『歴史学研究』東日本大震災特集
『歴史学研究』の3,11東日本太平洋岸地震特集がでた。私も書いているが、平川新・矢田俊文・北原糸子・奥村弘さんの文章は、これまでの長期にわたる実践と研究をふまえているだけにきわめて説得的なものである。各地の歴史史料ネットワークの動向も頭が下がる。
私の文章は、このブログでいろいろ書いているので断り切れずに書いたというもので、若干、うわずっているという感じをいなめない。自分たちの世代の感じ方というようなことも書いてしまった。しかし、宣言してしまった以上、しばらく他の研究を放棄して、火山と地震の研究に集中することとしようかと考えている。
しかし、火山と地震の「神話」という問題が難物で、先週は『古事記』の神話の分析のところで、頭がとまってしまった。『古事記』の勉強など本格的にしたことはないのだから、これはあたりまえであるが、しかし、災害・自然・社会ということを考えると、神話論は重要だと思う。そして何よりも神話論がないと、8/9世紀の大地動乱の時代の史料が読み抜けないのである。来週、「古代史」の友人にレクチャーをしてもらうことにした。彼に聞いても、また先日、京都に行ったときに、本当に久しぶりにあった友人にあって聞いても、文献史学の側で神話の研究をしている人は、ほとんどいないということ。これはいったいどういうことだろう。 しかし、うまく筆が進まない理由を今日の朝の電車の中で考えた。ようするに『古事記』というのは神話文学としてはたいへんによくできたもの。本当に面白い。できすぎているのかも知れない。これだけの文学ができたというのは信じられない気もする。だから振り回される。これは逆に文学であると思い決めてやった方がよいのかもしれない。その神話的構想力が内容としては『竹取物語』に実に続いているように思う。などなどと考えている。 今日は一日、ディスプレイ仕事。左腕の調子が悪く、右手だけの入力で疲れた。一日やっていて視野がぼっとしてきた。今の和紙研究のデータベースシステムに、古いデータを整形して積み直すという仕事。データの整形が適合しないというのは、5年前の自分を罵りたくなる。さきの見通しのないコンピュータ駄目人間をやっているのは、本当に嫌になる。しかし、これで二日かけて、ともかくメノコ仕事が終わった。あとは積み込みがうまく行けばいいのだが。
ともかく古典的業績のいくつかと、法制史の水林彪氏の『記紀神話と王権の祭り』を参考にしてやっているが、文献史学の現状の水準がわからないというのは困っている。
古事記が政治的に作り出されたイデオロギー的な創作物であることはいうまでもないが、それが創作であることの第一の意味は文学ということにあるように思う。そしてある意味では文学でしかなかった。そういうつき合い方でよいのかもしれない。