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2011年12月

2011年12月31日 (土)

今年読んだ本、見たもの、そして仕事の勉強

 今年も暮れる。大晦日
 今年の読書で大きかったのは久しぶりに(おそらく30年以上ぶりに)中井正一の『美と集団の論理』を手にしたこと。学生時代の愛読書。いつのまにか書棚になくなっており、北海道での講演でふれたこともあって、読みたくなって、古書で購入。相当部数出た本なのであろうか。意外と安くて驚いた。黄色い装丁が懐かしい。
 他方、美術出版社の『中井正一全集』は書棚にあり、いまそれを手にしている。高校時代のメモが入っているのには驚いた。以前から気になっているのは、全集2の「日本の美」という、戦後、NHKでの講座をまとめた小冊子の内容。これは「日本の美」というものへの賛歌である。たとえば、こういう文章。「日本の神殿の中心である伊勢神宮が、二十一年ごとに建てかえられつづけながら、ここに一千年もの間、しかも滅びることもなく、その様式方法も変えられることもなく、ここに至っていることも、まことに注意すべきことであります。北京の紫禁城のように、または遠く、あのエジプトの宮殿のように、大きく、いかめしく、滅びることがないことを誇りとして造ることを嫌い通すことがむしろ日本では千年つづいたといえましょう」「あえて素木をもって造る時、すでに脱出の用意をしながら、そのうつりゆく清純な生成感、生きているという「生な香り」を神殿の本質と考えようとしたことは、世界に類例のない、民族のこころであります」。
 中井は国会図書館の創設時の副館長。アジア太平洋戦争にむかう戦前の治安維持法体制に抗して動き、特高に逮捕され、以降、敗戦まで、その監視下にあったという経歴をもつ人物である。そういう中井が、「ナショナルな美」というものを強調し、「日本文化論」に近いことをいう。中井の美学が、美の評価のあり方として正しいのか。事実評価としてどうなのか。歴史家としてどう検討したらよいのか。久野収は解説で、この『日本の美』について、「内容については、専門外の編者は何も述べることはできない。ただ読者諸君の評価と批判をまつばかりである」としている。解説によれば、哲学者中井は、特高の監視の下で、「日本の美」についての本格的な調査研究を始めたという。哲学者中井は、その直前に「日本浪漫派」の民族主義・国家主義を批判した「リアリズム論の基礎問題二三」を書いているのである。
 私は、これは結局、保守主義という問題に関わってくると思う。保守主義が納得できる保守主義であるためには、伝統の「美」への共感と理解に十分な筋が通っていなければならない。そういうもので、中井の日本の美についての議論がありうるのかどうか、それは私には、まだわからないが、ここら辺をどう考えるかは、つめてみたいところである。今年の年初のエントリーで書いたが、加藤周一の議論も点検対象なのだが、それとあわせて中井の議論を、歴史家として点検すること。時間ができたらやりたいことである。
111231_212936  展覧会でよかったのは、近くの千葉市美術館でやった浅川巧の蒐集した朝鮮陶器の展覧会。朝鮮に対する植民地支配に批判をもち、柳宗悦と交流し、朝鮮の山と林業のために働いて、彼の地で客死した。浅川の蒐集した陶器をみていると、アジアにおける保守主義はアジアの美を尊重する保守主義でなければならないことを実感する。好きな朝鮮陶磁をゆっくりみられたのは、今年の贅沢であった。千葉市美術館はなにしろすいている。
 さて、自分の勉強で今年の収穫は、古墳時代から奈良時代の勉強をしたこと。地震論と地震火山神話論をやる必要から、ほぼ30年ぶりで勉強のし直しをやった。津田左右吉の明解さがやはり好きなこと、門脇禎二さん、山尾幸久さんの学説が身にあうことなどを確認。それから神話論の溝口睦子さんの仕事にはじめて親しんだことも勉強になった。とくに、溝口さんの仕事を勉強して、どうもおかしいと思っていた丸山真男の「古層」論文の実証と方法の変なところを確認できたのは収穫。
 地震論では、結局、方法論としては、河音能平・関口裕子の怨霊論が一番役に立つというお里が知れる結論となった。つまり、宗教論からいくと、自然神としての雷神、地震神、火山神が三位一体の構造をなしており、それが八・九世紀の過程で、全体として疫神化していく、そして支配層にも恐れられる、それらの疫神・怨霊を中心にした神々が地主神となって新たな村落ができあがっていくという議論。
 関口さんの1972年歴史学研究会大会報告は、歴史学の勉強を始めたころ、始めて聞いた学会報告。関口さんの早口の報告の雰囲気を思い出す。いまではほとんど評価を聞くことがないが、私はきわめて重要な報告であるという意見を変えていない。関口さんの死去のしばらく前に本郷の地下鉄の駅で会えたのは、私にとっては本当にありがたかったこと。私は関口ファンなので、今書いているものに関口さん賛歌をかけるのがうれしい。

 他方、河音さんについては、河音能平著作集での私の解説が不十分であったことが自分でわかってしまいショックである。河音さんはなくなっているから取り返しがつかない。

 さて、ともあれ、みなさん。どうぞ、よいお年を。
 同学のみなさんへ。歴史学の社会的役割を重視する立場にとっては、前近代史研究にとっても、正念場の年になるのではないかと思います。必要な議論をさけずにいきましょう。

2011年12月21日 (水)

地震噴火54九世紀の地震・津波と神話世界

 七世紀から九世紀にかけて発生したおもな地震・津波・噴火の史料を概観してみると、この時代の政治や社会の動きが、これだけ強く地震・噴火に左右されていたことに、歴史家として、あらためて驚かされる。そして、これまでの歴史学が、これらのほとんどを見逃していた事実を前にすると、私たちの歴史学のあり方についての深い懐疑に襲われるのである。
 今村明恒が八・九世紀を「地震活動の旺盛期」としたのは、一九三六年のことであるが、それ以降、すでに七〇年以上が経過したにもかかわらず、それを史料によって細かく確認していく基礎作業は大きな遅れがあった。このことは、歴史学の社会的な役割という点からいって、何といっても弁解できないことである。とくに、この時代が、地震・噴火のみでなく、温暖化とパンデミックという我々の時代と共通する特徴をもっていたことに気づくと、その印象は強い。
 我々は、この列島の長い自然史の中で、過去の人々に対して、同じ列島の上に棲むものとしての共感を本当の意味では持とうとしてこなかったのではないか。現代の人々も過去の人々も、所詮、人類として、同じように、自然の圧倒的な力にさらされているという基礎的な事実さえ実感せずに歴史なるものを考えてきたのではないか、という感想である。
 もちろん、すでに一〇〇〇年を越える時間を経過して、歴史は不可逆的に変化しているが、歴史家としては、過去と現在が大きな共通性をもつこと、その意味で「すべての歴史は現代史である」ということを忘れてはならないと思う。以下、それを念頭におきながら、「大地動乱」を示す史料の中に、思い切って、当時の人々の自然観、国土観などにかかわる諸問題を読みとっていくことにしたい。
 そして、その場合に注意しておきたいのは、この時代の日本が、社会意識・文化意識の点で、六・七世紀以前の神話時代から完全に離陸している訳ではなかったことである。「古代史」の専門的研究をしていると、無意識に八世紀に最終的に成立した文明国家、「律令国家」の段階で神話的な社会意識は過去のものとなったと考えがちであるが、しかし、この時代はまだまだ神話が社会意識として強い生命力をもっていた時代であったはずである。また、この時代の活発な地震と噴火は「神々の神話」を新たな力をもって復活させたのではないだろうか。人々は、地震と噴火の中で自然そのものの圧倒的な力に直面せざるをえなかったはずであり、その中で「神話」を強く意識したのではないだろうか。
 それを明らかにし、この列島に棲むものの自然観、国土観の過去を理解することは、同じ列島に棲む現代の我々に深く関わってくるはずである。

