は重要だと思う。そして何よりも神話論がないと、8/9世紀の大地動乱の時代の史料が読み抜けないのである。来週、「古代史」の友人にレクチャーをしてもらうことにした。彼に聞いても、また先日、京都に行ったときに、本当に久しぶりにあった友人にあって聞いても、文献史学の側で神話の研究をしている人は、ほとんどいないということ。これはいったいどういうことだろう。
 ともかく古典的業績のいくつかと、法制史の水林彪氏の『記紀神話と王権の祭り』を参考にしてやっているが、文献史学の現状の水準がわからないというのは困っている。

 しかし、うまく筆が進まない理由を今日の朝の電車の中で考えた。ようするに『古事記』というのは神話文学としてはたいへんによくできたもの。本当に面白い。できすぎているのかも知れない。これだけの文学ができたというのは信じられない気もする。だから振り回される。これは逆に文学であると思い決めてやった方がよいのかもしれない。その神話的構想力が内容としては『竹取物語』に実に続いているように思う。などなどと考えている。
 古事記が政治的に作り出されたイデオロギー的な創作物であることはいうまでもないが、それが創作であることの第一の意味は文学ということにあるように思う。そしてある意味では文学でしかなかった。そういうつき合い方でよいのかもしれない。

 今日は一日、ディスプレイ仕事。左腕の調子が悪く、右手だけの入力で疲れた。一日やっていて視野がぼっとしてきた。今の和紙研究のデータベースシステムに、古いデータを整形して積み直すという仕事。データの整形が適合しないというのは、5年前の自分を罵りたくなる。さきの見通しのないコンピュータ駄目人間をやっているのは、本当に嫌になる。しかし、これで二日かけて、ともかくメノコ仕事が終わった。あとは積み込みがうまく行けばいいのだが。

2011年9月23日 (金)

少数意見の意味について(内田樹氏の意見)

 内田樹氏のブログで少数意見というものが、「民主主義」においてもっている意味について、たいへんに説得的な意見をよんだ。最初にその結論部分を引用しておく。

「支持者の多い意見は現実的で、支持者の少ない意見は空論的である」という命題は論理的にも、実践的にも正しくない。支持者が増えるほど「それは私の個人的知見であり、最後のひとりになっても私はその意見を言い続けるつもりである」と言う人の数は減り、言葉の責任をとる気のある人が減るほど、政治的意見は過激で、粗雑で、空疎になる。民主主義のルールには「少数意見の尊重」というものがある。私はこれはむしろ「多数派が空洞化することのリスク」として理解すべきことではないかと思っている。

 私たちの世代は、いわゆる戦後民主主義世代なので、民主主義とは何かということを小学校の時から「習った」世代である。今、学校教育の中で、小学校で、民主主義とは何かということを教えるのだろうか。

 私は、民主主義と「多数決」ということについて、小学校で何かを教わったと思う。それがどういう内容だったかは、もう覚えていない。しかし、すでに事柄にあきらめがちになることが多くなり、言葉を尽くすことも少なくなった私などの世代にも、この内田氏の意見は、おおげさにいえば、小学生以来の疑問をとく力をもっていると感じさせる。勝手に引用して申し訳ないが、感謝します。

09.20

多数派であることのリスクについて

神戸新聞に隔週で「随想」というコラムを書いている(これが二回目)。神戸新聞を読んでいない方のために再録しておく。
これは先週書いたもの。

橋下大阪府知事は、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示した。
首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするというのは異例の事態である。
公務員が遵守義務を負うのは、憲法と法律・条例と就業規則だけのはずである。「大阪都」構想は、その当否は措いて、今のところ一政治家の私念に過ぎない。それへ賛否が公務員の将来的な考課事由になるということは法理的にありえまい。
まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。
私はこの手法に反対である。
脅迫や利益誘導によって政治的意見を操作してはならない。私はそう信じている。それは強制された政治的意見は必ず間違っていると思うからではない。暴力的に強制されたのだが「内容的には正しい政策」というものは論理的には存在しうる。
私は政策の当否について論じているのではない。
「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。
歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。
後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。私が恐れるのはそのことである。
あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。
(ここまで)

私たちは「圧倒的多数が支持する政治的意見」は穏健で、「少数の支持者しかいない政治的意見」は過激であると考えがちだが、経験的にはそうではない。
私の知る限りでは、「圧倒的多数が支持する政治的意見」はしばしば実現不可能な空論を選好する。
それは「数を恃む」ということが、個人の責任を解除してしまうことによって起きる。
ある意見を掲げているのが自分ひとりである場合、自分がその意見を口にするのを止めてしまえば、もうその意見はこの世界に存在しなくなる。
私が語るのを止めたら、この世にそれを語る人が誰もいなくなる意見、私の説得が功を奏さなければ、そのまま宙に消えてしまう意見については、私たちは情理を尽くして語る。
逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。
うかつに断定的に語り出したり、聴き手を見下したり、恫喝したりして、「気分の悪い野郎だな」とふっと横を向かれ、耳をふさがれてしまっては、それで「おしまい」だからである。
それで「おしまい」にされないためには、とにかく一秒でも長く自分の話を聞いてもらわなければならない。
すがりつき、かきくどき、「とにかく話を聞いてくれ」という懇請によって相手の足を止め、しばらくの間「耳を貸して」もらわなくてはならない。
そのような語り手の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりするはずがない。
逆に言えば、その人の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったり「できる」のは、そのような不愉快な語り口に苛立った聴き手が聴く気を失っても「少しも困らない」からである。
聴き手が聴く気を失っても少しも困らない語り口を採用できる理由は二つある。
一つは「聴き手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。「私の話を聴いて支持してくれる人間はいくらでもいるから、お前は消えてよし」と思っているからである。
もう一つは「語り手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。たとえ、私の話が耳障りで、「いい加減にしろ」と語るのを制止されても、「私が言いそうなこと」を私に代わって言う人が「いくらでもいる」と思えば、私たちは語り口を限りなく粗雑なものにできる。
語る言葉に論理性がない人、挙証を怠る人、情理を尽くして説得する気のない人は、実は「理論上無限の聴き手に向かって、理論上無限の語り手が語っている」という状況を想定して語っているのである。
自分と同じ意見を述べる人が何十万、何百万人いると思えば、私たちは「説得する」意欲を殺がれる。
私に代わって論理的に語ってくれる人がいるだろう、私に代わって挙証責任を果たしてくれる人がいるだろう、私に代わって聴き手への気遣いを果たしてくれる人がいるだろうと思えば、私たちは自分が語るときにはいくらでも手を抜くことができる。
ネット上の罵詈雑言を見ればわかるが、威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりする人たちは「自分と意見を同じくする数十万の同意者」の存在を(無根拠に)前提にして、そうしているのである。
どのような意見であれ、それが「圧倒的多数の支持」を勘定に入れたときに、言葉は粗暴になり、空疎になる。
もうその言葉を「それは私の言葉です」といって引き受ける「生身の個人」が存在しなくなるからである。「私が語るのを止めたときに、その言葉も私とともに失われる。だから私は語り止めることができない」
と思っている個人がどこにもいないからである。
20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。
だが、ある日ことが終わってみると、「その言葉は私自身の言葉です」として引き受ける個人はどこにもいなかった。
「支持者の多い意見は現実的で、支持者の少ない意見は空論的である」という命題は論理的にも、実践的にも正しくない。
支持者が増えるほど「それは私の個人的知見であり、最後のひとりになっても私はその意見を言い続けるつもりである」と言う人の数は減り、言葉の責任をとる気のある人が減るほど、政治的意見は過激で、粗雑で、空疎になる。
民主主義のルールには「少数意見の尊重」というものがある。私はこれはむしろ「多数派が空洞化することのリスク」として理解すべきことではないかと思っている。

2011年9月22日 (木)

