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2011年11月

2011年11月18日 (金)

地震火山50墳砂と富士山の形

Ekijoukamihamaasshuku  この写真は日本地震学会のHPからコピーさせていただいたものであるが、千葉県美浜町の公園に噴出した墳砂の写真である。今回の地震の液状化で、しばしばこういう「富士山」あるいは「伏せ鉢」のような形に墳砂がでてきたと思う。この写真は付せ鉢の上が平になって、しかも少しへこんでいる。火山のようではないだろうか。こういう写真は各地で集めて記録しておく価値があると思う。
 しばらく前に船橋市の講演会で、これを映し出して説明したときに、会場からホーっというため息のようなものが聞こえた。
 以前、今年3月21日のエントリー(地震火山11)でも紹介したが、地震にともなう液状化は、地盤の深部にある砂礫層の構造が崩れると同時に、内部の水の圧力が一挙に増大することによって、上の土地を突き破って液状になった砂が噴出する現象である。
 この液状化の痕跡を追跡したのは、地震考古学といわれる研究分野をほとんど独力で作りだした寒川旭氏で、その様子を描いた『地震考古学』(中公新書)は「大地」に関心のある人にとって必読のものである。この本の8頁には1983年の日本海中部地震で水田に噴き出した墳砂の写真が載っている。すでに三〇年前の写真であるが、実に貴重なものだと思う。もしネガが残っていれば細かくみてみたいものである。本では五センチほどの大きさに縮小されているから、この美浜のものと比べると迫力が違う。その意味でもネガや情報の保存は各地域で考え、しかも他地域から閲覧できるようになるべきものと思う。こういう時代、考古情報のアーカイヴズは本当に重大になってくる。
 同書の220頁によると、一八二八年の同じく新潟の三条地震では、墳砂の高さは三・四尺、高いところでは一丈(一〇尺、三メートル)近くもあり、砂の色は不断見たこともない赤や黒であったという。こういう墳砂は、今回の地震ではあったのだろうか。これだけのものがでてくると、人々の驚愕は相当のものがあったのではないかと思う。
 なお、同書の70頁のは一九四四年の東南海地震でも、やはり墳砂が出たという。この東南海地震は、戦争中であったため被害が隠蔽され資料がほとんど残っていないといわれ、関東大震災を「予言」したことで著名な今村明恒が、そういう状況に憤然としたということが伝えられている地震である。その調査を一九八九年に磐田北高校の科学部がアンケート調査を行った結果があって、興味深いのは、この調査によると、人々が、この墳砂を「富士山」にたとえたということである。美浜町の墳砂もまさに富士山の形であると思う。
 そして、静岡大学の小山真人先生のHPのhttp://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/Abstracts/110609ITVGforum.pdfを御参照ねがいたい。伊豆大室山の火山堆積の様子である。同じ写真が小山『富士山大爆発がせまっている』(技術評論社2009)にも乗っている。両方を見比べてみれば、この墳砂の形が火山の形にそっくりであることがわかるだろう。
 人々は、墳砂をみて火山を連想したのではないだろうか。そして、大小の違いはあれ、その中に「神」=「地霊」の顕現を見たのではないだろうか。私見では、これこそが前方後円墳の後円部の「伏せ鉢」のような形ということになる。
 なお、こういう「伏せ鉢」の形の山をカンナビ山というのは、こういう地霊ないし神観念のためである。つまり神が「ナバル」山というのがカンナビ山という意味で、「ナバル」というのは隠れるという意味である(たとえば『字訓』を参照)。大地や山に神が隠れている。そういうところのことをカンナビといったのである。これが神奈川(カンナガワ)の語源であることはよくしられているだろう。また伊賀国名張郡のナバリも、この意味ではないだろうか。伊賀は地震がきびしい土地であると思う。
 大地に隠れた神。そこから現れる赤や黒の土。こういう意味でも大地の観念、土地範疇というものを具体的に考えていくことが、歴史学にとって、どうしても必要なことと考えている。土地とは何か、大地とは何かということをわかりきったようなことと思っていてはならないということを学術的に問題としうるかどうか。これを網野善彦さんの問題提起とはちがう形で考え、結論をだすこと。