噴火と地震が連動した約五〇年

 九世紀、「大地動乱」の中で、この列島に棲む人々は、確実に、この列島の国土全体を意識させられることになった。それは、二〇一一年に東日本太平洋岸地震を経験した私たちと同じことである。
 念のために確認しておくと、八六九年(貞観一一)の陸奥沖海溝地震をはさんで、その五年前には富士の噴火(八六四年)、二年前には別府鶴見岳・阿蘇姫神の噴火(八六七年)、一年前には京都の群発地震と播磨国地震(八六八年)が起きている。そして同じ年に肥後国の津波地震が発生し、さらに二年後に出羽鳥海山の噴火(八七一年)、九年後に関東大地震(八七八年)、一一年後に出雲地震と京都群発地震(八八〇年)が起きている。そして、少し後までみると、一八年後に東海南海大津波地震(八八七年)、そして四六年後に十和田カルデラの大噴火が起きるのである(九一五年)。十和田カルデラの噴火は、有史以来、日本で最大規模の大噴火であった。この間、最初の富士噴火から最後の十和田カルデラ噴火まで五一年にすぎない。
 今村明恒は、列島における「地震旺盛期」の中心には「三陸沖の地下大活動」があるといったが、その正確さにあらためて驚ろかざるをえない。とくに、重大なのは、この時期、地震と噴火が連動しているようにみえることである。このような連動は、この列島の歴史の中でももっとも顕著なもので、これと比較できるのはおそらく、江戸時代の一七〇〇年代に続いた地震と噴火、つまり一七〇三年の元禄関東地震、一七〇七年の宝永東海・南海地震、同年末の富士大噴火、そして、一七七九年の桜島、一七八三年の浅間山、一七九二年の雲仙普賢岳の噴火という約一〇〇年間のみであろう。しかし、一七〇〇年代では、第一の波と第二の波の間は約八〇年ほどもあいている。それに対して、九世紀の噴火と地震の集中期間は五一年。この時期が、この列島の地震と噴火の歴史にとってきわめて特別な時期であったことは一目瞭然であろう。

祇園御霊会と牛頭天王

 人々は、この列島の大地の運動をまずは神々の動きという形で感じていた。それを迷信などと嘲笑してはならない。神話や宗教的な観念も、八・九世紀には、列島の自然を認識し記憶するためのツールだったという側面を考える必要があるのである。私たち自身が、どれだけ科学を自己のもの、社会のためのものとして理解し、掌握することができているかを疑うべき時代なのであって、歴史家としては、昔の人々のことは笑えないという態度こそが穏当な常識というものだと考える。
 さて、この意味での普通の人々の予知と認識の能力を、もっともよく示しているのは、陸奥沖海溝地震の翌月、八六九年(貞観一一)年六月に祇園御霊会が始まったという伝承であろう(『祇園社本縁録』)。普通、それは、猛威をふるっていた疫病の流行をくい止めるために、その疫病をはやらせていた午頭天王を播磨国広峯神社から京都にまで迎えて、疫病の消除を祈ったものとされている。その時、日本全国六六国の数になぞらえて六六本の矛を立てたのが祇園祭の鉾の最初であるというのは有名な話だろう。もちろん、この社伝を伝える祇園社の記録は古いものではなく、そのまま信じることはできないが、しかし、これまで何度かふれてきたように、疫神と地震神の神格は深く関係しており、日本最大の疫病神・牛頭天王の祭りである祇園御霊会が、陸奥沖海溝地震の翌月に始まったという伝承を無視することはできない。
 まずこの牛頭天王とは、鎌倉時代初期までには成立した『色葉字類抄』によれば、別名を武答天神といい、東王父と西王母の間に生まれた王子であるという。中国の道教の強い影響をうけて成立した「陰陽道」の主神ともいえる神である。陰陽道については、ここで詳しくふれることはしないが、鎌倉時代中期に成立した『釈日本紀』の引用する『備後国風土記』逸文によれば、北海の神の武塔神は、南海の女神に求婚にでかけ、その旅の途中、ある兄弟の家に宿を乞うたところ、裕福な弟は宿を貸そうとせず、貧乏な兄の蘇民将来が歓待した。この兄弟の家を帰り道に再訪した武塔神は、裕福な弟の家を疫病で全滅させたという話である。この時、蘇民将来に対して、「弟の家には、誰かお前の子孫がいるか」ときいたところ、蘇民将来が、「娘が弟の妻となっている」といったため、武塔神は、「娘の腰に、茅の輪を付けさせろ、それ以外は、弟の一族を根絶やしにする」と宣言したという。そして、武塔神は自分は速須佐雄能神であると名乗り、蘇民将来に対して、お前の子孫は、「蘇民将来の子孫」と名乗り、茅輪を付けていれば疫病を避けることができると告げたという訳である。
 祇園祭の時に、「蘇民将来子孫也」と記された厄除の粽が、祇園社社頭で授与されることはよく知られているが、牛頭天王は蘇民将来に救われた恩義に報いるために、蘇民将来札がある場合は、その家には災厄を及ぼさないという訳である。ようするに牛頭天王=武塔神は、疫病の神であって、祇園社を初めとして各地の神社で、夏の流行病の季節の前に行われる「夏越祭」では、この神が害を及ぼすことを避けるため、茅輪の御守や蘇民将来札が配られることもよく知られているだろう。