「荘園をどう教えるか」2 荘園制と地主

 たしか8月に書いた「荘園をどう教えるか」というエントリの続きである。
 そこでは、鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』にふれて問題を論じ、鈴木氏が越後国石井庄の荘園史料を使用して、有力者が人々に種籾用に稲を貸しつけるということを教材化していることを紹介した。そして、そのエントリーの最後に、これを説明するのに『一遍聖絵』の常陸国の土豪の家の裏手にみえる「稲積」の絵画史料が有効ではないかと述べた。その追加説明である。
 Irtu_001 この画像は『一遍聖絵』からとったもの。常陸国の土豪の家というのが『一遍聖絵』の説明である。一遍上人が常陸国に行った時に、随行の尼が「女捕り」に会うなどの妨害にあったが、それを乗り越えるのに助力した善行によって、この家に「福」がもたらされたというのが、全体の筋書きである(「女捕」については拙稿「」(『物語の中世』)を参照されたい)。「福」は家の外側の溝の中から銭が発見されたということになる。
 この埋納銭の発見は事実としてよい、あるいは事実として観念されていたとしてよい。もしそうだとすれば、これは埋納銭の史料としても相当に古いものになる。鎌倉時代中期の常陸国でもすでに埋納銭があって、それがたまたま発見されることがあったというのは興味深いことである。鎌倉中期までの銭の流通度は相当に高いものとしなければならないと思う。
 真ん中にいる黄衣の男が、この家の主人であろう。注意したいのは、その右手にいて裸になって鋤をもっている男の腰に、ややこの絵では見にくいが、腰刀があり、その腰刀に腰袋がさがっていることである。男は、腰に網状の袋もまいているが、この中には弁当のような携帯品が入っていたのであろうかと思われる。それに対して腰袋には銭が入っている(参照、保立「腰袋と桃太郎」『物語の中世』)。
 ようするに、鎌倉時代の常陸国では地主的な有力者の家には埋納銭がうまっていることがあり、その家に仕える下男は銭を日常的に携行しているということになるのである。荘園制というのは、中央都市による農村支配のシステム、より具体的にいえば京都に集住している貴族が地方を支配する求心的システムであるから、こういう流通経済は必須条件である。
 ただ、ここでは、この貨幣流通の問題ではなく、この土豪・地主の家の後庭の風景に注目してみたい。つまり、むかって左側に二つ、右側に三つ、稲藁を丸く積んだものがみえると思う。これは『日本常民生活絵引』で宮本常一氏が説明をしているように、「ニオ」、「堆」というものである。
 これは稲束を竹柱のようなものを真ん中において、まわりに積み上げたものである。稲は穂付きの稲で、翌年の種籾である。この場面、雪がうっすらと積もっていることでわかるように冬景色で、ここに翌年の種籾が蓄積されているのである。いまでも、こういうニオをみることはできるが、それは藁を積んであるだけで、穂付きのものではない。ただもし近くでみることができれば御覧になればよいが、稲束を組み合わせて、積んでいく。この絵の様子だと、円柱の中心から周縁までは、稲が三束ほど組み合わされているのであろうか。こうして、穂の部分(種籾)は外気から保護されることになる。
 一応、「束」についても説明をしておくと、稲の根本を握ったものを「把」というが、それを一〇あつめたものを「束」という。貸し付け率のことを、「一割」「二割」などというが、「割」というのは、本来は「把利」と書く。つまり、「一束」の貸し付けに対して、「利」が「一把」の時に、「一把の利」=「一把利」というのである。
 問題は、このニオが全部で五堆で、どの程度の量の種籾になるかである。一ニオの束数は実験をしてみるほかないので、どなたか実験をして教えてくれるとありがたい。ニオを漢字では、「積」とも書き、その史料もないこともなく、論文で若干ふれたが、正確な試算はしたことがない。
 これだけの明瞭な画像があれば、鈴木氏の授業プランをもっと生かすことができると思う。
 そして、これが重要なのは、結局、「荘園制」社会の基礎には、こういう地主制が存在した可能性が高いからである。地方には荘園制支配をうけとめて、それを地域社会の側で支えるような地主の存在が必須であったと、私は考えている。
 もちろん、地主制はたんに荘園制社会のみならず、おそらく11世紀頃より以降になると、日本社会にとって本質的な構成要素となると思う。江戸時代から明治時代にも地主制の問題はきわめて大きな問題であったこともいうまでもない。だから、荘園制が地主によって支えられているというだけでは問題の解決にはならないのだが、しかし、このような地主の実像を、ともかくも平安時代末期から鎌倉時代におさえておき、子供たちに伝えることは歴史教育にとっては大事であるように思う。
    なお、この『一遍聖絵』の場面については、『絵巻物鑑賞の基礎知識』1995年、至文堂)で論じた。また、関連論文としては、「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」(東寺文書研究会編『東寺文書にみる中世社会』東京堂出版、一九九九年五月)、「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」(鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版、一九九九年五月)がある。

2011年9月21日 (水)

地震火山44地震学研究者に教えていただきたいことーーアムールプレート

 地震学研究者に教えていただきたいことがあります。7月31日の「日本と韓国の地震の連関性」という記事で、そして、八六九年(貞観一一)の陸奥沖海溝地震の後、韓国で地震記事が連続していることを報告しました。その最初は、新羅の王都慶州でのことで、陸奥沖海溝津波から一年もたっていない、八七〇年四月のことです。そして、その後、同じく王都・慶州で、八七二年四月、また八七五年二月には王都および東部で地震が発生した記録が残っています。これは地震があったというだけの記録で、被害の記録もありませんが、八七〇年代に地震記録が三回も集中していることは、一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことであると考えられます(『三国史記』)。
 またここからすると、八六九年(貞観一一)年7月14日、つまり陸奥沖海溝津波の起きた約二月後に、肥後国において相当の規模をもつ津波地震が発生していることも重要だと思います。この肥後地震は宇佐美先生の被害地震総覧では地震であるかどうか疑問とされていますが、3月28日の貞観の肥後地震についてのエントリで、これは地震であることを説明しました。
 私は、現在のプレートテクトニクスが東アジアのプレートの運動をどのうように解いているのかについての基礎勉強をしておりませんので、申し訳なく思いますが、これらは、日本列島のプレートの運動と韓国南半部の地殻の運動の連動性を示すのではないかと考えました。
 そのようなことを考えましたのは、昨年、『かぐや姫と王権神話』を書いた時に読んだ江原幸雄『中国大陸の火山・地熱・温泉』(九州大学出版会、二〇〇三)の理解によります。それによると、「東北アジアの火山分布は、(1)カムチャッカから日本列島につづく太平洋プレートの沈み込みにともなう火山帯、(2)内モンゴル自治区に聳える大興安嶺山脈と黒龍江省から韓半島にむかう長白山脈に広がるホットスポット型の玄武岩質火山の二列に区分される」といいます。そして、江原氏は東北アジアのホットスポット型火山は日本周辺でのプレート沈み込みに関係して生まれたものであろうとしています。
 これは、その意味では火山にも関係してくる訳ですが、これらをアムールプレートの運動にそくして説明した論文で、他分野の私でも理解しやすいものはありませんでしょうか。
 
 なお、もう一点、五月7日のエントリで、白頭山の南北朝鮮共同研究の会議が行われる予定であるという朝日新聞の記事にもとづいて、東アジアレヴェルでの協同研究が進むのではないかという期待を書きましたが、先々週、京都であった韓国の紙の研究者に聞いたところ、たしかに、その会議は行われ、韓国では大きく報道されたということでした。日本では、詳細の報道はなかったように思います。これについてもご存じのことがありましたら、御教示を御願いできれば幸いです。
 もし御教示をいただける場合は、このページの左側に私の自宅のメールアドレスがありますので、それを御利用いただければ幸いです。

 今日、テレビの人がきて、八・九世紀の地震噴火と「貞観地震」についてのレクチャーを頼まれた。そこで、本当に八九世紀を「大地動乱の時代」といってよいのかという質問を受け、歴史学の側からいえることは述べた。日本の前近代史において地震史料は、各時代に相当の濃度で存在していること、その中で、噴火・地震の全体を比べると、やはり八・九世紀はそれらが多いこと、それをこの時代に『六国史』が存在するための見かけの現象とはいいがたいこと、『六国史』ではなく、『類聚国史』(道真編)によって9世紀の地震史料は網羅されていると考えてよいこと、さらに陰陽寮は観測と記録とアーカイヴの体制をもっていたと考えてよいことなどを説明した。また地震学者の中でも、今村明恒・石橋克彦・都司嘉宣などの諸氏は、8・9世紀に地震が多いことをほぼ承認していることも述べました。
 しかし、現状では八・九世紀が大地動乱の時代であるということを自然科学的な証拠をもって明瞭に指摘することは、現在の研究段階ではむずかしいように思います。そしてもし、そういうことが自然科学的な蓋然性としていえるとすると、それは東北アジアレヴェルの地殻運動の連動の波をどう考えるかにも関わってくるように思います。それはアムールプレートの動きについての東アジア規模での地質調査や地球科学の協同的研究をまって徐々に確定していく問題であろうと思うのですが、これは、人文科学にとってもたいへんに大きな問題に関係していると思いますので、以上のような御願いをしてみました。

2011年9月14日 (水)

遠山茂樹氏、なくなる。『明治維新』のこと。

  京都出張中に、遠山さんがなくなっていたのを知った。実際は、8月末だからもう少し前だったということ。
 私は遠山さんだが、稲垣泰彦さんが遠山先生というようにいっていたのを聞いたことがある。稲垣さんは人のことを先生とはいわない人(佐藤先生をのぞいて)だったから耳に残った。亡くなられたあと、遠山さんが「自分を大事にしないと」と稲垣さんに忠告したという話を奥さまから聞いたことがある。その他いくつかの遠山さんのこと。稲垣さんを思い出すたびに、遠山さんはどうされているだろうと思っていたので、逝去の報はショックである。

 稲垣さんが亡くなられた時の東久留米の団地の集会場で、お通夜で遠山さんをみた。「戦後歴史学」の代表者たちが多く集まっていて、圧倒されながら、この人たち全員を批判すればいいのだと不遜な感想をもったことを思い出す。稲垣さんの奥さまもなくなってしまい、「戦後歴史学」の生きた姿をしる人々、そしてその風情から、私のような世代でも、それを察知できる人々が、みんないなくなってしまう。
 私が遠山さんをはじめてみたのは学生時代、大学一年の時(あるいは浪人の時)、東大の五月祭で講演をきいた。戦後史についてだったが、物静かでありながら、明解で身に迫るような話で、胸に落ちた。私のような最初の純粋戦後世代を歴史がとりあっているのだ、君たちの位置は大きいという言葉もよく覚えている。当時、私にはきわめて影響の強かった、羽仁さんに近い立場を、遠山さんがとり続けていたことも、親近感のひとつであったのかも知れない。
 この遠山さんの講演は、私の学生時代、あるいは個人の歴史学の方法意識にとっては決定的な意味をもったものかもしれないと思う。くわしくいってもしょうがないことだが、当時の横市大の学生運動が一つのバックにあった奧浩平の『青春の墓標』という本があって、強い影響をうけていたのだが、遠山さんは、横市大にいらして、この本の著者とは異なる姿勢をとられていることも、私の姿勢を冷静にさせた。
 後に家永訴訟を支援する歴史学関係者の会の事務に参加した時、学習院の児玉幸多さんと遠山さんが代表で、いつも総会でお会いしたり、訴訟支援の場でお会いして、緊張した。遠山さんの歴史教育関係の仕事は大きな位置をもっていると思う。

 私は、河音能平さんの著作集の解説を書くので、上山春平氏の仕事をよむ必要が出て、その関係で、大門正克『昭和史論争を問う』(日本経済評論社、2006)によって、著作集をひっくり返し、遠山さんの昭和史論争での発言を確認したことがある。遠山さんの論争での態度は見事なもので、情理を尽くしているとよめた。林房雄は別にして、亀井にも上山さんにもけっして打撃的な批判はしていない。研究者の中には、昭和史論争を自分たちの歴史学の問題と感じないような人々も増えてしまったが、右の大門編の論文集は重要なもので、遠山さんの関係では、とくに和田悠「昭和史論争のなかの知識人」には教えられた。
 御年齢もあって、遠山さんを歴史学研究会ではお見かけしなくなった後、横浜市金沢区の上行寺東遺跡の保存運動で知り合った、遠山さんの教え子の方から、消息をきいた。遠山さんが一時、老人ホームに入られたということだった。遠山さんがすこしぼけてしまって、奥さまが私はまさか遠山がこういうことになるなどとは信じられないとおっしゃったのを聞いて、彼がアドバイスをして、一度老人ホームに入って作業療法をやられるのがいいという話になったとのこと。遠山さんが藤細工をやられて元に戻られたということだった。『歴史地理教育』に論文をかかれるところまで御元気になった。私たちは、その藤細工を歴史家のお守りに一つもらえないだろうかと話したことを覚えている。
 
