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2011年10月

2011年10月24日 (月)

火山地震48吉野ヶ里遺跡と火山雲仙

 朝の総武線。昨日日曜は奈良女で講演「古墳と神話と火山」。土曜日、新幹線、名古屋駅あたりでレジュメを書き上げ、夕方、渡して用意をしていただく。さすがに疲れた。
 講演は火山神と「日本」神話についての私見を全面展開という感じのものとなり、お聞き苦しかったのではないかと思ったが、研究者にはおおむね好評で、とくにご一緒した北條芳隆氏の講演とは期せずして一致点が多かった。
 北条氏の講演は内容は多岐にわたるが、とくに驚いたのは、肥前国吉野ヶ里遺跡の遺跡配置が火山雲仙岳にむけて一直線になっているということ。これは考古では有名な話しなのだろうか。これは「火山噴火や噴煙との関連づけがともなった可能性がある」というもの。しかも、北条氏の講演では他の例の説明もされ、火山と遺跡、前方後円墳との位置関係の指摘とあわせて火山国家説にとって緊要なものであった。

 帰りの近鉄で北条氏にいたただいたパンフ『古代史論争』(古代史サミットin伯耆、2011、10月)に、北条氏の講演が掲載されており、この問題の大要がのっているのを確認したのでブログに記してもいいだろう。吉野ヶ里では、「墳丘墓ー立柱ー掘立柱建築物ー北内角大型建物ー祭壇状方形マウンドー雲仙岳」というほぼ南北の配置が確認でき、このような山を起点とした直線配置は北九州に多い。そして、それが纏向遺跡に持ち込まれたというもの。会場では、立柱こそ、タカミムスヒ、高木神ではないかと発言した。

 講演というのは、実際に語るということで、歴史学のように文章を書く仕事のものにとっては、つねに独特の経験である。蚕が体内に蓄えた糸をゆっくり吐き出していくというような経験である。そもそも昨年『かぐや姫と王権神話』を書くまでは、まさか自分が神話や古墳の話をしようとは思っていなかっただけに、例によって微音で話すということになる。そもそも、脳内と、音声と、言葉と、そしてこのPCの中に入っている、ここ1月ばかりの思考作業のメモとの相互間の微妙なずれを感じながら話す。しかも、聴衆に御理解をいただけているかどうかを見ながら話すということで、自分の立ち位置を実感しながら話す。

 関西は東日本太平洋岸地震と原発震災による緊張が少し緩いような気がしていたが、主催者の側の話を聞いていると、そういうことではないようである。やはり相当の重さがある。地震火山の研究をしようとしている意図のようなものが自然に伝わったかもしれないと思う。


 講演をしながら考え直したこととしては、イザナキの禊ぎで汚れから生まれる神々の中に女神が登場することの意味であった。彼女らは掃除をする女神である。その最大の神格は、「根国・底の国の速佐須良比咩」であって、彼女がすべての汚れを「持ちさすらひ失ひてむ」ということになっている。その史料を読んだら、ほぼ自動的に、ここにはいわゆる性別役割分担のシステムとイデオロギーがあって、それは神話の時代から現代まで続いているのかもしれませんという言葉がでてきた。これこそ自分のイデオロギーかもしれない。一種の自動思考である。
 汚れが、黄泉→山→川→海→海底→地底と廻るというのは、当時の神話的知識の枠内での水循環の認識であるということができようが、その中に、すでに、こういう論理が孕まれていることをどう考えるか。男女間対立は、歴史社会の構造にとって本源的な意味をもつ。それが同じく講演をした小路田泰直氏の表現では「自分は楽をしようとする」という感情的イデオロギーの基本であるだけに、これが神話に論理化されていることをどう考えるかは、いわゆる地母神をふくむ女神論の基本問題となるのだと思う。
 女性と掃除と箒という論点は、以前、『物語の中世』におさめた「天道花」の論文で考えたことである。速佐須良比咩から「箒」へという問題群がありそうに思う。そして、速佐須良比咩は鎌倉期以降は、地獄の「三途婆」に習合していくから、後々まで続く問題なのだと思う。

2011年10月18日 (火)

地震火山47東大の海洋アライアンスでの講演要旨

【報告】海洋アライアンスシンポジウム第6回東京大学の海研究「震災を科学する」(2011/7/14)

下記に東大の海洋アライアンスのアライアンスのシンポジウム「東京大学の海研究「震災を科学する」のページのコピーを載せた。下記がURL.このページに講演レジュメものっています。http://www.oa.u-tokyo.ac.jp/activity/2011/09/62011714.html

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報告:海洋アライアンスシンポジウム

第6回東京大学の海研究「震災を科学する」

2011年7月14日(木)10:30から,農学部弥生講堂で標記シンポジウムが行われた.海洋アライアンス主催で毎年この時期に行われる同シンポジウムは本年で6回目を迎える.

総合司会木暮教授(大気海洋研究所)の司会で始まり,最初に福機構長の浦辺教授(理学系研究科)から挨拶があった.第1部ではまず,平田教授(地震研究所)が今回の東北地方太平洋沖地震の震源の面積と滑り量が格段に大きかったこと,例えば,陸域において最大1.2 mもの沈降,最大5.3 mもの東方への水平移動が数分間のうちに起こったこと,海底における地殻変動に関しても 東方へ40 m以上移動したことなど,その桁外れに巨大な地震の実態について解説した.

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会場の様子.質疑に答えるのは古村教授.