牛頭天王と素戔鳴尊

 重要なのは、『備後国風土記』で、牛頭天王が自分の本性をスサノオと述べていることであろう。もちろん、この『備後国風土記』逸文は、他の『風土記』よりもその成立が下る可能性が指摘されており、たしかに武塔神・蘇民将来などという神格は『風土記』に登場する神としては新しすぎるようにも思われることである。『釈日本紀』は、鎌倉時代中期、神道の家、卜部氏の編纂したものであるから、そこに、その時代の思想が反映していることもたしかであろう。
 これまでの研究は、これを一つの理由にして牛頭天王がスサノウが同体と観念されるのは鎌倉時代以降のことであるとしてきた(山本ひろ子『異神』、斉藤英喜『陰陽道の神々』、仏教大学鷹陵文化叢書、思文閣出版)。最近の日本文学に根をおく神話研究では、日本の神話世界が平安時代末期以降に大きく変容したことを強調し、そこに形成された神話を「中世日本紀」「中世神話」の世界と呼んで、それが記紀神話とはまったく異なる、密教や陰陽道の影響の下で、怪奇・混沌・異貌の世界となっていることを強調することが多い。たしかにそれによって明らかになったことは多いのだが、それはややもすると、『古事記』『日本書紀』の神話を古典として固定されたものとして特別視してしまったり、奈良時代から平安時代にかけての神話が連続的に変化していくものと考えず、文明化による一種の断絶を想定してしまう傾向におちいっているように思える。何か固定的で完成されたものがあって、それが変容・解体して「中世神話」が生まれてくるという発想法をとってしまうと、歴史とともにダイナミックに変化していく様相をとらえそこない、結局、精緻な研究とはなっても、鎌倉時代以降の神道家のテキスト解釈を裏側からなぞっていくことに終始してしまうことにもなりかねない。
 しかし、私は、日本の神道史の基本史料である「廿二社註式」に「牛頭天王。大政所と号す。進雄尊垂迹」とあることは、牛頭天王の本体をスサノオとする観念を簡単に牽強付会とすることには疑問をもつ。少なくとも、この牛頭天王の物語が、遅くとも九世紀の初めには近畿地方で流行していたことは、牛頭天王に深く関わる蘇民将来伝説を示す木札が、長岡京から出土していることに明らかである(櫛木都市王権論文、105頁。『長岡京市埋蔵文化財センター年報』二〇〇二年度。平成一二年)。「神仏習合」の動向の中で、すでに、この段階から、午頭天王のような疫神についても日本神話の中の神々との習合が起きた可能性は高いのではないだろうか。牛頭天王=武塔神は東王父・西王母の子供とされているが、東王父・西王母は、記紀神話の神でいえば、イザナギ・イザナミにあたるから、スサノオの父母たるにさわしい神格なのである。

疫神=地震神としてのスサノオ

 そもそも、神道史の西田長男がいうように、スサノオは『古事記』『日本書紀』の段階から、汚れの神=大禍津日神と同体とされるである疫病の神、行疫神であると同時に防疫神であった。この点で午頭天王と同じ神格であるとされるのは自然なことである。
 つまり、よく知られているように、スサノウは、日本の国土の創造神とされる父神イザナキ・母神イザナミの間にうまれた男子であるが、母イザナミはカグツチという火の神を出産したとき、大やけどをおって死んでしまった。それを嘆いた父イザナキは「根の堅州国」に妻を訪ね、妻を地上に取り戻そうとしたが、妻のイザナミの、遺体を「覗くな」という願いに反して、タブーを犯し、妻を連れ戻すのに失敗してしまう。地上に帰ってきたイザナキは、海岸で禊ぎをし、海にもぐって身体を浄めた後、目と鼻をあらう。その時、左目から生まれたのが日神アマテラス、右目から生まれたのが月神ツクヨミ、そして鼻から生まれたのがスサノオであったという。
 ここで神話が比喩しているのは、イザナキの鼻は、禊ぎの後ももっとも強く黄泉国の穢を残していた部位であって、イザナキが黄泉国から連れてきて、この世に放った穢の病の神、大禍津日神ともっとも近い部位であるということである。そこから生まれた神は大禍津日神と同体の神であるというのである。もちろん、西田がいうように、スサノオが穢に満ちた神であるということは、スサノオが強い神であり、さらに穢をエネルギーとし、穢から人々を護るというプラスの神格をもつことを意味する。こういう論理をもって、『古事記』はスサノオが午頭天王と同じく、行疫神であると同時に防疫神であることを語っているのである。
 さらに重要なのは、神話学の吉田敦彦が、このスサノオを地震神であったとしていることである。つまり、『古事記』によれば、スサノウは、目から生まれたアマテラスなどと違って、黄泉国の汚れ、母の精気を強く帯びている男子であるだけに、母を連れ返すことに失敗した父をうらみ、母のいる「根の堅州国」を恋いしたって「哭きいさちる」、つまり大泣きにないて暴れ狂うばかりであったという。父神のイザナキは、そのようなスサノオを嫌がり、怒り見放してしまうが、一人になったスサノオは、天にいる姉のアマテラスを慕って、アマテラスの治める高天の原に駆け上がった。『古事記』は、その時の様子を「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」と描写している。
 吉田は、この一節に注目し、スサノオの動きによって、山川が動き、国土が震動したという以上、スサノオに地震神としての性格をみることができるとしたのである(吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書一九七六)。これは『古事記』のテキストにそくした議論からいっても了解可能なものであると考えられる。そして、さらに吉田が、神話学研究の立場から、ギリシャ神話におけるポセイドンは、海の神であると同時に地震の神であるが、スサノオもそれと同じなのだと断言していることはきわめて興味深い。これは歴史家による神話論ではまったく無視されている視点であるが、正鵠を射たものと考えられる。
 ようするに、スサノオは、午頭天王と同様、疫病神=防疫神であると同時に地震神であったということになるのであるが、これまで論じてきた疫神と地震神の神格が深く関係するということからみても、陸奥沖海溝地震の翌月に始まったという祇園御霊会が、牛頭天王の祭りであるのみでなく、スサノオを祭ったものであるということが納得できるのである。
山崎断層の神社・広峰神社
 とはいっても、祇園会についての平安時代の史料はきわめてとぼしく、これまでの通説と異なって、牛頭天王とスサノオが九世紀から習合し、同体と観念されていたというためには相当の傍証が必要である。
 そこでまず、播磨国広峯神社から牛頭天王がやってきたという伝承は信頼できるものかどうかから考えることになるが、平安時代の史料で広峰神社と祇園社の関係をしめすものは存在しない。しかし、後代の史料ではあるが「廿二社註式」は次のように述べている。

牛頭天王。初め、播磨明石浦に垂迹し、広峯に移り、その後、北白河東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中に、感神院に移る。
(廿二社註式。『群書類聚』巻二)。