 下記は、以前、『アエラ』の歴史学入門特集のようなものに、歴史の名著というのを書いた時、遠山『明治維新』を上げたもの。

『明治維新』、遠山茂樹、岩波書店、1951年。
 羽仁五郎の提言を受け止め、初めてアカデミックな史料操作に基づいて「明治維新」政治史を論じた古典的研究。維新政権を近代的権力とみない立場、いわゆる絶対主義論の実証的基礎を提出した。要は、日本近代の中に前近代からの長期的連続性をどうみるかにあるが、これだけ広範囲で凝縮した内容をもつ明治維新の全体論は、今でも存在していない。冒頭の戦前歴史学に対する批判は痛快。

 絶対主義論をそのまま取るどうかは別で、私などは江戸期国家は封建制とは考えられない、東アジア型の都市ー地主国家だなどという意見であるから立論の拠点が違う。しかし、維新政権を近代的権力とみることができないのはまったく明らかなことだと思う。この点で上山春平氏の議論は無理だと思うし、またいわゆる労農派的な議論には歴史家としてしたがうことはできない。

  だいたい私は、「戦後歴史学」、何が悪い、無教養なことをいうなという立場で、今後もそれを維持したままで行くことになる。遠山さんの温顔をわすれずに、悪口をいうのは抑制しないとならないことはわかっているが、なかなかなおらない。
 下記は共同通信からとったもの。

歴史家の遠山茂樹氏が死去 明治維新史を分析



 死去した遠山茂樹氏(歴史家、横浜市立大名誉教授)

 自由民権運動や明治維新史の研究で知られる歴史家で、横浜市立大名誉教授の遠山茂樹氏が8月31日午前8時33分、老衰のため東京都内で死去していたことが9日、分かった。97歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻重子さん。

 東大卒。戦後、唯物史観に立って明治維新史を分析・研究した「明治維新」で高く評価された。55年にベストセラーとなった共著「昭和史」は評論家亀井勝一郎氏らの批判を呼び、昭和史論争のきっかけとなった。

 58年から横浜市立大教授。横浜開港資料館の初代館長も務めた。主な著書に「明治維新と現代」「戦後の歴史学と歴史意識」など。

2011年9月13日 (火)

和紙調査、柔細胞膜の確認

 御寺での調査を終える。今は、7日(水)の朝である。
 この写真は御寺の蔵を、裏手からとった写真。御覧になってわかるように、屋根から壁板がさがっている。御蔵の本体は、漆喰の白壁でできていて、万が一の時にも火が蔵内に入らないような作りになっている。屋根も浮いていて、その浮いた屋根から板をさげて、遠くから一見すると木壁があるようにみえる。
 Img_0993 帰京したら、写真を追加する積もりだが、『春日権現験記絵』には、火災で壁のみが残った土倉の絵が残されているから、『春日権現験記絵』のできた鎌倉時代後期には、こういう土蔵作りの仕方が確実に存在したことになる。現在は、建築学で、こういう蔵の作りを分析した仕事はあるに違いないが、30年ほど前、探した時には見つけられなかった。
 さて、御寺では、貴重な古文書料紙の精細な観察をさせてもらい、ありがたかった。歴史学・製紙科学などの全体となると、ここにはすぐには書けないような色々な成果があったが、製紙科学的な面から、とくに重要だったのは、戦国時代後期の「美濃紙」を顕微鏡でみたところ、美濃紙の特徴と考えている「柔細胞」膜を確認できたことである。これは以前、王子製紙の研究所の協力で作成した現代の美濃紙の画像ほど綺麗ではないが、史料和紙での確認であることが決定的である。
 この膜は、普通、歴史家が和紙の材質確認をするときにつかう携帯用の100倍顕微鏡ではみえないが、背面からの透過光が一定の強さをもっている場合は、その種の顕微鏡でも、顕微鏡に接続した肉眼でならば確認することができる。「顕微鏡に接続した肉眼」というのは変な言い方だが、その時、顕微鏡をのぞいている人の目そのものでならば確認できるということ。私たちが使っている携帯用顕微鏡をコンピュータディスプレイにつないでも、良好な画像をえることはできなかった。同僚の写真の専門家いわく、「肉眼ほど性能のいいカメラはない」ということである。
 実際、この問題が顕微鏡による和紙観察においては最大の問題であって、顕微鏡をのぞいていても、その画像イメージは個人の記憶の視野の内部に存在するだけであるから、集団的な認識のつきあわせが不可能なのである。しかし、今回はより精細な顕微鏡によって調査をしたので、はじめてコンピュータディスプレイからも、この膜が確認できた。そして御寺のご厚意によって、この顕微鏡画像および全体の透過光画像もネットワークでオープンして良いという御許可をいただいているので、確実な共同的研究の基礎とすることができる。本当にありがたいことである。宅急便で送ることが可能な重さの顕微鏡なので、今後は活用が期待される。この顕微鏡は、東京大学農学部製紙科学研究室の江前先生が調達してくれた。
 製紙過程で、この膜がどのようにしてできあがるかはまだ確定しておらず、それ故に、この膜の組成もまだ確実ではないが、私は、江前先生からいただいた楮を水中で叩解する途中の画像にみえる柔細胞が、美濃紙の作成の特徴をなす強い叩解によってつぶれて、このような膜状になったのではないかと考えている。
 以前のブログには、「この膜は、楮繊維の内部に存在する柔細胞が、鞘などに入っている状態から出て、つぶれて重なって膜状になったものである。この膜を作るために、丸く、広く、平べったい面のある木槌で、楮の繊維をよく叩解する。こまかな過程は、実際に顕微鏡観察をしながら和紙の作成をしてもらうほかないが、この膜がキーであり、その基本組成もだいたいわかったので、研究の方向はほぼ明瞭になったというところである」と書いたが、それを実際に確認しつつあるというところである。実際に顕微鏡観察をしながら美濃紙の作成をしていただく算段が次の大きな課題である。
 問題は、楮の柔細胞そのものは鞘に入って虫の腸内に楕円形の糞が入ったようにみえるものなど、いくつかの形態があるように思われることで、この柔細胞を叩くと各々がどうなるかが知りたいところ。美濃紙は叩面の大きな木槌で石盤にのせた楮繊維を徹底的に叩くので、それで潰れるのではないかと考えている。
 P1010004

 上に掲げた繊維の顕微鏡写真の中央と右上にみえるのが鞘に入ったままの柔細胞である。ただ、問題は、ご覧のように、(細かく分離すると)右上ではみえるような糞のような楕円形の形になる柔細胞は薄茶色をしているので、たたくと透明の膜になるのかどうかが最大の問題である。あるいは楮の表面に薄い膜があるということを聞いたことがあるので、それが叩解の過程で楮繊維それ自身から剥離して膜の一部になるなどということもありうるかもしれない。しかし、叩解途中の楮を検鏡した画像をみると、これだけ広汎な膜が紙面に形成されるだけの質量をもっている物質は、柔細胞としか考えられないのである。
 昨日の夜は京都大学の生存圏研究所の川井先生と。祇園社の南のところで先生の指導の研究員のMさんや、東大農学部製紙科学の江前先生などと一緒。川井先生は木質科学の研究者で、文化財の木質の研究では第一人者。若干のご縁があって、紙の話をすることになった。当方の研究の紹介や職場の話だけでいろいろ忙しく話す。共通の知人というのはいるもので、いわゆる文理融合の必要についてまたまた考えさせられる。
 以上、11日(日)の朝、S書店の会議にでかける朝の総武線の中で、書き終える。それにしても、昨日のTBSの世界不思議発見には驚いた。マリヤ・ギンブタスの仕事は相当前に読んだものなので、もう一度確認してみたい。そもそも、この原始のエロティシズムについての興味は、ラスコーの洞窟絵画を分析したG・バタイユの仕事を、学生時代、『朝日ジャーナル』で読んだことが最初のとっかかり。ただ、それは記憶にすぎず、いまでは、本当に『朝日ジャーナル』であったかどうかも定かではない。しばらく前に図書館で探したが、はっきりしない。当時はバタイユに対しては何かよくわからない議論として、批判的であったが、いまは現代に必要な議論をしている思想家、いわば現代のフォイエルバハであると評価するようになった。閑になったら、その雑誌記事を確認してみたいものだ。

2011年9月12日 (月)

内部被曝、核時代と世界史(3)

 先日、やっと肥田俊太郎・鎌仲ひとみ氏の『内部被曝の脅威』を読み終わる。前回のエントリーで「内部被爆」と書いたが、被曝でなければならない。この本を最後まで読んで前回のワープロミスに気がついた。この本では「被爆」「被曝」「被ばく」が使い分けられている。ヒバクは被爆でもあり、被曝でもあるというのは、「ヒバクシャ」という言葉が国際的な反核運動で広まったことと深く関係している事柄だが、うかつなことに、これを文字レヴェルではじめて認識したことになる。
 今、京都の御寺に出張のため、新幹線の中。静岡を通過。大事な自由時間だが、調子がでない。少し寝てから、PCの中にある世界史についてのメモを集めることにする。
 さっきは静岡。いま名古屋。少し寝た。