古村教授(情報学環総合防災情報研究センター/地震研究所)は,東北地方太平洋沖地震に伴う津波の実態に関して,主に,詳細な数値シミュレーションの結果に基づいた解説をした.特に,東北沖に設置されていた海底ケーブル津波計によりキャッチされた波高5 m以上の巨大な津波波形を再現するには,広範囲にわたって連動した地震とともに,それらの震源域の沖合の海溝付近で津波地震が発生したことを仮定する必要のあり,この観点から,南海道地震に関しても,1605年慶長地震級の地震(M8.2),1707年宝永地震級の地震(M8.6)の同時発生,さらに,それらの震源域の沖合の海溝域において津波地震が連動することで,超巨大津波が発生する可能性のあると指摘した.さらに,今回の甚大な津波災害の一つの教訓として,今後は津波の事前予測よりは,津波発生直後警報に力を入れていく必要性のあることが強調されるとともに,その正確な警報発信に向けた次世代津波防災システムの一端,例えば,海底ケーブル津波計による津波実態の早期把握とその波形データを津波シミュレーションに同化させる計画,また,スーパーコンピューター「京」を用いた「地震動,地殻変動,津波」の融合数値シミュレーションの計画が紹介されました.

午後の第2部では,まず,理学系研究科の池田安隆先生に,地質学的な時間スケールの観点からの東北日本島弧-海溝系の長期的な歪み蓄積過程から見た地殻変動の実態を紹介して頂きました.今回の東北地方太平洋沖地震では,深さ50 km以浅のプレート境界域のみが破壊を起しており,それ以深では破壊は起こっていないこと,その深いプレート境界域では今後大きな余効すべりが継続することで,約10年の時間をかけて歪みが徐々に解放され,これに伴って,東北太平洋岸は10年程度の期間をかけて隆起を続けていくであろうとの予想を紹介して頂きました.

続いて,生産技術研究所の中埜良昭先生には,インドネシア・スマトラ島沖地震津波および東北地方太平洋沖地震津波による建物被害に関する実地調査結果のとりまとめと,そのデータに基いて行った,破壊時耐力に関する既存の実験式の有効性の検証結果を紹介して頂きました.

新領域創成科学研究科/大気海洋研究所の芦寿一郎先生には,南海トラフの深海底における様々な断層活動,例えば,地滑り・重力流,崩落堆積物,振動変形,断層変位,湧水活動などに関する定量的な推定手法を,地球深部探査船「ちきゅう」を用いた興味深い深海観測の映像を交えて解説して頂きました.

第2部の後半では,まず,史料編纂所の保立道久先生に,貞観大津波に関する古文書を紹介頂き,その情報から今回の東北地方太平洋沖地震津波との比較を通して,差異/共通点を解説して頂きました.特に,歴史資料を辿ることによって解明された結果に基づき歴史常識を見直すとともに,それを科学化していく必要性があること,その意味で,今後は,文理融合型の研究を推進していく必要性があり,それが将来の防災を考えていく上で必ず役立っていくはずとの提言をして頂きました.

最後に,サステイナビリティ学連携研究機構の福士謙介先生には,今回の東北地方太平洋沖地震津波による東北各都市における上水道および下水道への被害状況とその復旧に向けた現在の状況を紹介して頂きました.特に,今後の有望な防災対策として,自立型水再利用システムの紹介をして頂きました.

総合討論では理学系研究科の日比谷教授が座長となり,会場からの質問票に講演者が答える方式で進行した.参加人数は約170名と例年に比べ少なかったが,各講演者と会場との間では密度の高い質疑が行われた.

地震火山46白頭山の噴火と広開土王碑文

 先日のTBSの報道によれば白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われているという。
 先に詳しく書いたが、陸奥沖海溝地震は八六九年。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
 東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
 私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。
 この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
 もとより、この史料の成立年代はくだるが、噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろう。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。原文を引用する。


 惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)


 このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。

 『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないようであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である。ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
 さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
 火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。

 以上、あるところに出した原稿で、すぐに出版なので、ここにも掲載することとした。この種の問題についてはそうさせていただいている。

 なお、昨日、東洋文庫の展示部分の開館があり、行ったところ、広開土王碑文の拓本の展示があった。印象を新たにした。その他、六義園にいったあとでも寄る十分な価値がある。やはり一番印象が強かったのは、孫文関係史料であったろうか。丁寧な展示でご苦労がよくわかる。

2011年10月12日 (水)

地震火山45地震火山神話論の講演、奈良女で

 来週は奈良女子大学での講演が入っている(2011年10月23日(日)午前10時~午後3時,奈良女子大学大学院棟(F棟)5階大会議室)。考古学の北條芳隆さんと奈良女の小路田さんと。講演会のビラでは、私のテーマは九世紀の陵墓からみた古墳ということになっているが、それは、若干であれ『かぐや姫と王権神話』にも書いたことなので、必要な限りでふれることにして、この一月ほどやってきた神話論の話をさせてもらう積もりである。
 ともかくも、一応、骨だけはできたので、その目次をラストに掲げておく。
 以下は、その地震噴火神話論の前振りのようなもの。こういう前振りがないと、仕事ができないというのは困ったものだが踏切台のようなものなのでやむをえない。