 「廿二社註式」という史料は室町時代に下る史料であるが、これはおそらく信頼に足るものである。というのは、鎌倉時代の初め、一二一六年(建保四)に、広峰神社が幕府に対して「播磨国広峯社は祇園の本社」と主張して守護使の不入を要求しており、幕府もそのような主張を拒否はしていないと考えられるからである(『鎌倉遺文』補七一〇、三一六六)。広峯が祇園の本社であるという主張は、後には祇園社の側から否定されるようになるが、広峯神社と祇園社の関係が古くにさかのぼることは否定しがたい。
 そして、牛頭天王のやってきた播磨国の広峯神社は、本来は広峯という名前ではなく、その前身は、八六六年(貞観八)に従五位下の神階をうけた播磨の速素戔烏神であった可能性が高い。つまり、この神社のある曽左村の「曽左」とはスサノオのスサであると考えられるのである。またスサノオ神話という点からみると、播磨国はスサノオの重要な活動場所の一つであることはいうまでもでない。
 そして何よりも重要なのは、この神社の立地と八六八年(貞観一〇)の播磨国地震の震源となった山崎断層との関係である。つまり、この地は、姫路市の北部、夢前川が山間の峡谷から流れ出る場所の東の丘陵に位置しているが、実は、その北をすでにふれた山崎断層が通っている。山崎断層は、加古川・姫路・相生の北を通り、やや西北から東南に傾いて、広峰神社が位置する峡谷の向こう側から播磨平野に頭をだしてくる断層である。この断層を震源とする揺れが、東南に走って、神戸の断層帯にあたり、そこで増幅されて、さらに淀川地帯を走る何本かの断層を通じて京都群発地震を引き起こしたのである。
 このとき、ちょうど陽成天皇の誕生を目前としていた宮廷は、これを驚き恐れた。そして、神戸の六甲山地東南縁断層帯の上に位置する広田社・生田社の神が、この地震は自分の「フシゴリ」(怒り)のためだと託宣を下したため、慌ただしく広田社・生田社に贈位した。しかし、人々の間では、この地震を起こした神は、広田・生田神社ほど有名ではないものの、実際の震源地に近い播磨国のスサノオ神と考えた人が多かったのであろう。人々は、スサノオが、この播磨・京都群発地震において、播磨から京都まで地鳴りと伴に巨歩を運んだとイメージしたに違いない。この点で、広峯神社から、京都へのスサノオの移座に際して、一時、神がとどまった旅所として、神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社などが伝承されていることも無視することはできないだろう。これは地震波の伝播ルートそのものに重なるのではないだろうか。
 ようするに、京都群発地震の翌年、陸奥沖海溝地震が陸奥国に大きな被害をあたえたのを知った人々は、折からの疫病・飢饉に対する恐れとあいまって、播磨の地震神・スサノオを京都に迎え取り、この神を祭ることによって、すべての災厄を祓おうとしたのである。それは広峯神社と祇園社の関係という形で、播磨から京都への地震の波及ルートを誰にも見えるようにした。これによって、それまで京都では名前を知られていなかった播磨国のスサノオの鎮座する神社が、これ以降、一挙に有名になって広峯神社に発展し、祇園社の本社ともいわれるようになっていったことは、このこと抜きには考えられないのではないだろうか。
 広峯神社の祭神の性格についての、以上のような推定は、まずスサノオの地震神としての神格を、『古事記』以外の歴史史料で示す決定的な意味をもつことになり、さらに祇園会の祭神としての牛頭天王がスサノオと同体であることの傍証ともなるのである。
 こうして、陸奥沖海溝地震・津波の前年、八七八年の七月の播磨国地震、そしてそれ以降一二月までの連続した京都群発地震を起こした神がスサノオと考えられたということは、この時代の人々の国土意識のあり方を端的に示したものといってよいだろう。

書写山円教寺と性空上人

 なお、これは重要な問題であるだけにさらに傍証を提出しておくと、広峯神社の丘陵から、夢前川の渓谷のちょうど向こう側の位置に、一〇世紀、書写山円教寺が開創されたことがある。つまり、その設立者は、性空上人。性空上人は、七八八年の霧島山の噴火に関わって、すでに言及したように、その法華経読誦の瞬間に、霧島の噴火と地震が起きたという伝承をもつ修行者である。そして、そこでは紹介しなかったが、実は、その伝説は、その時、噴火の中から、大蛇(龍)が示現し、上人が、その龍の発した光を追っていくと、播磨国書写山にいたったと続いている。書写山とは「スサ」山の音便で、つまりその意味をとればスサノオ山であるが、広峯神社のすぐ東の寺院、すなわち書写山円教寺である。
 この山崎断層南の渓谷は、そういう火山の行者が来るにふさわしい場所、地震に深く関係する伝承をもつ土地であったのである。書写山が開創されたのは一〇世紀であるが、おそらく九世紀、祇園会の建立の頃から、すでにこの夢前川入り口の「曽佐村」の丘陵地帯には、山林修行を行う僧侶たちの姿がみられたのではないだろうか。
 しかも、興味深いのは、性空上人が、地震を身辺に起こす験力をもっていたという説話が伝えられていることである。『今昔物語集』(巻一二ー三四話)によれば、性空上人は、法皇・花山院と面会した時、花山院が性空の肖像を描かせようとしたが、その時、性空は、自分の肖像を描こうとすると、その前後に地震が起こると預言し、実際に地震が起きたというのである(ほかに『大日本国法華験記』(巻中、四五)『古今著聞集』巻11)。前述のように、仏教には釈迦は自由に大地の「六種震動」を起こしたり止めたりすることができるという神話があり、また修行者も釈迦ほどではないものの地震を操作することができるという考え方があった。この性空上人のエピソードは、その例であるといえよう。同じような話はほかにも『今昔物語集』にでてくるから、仏教が地震を制御できるという感じ方は、確実に奈良時代の聖武天皇の時代から平安時代に持ち込まれていたことがわかるのである。

陸奥清水峯神社の牛頭天王とスサノオ

 さて、以上を前提として陸奥沖海溝地震をふり返ってみると、祇園会の開始の翌年、つまり陸奥沖地震の翌年、八七〇年(貞観一二)に、宮城県仙台の名取の清水峯神社に牛頭天王が、やはり播磨国明石浦の広峯から移座してきたという伝承があるのが注目される。この牛頭天王がスサノオと同体とされているのもいうまでもない。これは同神社に伝えられた「清水峯神社由緒」という由緒書に記されたことであるが、私は、それを飯沼勇義『仙台平野の歴史津波ーー巨大津波が仙台平野を襲う』で知って本当に驚いた。同書は、仙台平野の津波痕跡を考古学や民俗学の研究にもとづいて総覧し、今回の東日本太平洋岸地震の前から、強い警告を発していたものとして著名なものであるが、それは地域史史料の通史的で広範囲な調査の威力を物語っている。
 もとよりこの由緒書は、江戸時代以降のもので、しかもそこに書かれているのは、疫病流行で困っていた清水峯神社の氏子が、播州広峯の神徳を信仰した天皇が、祇園社に祭ったのをみて、それを真似たということのみである。そこには、地震・津波のことはまったく登場しない。しかし、それは祇園信仰に共通する語り口をうけたものであって、八七〇年=「貞観十二年」が清水峯神社への牛頭天王の勧請の年とされている背景には、実際に陸奥沖津波に由来する何らかの伝承があった可能性は認められるべきであると思う。
 なによりも、この伝承は、平安時代に祇園社と祇園信仰が全国に広がっていった背景を示すものとして特筆すべきものであると思う。広峯と祇園社の信仰が地方に広がっていく様相を示す史料は、現在のところ、ほかには発見できないが、しかし、前述のように議論御霊会例しか存在しないが、おそらくそのような例は多かったに相違ない。その中で、広峯・祇園の牛頭天王=スサノオ信仰が各地に広まっていたことはほとんど疑いがない。
 ようするに、祇園祭と宮城名取の清水峯神社の祭神の牛頭天王=スサノオは地震の神であって、そのような神を祭る神社として、この時期、京都と陸奥を始め、各地で一つの流行神として広く祭られるに至ったと考えられるのである。それは別の言い方をすれば、日本神話の中でもっとも著名な神、スサノオが、地震の揺れとともに各地において、新たな脚光をあびたということを意味している。