2011年11月11日 (金)

美濃紙工房調査見学

 昨日、一昨日は長谷川和紙工房で和紙材料下ごしらえの調査。昨年は同工房で職場の同僚が抄紙の過程をふくめて調査したが、今回は農学部のE先生と一緒でむしろ材料科学の方から、和紙の物理的成分の調査になった。そこで下ごしらえ中心となる。柔細胞が膜状になることを確認した。
 Img_1135 長谷川和紙工房は、岐阜県(武義郡)美濃市蕨生。旧町名、下牧村。下牧村は美濃厚手が中心で、上流の上牧村は美濃厚手が中心の産地であったという。戦前はここで1300軒の紙生産集落であった(美濃市全体では3000軒)。庄名は上有智(こうづち)。山一つ越えた大矢戸は室町から紙産地として著名で、市庭地名も残る。山を北に越えるとすぐ福井。こんなに近いとは思わなかった。E先生は美濃と福井は紙の生産で交流があったのではないかという。たしかにそう思う。歴史の方の現地調査、というよりも土地勘を養うための旅もしたいものだ。
 美濃紙という呼称は、室町後期にならないとみえないが、一昨年、南北朝期の東大寺文書の美濃茜部荘園文書に、材質の上で確実な白美濃を確認しており、これだけの良質な紙を作れる専業集団が美濃にいたのは確実になった。現在、美濃紙を世界無形文化財に推薦しているが、今年度は未審査となったということ。昨年の石州半紙との差異がつかないという理由であったようだが、美濃の方が史料の点では古いので、来年度は通過することを願う。
Img_1087  今回使用の楮は近隣の山野で野生化しているもの、黒皮・甘皮・白皮の状態をみせていただく、水にさらした後、甘皮が濡れたままでぶよぶよしている様子を初めて見る。淡い緑色で、顕微鏡でみると、皮の植物細胞の様子がきれいにみえる。繊維の並びと並行に間隔をおいて糞のつまった腸のようなおなじみの柔細胞が確認できる。腸状のものは一定間隔をおいて出現。その繊維のならびと直行する方向に俵状の柔細胞がならんでいるのも確認。表皮での柔細胞はこの二類型があるらしい。石州半紙は甘皮をすべて残す。美濃はすべて残すということはないということ。
Img_1098  (1)灰汁で煮熟が終わる頃、我々は到着。現在はソーダ灰で処理するのが一般的だが、今回は灰汁で処理。ソーダ灰のものは白いが、これは黒灰色。現状の美濃は甘皮もとった煮熟であり、今回もそうした。煮熟すると軟らかくなる。これをしないと繊維が離解しない。美濃は煮熟後、あげてそのまま保存する。灰分があった方が酸化が遅くなるのでとっておける。
 本格的にみせていただくのは、(2)煮晒から。庭のコンクリートの水槽にまだ熱い皮を入れていく。干瓢の太いの(幅4センチくらい。柔らかさもそういう感じ)にみえる。
Img_1109  その後に、(3)「ちり取り」。水槽の横に、簡単な屋根のついた川屋があり、その中を幅50センチほどの水路が通っている。その水路の両岸に縁がかかるようにして笊(現在では金網製)を置き、そこに干瓢状の楮を一本浮かせて、繊維をいためないようにチリ(節のところで黒くなっている者など)を取る。自分でもやってみたが、これは根気仕事である。
Img_1120  その後が、(4)「叩解」。石盤の上に「ちり取り」の後の楮をおき、両手に美濃でよく使われる短い木槌をもってやる。15センチかける15センチくらい、厚さ7・8センチにまとめたちり取り後のものを横40センチ、縦1㍍くらいに打ちのば  Img_1129_3 す。蕎麦か餅を打ちのばす感じで、これを4/5回繰り返す。徐々に薄く伸びやすくなっていく。これは繊維を離解するためであるという。
 長谷川さんによると、この叩解のやり方が美濃紙の特徴を作り出すのではないかという人も多いが、二本槌だと女性でもできるというのが理由で、長い棒(ばい)で打つのと繊維にあたえる影響は変わらないのではないかということであった(石州も長い棒でうつ)。たしかにこれによって柔細胞がつぶれるということはなさそうであると感じた(正確には叩解のやり方で繊維状態に変化があるのかどうかを実験する必要はあるのかも知れない)。これもやらせていただくが、腰にくる。
 さて一番興味深かったのが、叩解の後の(5)「紙出(紙振)」であった。川屋で「 ちり取り」とおなじように笊を構え、ペースト状の叩解後の楮のまとまりを水にひたして繊維をほどく。これによって繊維が離解して雲のように湧いてくる、出てくるという感じ。固まりをふると紙繊維が湧いてくるという感じである。まさに「紙振り」。
Img_1140  ここでもチリをとるが、基本は不純物を流すことに意味。水が白く濁るほど不純物が流れる様子をみた。これで量がへる。本来の美濃は、この工程を行わないので、半分は「紙だし」をしないままの楮ペーストを残してもらった。
 翌日10日には抄紙をする。まず、練りになるトロロアオイをみせていただく。例年は茨城の小川町(石岡の北)の楮を使うが、これは高知のもの。(イ)紙だしをせず、練りも加えずに抄紙、(ロ)紙だしをせず、練りを加えて抄紙。(ハ)紙だしをし、練りを加えないで抄紙、(ニ)紙出しをし、練りをいれたもの、そして最後に叩解を手でなくビータでやったものの抄紙。以上5種類をやっていただく。
 乾燥に時間がかかるので、紙自身は送付していただくことになったが、紙だしをせず、練りも加えないままの楮ペーストに柔細胞の膜を確認した。しかし、美濃に確認されるきれいな全面をおおうような膜が柔細胞だけからなる膜なのか。あるいはそれに練りのトロロアオイの成分も膜になるのか。これは送っていただく紙で確認しようということになる。
 以上、業務報告のような感じだが、紙の材料レヴェルから、ようやく理解できたという感じがする。歴史学の文理融合とミクロ化のためにと考えてはいるのだが、まだまだ道遠しではある。