 さて、いわゆる「戦後歴史学」の世界史の方法論でもっとも問題であったのは、前述のような大波が寄せては返すような世界史の波動と、個別社会の社会構造の変化を区別した上で立論することに、十分自覚的でなかったことである。
 世界史の波動の深部、波のそこにあるうねりのようなものが、根本的には物質代謝の形態の深化それ自体にあることは前述の通り。そもそも、世界史上のどのような社会であっても、その物質代謝の諸条件は、個別の社会自身のみによって規定されているものではなく、まずは人類史の悠久の流れの中で、所与のものとしてあたえられているのである。
 主体的な自然と客体的な自然の物質代謝の深化それ自身の波動が世界史の全体的な環境を構成する。人類史におけるこの地球大の物質代謝の長期的波動を基礎的な内容とする世界史の過程を、どのように分析し、全体像を描くかは現代世界が突きあたっている諸問題を予見する上で、大きな意味をもっている。
 それはいわば大気圏の気候のようなものであって、それはエーテルのようにして、個別社会の社会構造に影響する。もちろん逆に、個別社会が作り出す構造によって物質代謝の形態も変化していく。それは大気圏の運動が、大地に対して働きかけ、山脈をきわだたせ、河川を作りだし、平野を堆積し、海岸線までも変化させていくが、しかし、それによって大気の運動が逆規定されていくのと同じようなことである。
 研究の過程では、個別社会の社会構造は物質代謝の世界史的な諸段階・諸形態とは区別して分析されなければならない。この二つは、同じように人類社会の運動ではあるが、社会的運動の階層あるいはレヴェルが違う。それは物質の生物学的・生態学的・地質学的さらに惑星的運動の階層あるいはレヴェルが違うのと同じようなことである。
 もちろん、個別社会レヴェルでの分析が歴史学にとってはまず優先的な分析事項となる。世界史は、世界各地域とそこに適応した人類の諸集団ごとの社会史を基礎的なレヴェルにしている以上、このような分析を先行させる必要があるのは当然である。これがいわゆる社会構成史にあたることはいうまでもない。「戦後歴史学」が主張したように、それなしには世界史レヴェルの分析と総合はそもそも無理な作業である。
 しかし、同時に、個別社会の分析は、その段階の世界史に特徴的な物質代謝のあり方を視野に入れ、それを背景として社会を透視することなくしては不可能である。その場合、現代では、世界史は、そのままグローバルなものとして存在している。そこでは、個別社会の中にエーテルのように染みこんでいる世界史は基本的には、世界大のものとして透視されなければならない。たとえば、個別社会分析の向こう側に直接に国際的な恐慌の分析をみなければならないのである。
 これに対して前近代社会の分析においては、これもまた戦後歴史学の学史が示しているように、まず透視されるのは、諸民族・諸国家をふくむ広域的な世界、文化圏である。これが、個別社会の社会構成史的な分析と世界史を媒介する位置にあるべきことは明らかである。
 そして日本列島の歴史を考える場合に、もっと重要なのが東アジアである。そして、そこで決定的なのは、中国大陸の巨大な広さ、そして「量」と統一性の影響であろう。いうまでもないことながら、中国大陸は、地理条件からすると、狩猟・牧畜・農耕など自然的差異も大きいが、中央にだだっぴろい平野が広がり、広域的な統一がつねに促進される構造となっている。ここでは差異の大きささえも統一の要素となる。これは比較的に自然条件が同一で、しかも地理的な分極性が大きいヨーロッパとは大きく相違している。
 この中国大陸の地理的・自然的な「量」の膨大さは、中国のいわば頭でっかちは統一性と国家の重さという特徴を規定することになる。それは歴史的には、春秋・戦国が都市国家から出発し、中国の統一国家が、その合従連衡の中で、都市間の経済・軍事関係を中心に構成されたことを出発点としている。
 そして、そのような合従連衡、統一国家の形成も中国大陸の地政学的な位置に規定されていたということができる。つまり、中国大陸が、ユーラシアの東端に位置するいわばどん詰まりに位置したことも大きい。どん詰まり帝国である。それは地中海東辺からインド亜大陸北部のユーラシア回廊地帯に興亡した諸国家とは、地政学的な条件をまったく異にしていた。中近東のユーラシア回廊地帯と中国平野の間がヒマラヤ山脈とゴビ砂漠によって隔てられていたことの意味はきわめて大きい。このような対外関係のルートの相対的な単一性が、中国平野の統一性のきわめて大きな条件となったことは疑いない。
 とくに問題であったのは、いうまでもなく、この大陸の北辺には、つねに、ユーラシア北辺を広く活動範囲とする遊牧騎馬民族が活動していたことである。これはいわば新石器時代以来のユーラシアにおける諸民族の歴史的配置である。そして、中国平野における都市間連合と統一国家の形成は、それへの対抗の必要上、一つの必然であったのである。
 元・清のように、北辺の遊牧民族が中原を制覇した場合でも、彼らは統一権力を構成した以上、つねに北辺に対する防御という軍事的賦課をかけられることになるのである。また、代表的な統一国家として強大な力を発揮した隋・唐帝国も、そもそもその王族の血筋をたずねれば、北方民族の血統となることは何度も強調されていいことである。
 こうして、ここではヨーロッパのように、各地域ごとでのエスニックなまとまりが傾向として分権的な構成をとるという条件はなかった。
 私は、このような中国平野国家の頭でっかちな構造こそが、中国をふくめた東アジアの諸国の、社会構成上の特徴の大きな条件となっていると考えている。一般に、そこでは、領主権は徐々に国家に集中していくのである。ここでは国家地主説が成立しうるのであって、巨大にふくれあがった都市(およびその連合)を実態とする国家機構の集団的な支配が、社会の基礎組織にまで貫徹することになる。そして、社会の基礎構造においては、それを前提とした地主制、国家に直接し、しかし国家の領有構造の下におおわれた地主支配が優越することになる。
 私は、日本においても、そのような東アジアの社会構成の影響は大きく、少なくとも江戸期国家は、そのようなものとして構成されていると考えている。

 さて、次の問題は、社会構成体の理解そのものである。が、これについては、私は、社会構成の種類は、いわば無数であると考えている。しかし、これについては、すでに若干のことを『歴史学をみつめなおすーー封建制範疇の放棄』などで述べているので、ここでは省略することとする。
 しかし、最後に、以上にみてきたような議論からすると、「核時代」がどうみえてくるかということを若干述べておきたい。
 すでに述べたように、世界史の波動の実態をなす物質代謝の典型的形態の転形という点から見た場合、それは量子力学的なレヴェルにおける自然の階層にまで、人間の所有の力が及んだということであると思う。
 すでにこの地上には、「無所有」というべき空間領域が消失しつつあることは、すでに網野さんの無縁論の検討の中で論じたことであるが、しかし、この質的な領域、あるいは下階層の物質の領域には、まだまだ無所有の領域が広がっている。そして、「核時代」の開始とは、文字通り、この原子核の世界への人間の所有の力が及ぶ時代、しかも、そのバックラッシュによって、通常の社会=人間領域が重大な変化をうける時代の開始ということである。
 そして、この領域が、網野さんのいう無縁の領域・境界的領域と同様に、一方で無法の領域であり、他方で、自由の領域であるということになる。その典型がコンピュータネットワークにおける無法・退廃と自由の二律背反であることはいうまでもない。しかも、この領域は、日常意識にはみえない領域である。そして、「核時代」とは、この領域を人類が熟視して、そこでの重大な間違いをしないように、生きて行かねばならない時代の開始ということを意味しているのである。
 さて、先週、京都行きの新幹線の中で書き始めたこのエントリも、いま日曜。やっと終わり。そういえば、帰りの新幹線は、今日のS書店の原稿を書いていた。
 その会議が終わり、いま帰りの総武線の中。そろそろ終点である。
 

2011年9月10日 (土)

世界不思議発見とマリヤ・ギンブタス

 わが家の人気番組は、実は、「世界不思議発見」という土曜日のテレビ。今日は、尼子騒兵衛の忍タマ乱太郎の長い漫画があって、そちらはさすがにみなかったが、お陰で「世界不思議発見」の最初のところは見逃した。
 さきほど見終わったところ。

 「世界不思議発見」のような番組がある状況の中では、歴史家の仕事が魅力的なものになるのは、むずかしいというのが、私の持論。とくに世界史については、歴史家は追いつけない種類の豊かな情報がでてくる。これは歴史の教師にとってもつらい話だろうと思う。
 今日の番組はギリシャ特集。アルテミスの貨幣の話が最初で、最後はトルコアナトリア高原のチャタルホユック遺跡の詳細な実況がでてくる。便利なもので、ネットワークから今日の番組の予告記事をみると簡単な説明がでてくる。それを参照して紹介すると、この遺跡は、人類が農耕を始めて間もない頃、9500年も前のものだという。そして、7500年前には、3000軒(正確な数はメモしそこねた)ほどの住宅が密集した集落が形成されているという。その住居跡などから50近い太古の女神が次々発見されたということで、この遺跡の研究施設の展示の様子がでてくる。
 ここで「あっ」ということで座り直す。最近のエントリで、世界史について、異文明(Barbarei)段階での支配的なイデオロギーはエロスであると論じたが、それを象徴する女神像が並んでいる。そこにでてきた二人の考古学者(女性)は、農業村落においては生産の中心は女性であって、豊饒の神も女性であると説明する。豊満な姿態のテラコッタの女神像がいくつか紹介される。性行為そのものを示す像と、その結果として生まれた女の子を母がだいている像が並ぶ塑像もでてくる。それこそ女神とみまがう豊満な姿の考古学者が、「男は性行為をおえれば用はないのよ、大事なのは子供をそだて、小麦をそだてること、豊饒を象徴する果物はザクロ、今でもトルコではザクロが大事で、豊饒の儀礼として、それを門口にたたきつけて割る。今年、私も力一杯たたきつけたわ」などと説明してくれる。
1199p081  そして、その後にでてきたのが、王座に腰をすえて出産し、足の間に女児を生みだしている地母神の像である。TBSのHPから画像をとった。その説明では、「なぜ女性が神として崇められるようになったのか、ついにその謎を説き明かす女神を見た時のことを、「これはもう衝撃でした!」と語る岡田さん。明らかになる女神誕生の謎…、そして女神に秘められた遠い人類の記憶とは?ぜひお見逃しなく!」とある。岡田さんという人は、「ミステリーハンター」。そしてたしかに、これはもの凄いものである。マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(鶴岡真弓訳、言叢社、1998年。原書の改訂版1982年)にでてくる地母神の塑像そのものである。これは衝撃であった。
 本の印象だともっと大きなものであったように思う。豊かな胸・腰・尻、そして両脇には豹をおさえつけている。ギンブタスの説明を細かくはおぼえていないが、この像の説明のみをとれば、それよりもさらに臨場感がある。この遺跡にとって猛獣の脅威が大きかったことを住居の入り口は、天井に狭い戸口があるだけ、という遺跡そのものの画像で説明してくれる。これではイメージの鮮明さの問題だけでは、歴史学はとてもかなわないと思う。
 その意味でも、歴史学は、論理と全体的な歴史像のレヴェルで負けないように頑張らねばならないのだろうと思う。