 神話論の方法と九世紀の噴火地震史料
 八・九世紀の地震と噴火の史料にはしばしば神話世界が表現されていることが明らかとなった。こうなると、これらの史料を正確に読み込むためには、『日本書紀』『古事記』『風土記』などに描かれた神話世界の研究を参照する必要がでてくる。
 ところが、実際に、神話研究の状況を点検してみると、地震と噴火の神話という観点の研究はいくつかの古典的な仕事をのぞいて歴史学のみならず、神話学・文学研究などの分野をふくめてまったく存在しなかったことに気づく。現実の歴史社会において地震・噴火が甚大な影響をもっていたことがほとんど認識されていなかった以上、それに対応する観念の世界の研究が無視されるのは当然のことであったといえるのかもしれない。
 しかし、これはやはり驚ろくべきことである。現在、歴史学の側には、『日本書紀』『古事記』の描く神話世界を正面から考える仕事それ自体がほとんどなくなっているのである。もちろん、過去にさかのぼれば、歴史学の側での神話研究の過去の蓄積は相当のものがあり、それは現在でもよるべき古典的な仕事となっている。しかし、それはほぼ三〇年以上前のことであって、その後、神話を研究する「古代史」研究者はほとんどおらず、また神話を正面に掲げて論ずる学術論文もほとんどなくなってしまった。
 これは第一に、研究者の側に、神話についてはもう研究すべきことはない。研究する価値のある論題は、古典的な研究によってすべてカヴァーされているという判断あるいは感じ方が一般化しているためである。また研究の精緻化とともに、神話の政治的・文学的なフィクションとしての性格が強調すればすむかのような傾向が強くなったようにも思う。もちろん、神話のフィクション性を詳細に明らかにするのは神話研究の基本であるが、しかし、そのフィクションが全体としてどのようなもので、どのような現実的影響をもったのかを論じるというところに踏み出る研究は少なかった。こういう中で、知らず知らずに、神話のもつもっとも自然的な側面、自然神話が等閑視されるという伝統ができてしまったように思う。自然神話にもフィクションの要素があることはいうまでもないが、地震・噴火が自然神話の研究においてはもっとも基礎的なものであるから、そのような傾向の背後には、実際には、神話の研究はむずかしい冒険で、従来以上の確実な成果によって報われることはないだろうという保守的な研究心理があったのではないかというのが、私などの疑いである。
 しかし、本来、「戦後歴史学」的な「古代史」はもっと豊かなものであったはずである。石母田正の神話論に関わる諸論文は、見事なものであって、石母田が、『古事記』注釈の仕事において、文化人類学や言語学の研究者との共同研究を組織しようとしたことはよく知られている。私などの研究者世代だと、その意味でも、この共同研究が、石母田の疾病によって未発に終わったことのマイナスの影響を実感する。もし、それが実現していれば、三品彰英・松村武雄・岡正雄・大林太良・吉田敦彦と続く神話研究の伝統と歴史学の関係は異なるものとなっていたかもしれない。そんなことをいっていても仕方がないのはいうまでもないが、そこまで立ち戻って状況を検討する必要があると考える。
 第二の理由は、歴史学の研究があまりに細分化して、総合的な広い視野、そして長期にわたる通史的な見通しが必要な神話研究のような研究分野にまで手が届かないという点にあるのだと思う。そもそも神話研究にあたっては、縄文・弥生の時代から古墳時代、さらに畿内王権の時代から律令王国の時代(奈良時代)にいたるまでを俯瞰的に展望しようと云う意思が必要である。そして、それのみでなく九世紀の神話史料の点検が必要であり、さらに、その実態を推論するためには、鎌倉時代に形成されたいわゆる「中世日本紀」「中世神話」の世界にいたるまでの知識が必須となる。
 まず考古学は、縄文人・弥生人のもった世界観に対して強い想像力を発揮しながら、たとえば森浩一氏なぞをのぞいて『日本書紀』『古事記』を史料として読み込むことに消極的であり、記紀神話の世界にはいよいよ踏みこもうとはしない。そして、現在の「古代」文献史学は、「律令国家」の段階では神話的な社会意識は過去のものとなったという見方をとっているのではないかと思わせる。そして「中世史」研究の側でも、文学史的研究の成果を援用しつつ、鎌倉時代に形成された「中世日本紀」「中世神話」の世界が、記紀神話とはまったく異なる、密教や陰陽道の圧倒的な影響の下で、怪奇・混沌・異貌の世界となっていることを強調することが多い。こうして、八・九世紀の神話研究は、その間の真空地帯のようになってほとんど真剣な顧慮の対象外となっているのである。
 しかし、神話というものは、きわめて長い生命をもった知識とイデオロギーの体系であることは紛れもない。たとえば、イタリアの歴史哲学者、B・クローチェは「(中世の到来とともに)人々は、あの古代的歴史家があの通りすでに解決し去ったところの神話と奇蹟との世界と、その一般的性格においてはまったく同一としか見えないところのある神話的・奇蹟的世界にまたあらためて再会する」いったことがある(『歴史叙述の理論と歴史』岩波文庫、二二八頁)。歴史家にはよく知られているように、黒田俊雄氏が、このクローチェの言葉を援用しながら、「中世は第二の神話の時代である」「神話は、いつでもそうだが、宗教よりは文学として発展した」などと指摘したのは、もう五〇年も前のことである(「中世国家と神国思想」、『黒田俊雄著作集』④、一九九五年、法蔵館、原論文は一九五九年)。常識からいっても、「古代」から「中世」にかけて「神話」が解体して連続性を失うなどというのは信じられない感じ方である。必要なのは連続性と変容の両方を過不足なく明らかにすることであるはずである。しかし、一時期はきわめて当然のことであった、このような方法的・一般的な了解は、その力を失っている。
 第三の理由は、やはり思想的な問題ではないかと思う。ようするに歴史学者もふくめてのことであるが、人々は神話などに興味がないのである。深刻なのは、それが世界観的な問題には興味はないということとイコールであるように思えることである。今回の東日本太平洋岸地震・原発震災についての社会の反応をみていると、その感が深い。そんなにこの社会を信頼していたのか。信じられないということになるが、これは、奈良への電車の中で、三木清の『構想力の論理』の神話論の部分をノートを取りながら考えるつもり。いまみたら、何本も線が引いてあるが、三木が全体として何がいいたかったかのノートがない。

