『平塚らいてうー孫が語る素顔』
妻に勧められた、奥村直史『平塚らいてうー孫が語る素顔』(平凡社新書)が、たいへん面白い。現代史に興味をもつ人が現代を身近に感じるためには有用な文献の一つだろうと思う。
奥村直史氏はお孫さん。家族から、らいてうがどう見えたかというのは、何といっても興味深い。らいてうは、引っ込み思案で、子どもにも、孫にも感情をはっきりとしめさず、「はにかみやで、声がでない」ことがしばしばであったという。らいてうが頭痛持ちであったことは『元始、女性は太陽であった』にも書いてあるが、そういう性格の背景があったということになる。若い頃の誇り高く美しい、らいてうの洋装の姿からは想像できないことである。この本には、1947年頃の、らいてうの痩せた面立ちを示す写真がおさめられているが、それをみていると、ここには、らいてうの性格ということのみではなく、戦争に進む社会の圧迫感があったに相違ないことがわかるような気がする。面痩せの様子が、少し似ている人のことを思い出す。
らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』には書いてなかったように思うが、この本によると、らいてうは、電車にのっていて、見知らぬ他人から、「新しい女」と罵られて唾をかけられたことがあるという。そういう種類の緊張が日常的に存在したのだろう。その圧迫性は、やはり相当のものがあったのだと思う。らいてうが、「妻」「母性」としての面を強調することも、博史に対する愛着にしても、そういう社会との関係抜きには考えられないのではないだろうか。明らかに、博史さんは社会のおかげで得をしている。そして、子どもに対して自分の感情と意見の自由を抑えてしまい、できるかぎり表明しないという、らいてうの心理もそこから理解できるように思う。それは反戦の意思を固めつつあった広津和郎が最愛の息子・賢樹を「無菌状態」に置こうとしたという間宮茂輔の証言を想起させる。これは社会的な価値観との緊張関係が家庭の中に存在する場合には、多様な形で、しかし多かれ少なかれ存在することである。
興味深いのは、晩年になっても、らいてうが、自分を行動に突き動かしたのは「禅」であると述懐していたということである。それは『元始、女性は太陽であった』にも書いてあって有名なことだが、この本からは、らいてうが自分の性格との関係で、晩年までそう考えていたということが家族の目を通してわかる。らいてうの若い頃の「見性」「回心」は有名で、これは思想史の問題として真剣な考慮に値することだと思う。しかし、私は、むしろ、「禅」がなくては、らいてうといえども、社会的な批判の圧力に耐えられなかったのではないかと思う。禅宗は、近代知識人にとっても、頼ることのできる存在だったのであって、らいてうは、その経験に自己像を求めることによって、批判に耐え、それを切り返す社会的な文脈をもちえたのだろうと思う。
それにしても、らいてうが、戦後は家事一切を息子・敦史の妻にゆだねていた。三世代同居ではあったが、らいてうと夫の博史の起きる時間も違って、家族は個人個人で生活していた。そのすべてにつきあい世話する敦史の妻のたいへんさは並大抵のものでなかった。そして、らいてうは「嫁」に甘えていたという。家族が、こういうことを記録してくれたことの意味は大きいと思う。これをどう考えるかは、まだまとまらない。
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