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2011年9月10日 (土)

世界不思議発見とマリヤ・ギンブタス

 わが家の人気番組は、実は、「世界不思議発見」という土曜日のテレビ。今日は、尼子騒兵衛の忍タマ乱太郎の長い漫画があって、そちらはさすがにみなかったが、お陰で「世界不思議発見」の最初のところは見逃した。
 さきほど見終わったところ。

 「世界不思議発見」のような番組がある状況の中では、歴史家の仕事が魅力的なものになるのは、むずかしいというのが、私の持論。とくに世界史については、歴史家は追いつけない種類の豊かな情報がでてくる。これは歴史の教師にとってもつらい話だろうと思う。
 今日の番組はギリシャ特集。アルテミスの貨幣の話が最初で、最後はトルコアナトリア高原のチャタルホユック遺跡の詳細な実況がでてくる。便利なもので、ネットワークから今日の番組の予告記事をみると簡単な説明がでてくる。それを参照して紹介すると、この遺跡は、人類が農耕を始めて間もない頃、9500年も前のものだという。そして、7500年前には、3000軒(正確な数はメモしそこねた)ほどの住宅が密集した集落が形成されているという。その住居跡などから50近い太古の女神が次々発見されたということで、この遺跡の研究施設の展示の様子がでてくる。
 ここで「あっ」ということで座り直す。最近のエントリで、世界史について、異文明(Barbarei)段階での支配的なイデオロギーはエロスであると論じたが、それを象徴する女神像が並んでいる。そこにでてきた二人の考古学者(女性)は、農業村落においては生産の中心は女性であって、豊饒の神も女性であると説明する。豊満な姿態のテラコッタの女神像がいくつか紹介される。性行為そのものを示す像と、その結果として生まれた女の子を母がだいている像が並ぶ塑像もでてくる。それこそ女神とみまがう豊満な姿の考古学者が、「男は性行為をおえれば用はないのよ、大事なのは子供をそだて、小麦をそだてること、豊饒を象徴する果物はザクロ、今でもトルコではザクロが大事で、豊饒の儀礼として、それを門口にたたきつけて割る。今年、私も力一杯たたきつけたわ」などと説明してくれる。
1199p081  そして、その後にでてきたのが、王座に腰をすえて出産し、足の間に女児を生みだしている地母神の像である。TBSのHPから画像をとった。その説明では、「なぜ女性が神として崇められるようになったのか、ついにその謎を説き明かす女神を見た時のことを、「これはもう衝撃でした!」と語る岡田さん。明らかになる女神誕生の謎…、そして女神に秘められた遠い人類の記憶とは?ぜひお見逃しなく!」とある。岡田さんという人は、「ミステリーハンター」。そしてたしかに、これはもの凄いものである。マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(鶴岡真弓訳、言叢社、1998年。原書の改訂版1982年)にでてくる地母神の塑像そのものである。これは衝撃であった。
 本の印象だともっと大きなものであったように思う。豊かな胸・腰・尻、そして両脇には豹をおさえつけている。ギンブタスの説明を細かくはおぼえていないが、この像の説明のみをとれば、それよりもさらに臨場感がある。この遺跡にとって猛獣の脅威が大きかったことを住居の入り口は、天井に狭い戸口があるだけ、という遺跡そのものの画像で説明してくれる。これではイメージの鮮明さの問題だけでは、歴史学はとてもかなわないと思う。
 その意味でも、歴史学は、論理と全体的な歴史像のレヴェルで負けないように頑張らねばならないのだろうと思う。

 「人間の感情や感覚それ自体が、現代とは大きく違う野性的なものとかんがえねばならない」というのは歴史家にはよく知られたマルク・ブロックの言葉であるが、原始時代における人間の感覚と感情は、ブロックが対象とした中世・近世よりもはるかに理解しにくいものであったに違いない。原始人の表象は容易に彼の心からぬけだして、外的でしかも物質的でない実在性をあたえられる。そこには彼らの感情と意識が直接に動物的な群団の要素を残していたのではないかということが疑われる。それが現代人とは異なる脳科学的な気質性、少なくともそれが幻覚・幻聴・夢幻などの集合表象に強く浸されやすいはずである。