火山国家と始源の地霊
神話論の方法と九世紀の噴火地震史料
(1)タカミムスヒと地震火山神話 
   (イ)地震火山神話と天地分離神話
   (ロ)隠れた天界の主宰神ータカミムスヒ
   (ハ)火山神・タカミムスヒと高千穂への降臨
(2)イザナキ・イザナミの国生と火山 
   (イ)国土創成神話と陰陽の道
   (ロ)国生と地母神、火山の女神
   (ハ)火の女神・オオゲツヒメと月夜見尊
   (ニ)火山の暴神・カグツチと地母神・イザナミのミホト
(3)地母神イザナミの富 
   (イ)地母神イザナミの富と金山
   (ロ)「屎=埴=粘土・陶土」と鍛地
   (ハ)「和久産巣日神」と「豊宇気毗売神」
(4)男神イザナキの黄泉国訪問と火神・水神
   (イ)カグツチの殺害と雷神
   (ロ)イザナギ・イザナミの物語と黄泉国
   (ハ)イザナキの禊ぎと海の神々の誕生
(5)スサノウの謎ーー祓禊神・地震神
   (イ)アマテラス・ツキヨミ・スサノオの誕生と「泣きいさちる」
   (ロ)海と水と穢の神ースサノオと牛頭天王
   (ハ)地震神・スサノオのエロスとタナトス
(6)根の堅州国と鍛冶・火山・出雲
   (イ)根の堅州国とは何か
   (ロ)根の堅州国と鍛冶神ヴァルカン
   (ハ)出雲の火山と大国主命
   (ニ)地霊オオナムチの「琴」とスクナヒコナの「硫黄」

2011年10月 9日 (日)

『竹取物語』と神道

 昨年8月30日に「『竹取物語』の不審本文」という記事をあげた。

 それを書いている途中で、やはり、文学テキストの編纂、テキストクリティークは論文にしてから発表した方がよいと考えて、途中までしか、書かなかった。もちろん、私案にもとづくテキスト校訂は、『かぐや姫と王権神話』の巻末に掲げてあるのだからかまわないようなものかもしれないが、なにしろ『竹取物語』という重要なテキストで他分野の研究者の研究素材である。ブログで論文のようなものを書くのは遠慮した。

 ただ、さいきん、それについての文章をかいて、もう一定の時間がたったので、ここでも公表してしまう。

 国文の方からは、ありうる校訂という御意見をいただいたことはあるが、どう評価されているかは不明。ただ2年たって大きな異論がないというのは、それなりの意見ではあるのかもしれない