2011年12月18日 (日)

地震噴火53『方丈記』とその時代

 以前、阪神大震災ののちに、神戸の資料ネットワークで講演をした。四苦八苦して「神戸と方丈記の時代」というテーマを用意した。 あの時が、初めて地震について考えた経験。日本文学のAさんから来年五月に、朝日カルチャーで『方丈記』の話をしてほしいという御断りできない話があって思い出した。

 その時の講演をウェッブページに載せた。『神戸と方丈記の時代』。今読むと不十分なところが多い。ただ、あの時の会場の雰囲気はよく覚えている。自然災害、地震への損害補償は、かならず実現する要求だと考えると講演の最後で発言したが、そして小田実氏の仕事を、その後からまた読むことが多くなったが、しかし、今回の震災のことを考えると、ああ我なにをなせしという感じになる。

 以下は、PCの中に残っていた草稿より、方丈記の地震記事。

 又おなじころかとよ。おびたゞしくおほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山はくづれて河をうづみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、いはほわれて谷にまろびいる。なぎさこぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬はあしのたちどをまどはす。みやこのほとりには在々所々堂舎塔廟ひとつとして、またからず。或はくづれ、或はたふれぬ。ちりはひたちのぼりてさかりなる煙の如し。地のうごき、家のやぶるゝおと、いかづちにことならず。家の内におれば、忽にひしげなんとす。はしりいづれば、地われさく。はねなければ、そらをもとぶべからず、龍ならばや雲にも登らむ。おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけりとこそ覚え侍しか。

 長明の筆は、この地震のもたらした恐怖を語ってあますところがない。ところで、『方丈記』は、元暦の大地震の被害を述べたあとで、「すなはちは人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心のにごりもうすらぐとみえしかど、月日かさなり、年へにしのちはことばにかけていひいづる人だになし」、つまり、地震の直後は世の中の無常をいいあって、心の濁りも薄らぐようであったが、しばらく後には、地震の被害を言葉に出すこともなくなっていった」と述べている。そして、長明は「すべて世の中のありにくゝ、わがみとすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし」、だから山の中に隠棲してしまおうと、筆をつなげるのである。

 もう一つ長明の文章で興味深いのは、九世紀の斉衡の地震についての言及があること。長明には平安時代が終わったという感慨があり、それを都遷りとの関係で論じている。そこからみると、九世紀を振り返るのは自然なことのように思う。

2011年12月17日 (土)

地震噴火52『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』。

 寒川旭さんの著書『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』の新聞書評(東京新聞)を書いた。勉強になった。寒川さんが全国を歩いて、いわば足で書いているのをよんでかなわないと思うし、うらやましい。書斎派歴史学に問題が多いことは自覚しているつもりだが、今から取り戻すのはなかなか難しい。

 地震の時にふきでる墳砂はよく知られるようになった。ただ、本書で生々しい写真や、弥生の遺跡をつらぬいた墳砂の上に地霊を祭った跡があるという説明を読むと、強大な自然の力に驚く人間は、昔も今も違わないという感を強くする。
 本書は、紀元前後からこの列島の各地で発生した地震のすべてをわかりやすく解説している。著者は地震学者で、同時に地震考古学という学問分野の創始者であるが、その目からすると、大地は柔構造で動くものにみえるらしい。それほど沢山の全国各地の地震の記録が紹介されている。
 脱帽するのは、地震の政治への影響についての指摘である。たとえば八世紀の大和河内地震が聖武天皇の遷都にどう影響したか、菅原道真を日本で最初の地震学者とした背景は何か、桃山時代が、日本史上、列島最大の地震活動期であったことが戦国時代の終末にどう影響したか、徳川綱吉の場合はどうか、そして江戸時代のお家騒動への地震の影響などなど。
 東日本太平洋岸地震の原型とされる八六九年の陸奥沖海溝地震の直後に、京都で祇園祭が始まったのは偶然でないとしているのも卓見で、私見では、これは前年の播磨地震で地震とともに播磨広峰のスサノオ神=牛頭天王が京都にやって来たと考えられたことに関わるらしい。スサノオは海の神だが、ギリシャ神話のポセイドンと同じように地震の神でもあったからである。
 歴史家としては、著者の指摘をうけ、問題をさらに細かく追求し、歴史文化や歴史教育の内容を変えていく責任があると思う。地震・津波は日本の自然の最大の特徴であり、それに対する知識がゆたかで生き生きしたものになりうるかどうか。子供たちに、ただの警戒心ではなく、郷土と人々への共感をはぐくむ歴史意識を提供できるかどうか。無主・無縁の自然の奥底までをみる力を提供できるかどうか。歴史学にとっても正念場である。

2011年12月12日 (月)

