『歴史学研究』特集2
『歴史学研究』の特集号の続き。他分野で興味深かったのがアメリカの実情。平田光司「マンハッタン計画の現在」、石山徳子「原子力発電と差別の再生産」。前者はマンハタン計画の全体が分かり、勉強になる。後者は、ミネソタ州のプレイリーアイランドという、ミシシッピの小さな島に先住民に無断で立てられた原子力発電所の話。
アメリカ文化の最良のものは、M。トウェインのハックとウェーブスターの足長おじさん。それはもうないということがわかる。
『ご冗談でしょ、ファインマンさん』という本がある。これは岩波書店から何冊かのシリーズででた、原子物理学者の回想録で、面白いものではあった。しかし、ファインマンさんが頭角を現したのは、原爆の開発計画の中であって、どうもそれを考えると、素直には読めなかった。たしかに人のいい、典型的なアメリカ人であるが、少々舞いあがっているのではないか、この人は、という感じがあってなじめなかったのである。
ああいう、原子物理学者の舞いあがりというのは、学問の発展期、しかもそこに相当の金がそそがれ、野心的な人物が集まってくるという自然科学に独特な世界なのかもしれない。そして、そもそも原爆の開発というのは、そういう量子力学の発展の初期の熱中のようなものと、ナチスに勝利するという一種の正義感、軍事的必要とがからまりあって展開したのだと思う。
ともかくも、量子力学の軍事利用、核開発は、第二次世界大戦がなければ、あるいはナチスの異様な行動がなければ、あのような形では展開しなかったのではないかということを考える。これは風が吹けば桶屋がもうかるという類の話ではない。現実の世界史の動きにも、相当の偶然性をみておかねばならないということである。それにしても、こういう形で19世紀から、20世紀の世界史が個々人の運命に影響してくる時代という世界史のあり方は独特のものである。
私は、現代史をいつから設定するかという場合に、フランス革命からという考え方をとっている。日本の歴史学界では、一時、長くロシア革命からという時代区分をしてきたが、ロシア革命の実際上の根っこは、その暴力革命路線もふくめてフランス革命にあると考えるからである。25日の日曜日に、ある編集会議で話したのだが話したのだが、ロシア革命が19世紀ヨーロッパ史の結果であることはいうまでもない。そして、辛亥革命の崩壊とほぼ同時にそれが展開したことが巨大な影響をあたえた。だから、当時の「社会主義」の強力な影響力は、前近代王制の崩壊の一つの局面、コロラリーである。そしてそれが逆に前近代帝国に「社会主義」の側が逆規定される結果もまねいた。これは和田春樹さんの本を読んで考えたこと。
けれども、だからといって、19世紀末から20世紀初頭の時期の画期性を否定することは出来ないだろう。江口朴郎さんの現代の規定、つまり、現代とは、人々が世界を実際に、ある程度、客観的に意識して行動し始める時代のことであるという規定をとるとすれば、その開始は、たしかに、この時代になる。そして物質代謝の形態転換ということになれば、これは原爆の時代から始まる。
和田春樹さんがいう20世紀とは世界戦争の時代であるというのは、それらを含んでのことである。そのような問題をふくめて日本が第二次世界大戦の開戦に責任のあることを考えておかねばならない。そう考えると、日独伊の中で、日本だけが原発に固執しているというのは莫迦みたいな話である。
先日、近代史の安田浩氏がなくなった。我々の世代で亡くなる人はしばらくいなかっただけにショックである。長く御会いしていないまま。彼の職場は、千葉。すぐそばなのに会ったことがないというのが悔恨。近現代史の話をする余裕などない人生を送ってしまった。内容のあることを話したのはおそらく20年くらい前か。
私の大学はICUなので大学には日本前近代史の教師がおらず、教育大と都立大の大学院をうけた。受験のために友人を訪ねていったとき、ばったり御会いしたのが最初。結局、都立に行ったが、そのあと、廃学直前の教育大に家永先生の訴訟事務の手伝いに何度も通った。教育大も都立大もすでにない。あるいは少なくとも形を変えている。何ということかと思う。












『歴史学研究』の3,11東日本太平洋岸地震特集がでた。私も書いているが、平川新・矢田俊文・北原糸子・奥村弘さんの文章は、これまでの長期にわたる実践と研究をふまえているだけにきわめて説得的なものである。各地の歴史史料ネットワークの動向も頭が下がる。

帰京したら、写真を追加する積もりだが、『春日権現験記絵』には、火災で壁のみが残った土倉の絵が残されているから、『春日権現験記絵』のできた鎌倉時代後期には、こういう土蔵作りの仕方が確実に存在したことになる。現在は、建築学で、こういう蔵の作りを分析した仕事はあるに違いないが、30年ほど前、探した時には見つけられなかった。

日本でいえば縄文時代、縄文のヴィーナスのような像は世界各地ででている。
男性が女性に拝跪することを本質としており、エロス=母権制である。もちろん、そこには、原始的群団からの解放と個人性の発展があるが、社会組織は性的紐帯を基本とすることはいうまでもない。
いま肥田舜太郎氏と鎌仲ひとみさんの『内部被爆の脅威』(ちくま新書、2005)を読んでいるが、これはまさに核時代の本である。
こういう陸地の大岩壁について、長谷川氏は「村上市蒲萄字矢吹に横幅約120メートル、高さ約45メートルの大岩壁があり岩窟もある」という事例も紹介しているが、これは「岩に関わる地名を追ってきた」とおっしゃる長谷川氏の大きな発見であると思う。私は、(海岸の岩壁とあわせて)このような岩壁の様子が、大地の内部についての昔の人々の観念に影響しているのではないかと考えたい。
奥村直史氏はお孫さん。家族から、らいてうがどう見えたかというのは、何といっても興味深い。らいてうは、引っ込み思案で、子どもにも、孫にも感情をはっきりとしめさず、「はにかみやで、声がでない」ことがしばしばであったという。らいてうが頭痛持ちであったことは『元始、女性は太陽であった』にも書いてあるが、そういう性格の背景があったということになる。若い頃の誇り高く美しい、らいてうの洋装の姿からは想像できないことである。この本には、1947年頃の、らいてうの痩せた面立ちを示す写真がおさめられているが、それをみていると、ここには、らいてうの性格ということのみではなく、戦争に進む社会の圧迫感があったに相違ないことがわかるような気がする。面痩せの様子が、少し似ている人のことを思い出す。
らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』には書いてなかったように思うが、この本によると、らいてうは、電車にのっていて、見知らぬ他人から、「新しい女」と罵られて唾をかけられたことがあるという。そういう種類の緊張が日常的に存在したのだろう。その圧迫性は、やはり相当のものがあったのだと思う。らいてうが、「妻」「母性」としての面を強調することも、博史に対する愛着にしても、そういう社会との関係抜きには考えられないのではないだろうか。明らかに、博史さんは社会のおかげで得をしている。そして、子どもに対して自分の感情と意見の自由を抑えてしまい、できるかぎり表明しないという、らいてうの心理もそこから理解できるように思う。それは反戦の意思を固めつつあった広津和郎が最愛の息子・賢樹を「無菌状態」に置こうとしたという間宮茂輔の証言を想起させる。これは社会的な価値観との緊張関係が家庭の中に存在する場合には、多様な形で、しかし多かれ少なかれ存在することである。