「『竹取物語』と神道」
 『竹取物語』と神道という問題の立て方は、これまでほとんど存在しなかったと思う。これは文学研究においても歴史学研究においても、神道という側面からものごとを考えることが一つのタブーになっていたことの反映ではないだろうか。それは折口信夫の仕事を、彼の神道者としての思想とは別のところで利用するやり方にもあられているように思う。
折口の神道論と「忌み」
 折口は「日本の神道で最大切に考えていたものいみ」とは「ものがなる為には、ぢっとして居なければならぬ時期がある」ことの自覚であると述べたことがある(「霊魂の話」全集三)。この折口の指摘を手がかりとして、『竹取物語』の内部に反映している神話世界の諸相を追っていくと、八世紀から一〇世紀にかけて、つまり奈良時代から平安時代初期にかけて、神話的な心意が折口のいう神道の「忌み」の心意に移行していく様子をたしかに知ることができる。もちろん、そこには「忌み」の外側の世界の無視がある。逆にいえばそこに実現される「清浄」とは、武士ー下人・非人の構成する暴力的なシステムによって「穢」が処理されるという赤裸々な実態があったというべきであろう。『竹取物語』が武士とその家人の姿を描いた最初の物語であることの意味はなまなかなものとは考えられない。
 しかし、そこには明治の国家神道のような強ばった形式性はうすく、歴史学と文学がともに分析の対象とすることが可能な人間性の世界が露頭しているようにも思うのである。私は、このような『竹取物語』の読み直しは、意外と深いところで、平安文学の読み方に影響するのではないかと考えるのであるが、それは最後にふれるとして、まずテキストから論じていきたい。
『竹取』の「不審本文」と「十六所祈祷」
 よく知られているように『竹取物語』には「不審本文」というものがある
が、その中でも理解が困難とされているのは、車持皇子の段に出る二つであろう。その第一は車持皇子が蓬莱島に到着した時に「我が名はうかんるり」といったという部分である。これは、従来、たとえば「宝冠瑠璃」の間違いであるなどといわれてきた。しかし、これは「『我が名は若翁(わかんどうり)』と云ひて、ふと山の中に入りぬ」(「俺は王子」だと名乗ってすぐに山の中に入った)と読むべきであると考える。もしこれが正しいとすれば、これは知られる限りでは若翁という用語の九世紀での唯一の例であって、王権論にとってきわめて重要な発見である。
 難解とされる第二の不審本文は、やはり車持皇子の段、彼が蓬莱の玉枝を偽造しようとして、密かに鍛冶工を集める場面の次の一節であろう。
垣を三重にし籠めて、皇子も同じ所に籠り給ひて、知らせ給ひたる限り十六そをかみにくどをあけて玉の枝を作り給ふ。
 この一節の冒頭の部分は、どの写本でも「かまとを三重にしこめて」とあるが、これでは意味が通らない。これについて、内田順子氏は論文「偽玉の枝作りの工房ーー『竹取物語』の本文と解釈」(『国語国文』六五-一)で、「かまと」は「かき」の誤写であるとする。たしかに「ま」がきわめて細い字で、「と」の下部の屈曲があったとすると「き」でよい。「しこめる」というのは垣根を作って囲むという文脈で使われる(『源氏物語』に他の用例)もので、その目的語として「垣」の方がふさわしく、「三重の垣」という言い方も『宇津保物語』にある。隠れ家のまわりに垣を三重にするというのは、文脈にぴったりである。これは見事な校訂で、鉄案であると思う。
 そうだとすると、問題は後半の傍線の部分で、これまでたとえば、「領知する限りの十六所の荘園を」などと解釈されてきた。しかし、この時代を専攻する歴史家には、「十六」といえば、「十六所祈祷」が思い浮かぶ。「そ」は変体仮名の「所」が使われているので、「十六所」でよい。そして、「十六そをかみに」の「を」を目的格の「を」と読まず、「をかみ」を「拝み」と読めば、「知る限りの十六所拝みに」となり基本的に話が通ずる。そして「くど」は「竈突」。『名語記』は、家の竈神のそばにあける煙出をいうとあるが、ようするに「竈突=煙出」である。神に祈るためには、煙をあげなければならないという考え方は古くからあるので、まさにそれだということになる。
 以上は、昨年出版した『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)という新書の巻末に『竹取物語』の全文翻刻を乗せる作業をする中で考えたことである。その当否について御検討願えれば幸いであるが、もし、これでよいとすると、これは、平安時代の宮廷神道の成立にかかわるたいへんに重要な発見となる。「十六社祈祷」とは伊勢を除くと大和・山城の有名神社に対して行われた一種の集合祈祷のやり方である。ところが、従来、十六所祈祷の初見は昌泰・延喜年間(八九八から九二三年)とされているので、もし『竹取物語』の成立を現在の通説通り、九世紀の末と考えてよいとすれば、この史料は、十六所祈祷の初見史料になるのである。
 しかも、それは単に一つの歴史用語の「初見」の発見というレヴェルの問題ではない。つまり、「若翁=王子」という地位にある人物が、この十六社祈祷をするという物語のプロットからすると、これは九世紀末には、宮廷社会あるいは王権の中枢で、一定度、安定したやり方であったということになる。そして、成立過程からいうと、十六社とは、宮廷が様々な祈祷に際して九世紀に広がった名神という神格をもつ諸社の中から選抜した神社である。その意味で、これは律令制下の奉幣を中心とした官社制度から平安時代的な宮廷神道への変化が、すでに九世紀末には文学素材となるほどに発展していたということを意味するのである。そして、これが後に「二十二社」に展開する宮廷神道の基本組織となることはいうまでもない。
広瀬神社ー『竹取物語』の舞台
 問題は、このような神道に関わる用語が『竹取物語』に登場することを単なる偶然とみるか、あるいは『竹取物語』と神道との間に何らかの内在的な関係があると考えるかであるが、私は後者の立場に立ち、上記の著書で、『竹取物語』は、ある意味で神話から宮廷神道への移行を象徴する物語であると考えた。
