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2011年10月12日 (水)

地震火山45地震火山神話論の講演、奈良女で

 来週は奈良女子大学での講演が入っている(2011年10月23日(日)午前10時~午後3時,奈良女子大学大学院棟(F棟)5階大会議室)。考古学の北條芳隆さんと奈良女の小路田さんと。講演会のビラでは、私のテーマは九世紀の陵墓からみた古墳ということになっているが、それは、若干であれ『かぐや姫と王権神話』にも書いたことなので、必要な限りでふれることにして、この一月ほどやってきた神話論の話をさせてもらう積もりである。
 ともかくも、一応、骨だけはできたので、その目次をラストに掲げておく。
 以下は、その地震噴火神話論の前振りのようなもの。こういう前振りがないと、仕事ができないというのは困ったものだが踏切台のようなものなのでやむをえない。

 神話論の方法と九世紀の噴火地震史料
 八・九世紀の地震と噴火の史料にはしばしば神話世界が表現されていることが明らかとなった。こうなると、これらの史料を正確に読み込むためには、『日本書紀』『古事記』『風土記』などに描かれた神話世界の研究を参照する必要がでてくる。
 ところが、実際に、神話研究の状況を点検してみると、地震と噴火の神話という観点の研究はいくつかの古典的な仕事をのぞいて歴史学のみならず、神話学・文学研究などの分野をふくめてまったく存在しなかったことに気づく。現実の歴史社会において地震・噴火が甚大な影響をもっていたことがほとんど認識されていなかった以上、それに対応する観念の世界の研究が無視されるのは当然のことであったといえるのかもしれない。
 しかし、これはやはり驚ろくべきことである。現在、歴史学の側には、『日本書紀』『古事記』の描く神話世界を正面から考える仕事それ自体がほとんどなくなっているのである。もちろん、過去にさかのぼれば、歴史学の側での神話研究の過去の蓄積は相当のものがあり、それは現在でもよるべき古典的な仕事となっている。しかし、それはほぼ三〇年以上前のことであって、その後、神話を研究する「古代史」研究者はほとんどおらず、また神話を正面に掲げて論ずる学術論文もほとんどなくなってしまった。
 これは第一に、研究者の側に、神話についてはもう研究すべきことはない。研究する価値のある論題は、古典的な研究によってすべてカヴァーされているという判断あるいは感じ方が一般化しているためである。また研究の精緻化とともに、神話の政治的・文学的なフィクションとしての性格が強調すればすむかのような傾向が強くなったようにも思う。もちろん、神話のフィクション性を詳細に明らかにするのは神話研究の基本であるが、しかし、そのフィクションが全体としてどのようなもので、どのような現実的影響をもったのかを論じるというところに踏み出る研究は少なかった。こういう中で、知らず知らずに、神話のもつもっとも自然的な側面、自然神話が等閑視されるという伝統ができてしまったように思う。自然神話にもフィクションの要素があることはいうまでもないが、地震・噴火が自然神話の研究においてはもっとも基礎的なものであるから、そのような傾向の背後には、実際には、神話の研究はむずかしい冒険で、従来以上の確実な成果によって報われることはないだろうという保守的な研究心理があったのではないかというのが、私などの疑いである。
 しかし、本来、「戦後歴史学」的な「古代史」はもっと豊かなものであったはずである。石母田正の神話論に関わる諸論文は、見事なものであって、石母田が、『古事記』注釈の仕事において、文化人類学や言語学の研究者との共同研究を組織しようとしたことはよく知られている。私などの研究者世代だと、その意味でも、この共同研究が、石母田の疾病によって未発に終わったことのマイナスの影響を実感する。もし、それが実現していれば、三品彰英・松村武雄・岡正雄・大林太良・吉田敦彦と続く神話研究の伝統と歴史学の関係は異なるものとなっていたかもしれない。そんなことをいっていても仕方がないのはいうまでもないが、そこまで立ち戻って状況を検討する必要があると考える。
 第二の理由は、歴史学の研究があまりに細分化して、総合的な広い視野、そして長期にわたる通史的な見通しが必要な神話研究のような研究分野にまで手が届かないという点にあるのだと思う。そもそも神話研究にあたっては、縄文・弥生の時代から古墳時代、さらに畿内王権の時代から律令王国の時代(奈良時代)にいたるまでを俯瞰的に展望しようと云う意思が必要である。そして、それのみでなく九世紀の神話史料の点検が必要であり、さらに、その実態を推論するためには、鎌倉時代に形成されたいわゆる「中世日本紀」「中世神話」の世界にいたるまでの知識が必須となる。
 まず考古学は、縄文人・弥生人のもった世界観に対して強い想像力を発揮しながら、たとえば森浩一氏なぞをのぞいて『日本書紀』『古事記』を史料として読み込むことに消極的であり、記紀神話の世界にはいよいよ踏みこもうとはしない。そして、現在の「古代」文献史学は、「律令国家」の段階では神話的な社会意識は過去のものとなったという見方をとっているのではないかと思わせる。そして「中世史」研究の側でも、文学史的研究の成果を援用しつつ、鎌倉時代に形成された「中世日本紀」「中世神話」の世界が、記紀神話とはまったく異なる、密教や陰陽道の圧倒的な影響の下で、怪奇・混沌・異貌の世界となっていることを強調することが多い。こうして、八・九世紀の神話研究は、その間の真空地帯のようになってほとんど真剣な顧慮の対象外となっているのである。
 しかし、神話というものは、きわめて長い生命をもった知識とイデオロギーの体系であることは紛れもない。たとえば、イタリアの歴史哲学者、B・クローチェは「(中世の到来とともに)人々は、あの古代的歴史家があの通りすでに解決し去ったところの神話と奇蹟との世界と、その一般的性格においてはまったく同一としか見えないところのある神話的・奇蹟的世界にまたあらためて再会する」いったことがある(『歴史叙述の理論と歴史』岩波文庫、二二八頁)。歴史家にはよく知られているように、黒田俊雄氏が、このクローチェの言葉を援用しながら、「中世は第二の神話の時代である」「神話は、いつでもそうだが、宗教よりは文学として発展した」などと指摘したのは、もう五〇年も前のことである(「中世国家と神国思想」、『黒田俊雄著作集』④、一九九五年、法蔵館、原論文は一九五九年)。常識からいっても、「古代」から「中世」にかけて「神話」が解体して連続性を失うなどというのは信じられない感じ方である。必要なのは連続性と変容の両方を過不足なく明らかにすることであるはずである。しかし、一時期はきわめて当然のことであった、このような方法的・一般的な了解は、その力を失っている。
 第三の理由は、やはり思想的な問題ではないかと思う。ようするに歴史学者もふくめてのことであるが、人々は神話などに興味がないのである。深刻なのは、それが世界観的な問題には興味はないということとイコールであるように思えることである。今回の東日本太平洋岸地震・原発震災についての社会の反応をみていると、その感が深い。そんなにこの社会を信頼していたのか。信じられないということになるが、これは、奈良への電車の中で、三木清の『構想力の論理』の神話論の部分をノートを取りながら考えるつもり。いまみたら、何本も線が引いてあるが、三木が全体として何がいいたかったかのノートがない。