 私は、これはエロスとペルソナ(仮面)の問題であろうと考えている。ペルソナとは一面で、自己の肉体の手段化であり、目的意識性の表現である。「人間は自己の像に似せて神の姿を作り出す」という場合に、同時にそれは自己の抽象化であり、空無化であることを考えねばならない。これはバタイユが「エロティシズムはとりわけ、労働の歴史と分離して考察することができない」(G・バタイユ『エロティシズム』まえがき)という意味でのエロティシズムと同じ論理であって、エロスの運動は、一方で、目的意識性が身体自身にむかうことによって、肉体の目的意識的な操作=具体的有用労働の世界の基礎となる。と同時に、抽象的なレヴェルでは、エロスはペルソナを作り出すのであろうと思う。そして、ペルソナこそがこれらの塑像(芸術)と肉体を媒介するものであるはずである。エロスとタナトス。死の自覚、眠りの自覚と性の関係は、もっとも直截な形で、ここに現れる。
 新石器時代におけるもっとも理解しやすい遺物は、このようなエロティシズムを示す多様な遺物であり、これは真剣な検討に値する問題であると思う。
これを十分に論理化できている訳ではないが、この時代に一般的な集団所有はペルソナの形式を共有することが条件である。しかし、ペルソナそれ自身は個人の所有である。それは肉体の自己所有の表現であって、逆にいえば、肉体の所有も拒否される存在としての奴隷は、集団的なペルソナの共有の中で、自分のペルソナをもてない存在である。大田秀通氏が、奴隷を共同体をもたない存在であるというのは、そのような意味でとらえられねばならないと思う。彼らは、ペルソナをもった上での、その背後での孤独をもてない存在である。
 別の言い方をすればg、ペルソナは、社会的役割の肉体化であって、それをつけるということは、物としての仮面をつけるということのみでなく、その背後で人間が表層筋肉の仮面を作り出すこと、つまり表情というものを持ち出す。それによって社会的役割を意識しだすということであるはずである。ようするに、どのような意味でも、このエロスー労働ーペルソナー「芸術」を形成する運動が貫く時代が原始社会なのである。そして宗教とは、神話とは、この物的なペルソナを芸術を第一の形式とし、さらにペルソナの着脱の儀式を第二の形式とするものであると思う。しかし、その宗教の対極につねに存在し、しかも宗教の究極的な内容を構成するものが、ペルソナを脱ぐ行為としてのエロティシズムであるというのがバタイユがいいたかったことであると思う。
 いうまでもなく、資本主義は、ペルソナの付け替えを強要される社会である。つねにロドスで飛ばねばならない。それをリルケは(『マルテの手記』であったか)、「両手で顔をおおった男が、急に顔を上げると、その両手には、仮面=肉顔が張り付いていた」というように表現していたと思う。私は、未来社会は人間にとっては、ようするにペルソナからの解放であろうと思う。それはペルソナの肉化、ペルソナの柔軟化であって、それによって社会と個人との新しい関係が形成されるはずのものであると思う。

 さて、ギリシャと地中海には私はいったことがないが、この地域の元始を考える基準にしているのは、太田秀通先生の仕事である。そして太田先生の初心を知るのには、先生の最初の経験記である『地中海文明印象記』がよい。この本を、私は校倉書房の山田さんからいただいたのだが、その24頁にエジプトにふれて「この巨大なものをつくった人間の心理がどうしても解せない。どういう精神構造があれば、こんなものが作れるのか。古代人の心の中には、20世紀の論理では捕らえ尽くせない、何かひどく大きな洞窟かなにかがあったに違いない」とある。確かに、ここにいるのは「異人」なのであろうと思う。生物学の基準のうえでは、つまり身体組織の上では、原生人類であったとしても、頭脳の動きが現代人とはまったく違う構造と知識をもった人間。

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