 それはまず第一に『竹取物語』の舞台をどう考えるかに関わっている。つまり、『竹取物語』の舞台は、様々な徴表からいって、生駒と金剛山の連なる大和国の西側、より具体的には、広瀬神社の境域であると考えることができる。広瀬神社の南に広がる広瀬野は『春日権現験記絵』の一説話によっても、月の神話、「月に光る竹」の神話をもち、その東南には式内の讃岐神社がある。そして、広瀬神社には「物忌女」がいたことが八〇一年(延暦二〇)の法令によって分かるが何よりも重要であろう(『類聚三代格』巻一)。もちろん、物忌女は他の神社にもいたが、天武の時代に広瀬大忌祭が特別に重視されたことはよく知られている。かぐや姫はすべてをはぎ取ってしまえば、広瀬神社の物忌女なのである。この時代、女性たちは、厳粛な物忌に際して、竹珠の環飾りを身にまとった。カグヤ姫は竹の精であったから、その意味では広瀬大社の物忌女の霊力を象徴する存在であったということもできるだろう。
 かぐや姫が「月の顔見るは、忌むこと」といわれるというのは、かぐや姫が長期の「忌み」の中にいたことを示している。カグヤ姫の眺める月が、広瀬野にかかる月である以上、彼女の忌みの背景には広瀬神社の大忌祭がある。広瀬の大忌祭は、四月と七月の二回にわたって行われるが、その大忌みに奉仕する女性は、かぐや姫と同じように、その年の「春のはじめ」から物忌を始め、立夏四月から、立秋七月にかけて厳粛な物忌みの中におかれたはずである。つまりカグヤ姫と広瀬の物忌女の忌みの長さは、ほぼ同じなのである。
 女性史家の関口裕子氏が鋭く論じたように(関口裕子「日本古代における姦について」『日本古代婚姻史の研究』)、「物忌女の奸」は「采女の奸」と同様に厳しく制限されていた。『竹取物語』は、王はそのタブーを犯す権利があるという物語であったということもできようか。王が狩猟にことよせて女に手をかけるという点で、『竹取物語』が『伊勢物語』と同じ物語であることはいうまでもない。『竹取物語』も『伊勢物語』もかって『平安時代』(岩波ジュニア新書)で簡単に論じたように、九世紀に盛行した王権と貴族の狩猟とその場での女性獲得をベースとした物語の一種なのである。
 広瀬神社は、もちろん、右の十六社にも入る著名神社であるが、『竹取物語』は、その周辺に存在した「月の神話」を母胎としたものと考えることができる。神話の時代は、まだ遠くはなっていないとはいえ、宮廷が神社を尊崇することによって宗教の主体となるという脈絡においては、宮廷の側で宗教を受容する地盤として物語が必要となる。そのような文脈において、神話から物語への転換が起こり、それは神話から神道が分離してくる過程のパラレルであったというのが私見である。
宮廷神道の文学化
 第二には、『竹取物語』がそもそも宮廷の神道儀礼の文学化であったということである。『竹取物語』が新嘗祭五節舞姫の儀礼と関係することについては多くの指摘があるが、それは九世紀に成立した宮廷神道の儀式をいち早く文学化したものであるという宗教論的あるいはイデオロギー論的な視点も必要であろう。五節舞姫の舞踏が月の女神「豊岡姫」への奉仕であることは、『源氏物語』少女の「あめにます豊岡姫の宮人もわが心ざすしめをわするな」という和歌に明らかであるが、それは単なる宮廷儀礼ではない。少女たちの中には月神への信仰心理が深く根づいていたのであって、五節舞の場で月神の導きによって天皇あるいは尊貴な貴族と出会うというファンタジーが巣くっていた。これが宮廷奉仕のイデオロギーの内面化であり、少女たちにとって最大の緊張のもとであったことは、彼女らの五節舞の際の振る舞いをしめす諸史料に明らかである。歴史研究の一つの出発点が儀礼研究にあることは制度研究と同じであるが、儀礼と制度の現象形態のレヴェルに自足するのではなく、その内側に入り込むためには、宮廷史研究において神道論を踏まえたイデオロギー論的視野が必要であろう。
 このような女性の神道儀礼への参加の延長線上に、宇多の時、神鏡を他の二神器と引き離して温明殿において内侍所として女官の管理の下におくという動きがあった。私は松前健氏の仕事に依拠して、宮廷神道の制度的な成立は、この神鏡の別置の時点に求めることができると考える(参照、松前健「内侍所神楽の成立」『平安博物館研究紀要四号)。これに対して、平安期の宮廷神道の解体は、堀河天皇の死去に際して、後三条院の祟りや崇徳の魔王化という院政期の状況によってみちびかれたと考えることができる。後三条の祟りがささやかれた堀河は「心神迷乱、言語能わず」という危篤状態の中で、「せめてくるしく覚ゆるに、かくして心みん」と称して、天皇位の象徴である八坂瓊勾曲玉の入った「しるしの箱」を胸の上におかせた。そして、その堀河を最後まで看病した讃岐典侍・藤原長子が、「前朝の御霊」が乗り移ったと称して、堀河の子・鳥羽守護のために内裏に常在することを許され、さらに中宮璋子に侍って、「内侍所」に皇子誕生の祈請を行っていたが、崇徳の誕生後に、「邪気」におちいり「大事」をいいだして「上皇御気色」によって院から「参内」を停止されたという(保立『平安王朝』)。
『更級日記』と内侍所
 内侍所が女房世界の奧に存在する空間であることは、『更級日記』の重要な主題が内侍所との関わりにあったことに明らかである。つまり、「天照御神(あまてるおんかみ)を念じ申せ」といわれて、「いづこにおはします。神か仏か」と聞き返したという記主の軽々しさが、内侍所の博士の命婦との出会い、初瀬詣での命婦の夢などの中で内省を遂げるというのが『更級日記』をみちびくもっとも重要なプロットなのである。このエピソードが示すように、普通の貴族女性にとっては、宮廷神道の儀式神は月神のトヨウケだったのであるが、宮廷神道の格式化は、内侍所守宮神=アマテラスの正統性を高めた。私は、こういう女房たちの要求をうけて初瀬長谷寺の本尊の十一面観音の脇侍にアマテラスの両性具有の姿態としての雨宝童子が立ったものと考えている。私は以前、「秘面の女と鉢かづきのテーマ」という論文を書いたことがあるが(保立『物語の中世』東京大学出版会)、その観点は「中世」に極限されており、鉢かづきが長谷観音の申し子であったことの意味にさかのぼってテーマを解釈することができていなかったと考えてる。この問題は西郷信綱「長谷寺の夢」(『古代人と夢』)のレヴェルにさかのぼり、平安期の宮廷神道の内実を考える中で再度論じなければならない。
