BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« 地震噴火53『方丈記』とその時代 | トップページ | 今年読んだ本、見たもの、そして仕事の勉強 »

2011年12月21日 (水)

地震噴火54九世紀の地震・津波と神話世界

 七世紀から九世紀にかけて発生したおもな地震・津波・噴火の史料を概観してみると、この時代の政治や社会の動きが、これだけ強く地震・噴火に左右されていたことに、歴史家として、あらためて驚かされる。そして、これまでの歴史学が、これらのほとんどを見逃していた事実を前にすると、私たちの歴史学のあり方についての深い懐疑に襲われるのである。
 今村明恒が八・九世紀を「地震活動の旺盛期」としたのは、一九三六年のことであるが、それ以降、すでに七〇年以上が経過したにもかかわらず、それを史料によって細かく確認していく基礎作業は大きな遅れがあった。このことは、歴史学の社会的な役割という点からいって、何といっても弁解できないことである。とくに、この時代が、地震・噴火のみでなく、温暖化とパンデミックという我々の時代と共通する特徴をもっていたことに気づくと、その印象は強い。
 我々は、この列島の長い自然史の中で、過去の人々に対して、同じ列島の上に棲むものとしての共感を本当の意味では持とうとしてこなかったのではないか。現代の人々も過去の人々も、所詮、人類として、同じように、自然の圧倒的な力にさらされているという基礎的な事実さえ実感せずに歴史なるものを考えてきたのではないか、という感想である。
 もちろん、すでに一〇〇〇年を越える時間を経過して、歴史は不可逆的に変化しているが、歴史家としては、過去と現在が大きな共通性をもつこと、その意味で「すべての歴史は現代史である」ということを忘れてはならないと思う。以下、それを念頭におきながら、「大地動乱」を示す史料の中に、思い切って、当時の人々の自然観、国土観などにかかわる諸問題を読みとっていくことにしたい。
 そして、その場合に注意しておきたいのは、この時代の日本が、社会意識・文化意識の点で、六・七世紀以前の神話時代から完全に離陸している訳ではなかったことである。「古代史」の専門的研究をしていると、無意識に八世紀に最終的に成立した文明国家、「律令国家」の段階で神話的な社会意識は過去のものとなったと考えがちであるが、しかし、この時代はまだまだ神話が社会意識として強い生命力をもっていた時代であったはずである。また、この時代の活発な地震と噴火は「神々の神話」を新たな力をもって復活させたのではないだろうか。人々は、地震と噴火の中で自然そのものの圧倒的な力に直面せざるをえなかったはずであり、その中で「神話」を強く意識したのではないだろうか。
 それを明らかにし、この列島に棲むものの自然観、国土観の過去を理解することは、同じ列島に棲む現代の我々に深く関わってくるはずである。

噴火と地震が連動した約五〇年

 九世紀、「大地動乱」の中で、この列島に棲む人々は、確実に、この列島の国土全体を意識させられることになった。それは、二〇一一年に東日本太平洋岸地震を経験した私たちと同じことである。
 念のために確認しておくと、八六九年(貞観一一)の陸奥沖海溝地震をはさんで、その五年前には富士の噴火(八六四年)、二年前には別府鶴見岳・阿蘇姫神の噴火(八六七年)、一年前には京都の群発地震と播磨国地震(八六八年)が起きている。そして同じ年に肥後国の津波地震が発生し、さらに二年後に出羽鳥海山の噴火(八七一年)、九年後に関東大地震(八七八年)、一一年後に出雲地震と京都群発地震(八八〇年)が起きている。そして、少し後までみると、一八年後に東海南海大津波地震(八八七年)、そして四六年後に十和田カルデラの大噴火が起きるのである(九一五年)。十和田カルデラの噴火は、有史以来、日本で最大規模の大噴火であった。この間、最初の富士噴火から最後の十和田カルデラ噴火まで五一年にすぎない。
 今村明恒は、列島における「地震旺盛期」の中心には「三陸沖の地下大活動」があるといったが、その正確さにあらためて驚ろかざるをえない。とくに、重大なのは、この時期、地震と噴火が連動しているようにみえることである。このような連動は、この列島の歴史の中でももっとも顕著なもので、これと比較できるのはおそらく、江戸時代の一七〇〇年代に続いた地震と噴火、つまり一七〇三年の元禄関東地震、一七〇七年の宝永東海・南海地震、同年末の富士大噴火、そして、一七七九年の桜島、一七八三年の浅間山、一七九二年の雲仙普賢岳の噴火という約一〇〇年間のみであろう。しかし、一七〇〇年代では、第一の波と第二の波の間は約八〇年ほどもあいている。それに対して、九世紀の噴火と地震の集中期間は五一年。この時期が、この列島の地震と噴火の歴史にとってきわめて特別な時期であったことは一目瞭然であろう。