地震噴火51テレビNHKETV特集、地震学者の警告

 今、総武線の朝。昨日の夜は10時からETV特集「大震災発掘、埋もれた警告」をみて疲れて寝る。こんなに長い時間テレビをみるということは久しくなかった。
 NHKの人から歴史地震関係の取材をうけていたが、それは番組にいれられなかったという連絡があって番組の存在を知る。しかし、地震学関係の「警告」を関係の研究者が登場して証言する、番組の迫力は相当のもの。歴史学の本質は、一歩、引いて見るというところにあるので、このような即物的迫力をもった証言はできない。
 私には、「変動地形学」の解説が勉強になった。活断層研究はリニアメントを追跡する経験的方法でやるのだというのが『日本の活断層』などを読んで知ったこと。しかし、地形変動の諸類型を想定し、地形変化の動態歴史を追求する「変動地形学」というものがあるという。これは歴史学と深く直接に関わってくるように思う。昔の人々はそういう地形をみる能力をもっていたということをどうにか復元できないか。
 地震学からは会ったことのある人、論文を読んだことのある人がみなさんきつい顔で発言されていた。そういう(客観的な)ネットワークがあることを、この間の経験で少し知るようになり、その端に自分を位置づけるようになったというのは、私にとって今年の珍しく明るい経験であった。
 学術分野からみていると、国の防災対策、地震対策、原発立地対策がどうみえているのかということが、見ている人には伝わったと思う。でてきた人のほとんどは、「名誉教授」であるが、後を受けている研究者も多い。
 「貞観津波」の最初の発掘をした東北大学の箕浦幸二氏が最初にでてきて、今回の津波によって土地が削られ、仙台平野の各所で「貞観津波」の残した砂層が露出していることを確認している場面が印象的であった。箕浦先生の研究は二五年前。しかし、研究としては決定的なもの。その発表の後に、地上げ関係者からの妨害があったというのに驚く。二五年前というと、私は中世遺跡の保存運動などでギリギリの時。あの時期にもう一つやるべきことがあったということになる。
 それにしても原発開発者のやっていることは、学者から見ると、ようするに地上げ関係者、「その筋」と同じことであるというのが番組全体をみて重くせまってきたこと。活断層を8キロと値切って建設費用を安く上げ、10年後には研究の進展といって20キロと認め、それでも安全と強弁するという神経は、個人の普通の人間関係ではありえないものである。一流企業のやることでもないだろう。
 そういう原因者・開発者に調査させて、それを審議しろといわれても困るというのが、東大理学部の池田さんが最後にいっていたこと、それは裁判をするのに、被告のみの提出した書類のみにもとづいて審理をするのと同じことだとおっしゃっていた。こういう普通の正論が普通の正論として通る社会になるということで日本社会のもつ問題の相当は片づいていくはずである。それは理想社会を夢見るという話ではない。社会の変化、発展といっても、それは根っこにいけば実は単純な話なのである。
 この番組は、原発開発者や、その危険性を容認した官僚や「学者」にとっては社会的な名誉に関わってくる話であろう。その中枢は丸山のいう「無責任構造」であるが、しかし、そうだからこそ、個人責任を明瞭にしなければならないというのも明瞭な話である。そして、それを考える場合は、その社会の名誉構造がどうなっているかが大事だと思う。
 日本現代は、社会的な名誉というものが、実際上、非常に軽くなってきてしまった社会である。「コケンにかかわる」という諺があるが、これは本来は「沽券に関わる」という意味である。「沽券」=「売買契約書」。売買や契約に関わって不正義があった場合は、社会的栄誉を否定されてもかまわないというのが、その本来の意味である。つまりそれは社会における信義誠実の原則のことをいう。一部特権企業のやり方が押し通ってきたということは、ようするに、現代が、そういう栄誉の体系というのが失われた社会であることを意味している。栄誉はどうでも収入さえあればよいという「その筋」の社会と同じでないことを願う。
 話しが例によって流れたが、私のような保守的社会主義者、つまり社会的価値と伝統を大事にするということを社会観の基礎にすえることを望むものにとっては考えることが多い。

2011年12月 4日 (日)

『禅林句集』 家貧未是貧 道貧愁殺人

 家貧未是貧 道貧愁殺人
 家貧にして未だこれ貧ならず、道貧にして人を愁殺す。
                  (佛果圜悟禅師語録)
 一昨年でた『禅林句集』(足立大進編、岩波文庫)をときどき持ち歩く。先輩から借りっぱなしになった『禅語字彙』が仕事の机においてある。それと似たようなものではあるが、やはり、私には違う。『禅林句集』には大燈国師が出てくる。持ち歩けるのもありがたい。上も『禅林句集』。
 私は東洋思想にはまったく素養がない。これはコンプレクスで、一昨年のころ、ある勉強会に入れていただくことを御願いしたが、さすがに余裕がなく、せっかく御了解いただいたのに失礼をしている。 
 大塚久雄先生に『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房)という本があって、これも心が屈するとよむ。上の圜悟克勤の禅語は同じことをいっていると思うのだが言葉として力強い。大塚先生の本は読んでいると大塚さんの姿が浮かび、声が聞こえてくるので、私には強い力をもっている。佛果圜悟禅師は、仕事で名前をしっているだけで、全然想像もつかない方。それでも、この句に力強さを感じるのは、漢語という形式のせいというべきか。何なのか、私にはわからないが、多くの人々が真理としてこの断定によって心を決めてきた長い時間がそこに凝縮しているとでもいうべきか。言語技術としての安心、あるいは宗教ということを感じる。
 私は無宗教の人間であるが、小学校、中学校時代には二つの教会に通っていたことがあり、聖書の言葉、賛美歌、そして祈りの言葉というものの実感をもっている。中井正一の「委員会の論理」(『美と集団の論理』)が、紀元前5世紀前後以降、世界宗教において瞑想が可能になったのは経典、スクロールによる言葉の共有があったからだというのは、私には、よくわかる。
 禅はさらにつよく言語技術としての、心の技術という側面をもっているのだと思う。以前、管理的な仕事がふってきた時に、偉い御坊さまに「雪を擔ひて古井を埋む」という墨跡をいただいた。これがあるだけで、たしかに気持ちが楽になるのである。
 いま12月3日土曜帰りの電車。『禅林句集』からもう一つ。
 去年貧未是貧 今年貧始是貧
 去年の貧は未だこれ貧ならず、今年の貧は始めてこれ貧。
               (景徳伝灯録)
 
  あらためて貧ということ、様々な労苦や困難を実感することで、経験というものを乗り越えていくのだという強さを、ここに感じる。
 実は、この句を年賀状に載せようと思っていたのだが、それも何だかなあということで、ここに載せることにした。ともかく今年は、私の年賀状の年紀は、(今計算すると)核時代後68年(2012)となるはずなので、上の句と組み合わせるのはあまりに重くなる。
 核時代の中で日本は二度目の核汚染に見舞われた。これは、去年の貧は、今年の貧として永久に続くということである。自然の中に残った人間の負債は消えない。とくに核汚染は消えない。これは時間を考えることを仕事にしている
歴史学者にはきつい話となる。「ぱっとはぎ取られたあとの世界」。来年は原民喜と峠三吉をよむことになるのだろう。
 

日本仏教界の脱原発の声明

以下に、これも宗教学の島薗進氏のTwitterで知った全日本仏教会の宣言文を引用します。これが常識だろうと思います。賛成です。

原子力発電によらない生き方を求めて

東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

日本は原子爆弾による世界で唯一の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。

全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ幸福を願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和することを願います。
そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。

   2011(平成23)年12月1日

財団法人 全日本仏教会

2011年12月 3日 (土)

ドイツ放射線防護協会の会長のフクシマ事故に関しての談話

 以下は、宗教学の島薗進さんのtwitterからのリンクで取ったものです。転載させていただきます。私はこの記事は重要と考えます。
先日のベルリンの講演会会場には主催団体および参加団体のパンフレットやチラシなどが置いてあった。その中にはドイツ放射線防護協会の会長によるフクシマ事故に関しての新しい報道発表もあったので貰って来た。

重要な内容と思われるので翻訳して日本へ紹介したいと考えたが、この両日は他の用事がいろいろあって私には余裕がなく、在独の親しい友人(翻訳業に従事)に相談したところ、快く翻訳を引き受けてくれた。ありがたく訳文を受け取り、ここに転載させて頂く。



放射線防護協会

Dr. セバスティアン・プフルークバイル

2011年11月27日 ベルリンにて


報道発表


放射線防護協会:

放射線防護の原則は福島の原子炉災害の後も軽んじられてはならない。


放射線防護協会は問う:

住民は、核エネルギー利用の結果として出る死者や病人を何人容認するつもりだろうか?