 ともあれ、平安女房文学は神道によって深くしばられているのであるが、それは神道が、都市宮廷の清浄を維持するための都市的な宗教システムとして成立したものである以上、当然のことであった。とくに九世紀の後半になると、女性の生理的な周期と月経そのものを穢とする習俗が、神社神事(伊勢と賀茂)や朝廷儀式から始まって(西山良平「王朝都市と<女性の穢>『日本女性生活史Ⅰ』)、さらに徐々に地方社会にまで一般化していったことである。それが貴族社会の女性たちに染み通り、いわば通俗道徳として身体化されていたことは、たとえば、『蜻蛉日記』(一一六段)は、月経があけることを「清まはる」と記し、立春の忌月である正月早々に女性が「不浄」(月経)に入ることは「人忌むといふ」というと述べていることなどに現れている(一三九段)。
神道と身体暦・農事暦
 神道は本来的に農村的なものとされがちであるが、むしろ都市から農村に展開していったものである。この点に注意しながら、この女性の忌籠の様子をみていくと、まず上記のように『蜻蛉日記』に記された正月のタブーは、全国各地の郷村で農事慣行と連動して行われた二月氏神祭りにむけての齋であったろう。そして次の忌籠は、立夏、旧暦四月の忌籠であって、それは、旧暦四月一五日を中心とする初夏の氏神祭りにむけてのものであった。『蜻蛉日記』の記主も四月から忌みに入って五月に忌みをぬけており、これは立夏の忌籠といえよう。
 そしてかぐや姫が「七月十五日の月にゐでいて、せちに物思へる気色なり」という状態に落ち込んだのは、七月立秋の忌籠に対応するものと考えられよう。この立秋の忌籠が翌八月稲作の収穫の開始という秋の農繁期の前の忌籠であったことはいうまでもない。この時期はお盆にあたることもあり、性的な交わりには禁忌が強かった。また八月始めに妊娠するとすると、その子は、だいたい翌年四月末あるいは五月初めに誕生ということになる。平安時代の歴史物語として有名な『大鏡』に、「五月にさえ生まれてむつかしき」といわれているように、当時、五月生まれの子供は父母を害するなどという禁忌が強く、人々は五月に子供が生まれるような妊娠をさけていたフシがある。この立秋の忌籠の様相は、御盆や夏安居などの仏教行事のかげに隠れて、民俗行事として十分な形跡を残していないが、盆釜や盆小屋などといって女や子供が煮炊きをしたり、籠もったりする風習が注目される。また、この季節は海から夏の御霊がやってくるため、人々は水浴をし、様々な眠り流しの儀礼を営み、八月一日の八朔以降は昼寝の季節が終わるともいわれている(以上、氏神祭りにおける身体暦と農事暦の重層については保立「巨柱神話と天道花」『物語の中世』を参照)。
 平安女房文学の研究が都市とそこに棲む貴族女性に視野を局限するのではなく、広く地方と農村の深部にまで視野を広げていくためにも、むしろ神道の都市的正確を正確にふまえ、その地方拡散を視野に入れていった方がよいのではないだろうか。
益田勝実『火山列島の思想』
 以上、『かぐや姫と王権神話』での述べた論点をさらに敷衍して、平安時代の宮廷神道の都市的性格と「清浄」価値という側面から平安女房文学を考えるという試論を述べてきた。ある文学研究者からは、このような『竹取物語』論は、いわば身も蓋もないという感想をいただいたが、私としても、『竹取物語』をそのような社会論的諸問題の中に極限しようというのではない。
 そして、それは神道のもつより本源的な性格とも関係をしている。かって、
益田勝実『火山列島の思想』は神道の普遍的な根源には、この列島における火山の猛威に対する絶対的な「忌み」の信条があると述べた。私も、『竹取物語』には、その意味での火山列島の思想が籠められていると考える。その意味で神道にせよ、『竹取物語』にせよ、そこにはその時代的な制約をこえて受けとめるべき中身があると考えている。
 しかし、『竹取物語』の最後が、富士山頂における不死の薬の焼き上げにおわっていることは王権と国家による火山との絶縁の意思を象徴するものでもあったことは否定できない。私は、この部分の『竹取物語』の「かの奉る不死の藥に又壺ぐして御使にたまはす」という原文をやはり「かの奉る不死の藥の文、壺具して、御使に賜はす」と校訂し、ここで不死の壺と同時に、かぐや姫の天皇あての手紙が焼かれたと解釈して、それによって国土と自然に対する超越的な姿勢を示すという趣旨をより明瞭にとらえることができると考えた。
 九世紀は、大地動乱の時代であって、とくに淳和天皇以降、噴火と地震の日常化は都市宮廷に大きな不安をあたえた。とくに九世紀半ば、八六四年(貞観六)の富士の大噴火、さらに今回の東日本太平洋岸地震と同型といわれる八六九年(貞観一一)の貞観津波(マグニチュード八、三)、さらに光孝天皇が内裏の庭に避難して夜を明かした八八七年(仁和三)の東海・南海のプレート間地震(マグニチュード八、0ー八、五)のみでなく、京都での有感地震がきわめて多かった。光孝天皇は仁和地震の直後に死去しており、清和天皇の退位期は「天火」と噂された大極殿の炎上によって暗いものとなった。そういう中で、宮廷文学としての『竹取物語』が自然からの超越を描き出し、宮廷社会が、その文学的カタルシスを歓迎したことは想像にかたくない。
 このような評価はやはり身も蓋もないものであるかもしれないが、しかし、『竹取物語』をどう相対化するかを考えた場合に、この大地動乱の時代を前提として問題を再検討することも必要ではないだろうか。とくに、文学的に昇華しやすく、王権との親和性も高いテーマとして火山が選択され、現実の神話としては大きな位置のあったはずの地震と地霊の神とは離れた世界が描かれることを無視することはできないと思う。