 「人間の感情や感覚それ自体が、現代とは大きく違う野性的なものとかんがえねばならない」というのは歴史家にはよく知られたマルク・ブロックの言葉であるが、原始時代における人間の感覚と感情は、ブロックが対象とした中世・近世よりもはるかに理解しにくいものであったに違いない。原始人の表象は容易に彼の心からぬけだして、外的でしかも物質的でない実在性をあたえられる。そこには彼らの感情と意識が直接に動物的な群団の要素を残していたのではないかということが疑われる。それが現代人とは異なる脳科学的な気質性、少なくともそれが幻覚・幻聴・夢幻などの集合表象に強く浸されやすいはずである。

 私は、これはエロスとペルソナ(仮面)の問題であろうと考えている。ペルソナとは一面で、自己の肉体の手段化であり、目的意識性の表現である。「人間は自己の像に似せて神の姿を作り出す」という場合に、同時にそれは自己の抽象化であり、空無化であることを考えねばならない。これはバタイユが「エロティシズムはとりわけ、労働の歴史と分離して考察することができない」(G・バタイユ『エロティシズム』まえがき)という意味でのエロティシズムと同じ論理であって、エロスの運動は、一方で、目的意識性が身体自身にむかうことによって、肉体の目的意識的な操作=具体的有用労働の世界の基礎となる。と同時に、抽象的なレヴェルでは、エロスはペルソナを作り出すのであろうと思う。そして、ペルソナこそがこれらの塑像(芸術)と肉体を媒介するものであるはずである。エロスとタナトス。死の自覚、眠りの自覚と性の関係は、もっとも直截な形で、ここに現れる。
 新石器時代におけるもっとも理解しやすい遺物は、このようなエロティシズムを示す多様な遺物であり、これは真剣な検討に値する問題であると思う。
これを十分に論理化できている訳ではないが、この時代に一般的な集団所有はペルソナの形式を共有することが条件である。しかし、ペルソナそれ自身は個人の所有である。それは肉体の自己所有の表現であって、逆にいえば、肉体の所有も拒否される存在としての奴隷は、集団的なペルソナの共有の中で、自分のペルソナをもてない存在である。大田秀通氏が、奴隷を共同体をもたない存在であるというのは、そのような意味でとらえられねばならないと思う。彼らは、ペルソナをもった上での、その背後での孤独をもてない存在である。
 別の言い方をすればg、ペルソナは、社会的役割の肉体化であって、それをつけるということは、物としての仮面をつけるということのみでなく、その背後で人間が表層筋肉の仮面を作り出すこと、つまり表情というものを持ち出す。それによって社会的役割を意識しだすということであるはずである。ようするに、どのような意味でも、このエロスー労働ーペルソナー「芸術」を形成する運動が貫く時代が原始社会なのである。そして宗教とは、神話とは、この物的なペルソナを芸術を第一の形式とし、さらにペルソナの着脱の儀式を第二の形式とするものであると思う。しかし、その宗教の対極につねに存在し、しかも宗教の究極的な内容を構成するものが、ペルソナを脱ぐ行為としてのエロティシズムであるというのがバタイユがいいたかったことであると思う。
 いうまでもなく、資本主義は、ペルソナの付け替えを強要される社会である。つねにロドスで飛ばねばならない。それをリルケは(『マルテの手記』であったか)、「両手で顔をおおった男が、急に顔を上げると、その両手には、仮面=肉顔が張り付いていた」というように表現していたと思う。私は、未来社会は人間にとっては、ようするにペルソナからの解放であろうと思う。それはペルソナの肉化、ペルソナの柔軟化であって、それによって社会と個人との新しい関係が形成されるはずのものであると思う。

 さて、ギリシャと地中海には私はいったことがないが、この地域の元始を考える基準にしているのは、太田秀通先生の仕事である。そして太田先生の初心を知るのには、先生の最初の経験記である『地中海文明印象記』がよい。この本を、私は校倉書房の山田さんからいただいたのだが、その24頁にエジプトにふれて「この巨大なものをつくった人間の心理がどうしても解せない。どういう精神構造があれば、こんなものが作れるのか。古代人の心の中には、20世紀の論理では捕らえ尽くせない、何かひどく大きな洞窟かなにかがあったに違いない」とある。確かに、ここにいるのは「異人」なのであろうと思う。生物学の基準のうえでは、つまり身体組織の上では、原生人類であったとしても、頭脳の動きが現代人とはまったく違う構造と知識をもった人間。

2011年9月 6日 (火)

憲法的価値と未来社会

 これは、先日、ある講演のために用意したメモ。  未来ということを考えた場合、私たちには、憲法があります。私は、いわゆる戦後のベビーブームの世代ですので、知らず知らずに憲法を、社会の未来、その理想を述べたものと考えることに馴れてきました。  私などがそういう世代の最後に属するのかもしれませんが、いまの子供たちをみていると、私たちがともかくも「未来」「理想」を社会的に承認されたものとしてもてたというのは幸せであったと感じます。  社会が理想を承認しているというのは、ぎゃくにいえば自己のいる社会への肯定感をもてるということです。もちろん、この肯定感の維持は憲法自身がいうように「不断の努力によって実現するほかはない」ということですが。  日本国憲法には13条・14条に「個人の尊重と特権の否定、法の下の平等」、そして25条から28条に社会的な生存・教育・勤労の権利・義務が規定されています。これは個人権と社会権の基礎です。私は、このことの意味は重大だと考えます。これによって社会の理想はほぼ尽くされているからです。社会の理想というのはそれほど複雑なものではなく、単純なものです。  もちろん、個人権と社会権を媒介する実態的な領域は、所有と財産権にあります。社会の構成のされ方の中心は所有と財産権にありますから、未来社会論ということになれば「所有」の実態がどうであるかが基本問題です。しかし、これも憲法26条の財産権の不可侵と「公共の福祉」による制約という規定が重要です。この財産権の不可侵と公共の福祉による制約の関係、つまり憲法上の制約が財産権の内容の構成にどこまで踏みこんでいるかは議論がありえますが、しかし、私は法的な規定としてみれば、財産権それ自体は本源的には不可侵のものとされなければならないのは当然のことであると考えます。そして、ぎゃくにいえば、財産権の不可侵と開放性は、かならずしも二律背反ではないでしょう。財産の開放性は私的権限の制約をふくみます。この点でも、基本的には日本国憲法は、未来社会論を考える上での必要な規定を揃えていると考えています。少なくとも子どもを前にして未来を語る分には、これで十分です。国の憲法を理想として語ることに何も制約はありません。  もう一つ、個人権と社会権を媒介するより精神的な領域については、19条から21条に規定された思想・信条・表現の自由が規定されています。これも未来社会論を考える上で重要であることはいうまでもありません。私は、そのうちでも決定的なのは、表現の自由、広い意味での情報の自由であると考えます。これは社会的情報の共有化の原則につらなります。これは、この情報共有化原則は、現代の情報革命が社会的情報の私的所有を許容しないという傾向をもっていることに対応させて考えることができます。  このように憲法は、個人権と社会権を規定した上に、さらに所有の不可侵と制約、情報の自由と公開原則を規定しているということになりますと、私は、少なくとも条文のみみれば、これは未来社会の社会構成の原則とほとんど区別はつかないと考えています。ワイマール憲法以来、世界各国の憲法で実現されてきた、このような憲法原則は、未来社会を考える上での憲法的合意となっています。それは未来にむけた社会の変革を考えていく上で、根本的な意味をもっているものと思います。これはロシア型の国家社会主義とは根本的に異なるものですが、一つの社会主義原則と考えてよいものだと思います。  私などの考え方では、基本的には日本国憲法の原則は、社会の未来を、広い意味での「社会主義」と考えることになっているということです。これはフランス革命の「自由・平等・博愛」のスローガンが最初からもっていた傾向でもあります。エンゲルスは、社会主義について『空想から科学へ』という論著を出していますが、これをもじっていえば、未来社会論としては、すでに『空想から憲法へ』という時代になっていると思います。  20世紀の歴史は、スターリンや毛沢東による犯罪的な国家共産主義によって非常に暗い道への迷い込みがありました。これは帝国主義や軍国主義の犯罪性や暗さ、あるいはナチズムや大東亜共栄圏のもった暴力の暗さより、考えようによっては、さらに暗いものです。「われ人生の半ばにして小暗き道に踏み入りぬ」という訳で、それは地獄への道でした。ソ連圏を中心とした二〇世紀の自称「社会主義」国家が、実際上、全体主義国家の一類型に過ぎなかったということは曖昧にできることではありません。私は、二〇世紀の自称社会主義は、国家によって総括された集団的所有が重層的に構成する社会、一つの独特な階級的・敵対的な社会構成であったと考えています。  しかし、それだけに、「社会主義」自身については、社会の理想については逆に真剣に考えざるをえないはずです。  日本国憲法13・14条は個人的所有の保障と特権的所有の否定です。また15条は公務員の任命・罷免権をうたったもので、特権的門地の否定と通ずる規定です。「国家階層制を完全に廃止して、人民の高慢な主人たちをいつでも解任できる公僕とおきかえ、見せかけの責任制を真の責任制とおきかえた」というパリコミューンについてのマルクスの評価に通ずるものがここにはあります。  そして、25条から28条の規定は、教育をふくめ社会的な労働の尊厳に関わるもので、これは28条の勤労者の団結権をふくめて広く考えれば、労働の具体性・専門性にもとづくアソシエーションを社会のもっとも重要なシステムとして位置づけるということになっていると思います。  日本国憲法にはさらに「戦争放棄」の規定があり、これが民族と国際性に関わる原則としてきわめて重大であることはいうまでもありません。こういう憲法の許容する未来社会構想からふり返って、過去の世界、つまり歴史的な社会構成を考えるということがあってよいと思います。