放射線防護においては、特定の措置を取らないで済ませたいが為に、あらゆる種類の汚染された食品やゴミを汚染されていないものと混ぜて「安全である」として通用させることを禁止する国際的な合意があります。日本の官庁は現時点において、食品の範囲、また地震と津波の被災地から出た瓦礫の範囲で、この希釈禁止に抵触しています。ドイツ放射線防護協会は、この「希釈政策」を停止するよう、緊急に勧告するものであります。さもなければ、日本の全国民が、忍び足で迫ってくる汚染という形で、第二のフクシマに晒されることになるでしょう。空間的に明確な境界を定め、きちんと作られ監視された廃棄物置き場を作らないと、防護は難しくなります。「混ぜて薄めた」食品についてもそれは同じことが言えます。現在のまま汚染された物や食品を取り扱っていくと、国民の健康に害を及ぼすことになるでしょう。


焼却や灰の海岸の埋め立てなどへの利用により、汚染物は日本の全県へ流通され始めていますが、放射線防護の観点からすれば、これは惨禍であります。そうすることにより、ごみ焼却施設の煙突から、あるいは海に廃棄された汚染灰から、材料に含まれている放射性核種は順当に環境へと運び出されてしまいます。放射線防護協会は、この点に関する計画を中止することを、早急に勧告します。


チェルノブイリ以降、ドイツでは数々の調査によって、胎児や幼児が放射線に対し、これまで考えられていた以上に大変感受性が強い、という事が示されています。チェルノブイリ以降のヨーロッパでは、乳児死亡率、先天的奇形、女児の死産の領域で大変重要な変化が起こっています。つまり、低~中程度の線量で何十万人もの幼児が影響を受けているのです。ドイツの原子力発電所周辺に住む幼児たちの癌・白血病の検査も、ほんの少しの線量増加でさえ、子供たちの健康にダメージを与えることを強く示しています。放射線防護協会は、少なくとも汚染地の妊婦や子供の居る家庭を、これまでの場合よりももっと遠くへ移住できるよう支援することを、早急に勧告します。協会としては、子供たちに20ミリシーベルト(年間)までの線量を認めることを、悲劇的で間違った決定だと見ています。


日本で現在通用している食物中の放射線核種の閾値は、商業や農業の損失を保護するものですが、しかし国民の放射線被害については保護してくれないのです。この閾値は、著しい数の死に至る癌疾患、あるいは死には至らない癌疾患が増え、その他にも多種多様な健康被害が起こるのを日本政府が受理していることを示している、と放射線防護協会は声を大にして指摘したい。いかなる政府もこのようなやり方で、国民の健康を踏みにじってはならないのです。


放射線防護協会は、核エネルギー使用の利点と引き換えに、社会がどれほどの数の死者や病人を許容するつもりがあるのかと言うことについて、全国民の間で公の議論が不可欠と考えています。この論議は、日本だけに必要なものではありません。それ以外の原子力ロビーと政治の世界でも、その議論はこれまで阻止されてきたのです。


放射線防護協会は、日本の市民の皆さんに懇望します。できる限りの専門知識を早急に身につけてください。皆さん、どうか食品の閾値を大幅に下げるよう、そして食品検査を徹底させるように要求してください。既に日本の多くの都市に組織されている独立した検査機関を支援してください。


放射線防護協会は、日本の科学者たちに懇望します。どうか日本の市民の側に立ってください。そして、放射線とは何か、それがどんなダメージ引き起こすかを、市民の皆さんに説明してください。


放射線防護協会

会長

Dr. セバスティアン・プフルークバイル

2011年12月 2日 (金)

文字を読むこと、教わること。

 私は歴史家ではあるが、編纂が業なので、昨日は文字が一つ読めず、往生していたところ、同僚の後輩が、崩し字辞書を引いてくれて、「薬」ではないかといってくれた。文節の冒頭にくる二文字の名詞で御茶や壺にかかわる名詞であることは明か、そして上の字が「土」であることは明かなのだが、下の字が読めない。「葉」か「参」か、あるいはいっそ「茶」か。こういうのは5分考えてわからなかったら行き止まりに頭が入り込んでいるので、周りに聞くのが一番早い。人の意見を聞いただけで、頭が別に動き出すということもある。1分後、崩し字辞書をもって、机を回ってきて「薬」ではないかと。ありがたく、深々とお辞儀。

 わからない字を読むには文字の形で3つ、文字の意味で3つの候補を出して、その順列組み合わせで考えるのだというのは先輩の教え。とはいっても、しかし、陶器や茶道となると、まったく意味の候補がでてこない。順列組み合わせもできなかった。
 誰もがよくやるように、「似た字メモ」あるいは「わからない字、読めない、読めなかった字メモ」というのを作ってあったのだが、糸がとれてバラバラになって整理も悪いので、ノートの形式を変えることにして、生協に散歩にでてノートを買ってきた。

 この「土薬」は『日本国語大辞典』(小学館)にもないが、散歩しながら、釉薬のことと思われると考える。読めなかった文節の大意は「釉の壺でこれだけ大きい物はなかなかない」という意味であることになる。机に戻って史料編纂所のデータベースで横断検索をかけると、『細川家史料』20巻 56頁、寛永十三年六月廿六日の小田豊斎宛書状 に「土薬も古さも能候へ共」という用例が一個だけみつかる。「土」には「国」という意味があるから、国産の壺でこれだけ大きなものはないという意味にもなるが、これは考えすぎかもしれない。ともかく似た字メモに上記を記入する。
 編纂をしていると、時々、辞書にない言葉、あるいは辞書の用例が少なかったりする言葉を見つける。あるいは江戸時代にならないと用例がなかったり、狂言などの文学史料にしか用例がなかったり、という場合もある。それを発見するのは意味が大きいことだと思う。


