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2011年11月 6日 (日)

火山地震49インドネシアセラム島の地震火山神話とBack to the Future

 今、本郷三丁目の地下鉄駅。土曜夜10時30分。神話論の電車での執筆が佳境に入って、ブログの記事を書く余裕がなかった。午後から出勤してゲラ校正で疲れた。
 今日の午前中はある問題の調整と事情説明の電話。久しぶりに長い間の友人と話す。話しながら、「人生」には、10年、20年の単位でわかってくることもある。過去を共有する(記憶が同じ)ということのありがたさを思う。未来を共有する、未来と希望を共有することによって人間は集まるというのはしばしば幻想であって、実際には過去を共有することによって、人間は同じ未来に入っていくということがある。走馬燈のように人生の諸局面が目前にあらわれてくるというが、それは過去を俯瞰する形で人間の知識・意識・感情がスピードをもって自己点検のサイクルに入ることをいう。
 宇宙の晴れ上がりというのはビッグバンのあとにくるというが、過去の晴れ上がりというものもあるのだと思う。晴れ上がった過去を眼前にして、未来へ進んでいく。晴れ上がった過去によって未来への道がほのかに照らされるというのが、未来への本源的な行動のありかたであるべきなのだと思う。そうしてそちらに行くほかないということで進んでいくというのが、最近、評判の悪い「歴史の必然」ということであるというのは、哲学の真下信一氏の講演会で聞いたこと。言い方は少し違うがそういうことをおっしゃったのだと思う。大学時代に、真下さんのものをよく読み、大学に講演にきてもらった。講演会を自分の意志で呼びかけて開いたのだから、真下さんの影響は強かったのだろう。ようするに、戦後まで生きていた三木清・戸坂潤の仲間の哲学者は、古在さんと真下さんだったのだから当然か。
 過去の晴れ上がりなしに、未来はないという確信の下に歴史学をやっている積もりではあるが、自分の過去も晴れ上がらないようでは覚悟のほどがしれる。講演会の一〇分ほど前になっても真下さんがあらわれないと思っていたら、前の方の席にいらして悠然とされていた方が立ち上がったのをみたら真下さんであったというのが、よく思い出した記憶。真下さんというと、ICUの広い教室と悠然とした背中を思い出す。
 バックトゥーザフューチャーというのは、人間は後ずさりをしながら、背中から未来に入っていくことであるというのは堀田善衛の『天上台風』のエッセイにあったこと。
 神話論をやっていると、空間と時間を区別しない、空間に時間を感じ、時間に空間を感じるというの本源的な意識のあり方であるということがよくわかる。この間、考えていたのは、インドネシアのセラム島の神話。大林太良さんが紹介したもので、日本神話を考える上で決定的な意味があると思う。
 次のようなもの。イザナキ・イザナミ神話と似ている。

 むかし、父なる天は母なる大地の上に横になり、性交していた。天と地は、当時はまだ今日よりも小さかった。この天地の結婚から、子供としてウプラハタラが生まれ、ついで弟のラリヴァと妹のシミリネが生まれた。彼らは両親の天と地との間に住む場所がなく、ついにウプラハタラが天を上に押し上げた。すると大地震が起こり天と地は拡大して今日のように大きくなった。天と地の分離の際には、地上にはまだ暗黒が支配していた。ところが、大地震のとき、火が地中から生まれ出し、地上には木や植物が萌え出で、山々がそびえ立った。ウプラハタラは、ダンマルの樹脂で大きな球をつくって火をつけ、天にほうり上げて、日と月を作った。

 このような最初は合体していた天と地が分離して世界ができるという類型の神話を、神話学では、世界創造神話の中でも「世界分離神話」と呼ぶ。一般的に「世界」創造神話という場合、それは「世界」認識の枠組みの神話的な構想力の発生を意味するといってよいだろう。いうまでもなく「世界」は人間の主体と認識に先行して客観的に存在するとはいえ、世界認識の枠組みはやはり認識の枠組みとして発見されるのである。その存在論的・認識論的な突破の記憶が神話の基底にあるものであって、それ故に、それはカント的な認識のアプリオリが、最初から空間認識と時間認識に区別されるものとして先験的に存在するのとは違って、空間・時間という認識枠組みそのものが発見されるという形態をとる。というようなことを考える。
 主体・肉体の認識としては、親・兄弟という世代的な認識と両親の身体からの解放、ようするに、親の身体的交差の空間からの解放、別の世代の創造というような経験が神話に現れるのだと思う。イザナミ・イザナキとスサノオの話にそっくりである。
 話がずれたが、少なくとも管見の限りでは、この神話は、環太平洋の地震・噴火の多発地帯で、日本・朝鮮以外の国に伝えられた唯一の地震噴火神話だと思う。

 過去の晴れ上がりというのは、過去とその全貌がみえるようになったということである。前近代社会では、背中から未来に入っていくというのは、堀田のエッセイでも、それをうけた勝俣鎮夫氏の仕事でも、一種の不安定を意味するという読み方がされている。今の感覚だと、「後じさりしながら、未来へ入っていく」というのは不安な移動のように感じるが、しかし「バックトゥーザフューチャー」というのは、いってみればふり返りもせずに、座ったまま、眼前の過去が遠くへ移動していくような時間のスピードに乗ることなのだと思う。過去は眼前にみえ、過去から遠ざかれば遠ざかるほど、いよいよ、その全体がみえてくる。未来への移動は過去の延長であって、基本的な不安はない。そういうのが前近代社会における時間・空間観念の基礎にすわっていたのだろうと思う。それを「千篇一律」、「日々是好日」、保守と安穏という」イメージのみで見ては成らないのではないか。
 むしろ新しい意味でそのような未来への進み方が必要になっているのではないか、などということを考える。

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