2011年9月 5日 (月)

内部被爆と世界史(2)

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世界史の時代範疇の中では、この「核時代」はどういう位置にあるのか、ということろ論ずることになると、事柄が生物としての人間に関わるだけに、人類の起源から論じなければならない。つまり、放射線が突然変異を起こすということはよく知られているが、人間およびほ乳類の身体組織は、自然放射線に対してはさまざまな抵抗力をやしなってきた。生物の進化過程は、それとのつき合いの歴史である。人類の発生に、それがどのように機能したかは不明であるとしても、いわゆる進化論、進化科学の立場からしても、それは根本的な問題であるはずである。
 そういうことで、はるか過去の話から始めるのであるが、人類の歴史は、700万年前ほどから始まったといわれる。この「旧人」の動物としての成長を起点とし、旧石器時代の終わりまでの時代は、モルガン『古代社会』の用語を使えばWildheitの時代である。これを「野蛮」と訳すが、これはバイアスの強い偏った表現であるので、私は「野性」の時代ということにしている。
 そして、それから若干の過渡期があって、Barbareiの時代、これも、普通、「未開」と訳すが、これも適当な言葉、翻訳ではないので、私は異文明あるいは前文明というように決めている。バルバライ、鳥の鳴き声のように意味のわからないことを叫ぶ人々などというギリシャ人が使った言葉をそのまま使うなどというのは「東洋人」にとっては考えられないことである。異文明、あるいは前期的文明であるといってよいと思う。
 野性の時代は、生存と種の保存そのものが時代の性格である。これに対して、前文明の時代のイデオロギーは、エロスであって、リーディング産業は商業であったと考えている。商業とはようするに「違いがわかる」こと、異なる自然への適応であり、物の効用の発見である。低級な農耕・栽培と動物利用・牧畜は「野性」からの移行期に獲得ずみである。新人の地上への拡大の後、約13000年前にこの異文明の時代への移行が始まった。

Img_0945tanjodoki_2  日本でいえば縄文時代、縄文のヴィーナスのような像は世界各地ででている。 ここに掲げたのは縄 文時代の「誕生土器」といわれる土器を女体と見立てて胎児の出産を描いたもの(山梨県須玉町、津金御所前遺跡)、女性性器そのものを形象した砂岩製品(秋田県東由里町、三升刈遺跡ーーおのおの岡村道雄『縄文の生活誌』講談社日本の歴史より)である。
 これはようするに母権制の時代である。人間のエロスというものは、所詮、Img_0950joseiki_3 男性が女性に拝跪することを本質としており、エロス=母権制である。もちろん、そこには、原始的群団からの解放と個人性の発展があるが、社会組織は性的紐帯を基本とすることはいうまでもない。
 女に対して、衆を頼む男の連合が現文明の開始である。familyとは本来は奴隷を意味する言葉であることはよく知られている。男権主義的な家族は、家内に奴隷を抱え込み、社会では「男の連合・ホモソーシャル」が幅をきかせる時代ということである。これが国家の起源に重なる。これを便宜上、「古代」とすれば、BC4000~3000頃であろうか、アフリカとの近さからいっても、地中海・インド洋間世界を起点としてよいであろうが、ほぼ同時期に中国でも国家が開始されている(夏・殷)。国家の開始は、ほとんど洋の東西をとわないと思う。この時代のイデオロギは、明らかに神話、自然神話である。神話の対象は自然であり、それはすでに体系化して、一つの世界観となっている。国家神話の中心はどこでも基本的には「男」。この「古代」の時代をみちびく産業形態は、一般に、都市であり、鉱業・馬牛・奴隷であり、ようするに労働用具の集積である。自然世界の中に有用性と効用価値を発見する時代に対して、今度は主体の側の蓄積が進む。
 「中世」は、宮崎市定氏がいうように、だいたい紀元前300?頃に始まる。上の図の左側には、「世界史は、この図表以上には簡単にならない」と宮崎市定氏がいう図表を宮崎著『東洋的近世』から掲げたが、「中世」については、この図表によって考えることができると思う。その起点は民族大移動にあり、ユーラシア北辺に始まったそれは、紀元後になって、漢・ローマという東西の「古代国家」を崩壊に追い込むことになる。これは宮崎図式がいう通りである(この考え方は本来は内藤湖南のもの)。この時代のイデオロギは、世界宗教、つまり、仏教、ギリシャ自然哲学、ゾロアスター教、キリスト教、そしてやや遅れてイスラム教などである。イスラムにおいて、この「中世」は究極のもっとも栄える姿を見せたということになろうか。その手段は文字による経典(巻物)の成立であって、これによって、はじめて瞑想というものが可能となった。瞑想はもっぱら個人的な営為であるようにみえるが、実は、同一の経典の存在を前提としてはじめて可能になる心的な態度であるということは中井正一がいったことがある。そして、この中世の時代の産業形態は、農業と大地であるということになる。ここでは、山野河海をふくむ大地を広範囲に開発・領有して、生活の形態を作り出すことがユーラシア全域で展開する。
 「近世」の時代は、ほぼ10世紀前後から、東アジア(キタイ帝国と宋帝国)ではじまり、モンゴルにおいてもっとも繁栄した姿をみせた。そのイデオロギは、知識・技術のグローバル化、商品化にある。東アジアにおける羅針盤・火薬、そして知識の伝達手段としての「本(ブック形態)」の発明が時代の開始を告げる。経典の巻物(スクロール)は、記憶するものであり、瞑想の手段であるが、本は、知識の貯蓄場であって、すぐに参照することが可能な媒体として巻物とは異なっているといわれる。そして、この時代の産業形態は、手工業である。この東から始まった動きが、イスラム諸国を媒介としてヨーロッパまで到達して、ヨーロッパの手工業の発展を準備する。
 そして、「近代」は 16世紀に始まり、その起点はヨーロッパであり、そのイデオロギーは、欲求そのものであり、資本の原始蓄積は、人類の年代記の最悪の一節といわれる時代を導いた。その産業形態は、機械・資本(全産業の包摂)である。
 以上は、宮崎シェーマに依拠しながら考えてきたことだが、宮崎シェーマは、世界史の時代範疇の起点地域と波及期間を設定する点で勝れていると思う。これによって、一種の世界史を場として展開する文明の胎内時計のようなものを考えることができると思う。ここでは「古代・中世・近世」という用語はあくまでも便宜的なもので、ただ順序をいうにすぎない。
 それでも、こうまとめてみると、世界史の時代範疇の枠組みのようなものがみえてくる。つまり、産業形態を中心にまとめれば、(異文明)商業発見→(古代)都市・道具(生産施設としての都市)→(中世)大地開発→(近世)技術開発→(近代)機械工場ということになる。これは、より抽象化していえば、商業(対象的使用価値の発見)→都市・道具(主体的労働手段、媒体・ミッテルの発展)→大地(対象的使用価値の基盤)→技術開発(主体的な道具と頭脳の内部の発見)→機械工業(環境=主体としての生産諸条件の発見)というようなことになる。物質代謝の形態が、世界史を場として、客体の開発に重点があるか、主体の開発に重点があるかの間を揺れ動いているとでもいえようか。客体(対象的な生産諸条件)の開発と主体(主体的な生産諸条件)の開発の間を往復しながら、徐々に世界史を場として物質代謝の諸形態が複雑化し、高度化していく様子をみてとることが可能だろうと思う。
 これに対して、イデオロギーに現れるのは、精神と身体の変化と内部開発の諸側面である。エロスは、自己の肉体の道具化である。エロス的な集中は身体的な目的意識性の常同化という人間労働の基礎経験に関係しているとバタイユがいうのは正しいのではないかと考えてきた。
  この時代の大量のヴィーナス像や男根石、あるいはそれらの画像が表現衝動の最初のスタイルであったことは本気になって考えるべき問題であると思う。
 これに対して神話世界の展開は、人間を基準にした世界像の形成であって、はじめての外側世界への精神の解放ということになる。これが世界観にとって大きな意味をもつこと、三木清『構想力の論理』が必死に検討しようとしたことの意味は、いまになってみるとよく分かる。
 それを前提とした世界宗教は、再度内界への測錘をおろす作業であったが、その瞑想は、実際には文字と巻物によって可能になるという皮肉な構造をもっていることは前述の通り。バタイユがいうように世界宗教には、エロスの世界からひきつぐエクスタシーへの憧れがつらぬいているが、しかし、現実には心的エネルギーを組織する上で、スコラ哲学も禅も瞑想の集団的な場の組織であり、身体に考えさせる心的な技術の哲学であった。
 そして、その中から新しい外界への知識態度と技術が生まれるのであって、その場所は中国であり、そこでは宋代理学(朱子学)のみでなく、禅の位置が高かったことはよく知られている。これにもとづく手工業の展開こそが、やはり近世世界の中から資本主義の生産諸力の水準を作り出す上で決定的な位置をもったのだと思う。
 こうして、近世から近代資本主義のイデオロギーは、内界ではなく外界への超越と自然科学に重点をおいたものとなるのであるが、問題は、現在である。

