日本史の通史
先日、歴史教育の関係者と話していたら、ある人が授業で、いろいろな学説を十分に親和性を考えずに使っているというのが負担感であるといっていた。
それを聞いて、耳がいたかった。原則としては、それは学説相互で議論するべきことであるというのが、第一。それをしていないのは研究の側の怠慢であろう。
しかし、もっと別の意味でも耳が痛い。つまり、私などは、いわゆる「戦後歴史学」の寄せ木細工のようにして研究をやってきたということを実感している。たとえば、「古代史」だと、石母田さん、門脇禎二さん、吉田晶さん。そして「中世」だと、戸田芳実さん、稲垣泰彦さん、永原慶二さん、網野善彦さん、黒田俊雄さん、峰岸純夫さん、藤木久志さんなどという訳である。これらの研究者は理論の筋を通すことが人一倍強い方だから、なぜ寄せ木細工が可能なのかは、自分でも不思議だが、ようするに、彼らの研究書を大学院時代からよみつづけているので、徐々に自分にわかる部分を張り合わせ、微調整して全体の歴史像を考える癖がついているということである。これらの方々のことを若干であれ直接に知っているので、そういう発酵作用が起こりやすいのかもしれない。
いいかげんなものであり、かつ、ようするに、おまえには自説がないのだということの証明のような話である。しかし、通史や歴史の理論的把握と言うことだと、我々の世代はみんなそうだと思う。どの学説にも正しいところがあるが、すべて賛成できるわけではないが、それらのすべてに対置して自説を提出することはできないという、後から進むものの心理である。そして何よりも歴史理論の根本のところを考え直さなければならないという事情もあると思う。
ただ、webpageにのせたように、必要があって通史メモのようなものをまとめたのであげておいた。どういう寄せ木細工をしているかも書き込み、徐々に追加して行くことにしたい。
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