 グローバル化の中で言語がどうなるかという問題がある。言語の自由、言語集団の自由によってこそ一種の融合が考えられるというのが、私などの知っている古典的議論であるが、そういうことを人類史の将来にかけて本当に考えられるとしたら、それは少なくとも、過去の言語遺産をすべて究明してあることが前提だと思う。日本の言葉は一種の言語遺産であるが、その意味を、正確に読み解いておかなければ、過去言語を相対化でjきない。過去言語の相対化なくしては、「融合」などはありえない。どんなにデータベース化が進み、オントロジー的な言語データができても、いま、「日本語」を使っている人間にしか読み解釈できない言語遺産というのはあるのだと思う。
111127_195650_2   先日、6■歳の誕生日に、スイスのシモン君がきてくれた時に話したこと。将来、言葉はどうなるだろうと話したことを思い出しながら書く。

2011年12月 1日 (木)

佐伯啓思氏と保守主義としての歴史学

 今日の朝日に佐伯啓思氏のインタヴユー。歴史家は本質的に保守主義のところがあるので、おっしゃることの結論に賛成である。
 民主主義というものの、そのままではシステムとしてのあやうさということはある意味で当然のことである。歴史家は人間社会それ自体には価値を置くが、そこから切り離された民主主義というものを理念的に価値化するようなことは差しひかえる。また現代社会に存在する閉塞感に対してもあまり共感することはしない。それにとらわれることからはろくなことは生まれない。大阪府知事選の結果が小型の俗物型独裁の生まれる動向を示しており、小泉よりも危険な方向である。あれはポピュリズムではないというのもその通りと思う。何しろ、石原、小泉、橋下と似たような俗物が三人もでてくるというのでは、三度目の正直、歴史家ならば、誰しも本格的に考えざるをえないことである。遅すぎるといわれるかもしれないが、昔々のことを考えている私などは、頭の労働としては、時々浮き上がっては海面をみわたすアザラシのようなものであるので御勘弁を願う。
 そもそもああいう政治家を「俗物」の一言でかたづける(佐伯氏はそうはいっていないが)、私のような言い方自体が、一種の知性主義、あるいは保守主義・貴族主義
であって、それが反発をもたらすことは承知している。そもそも右翼的な思考というのは、こういうものいいに対する反発なので、こういう物の言い方ではとらえられないものである。右翼的心情とは頭脳労働というキレイにみえる労働で収入を確保した人間あるいはその制度、いわゆるエスタブリッシュメントに対する反発をベースにしている。こういう右翼的思考は、それ自体は人間として自然な反応であると、私は思う。それは意味がある心情なのである。だから、そういう言い方はくさいといわれれば、申し訳ないというほかない。しかし、学者としては、これは職人のもつ鑿が鋭いのと似たようなもので、嫌な物は嫌、「反知性主義は墓穴をほる」というのはいわざるをえないことである。そういう意味では、これもまた信条・心情の問題なので、勘弁を願う。
 歴史家としても右翼的信条の役割ということは知っている積もりである。「反知性主義」をかかげて、知的労働を自己の特権であるかに感じて生きている人間を脅かすというのは、右翼のもっとも有用な役割であると思う。けれども、佐伯氏のいうように、石原、小泉、橋下は右翼ではない。右翼というと、我々の世代だと赤尾敏氏であるが、あの時代、大江さんがどこかでいっていたかと思うが、ああいう、ともかくも偉い人とは違うのである。石原はただのお馬鹿の作家、小泉は政治家の息子、橋下は弁護士。どれも「頭」の使い方を要領よくやった人間で、本来右翼的信条の正反対にいる人間である。彼らは、右翼的信条をようするに利用するのであって、彼らは、詐術によって右翼のボスになったヤクザなのである。それが私が、あのタイプが嫌いな理由。橋下氏は原発廃棄という意見だそうだから、石原とは違うが、それにしてもという感じである。

 アメリカによる占領を喜び迎えるということになり、右翼の政治的な中軸にならざるをえない王制、あるいは王制を中軸にせざるをえない右翼思想というものが、まったくの二律背反思想になってしまった現代日本には、右翼はありえなくなってしまったというのが、日本の思想の一つの困難である、それが続いているということなのだと思う。三島の英霊の声の、「などて、人となりたまひし」の時代の困難である。
 佐伯氏がゆっくりとした見通しと変化が望ましいというのは本質的に賛成である。そして「日本人が維新という言葉に弱いのも考えもの
です。一気に変えるという発想はもう捨てないと」といわれるのにも共感する。これは「維新の精神構造」を問題にした丸山真男の見解に近い。私も、歴史家として、日本の政治思想の根本に「新制=維新=徳政」の思想があることを喝破した笠松宏至さんの仕事にそって、平安時代政治史を勉強してきた立場から、そう思う(笠松さんは丸山などは、所詮、素人であるとして読みもしなかったが)。維新思想と右翼急進思想が共有する根はふかい。
 しかし、歴史家として佐伯氏と異なってくるのは、最初の入り口である。佐伯氏は「民主主義」というものへの考え方を問い直すことから出発するという。歴史家は、所詮、過去に関わる。そして私などは、とくに過去も過去なので、過去をどうとらえるかという「意識」の問題、つまりいわゆる「歴史意識」に結論をもっていかざるをえないので、たいしたことはいえない。しかし、基本は、やはり過去から未来へということが歴史学なので、現在をとらえるための過去ということになる。それは過去が客観の世界である以上、歴史学も現在の客観的構造を問い直す、あるいはその役割をもった社会諸科学の底支えをする役割をもたざるをえないのである。佐伯さんはそこをどう考えるのであろう。これは丸山「古層論」に対する違和感と同じ問題である。
 「民主主義」を問い直す、それが制度として不全なものであるというのは、むしろ私たちの世代にとっては親しい考え方である。いわゆる学生運動時代の「全共闘」の論理は、「戦後民主主義を問い直す」であった。彼らの主張はようするに「意識革命」であった。しかし、それは無理な話で、現代日本社会がどういう構造をもち、なぜ閉塞感を生み出すのかを解くことがなくても何の役にも立たない。社会の経済構造に結びついた支配構造をどう考えるか。そういう中で、民主主義を力にすることこそが必要であるというのが、私たちが到達した考え方であって、私たちの世代からいえば、民主主義一般を問うことは、70年代への逆戻りであると思う。
 さて、大阪市長選で大きかったのは第一にはこれまで政治的な局面での発言をあまりしなかった相当広い範囲の知識人が橋下の当選が危険であることを明瞭に主張したことである。これは橋下氏の任命した教育委員会が、全員、橋本氏の教員いじめに賛成できないという立場にまわってしまったことを同じことである。そして第二には、日本共産党が平松支持にまわったことである。これはやはり驚いたことで、共産党は、保守との共同という立場を打ち出しているが、歴史家としても、この知性主義の代表のような政党が必要な判断をしたことの意味に注目している。

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