 以前、このブログでも国会図書館の長尾館長の話に関係して書いたように、現代はたしかに新たな「情の時代」である。長尾さんのいうのは、現代は「心情」の時代であるとともに「情報」の時代であるということであるが、以上のような世界史的な諸段階からみていくと、ようするに、新たな「内界」への沈潜の時代であり、その意味ではエロス・神話・世界宗教の時代への逆転の時代であるということになる。
 「情報」の時代というのも、人類が自己の精神活動のために、拡大された肉体としての外部脳、電脳を確保したという意味では身体論的な意味が大きい。この外部脳が生まれたことの社会的な影響が身体に及びつつあるのが最大の問題の一つである。これは、世界史的にはスクロールからブックに進んだ知識蓄積の手段が身体の一部に近いところまで進化し、電脳という言葉がふさわしいほどになったということであるから、これを使いこなすことができれば、新たな「情(心情)」とそれに対応する「瞑想」を強力に支えることが可能になる。しかし、現状では、マスコミュニケーションの網の目の中に、エネルギー過剰なPC(パーソナルコンピュータ)が宿り、個々人の人間的な心理と精神の秩序のそばで強力な磁力を発揮することによって、マスコミユニケーションの毒素が大きな攪乱要因となっている側面が明らかに優越している。
 「現代的な情報革命が量子力学にささえられた半導体物理学を科学的基礎とし、トランジスタ制御と微細加工技術による電子回路の集積化を技術的な基礎としている。また、それを直接に導いたのは、情報を”0”と”1”の電磁符号に転換するデジタル技術と、それをささえる電磁情報理論であった。産業革命の中からうみだされたファラデーやマクスウェルの電磁気研究は、電気・電子工学の発展、電信電話・ラジオ・テレビなどの情報技術の発展を導いたが、情報革命はその新たな発展と刷新であり、これによって二一世紀は人間社会におけるまったく新しい情報のあり方を生み出す時代となりつつある」ということは、WEBページに載せた拙稿「情報と記憶」という文章で論じたことであるが、これが心理過程に大きな影響をもたらしている。そしてそれが心理的な失調、鬱その他の諸問題を大規模に生みだしていることが、本当に心配である。これをどうにか乗り越えることが人類社会規模の課題となっていること、それを世界史の全体の流れの中で理解することがきわめて重要になっていると思う。
 そして、「核時代」は、同じ量子力学の作りだしたものである。そして、第二次大戦後の核開発(兵器とエネルギー)が肉体組織そのものへの巨大な影響を明らかにし始めたのが現状である。これも世界史の全体の中で考えるべきことである。
 PCが人間のコミニュケーション過程で、あたかも細胞膜を破壊する極端な活性をもった活性酸素のようにして、個々人の精神の保護膜を突き破り、神経組織をいためる、脳の物質過程を攪乱する状況を惹起する様子は、放射性粒子が身体組織の中で、細胞の微細構造を破壊する様子とそっくりである。
 世界史のすべてが人間個々人の神経と肉体の組織に食い込む形で決算を求めつつある。「核時代」というのはそういうことなのだと思う。
 『内部被爆の脅威』を読んで、ご自身ヒバクシャである肥田先生から、DNA、突然変異、活性酸素、細胞膜などという高校時代にならった生物学の基礎と関わって説明をうけると、そういうことが徐々にわかってくる。

2011年9月 4日 (日)

内部被爆と世界史ー歴史家の考え方(1)

 いつからだったか正確には覚えていないが、10年以上にはなる。私は、年賀状には、西暦でもなく、元号でもなく、「核時代後□■年」という表記をしてきた。ヒロシマ・ナガサキ後、□年ということであるが、それは世界史のもっとも大きな区切りになるのだろうと考えているのである。
 歴史家として現在を考える場合に、もっともイメージが明瞭なのは、この表記である。これは羽仁さんがいったのだったか、誰がいったのだったか、それもおぼえていないが、私は62歳。この年賀状表記は、死ぬまで続けることになると思う。
Img_0944naibuhi  いま肥田舜太郎氏と鎌仲ひとみさんの『内部被爆の脅威』(ちくま新書、2005)を読んでいるが、これはまさに核時代の本である。
 放射線の内部被爆は怖い。私たちの世代だと相当に多数の人が読んでいるはずの、大江健三郎氏の『広島ノート』には内容的には同じことが書いてあるのではある。しかし、それをご自身ヒバクシャである肥田先生から、DNA、突然変異、活性酸素、細胞膜などという高校時代にならった生物学の基礎と関わって説明をうけると、そういう知識が人類と自己の生命や健康に直結する時代がきたということを実感する。
 身体内部に入った放射能粒子は、活性酸素を作りだし、通常では突破できない細胞膜にアナをあけ、細胞内部に侵入してDNAを切断する。しかもその粒子は少数であればあるほど、排出されずに最近距離のDNAや細胞組織を攪乱しつづけ、癌その他の発症の原因になる。そのような内部被爆は、身体の内部を半殺しにするか、殺すか、別の生物組織を作り出すことであるから、治療手段はない。ということである。
 内部被爆の存在、原爆病の存在をアメリカが一貫してみとめようとしなかったこと、これに日本の政府が追従してきて、今でも追従していることは、大江の『広島ノート』にも書いてあり、我々の世代にとっては常識的な知識である。そしてDNAの切断その他も多くの人が知っていることである。しかし、それを内部被爆の仕組みとの関係で正確に知ってはいなかった。

 「内部被爆」については、いまでも新聞やテレビでは正確な説明がタブーになっているだけに、ぜひお読みになることを御勧めする。ということをさっき、妹との電話でもはなす。

 さて、歴史家としての私の社会的な分担は、これは世界史の論理としてどういうことかを考えることである。話は、例によって、急に飛ぶが、世界史の時代範疇の中では、この核時代はどういうことになるかということである。しばらく前に、右の図表を作って世界史の諸段階についての話をしたが、この核時代は、たしかに世界史全体の中で位置づけるべきものであると思うので、続けて、次のエントリーで、この図表につけ加えながら、若干の試論を述べてみたい。

2011年9月 2日 (金)

「ような=岩砂・山砂」長谷川勲氏の仕事の紹介

 入間田宣夫さんから「ような」についての教示をいただく。
 「な」が「土」を意味するという問題について、電話で話していたところ、山砂のことを東北では「ような」ということを教えていただく。いろいろ調べたが分からなかったので、改めて教示を御願いした。
 入間田さんは、お宅にきた行商のおばあさんに聞いたことで、その後に確認した記憶があるということだったが、今年五月に刊行された『阿賀路』(49集、2011年5月)を送っていただく。そこに掲載された昨年の総会での長谷川勲氏の講演「阿賀町の地名ー綱木・御前ヶ遊」に「ゆう→よう」についての言及があるということで、御送付をいただいたもの。
 

 「綱木」の方も興味深いが、「御前ヶ遊」は阿賀町の柴倉川上流の菅倉山と井戸小屋山の間の尾根路を登り切ったところに広がる岩場と洞窟で、山全体が緑色凝灰岩でできていてまったく草が生えていない異様な風景であるという。平維茂の妻(「御前」)が、ここに逃亡して暮らしたという伝説があるが、長谷川氏は、この「遊」は、それとは直接の関係はなく、岩窟を意味するという説明をしている。東京堂出版の『地名用語語源辞典』には「ゆう」はイワ(岩)または岩屋、洞を意味するといい、柳田国男の『分類山村語彙』にも岩窟をユウと呼ぶという。たしかに「岫」はユウとよみ、史料にも登場したと思う。
 そして、『民俗地名語彙辞典』(山一書房)のユウの項目に、伊豆八丈島で渓谷の岩石の多いところを「ヨウ」というとあるのに注目して、ユウ・ヨウは通ずるものであったろうという。

 それに加えて長谷川氏は「筆者は長らく岩にかかわる地名を全国に追ってきたが、その中で奥秩父で『ヨウばけ』という地名に出会っている。埼玉県小鹿野町、赤平川の左岸。およそ千五百万年前に海底に堆積した泥や砂が岩となり、やがて隆起して赤平川に削られてできた崖だ。高さおよそ百メートル、幅およそ四百メートルというスケールの大きさ」であるという。『阿賀路』から写真を掲載させていただいた。Irtu こういう陸地の大岩壁について、長谷川氏は「村上市蒲萄字矢吹に横幅約120メートル、高さ約45メートルの大岩壁があり岩窟もある」という事例も紹介しているが、これは「岩に関わる地名を追ってきた」とおっしゃる長谷川氏の大きな発見であると思う。私は、(海岸の岩壁とあわせて)このような岩壁の様子が、大地の内部についての昔の人々の観念に影響しているのではないかと考えたい。
 

 それはともあれ、こうして、「ヨウナ」の「ヨウ」は岩を意味する語である可能性が高いということになっていく。こうして「ような」というのはイワスナ、岩砂、それ故にヤマスナのことであるという入間田さんの記憶にそって、一つの問題がつながっていった。本当にありがたい。

 ヨウナという用語は大部な方言辞典にも、他の辞書類にもでてこない。しばらく前の記事で述べたように、「ナ」という語彙が重要なだけに、この確認は一つの重要な蓄積であろうと思う。

平塚らいてう、つづき(3)

 らいてうの家(らいてう記念館)の館長をされている米田佐代子さんは、私の都立大時代の先生。半年ほど前の電話ではまったく変わりがないし、写真でみると御元気そう。らいてうを読んでいるというと、「保立さんがらいてうを読むの?」とからかわれるに違いない。いつか行ってみたい。

 自伝でも、この本でもでる、らいてうの「協同組合運動」との関わりも興味深い問題である。らいてうは、この問題を理論的にも相当につめて考えている。当時のアナキズムが協同組合運動という側面をもっていたことをふくめて、その積極的な意味を考える必要があることを実感する。私はW・モリスが好きになってから、「協同組合」というものを考えるようになった。これはいわゆる「アナボル論争」というものから考え直す必要があるということなのかもしれない。こんなことは近現代史家にとっては明らかなことなのであろうが、私は「アナボル」論争のことまで考えるのは始めてである。
 『元始、女性は太陽であった』を読んでいると、戦前の都市社会が一種の市民社会になっている側面が目に立つ。らいてうの協同組合運動との関わりは、その延長という側面もある。その意味では、戦前の市民社会のもった独特の豊かさと文化に対する評価は正確に行う必要があると思う。
 それが江戸期から連続するものであることも否定すべきではない。戦前社会を「封建社会」の一語で印象してしまうのは社会科学的にも問題ということは大塚先生もおっしゃっていた。しかし、その枠を越えるものに対する圧迫と緊張のレヴェルをみあやまってはならないと思う。日本の近代というものはそういうものだ。日本の近代をみるためには、らいてう、そして戦前社会、戦争への抵抗者を中心にものごとをみなければならないと思う。