火山国家と始源の地霊
神話論の方法と九世紀の噴火地震史料
(1)タカミムスヒと地震火山神話 
   (イ)地震火山神話と天地分離神話
   (ロ)隠れた天界の主宰神ータカミムスヒ
   (ハ)火山神・タカミムスヒと高千穂への降臨
(2)イザナキ・イザナミの国生と火山 
   (イ)国土創成神話と陰陽の道
   (ロ)国生と地母神、火山の女神
   (ハ)火の女神・オオゲツヒメと月夜見尊
   (ニ)火山の暴神・カグツチと地母神・イザナミのミホト
(3)地母神イザナミの富 
   (イ)地母神イザナミの富と金山
   (ロ)「屎=埴=粘土・陶土」と鍛地
   (ハ)「和久産巣日神」と「豊宇気毗売神」
(4)男神イザナキの黄泉国訪問と火神・水神
   (イ)カグツチの殺害と雷神
   (ロ)イザナギ・イザナミの物語と黄泉国
   (ハ)イザナキの禊ぎと海の神々の誕生
(5)スサノウの謎ーー祓禊神・地震神
   (イ)アマテラス・ツキヨミ・スサノオの誕生と「泣きいさちる」
   (ロ)海と水と穢の神ースサノオと牛頭天王
   (ハ)地震神・スサノオのエロスとタナトス
(6)根の堅州国と鍛冶・火山・出雲
   (イ)根の堅州国とは何か
   (ロ)根の堅州国と鍛冶神ヴァルカン
   (ハ)出雲の火山と大国主命
   (ニ)地霊オオナムチの「琴」とスクナヒコナの「硫黄」

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