地震火山46白頭山の噴火と広開土王碑文
先日のTBSの報道によれば白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われているという。
先に詳しく書いたが、陸奥沖海溝地震は八六九年。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。
この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
もとより、この史料の成立年代はくだるが、噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろう。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。原文を引用する。
惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)
このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。
『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないようであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である。ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。
以上、あるところに出した原稿で、すぐに出版なので、ここにも掲載することとした。この種の問題についてはそうさせていただいている。
なお、昨日、東洋文庫の展示部分の開館があり、行ったところ、広開土王碑文の拓本の展示があった。印象を新たにした。その他、六義園にいったあとでも寄る十分な価値がある。やはり一番印象が強かったのは、孫文関係史料であったろうか。丁寧な展示でご苦労がよくわかる。
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