 

 

2011年10月 7日 (金)

日本史の通史

 先日、歴史教育の関係者と話していたら、ある人が授業で、いろいろな学説を十分に親和性を考えずに使っているというのが負担感であるといっていた。

 それを聞いて、耳がいたかった。原則としては、それは学説相互で議論するべきことであるというのが、第一。それをしていないのは研究の側の怠慢であろう。

 しかし、もっと別の意味でも耳が痛い。つまり、私などは、いわゆる「戦後歴史学」の寄せ木細工のようにして研究をやってきたということを実感している。たとえば、「古代史」だと、石母田さん、門脇禎二さん、吉田晶さん。そして「中世」だと、戸田芳実さん、稲垣泰彦さん、永原慶二さん、網野善彦さん、黒田俊雄さん、峰岸純夫さん、藤木久志さんなどという訳である。これらの研究者は理論の筋を通すことが人一倍強い方だから、なぜ寄せ木細工が可能なのかは、自分でも不思議だが、ようするに、彼らの研究書を大学院時代からよみつづけているので、徐々に自分にわかる部分を張り合わせ、微調整して全体の歴史像を考える癖がついているということである。これらの方々のことを若干であれ直接に知っているので、そういう発酵作用が起こりやすいのかもしれない。

 いいかげんなものであり、かつ、ようするに、おまえには自説がないのだということの証明のような話である。しかし、通史や歴史の理論的把握と言うことだと、我々の世代はみんなそうだと思う。どの学説にも正しいところがあるが、すべて賛成できるわけではないが、それらのすべてに対置して自説を提出することはできないという、後から進むものの心理である。そして何よりも歴史理論の根本のところを考え直さなければならないという事情もあると思う。

 ただ、webpageにのせたように、必要があって通史メモのようなものをまとめたのであげておいた。どういう寄せ木細工をしているかも書き込み、徐々に追加して行くことにしたい。

2011年10月 5日 (水)

ビッグ・イッシュウの卒業、追加で地震神について

 110807_061728 今日10月4日朝、本郷の角で、ビッグイッシュウの今号を買って、いい天気になったねといったら、販売の人が、来号で「卒業」することになりましたと満面の笑みで報告してくれた。「何か別の仕事ができたの、この仕事もいいけど。昨年の藤田くんもたしか夏前後に部屋をかりて仕事をかえるといっていたけど、アパートを借りたの」と聞いたら、そうだということ。彼の笑顔をみると、今後もうまく行くに違いないと感じる。おめでとうである。

 いま、総武線の帰り。ビッグイッシュウの彼は、帰りの時も、7時頃まで本郷の角に立って売っていた。無理をしないようにと思う。
 さて、先週ゲラを校正した小文(東大の海洋アライアンスのパンフ)が、そろそろでるので、その一部にスサノオが地震神である理由をのべたところを紹介しておく。
 すでに神話学の吉田敦彦氏がスサノオが、アマテラスに会いに天に昇る時に、「山川ことごとくに動み、国土みな震りき」(『古事記』上)とあることを根拠として、スサノオは地震神としている。このスサノオの行動は普通は暴風雨の神であるといわれているが、吉田氏の意見が正しいと思う。スサノオは海の神であることが明らかであるが、これはギリシャ神話のポセイドンが海神であると同時に地震神であったことと同じであるという吉田氏の議論は神話論として反論できない内容をもっている。
 九世紀以降の史料からも、それを論ずることができるのであるが、『古事記』でもう一点、重要なのが、スサノオのもとを訪れたオオナムチ(大国主命)が「天の沼琴」を盗むという場面である。スサノオが寝ているところを見計らって、オオナムチが、これを盗んだのだが、琴が木に引っかかり、それによっれ「地が動」んだというのである。
 何か『ジャックと豆の木』のような話であるが、これは、地底に棲むスサノオが地震を起こす呪具として、琴をもっていたということを示すのだろうと思う。右の小文では、これを吉田氏の仕事の上に追加した。
 さて、地震史料を読む必要から、おもわず神話研究の世界をかいま見ることになって苦闘している。それは八・九世紀の地震と噴火の史料にはしばしば神話世界が表現されていることが明らかとなったためで、こうなると、これらの史料を正確に読み込むためには、『日本書紀』『古事記』『風土記』などに描かれた神話世界の研究を参照する必要がでてくる。ところが、実際に、神話研究の状況を点検してみると、地震と噴火の神話という観点の研究はいくつかの古典的な仕事をのぞいて歴史学のみならず、神話学・文学研究などの分野をふくめてまったく存在しなかったことに気づく。ほとんど、松村武雄氏の古典業績に戻るほか手がないのである。
 これは驚ろくべきことであると思った。もちろん、現実の歴史世界において地震・噴火が大きな位置をもっていたことがほとんど認識されていなかった以上、それに対応する観念の世界の研究が無視されるのは当然のことであったといえるのかもしれない。しかし、神話を議論するためには、本来、この種類の自然神論は必須のものだと思う。ところが、研究の精緻化とともに、神話の政治的・文学的なフィクションとしての性格が強調され、神話のもつ自然神話としての性格が徐々に等閑視されていったように思う。
 私は西郷信綱氏の仕事が好きで、相当のものを読んでいたつもりだが、どうも、これは、西郷氏が自然神嫌いなのがすべての根っこにあるように感じている。私には、西郷氏の人文主義より、益田勝実さんの民俗主義の方が身のたけにあっているのかもしれない。西郷信綱氏の『古事記注釈』と益田さんの『古事記』を読んでいると、少なくとも、現在のところ、益田さんの方が、私には面白いのである。
 そして、どうも西郷氏の仕事が行き止まりになるのは、西郷氏が本居宣長をまじめに読もうとしたためであるという印象がする。本居宣長には、神話的な日本というのは稲作農業のみずほの国、日本という印象が強く、すべてをそれで読もうとする農本主義がある。益田さんにもその影響はあるが、益田さんの方が自然を見る目は柔軟なように思う。

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