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2011年9月22日 (木)

「荘園をどう教えるか」2 荘園制と地主

 たしか8月に書いた「荘園をどう教えるか」というエントリの続きである。
 そこでは、鈴木哲雄氏の『社会史と歴史教育』にふれて問題を論じ、鈴木氏が越後国石井庄の荘園史料を使用して、有力者が人々に種籾用に稲を貸しつけるということを教材化していることを紹介した。そして、そのエントリーの最後に、これを説明するのに『一遍聖絵』の常陸国の土豪の家の裏手にみえる「稲積」の絵画史料が有効ではないかと述べた。その追加説明である。
 Irtu_001 この画像は『一遍聖絵』からとったもの。常陸国の土豪の家というのが『一遍聖絵』の説明である。一遍上人が常陸国に行った時に、随行の尼が「女捕り」に会うなどの妨害にあったが、それを乗り越えるのに助力した善行によって、この家に「福」がもたらされたというのが、全体の筋書きである(「女捕」については拙稿「」(『物語の中世』)を参照されたい)。「福」は家の外側の溝の中から銭が発見されたということになる。
 この埋納銭の発見は事実としてよい、あるいは事実として観念されていたとしてよい。もしそうだとすれば、これは埋納銭の史料としても相当に古いものになる。鎌倉時代中期の常陸国でもすでに埋納銭があって、それがたまたま発見されることがあったというのは興味深いことである。鎌倉中期までの銭の流通度は相当に高いものとしなければならないと思う。
 真ん中にいる黄衣の男が、この家の主人であろう。注意したいのは、その右手にいて裸になって鋤をもっている男の腰に、ややこの絵では見にくいが、腰刀があり、その腰刀に腰袋がさがっていることである。男は、腰に網状の袋もまいているが、この中には弁当のような携帯品が入っていたのであろうかと思われる。それに対して腰袋には銭が入っている(参照、保立「腰袋と桃太郎」『物語の中世』)。
 ようするに、鎌倉時代の常陸国では地主的な有力者の家には埋納銭がうまっていることがあり、その家に仕える下男は銭を日常的に携行しているということになるのである。荘園制というのは、中央都市による農村支配のシステム、より具体的にいえば京都に集住している貴族が地方を支配する求心的システムであるから、こういう流通経済は必須条件である。
 ただ、ここでは、この貨幣流通の問題ではなく、この土豪・地主の家の後庭の風景に注目してみたい。つまり、むかって左側に二つ、右側に三つ、稲藁を丸く積んだものがみえると思う。これは『日本常民生活絵引』で宮本常一氏が説明をしているように、「ニオ」、「堆」というものである。
 これは稲束を竹柱のようなものを真ん中において、まわりに積み上げたものである。稲は穂付きの稲で、翌年の種籾である。この場面、雪がうっすらと積もっていることでわかるように冬景色で、ここに翌年の種籾が蓄積されているのである。いまでも、こういうニオをみることはできるが、それは藁を積んであるだけで、穂付きのものではない。ただもし近くでみることができれば御覧になればよいが、稲束を組み合わせて、積んでいく。この絵の様子だと、円柱の中心から周縁までは、稲が三束ほど組み合わされているのであろうか。こうして、穂の部分(種籾)は外気から保護されることになる。
 一応、「束」についても説明をしておくと、稲の根本を握ったものを「把」というが、それを一〇あつめたものを「束」という。貸し付け率のことを、「一割」「二割」などというが、「割」というのは、本来は「把利」と書く。つまり、「一束」の貸し付けに対して、「利」が「一把」の時に、「一把の利」=「一把利」というのである。
 問題は、このニオが全部で五堆で、どの程度の量の種籾になるかである。一ニオの束数は実験をしてみるほかないので、どなたか実験をして教えてくれるとありがたい。ニオを漢字では、「積」とも書き、その史料もないこともなく、論文で若干ふれたが、正確な試算はしたことがない。
 これだけの明瞭な画像があれば、鈴木氏の授業プランをもっと生かすことができると思う。
 そして、これが重要なのは、結局、「荘園制」社会の基礎には、こういう地主制が存在した可能性が高いからである。地方には荘園制支配をうけとめて、それを地域社会の側で支えるような地主の存在が必須であったと、私は考えている。
 もちろん、地主制はたんに荘園制社会のみならず、おそらく11世紀頃より以降になると、日本社会にとって本質的な構成要素となると思う。江戸時代から明治時代にも地主制の問題はきわめて大きな問題であったこともいうまでもない。だから、荘園制が地主によって支えられているというだけでは問題の解決にはならないのだが、しかし、このような地主の実像を、ともかくも平安時代末期から鎌倉時代におさえておき、子供たちに伝えることは歴史教育にとっては大事であるように思う。
    なお、この『一遍聖絵』の場面については、『絵巻物鑑賞の基礎知識』1995年、至文堂)で論じた。また、関連論文としては、「中世の年貢と庭物・装束米・竈米」(東寺文書研究会編『東寺文書にみる中世社会』東京堂出版、一九九九年五月)、「米稲年貢の収納と稲堆・斤定」(鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版、一九九九年五月)がある。

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