地震火山50墳砂と富士山の形
この写真は日本地震学会のHPからコピーさせていただいたものであるが、千葉県美浜町の公園に噴出した墳砂の写真である。今回の地震の液状化で、しばしばこういう「富士山」あるいは「伏せ鉢」のような形に墳砂がでてきたと思う。この写真は付せ鉢の上が平になって、しかも少しへこんでいる。火山のようではないだろうか。こういう写真は各地で集めて記録しておく価値があると思う。
しばらく前に船橋市の講演会で、これを映し出して説明したときに、会場からホーっというため息のようなものが聞こえた。
以前、今年3月21日のエントリー(地震火山11)でも紹介したが、地震にともなう液状化は、地盤の深部にある砂礫層の構造が崩れると同時に、内部の水の圧力が一挙に増大することによって、上の土地を突き破って液状になった砂が噴出する現象である。
この液状化の痕跡を追跡したのは、地震考古学といわれる研究分野をほとんど独力で作りだした寒川旭氏で、その様子を描いた『地震考古学』(中公新書)は「大地」に関心のある人にとって必読のものである。この本の8頁には1983年の日本海中部地震で水田に噴き出した墳砂の写真が載っている。すでに三〇年前の写真であるが、実に貴重なものだと思う。もしネガが残っていれば細かくみてみたいものである。本では五センチほどの大きさに縮小されているから、この美浜のものと比べると迫力が違う。その意味でもネガや情報の保存は各地域で考え、しかも他地域から閲覧できるようになるべきものと思う。こういう時代、考古情報のアーカイヴズは本当に重大になってくる。
同書の220頁によると、一八二八年の同じく新潟の三条地震では、墳砂の高さは三・四尺、高いところでは一丈(一〇尺、三メートル)近くもあり、砂の色は不断見たこともない赤や黒であったという。こういう墳砂は、今回の地震ではあったのだろうか。これだけのものがでてくると、人々の驚愕は相当のものがあったのではないかと思う。
なお、同書の70頁のは一九四四年の東南海地震でも、やはり墳砂が出たという。この東南海地震は、戦争中であったため被害が隠蔽され資料がほとんど残っていないといわれ、関東大震災を「予言」したことで著名な今村明恒が、そういう状況に憤然としたということが伝えられている地震である。その調査を一九八九年に磐田北高校の科学部がアンケート調査を行った結果があって、興味深いのは、この調査によると、人々が、この墳砂を「富士山」にたとえたということである。美浜町の墳砂もまさに富士山の形であると思う。
そして、静岡大学の小山真人先生のHPのhttp://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/Abstracts/110609ITVGforum.pdfを御参照ねがいたい。伊豆大室山の火山堆積の様子である。同じ写真が小山『富士山大爆発がせまっている』(技術評論社2009)にも乗っている。両方を見比べてみれば、この墳砂の形が火山の形にそっくりであることがわかるだろう。
人々は、墳砂をみて火山を連想したのではないだろうか。そして、大小の違いはあれ、その中に「神」=「地霊」の顕現を見たのではないだろうか。私見では、これこそが前方後円墳の後円部の「伏せ鉢」のような形ということになる。
なお、こういう「伏せ鉢」の形の山をカンナビ山というのは、こういう地霊ないし神観念のためである。つまり神が「ナバル」山というのがカンナビ山という意味で、「ナバル」というのは隠れるという意味である(たとえば『字訓』を参照)。大地や山に神が隠れている。そういうところのことをカンナビといったのである。これが神奈川(カンナガワ)の語源であることはよくしられているだろう。また伊賀国名張郡のナバリも、この意味ではないだろうか。伊賀は地震がきびしい土地であると思う。
大地に隠れた神。そこから現れる赤や黒の土。こういう意味でも大地の観念、土地範疇というものを具体的に考えていくことが、歴史学にとって、どうしても必要なことと考えている。土地とは何か、大地とは何かということをわかりきったようなことと思っていてはならないということを学術的に問題としうるかどうか。これを網野善彦さんの問題提起とはちがう形で考え、結論をだすこと。












長谷川和紙工房は、岐阜県(武義郡)美濃市蕨生。旧町名、下牧村。下牧村は美濃厚手が中心で、上流の上牧村は美濃厚手が中心の産地であったという。戦前はここで1300軒の紙生産集落であった(美濃市全体では3000軒)。庄名は上有智(こうづち)。山一つ越えた大矢戸は室町から紙産地として著名で、市庭地名も残る。山を北に越えるとすぐ福井。こんなに近いとは思わなかった。E先生は美濃と福井は紙の生産で交流があったのではないかという。たしかにそう思う。歴史の方の現地調査、というよりも土地勘を養うための旅もしたいものだ。
今回使用の楮は近隣の山野で野生化しているもの、黒皮・甘皮・白皮の状態をみせていただく、水にさらした後、甘皮が濡れたままでぶよぶよしている様子を初めて見る。淡い緑色で、顕微鏡でみると、皮の植物細胞の様子がきれいにみえる。繊維の並びと並行に間隔をおいて糞のつまった腸のようなおなじみの柔細胞が確認できる。腸状のものは一定間隔をおいて出現。その繊維のならびと直行する方向に俵状の柔細胞がならんでいるのも確認。表皮での柔細胞はこの二類型があるらしい。石州半紙は甘皮をすべて残す。美濃はすべて残すということはないということ。
(1)灰汁で煮熟が終わる頃、我々は到着。現在はソーダ灰で処理するのが一般的だが、今回は灰汁で処理。ソーダ灰のものは白いが、これは黒灰色。現状の美濃は甘皮もとった煮熟であり、今回もそうした。煮熟すると軟らかくなる。これをしないと繊維が離解しない。美濃は煮熟後、あげてそのまま保存する。灰分があった方が酸化が遅くなるのでとっておける。
その後に、(3)「ちり取り」。水槽の横に、簡単な屋根のついた川屋があり、その中を幅50センチほどの水路が通っている。その水路の両岸に縁がかかるようにして笊(現在では金網製)を置き、そこに干瓢状の楮を一本浮かせて、繊維をいためないようにチリ(節のところで黒くなっている者など)を取る。自分でもやってみたが、これは根気仕事である。
その後が、(4)「叩解」。石盤の上に「ちり取り」の後の楮をおき、両手に美濃でよく使われる短い木槌をもってやる。15センチかける15センチくらい、厚さ7・8センチにまとめたちり取り後のものを横40センチ、縦1㍍くらいに打ちのば
す。蕎麦か餅を打ちのばす感じで、これを4/5回繰り返す。徐々に薄く伸びやすくなっていく。これは繊維を離解するためであるという。
ここでもチリをとるが、基本は不純物を流すことに意味。水が白く濁るほど不純物が流れる様子をみた。これで量がへる。本来の美濃は、この工程を行わないので、半分は「紙だし」をしないままの楮ペーストを残してもらった。