 明治維新、さらには自由民権運動の「志士」たちに過剰に思い入れをするのは間違いである。その時代に、アジアのさきがけをして、植民地化の危機を乗り切る画期的な主体性を発揮し、経験をしたなどという歴史観は、日本が東アジアにもたらしたバランスシートの全体をみないという点で了解できるものではない。民権運動の中心人物もふくめて、彼らの行動はエリートの(あるいはエリートをめざす)行動にすぎない。出発点ではなく、1900年代以降に、ようやく時代の頂点を構成できるようになったとみなければならない。

 以下、歴史学の業界内部の話であるが、一昨日、届いた『日本史研究』には、宮地正人氏が、岩波新書の『日本現代史シリーズ』のうち、明治維新と自由民権運動の巻について厳しい批判を展開しているという特集があった。私は、そこで紹介された限りでは、どちらかといえば、宮地氏の意見には反対である。宮地氏の意見がわからない訳ではないが、私は、いわゆる明治維新や民権運動の運動家には共感をもたない世代である。その点で、明治維新と自由民権運動の巻の著者と同じ。私たちの世代にとっては、井上幸治『秩父困民党』がでてから、民権運動家の運動は庶民の政治利用であり、すぐに国権的なそれに転化するものであるというのは分かっているはずのことだと思う。ああいう運動ではない地下水脈を探っていくほかない、そしてそれをたぐり出していく原点は、1900年代以降に求めるほかはないはずである。らいてうを読んでいると本当にそう思う。

 あれは何で読んだのだったか、石川三四郎と福田英子のこと。高群逸枝の回想録で読んだのだったか。近代の社会運動を、福田英子、平塚らいてう、土方梅子などの自伝、そして宮本百合子の自伝的小説から見るという感じになっているのに気がつく。
 そして、男では河上肇だろうと思う。河上の「禅」から「経済学」への思想的営為は「日本」の土壌にそくして展開した近代では最高の達成であると思う。
 そう考えるようになったのは、20年ほど前、河上の自叙伝を読んでからのことで、らいてうの『元始、女性は太陽であった』を読んだのは、『かぐや姫と王権神話』を書きながらだった。この二冊を最初から受けとめていればよかったのであろうが、私も徐々に変わっている。

平塚らいてう(2)ー元始、女性は太陽であったか。

 らいてうの起草による『青鞜』発刊の辞は見事なものである。これはらいてうが文筆の人であったことをよく示している。しかし、私は、「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く」という冒頭の有名な一節の真理性には、歴史家として疑義がある。細かなことといわれるかもしれないが、らいてうが目の前にいれば正確に話してみたいことである。らいてうの文章は、日本の思想史にとって面とむかって考えるべき問題を含んでいると思うからである。

 考えてみると、月が「他の光」、つまり太陽の光をうけて輝くというのは近代の地動説にもとづく知識である。

 地動説をもって、「元始」の時代を考え、どうしても「太陽神」を中心に考えてしまうのは神話論としてはまずいと思う。そして、フェミニズムの問題を歴史から考える場合には、これは意外と重要ではないかと思う。

 それについてふれた著書の一節を下に引用しておく。

「広瀬のワカウカ姫と伊勢のトヨオカ姫などは、月神であると同時に、より地上的な富の神、農業の神なのである。どの国でも、月の周期的な満ち欠けは、再生と復活、不死の象徴となり、種蒔き、収穫などの労働の季節とテンポを決め、枯れては再生する穀霊の神、農業神となる。同時に、女性の身体の月毎の変化を導くものとして人間自身の不死と再生の象徴となり、そして人間の性行為や出産が大地の稔りの招来すると信じて行われるエロティックな儀礼に大きな影響をあたえる。月の女神「豊宇気姫」について「穀霊なり。俗詞に宇賀能美多麻。今の世に、産屋に辟木・束稲をもって、戸辺に置き、すなわち、米をもって屋中に散らすの類」(『延喜式』祝詞大殿祭)といわれるように、月女神=穀霊は、女性のお産を守る神でもあったのである。

 こうして、大地は、月の女神の光によって「母のような豊かさ」をもった一つの人格であるかのように感得され、地母神となる。広瀬のワカウカ姫と伊勢のトヨオカ姫がこの地母神としての性格をもっていたことは疑いを入れない。もちろん、東アジアで代表的な地母神は、中国古代の巨大な女神、女媧である。女媧は日本神話でいえばイザナミにあたる存在で、彼女らの巨大な肉体は大地そのものである。そこでは肉体の性と出産に表される生産力が、原始的な大地の豊壌と生産諸力とのダブルイメージになっている。それはこの時代の中国で流行していた西王母という月神にも引き継がれており、小南一朗によれば、彼女は、年に一度、冬に、太陽神・東王公と抱擁しあい、それによって宇宙が再生すると考えられていたという。宇宙の四つの方向を表す四神の内、北方・冬を表す「玄武」が蛇と亀のからみ合った奇妙な形で描かれるのも、冬至の季節の冷え切った宇宙(太陽)に再び活力をあたえるために、宇宙的な規模での性的結合が必要であると考えられたのだともいう(小南一朗一九七四)。

 日本における冬至の祭は新嘗祭である。この新嘗祭の後の豊明節会で天女、月の仙女の格好をして舞った舞姫たちが、しばしば天皇と共寝したことも同じことであろう。そこに、中国と同様、月の力によって太陽の力を復活するという考え方が潜んでいたことを示唆するのは、最初の人臣摂政として有名な藤原基経が、清和天皇の大嘗祭の五節舞姫に出仕した妹の高子についてみた夢である。彼女は、五節舞姫として出仕した後、若干の事情はあったが、結局、清和のキサキとして陽成天皇を産んでいる。その夢というのは、高子が庭にはだかで仰向になって、大きく膨らんだお腹を抱えて苦しんでいたところ(「庭中に露臥して、腹の脹満に苦しむ」)、腹部がつぶれて、その「気」が天に届いて「日」となったという生々しいものである(『三代実録』)。それは高子が清和のところに参上する前のことであるから、ちょうど大嘗祭の五節舞姫となった前後のことであったろう。つまり五節舞姫=月の仙女が、地上で裸体となって新しい太陽を産んだという訳である。

「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く」とは、平塚雷鳥の起草した『青鞜』発刊の辞、冒頭の有名な一節である。しかし、考えてみると、月が「他の光」、つまり太陽の光をうけて輝くというのは近代の地動説にもとづく知識である。それ故に、平塚雷鳥の真意を受けとめた上で、高子の横臥の姿から、さらにトヨウケ姫ーワカウカ姫ーイザナミとさかのぼっていくと、東アジアにおける日月の観念としては、むしろ「元始、女性は月であった。しかし、太陽を産む月であった」というのが正しいように思われてくるのである」(保立『かぐや姫と王権神話』、ただこの最後のパラグラフは枚数不足で一部削除したような記憶がある)。    

 「らいてう」と「高子」を通じて考えるということがあってもよいと思うのである。

2011年9月 1日 (木)

『平塚らいてうー孫が語る素顔』

 妻に勧められた、奥村直史『平塚らいてうー孫が語る素顔』(平凡社新書)が、たいへん面白い。現代史に興味をもつ人が現代を身近に感じるためには有用な文献の一つだろうと思う。
 110902_105556 奥村直史氏はお孫さん。家族から、らいてうがどう見えたかというのは、何といっても興味深い。らいてうは、引っ込み思案で、子どもにも、孫にも感情をはっきりとしめさず、「はにかみやで、声がでない」ことがしばしばであったという。らいてうが頭痛持ちであったことは『元始、女性は太陽であった』にも書いてあるが、そういう性格の背景があったということになる。若い頃の誇り高く美しい、らいてうの洋装の姿からは想像できないことである。この本には、1947年頃の、らいてうの痩せた面立ちを示す写真がおさめられているが、それをみていると、ここには、らいてうの性格ということのみではなく、戦争に進む社会の圧迫感があったに相違ないことがわかるような気がする。面痩せの様子が、少し似ている人のことを思い出す。
 110902_105501 らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』には書いてなかったように思うが、この本によると、らいてうは、電車にのっていて、見知らぬ他人から、「新しい女」と罵られて唾をかけられたことがあるという。そういう種類の緊張が日常的に存在したのだろう。その圧迫性は、やはり相当のものがあったのだと思う。らいてうが、「妻」「母性」としての面を強調することも、博史に対する愛着にしても、そういう社会との関係抜きには考えられないのではないだろうか。明らかに、博史さんは社会のおかげで得をしている。そして、子どもに対して自分の感情と意見の自由を抑えてしまい、できるかぎり表明しないという、らいてうの心理もそこから理解できるように思う。それは反戦の意思を固めつつあった広津和郎が最愛の息子・賢樹を「無菌状態」に置こうとしたという間宮茂輔の証言を想起させる。これは社会的な価値観との緊張関係が家庭の中に存在する場合には、多様な形で、しかし多かれ少なかれ存在することである。
 興味深いのは、晩年になっても、らいてうが、自分を行動に突き動かしたのは「禅」であると述懐していたということである。それは『元始、女性は太陽であった』にも書いてあって有名なことだが、この本からは、らいてうが自分の性格との関係で、晩年までそう考えていたということが家族の目を通してわかる。らいてうの若い頃の「見性」「回心」は有名で、これは思想史の問題として真剣な考慮に値することだと思う。しかし、私は、むしろ、「禅」がなくては、らいてうといえども、社会的な批判の圧力に耐えられなかったのではないかと思う。禅宗は、近代知識人にとっても、頼ることのできる存在だったのであって、らいてうは、その経験に自己像を求めることによって、批判に耐え、それを切り返す社会的な文脈をもちえたのだろうと思う。

それにしても、らいてうが、戦後は家事一切を息子・敦史の妻にゆだねていた。三世代同居ではあったが、らいてうと夫の博史の起きる時間も違って、家族は個人個人で生活していた。そのすべてにつきあい世話する敦史の妻のたいへんさは並大抵のものでなかった。そして、らいてうは「嫁」に甘えていたという。家族が、こういうことを記録してくれたことの意味は大きいと思う。これをどう考えるかは、まだまとまらない。
 

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