2011年11月 6日 (日)

火山地震49インドネシアセラム島の地震火山神話とBack to the Future

 今、本郷三丁目の地下鉄駅。土曜夜10時30分。神話論の電車での執筆が佳境に入って、ブログの記事を書く余裕がなかった。午後から出勤してゲラ校正で疲れた。
 今日の午前中はある問題の調整と事情説明の電話。久しぶりに長い間の友人と話す。話しながら、「人生」には、10年、20年の単位でわかってくることもある。過去を共有する(記憶が同じ)ということのありがたさを思う。未来を共有する、未来と希望を共有することによって人間は集まるというのはしばしば幻想であって、実際には過去を共有することによって、人間は同じ未来に入っていくということがある。走馬燈のように人生の諸局面が目前にあらわれてくるというが、それは過去を俯瞰する形で人間の知識・意識・感情がスピードをもって自己点検のサイクルに入ることをいう。
 宇宙の晴れ上がりというのはビッグバンのあとにくるというが、過去の晴れ上がりというものもあるのだと思う。晴れ上がった過去を眼前にして、未来へ進んでいく。晴れ上がった過去によって未来への道がほのかに照らされるというのが、未来への本源的な行動のありかたであるべきなのだと思う。そうしてそちらに行くほかないということで進んでいくというのが、最近、評判の悪い「歴史の必然」ということであるというのは、哲学の真下信一氏の講演会で聞いたこと。言い方は少し違うがそういうことをおっしゃったのだと思う。大学時代に、真下さんのものをよく読み、大学に講演にきてもらった。講演会を自分の意志で呼びかけて開いたのだから、真下さんの影響は強かったのだろう。ようするに、戦後まで生きていた三木清・戸坂潤の仲間の哲学者は、古在さんと真下さんだったのだから当然か。
 過去の晴れ上がりなしに、未来はないという確信の下に歴史学をやっている積もりではあるが、自分の過去も晴れ上がらないようでは覚悟のほどがしれる。講演会の一〇分ほど前になっても真下さんがあらわれないと思っていたら、前の方の席にいらして悠然とされていた方が立ち上がったのをみたら真下さんであったというのが、よく思い出した記憶。真下さんというと、ICUの広い教室と悠然とした背中を思い出す。
 バックトゥーザフューチャーというのは、人間は後ずさりをしながら、背中から未来に入っていくことであるというのは堀田善衛の『天上台風』のエッセイにあったこと。
 神話論をやっていると、空間と時間を区別しない、空間に時間を感じ、時間に空間を感じるというの本源的な意識のあり方であるということがよくわかる。この間、考えていたのは、インドネシアのセラム島の神話。大林太良さんが紹介したもので、日本神話を考える上で決定的な意味があると思う。
 次のようなもの。イザナキ・イザナミ神話と似ている。

 むかし、父なる天は母なる大地の上に横になり、性交していた。天と地は、当時はまだ今日よりも小さかった。この天地の結婚から、子供としてウプラハタラが生まれ、ついで弟のラリヴァと妹のシミリネが生まれた。彼らは両親の天と地との間に住む場所がなく、ついにウプラハタラが天を上に押し上げた。すると大地震が起こり天と地は拡大して今日のように大きくなった。天と地の分離の際には、地上にはまだ暗黒が支配していた。ところが、大地震のとき、火が地中から生まれ出し、地上には木や植物が萌え出で、山々がそびえ立った。ウプラハタラは、ダンマルの樹脂で大きな球をつくって火をつけ、天にほうり上げて、日と月を作った。

 このような最初は合体していた天と地が分離して世界ができるという類型の神話を、神話学では、世界創造神話の中でも「世界分離神話」と呼ぶ。一般的に「世界」創造神話という場合、それは「世界」認識の枠組みの神話的な構想力の発生を意味するといってよいだろう。いうまでもなく「世界」は人間の主体と認識に先行して客観的に存在するとはいえ、世界認識の枠組みはやはり認識の枠組みとして発見されるのである。その存在論的・認識論的な突破の記憶が神話の基底にあるものであって、それ故に、それはカント的な認識のアプリオリが、最初から空間認識と時間認識に区別されるものとして先験的に存在するのとは違って、空間・時間という認識枠組みそのものが発見されるという形態をとる。というようなことを考える。
 主体・肉体の認識としては、親・兄弟という世代的な認識と両親の身体からの解放、ようするに、親の身体的交差の空間からの解放、別の世代の創造というような経験が神話に現れるのだと思う。イザナミ・イザナキとスサノオの話にそっくりである。
 話がずれたが、少なくとも管見の限りでは、この神話は、環太平洋の地震・噴火の多発地帯で、日本・朝鮮以外の国に伝えられた唯一の地震噴火神話だと思う。

 過去の晴れ上がりというのは、過去とその全貌がみえるようになったということである。前近代社会では、背中から未来に入っていくというのは、堀田のエッセイでも、それをうけた勝俣鎮夫氏の仕事でも、一種の不安定を意味するという読み方がされている。今の感覚だと、「後じさりしながら、未来へ入っていく」というのは不安な移動のように感じるが、しかし「バックトゥーザフューチャー」というのは、いってみればふり返りもせずに、座ったまま、眼前の過去が遠くへ移動していくような時間のスピードに乗ることなのだと思う。過去は眼前にみえ、過去から遠ざかれば遠ざかるほど、いよいよ、その全体がみえてくる。未来への移動は過去の延長であって、基本的な不安はない。そういうのが前近代社会における時間・空間観念の基礎にすわっていたのだろうと思う。それを「千篇一律」、「日々是好日」、保守と安穏という」イメージのみで見ては成らないのではないか。
 むしろ新しい意味でそのような未来への進み方が必要になっているのではないか、などということを考える。

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