祇園御霊会と牛頭天王

 人々は、この列島の大地の運動をまずは神々の動きという形で感じていた。それを迷信などと嘲笑してはならない。神話や宗教的な観念も、八・九世紀には、列島の自然を認識し記憶するためのツールだったという側面を考える必要があるのである。私たち自身が、どれだけ科学を自己のもの、社会のためのものとして理解し、掌握することができているかを疑うべき時代なのであって、歴史家としては、昔の人々のことは笑えないという態度こそが穏当な常識というものだと考える。
 さて、この意味での普通の人々の予知と認識の能力を、もっともよく示しているのは、陸奥沖海溝地震の翌月、八六九年(貞観一一)年六月に祇園御霊会が始まったという伝承であろう(『祇園社本縁録』)。普通、それは、猛威をふるっていた疫病の流行をくい止めるために、その疫病をはやらせていた午頭天王を播磨国広峯神社から京都にまで迎えて、疫病の消除を祈ったものとされている。その時、日本全国六六国の数になぞらえて六六本の矛を立てたのが祇園祭の鉾の最初であるというのは有名な話だろう。もちろん、この社伝を伝える祇園社の記録は古いものではなく、そのまま信じることはできないが、しかし、これまで何度かふれてきたように、疫神と地震神の神格は深く関係しており、日本最大の疫病神・牛頭天王の祭りである祇園御霊会が、陸奥沖海溝地震の翌月に始まったという伝承を無視することはできない。
 まずこの牛頭天王とは、鎌倉時代初期までには成立した『色葉字類抄』によれば、別名を武答天神といい、東王父と西王母の間に生まれた王子であるという。中国の道教の強い影響をうけて成立した「陰陽道」の主神ともいえる神である。陰陽道については、ここで詳しくふれることはしないが、鎌倉時代中期に成立した『釈日本紀』の引用する『備後国風土記』逸文によれば、北海の神の武塔神は、南海の女神に求婚にでかけ、その旅の途中、ある兄弟の家に宿を乞うたところ、裕福な弟は宿を貸そうとせず、貧乏な兄の蘇民将来が歓待した。この兄弟の家を帰り道に再訪した武塔神は、裕福な弟の家を疫病で全滅させたという話である。この時、蘇民将来に対して、「弟の家には、誰かお前の子孫がいるか」ときいたところ、蘇民将来が、「娘が弟の妻となっている」といったため、武塔神は、「娘の腰に、茅の輪を付けさせろ、それ以外は、弟の一族を根絶やしにする」と宣言したという。そして、武塔神は自分は速須佐雄能神であると名乗り、蘇民将来に対して、お前の子孫は、「蘇民将来の子孫」と名乗り、茅輪を付けていれば疫病を避けることができると告げたという訳である。
 祇園祭の時に、「蘇民将来子孫也」と記された厄除の粽が、祇園社社頭で授与されることはよく知られているが、牛頭天王は蘇民将来に救われた恩義に報いるために、蘇民将来札がある場合は、その家には災厄を及ぼさないという訳である。ようするに牛頭天王=武塔神は、疫病の神であって、祇園社を初めとして各地の神社で、夏の流行病の季節の前に行われる「夏越祭」では、この神が害を及ぼすことを避けるため、茅輪の御守や蘇民将来札が配られることもよく知られているだろう。

牛頭天王と素戔鳴尊

 重要なのは、『備後国風土記』で、牛頭天王が自分の本性をスサノオと述べていることであろう。もちろん、この『備後国風土記』逸文は、他の『風土記』よりもその成立が下る可能性が指摘されており、たしかに武塔神・蘇民将来などという神格は『風土記』に登場する神としては新しすぎるようにも思われることである。『釈日本紀』は、鎌倉時代中期、神道の家、卜部氏の編纂したものであるから、そこに、その時代の思想が反映していることもたしかであろう。
 これまでの研究は、これを一つの理由にして牛頭天王がスサノウが同体と観念されるのは鎌倉時代以降のことであるとしてきた(山本ひろ子『異神』、斉藤英喜『陰陽道の神々』、仏教大学鷹陵文化叢書、思文閣出版)。最近の日本文学に根をおく神話研究では、日本の神話世界が平安時代末期以降に大きく変容したことを強調し、そこに形成された神話を「中世日本紀」「中世神話」の世界と呼んで、それが記紀神話とはまったく異なる、密教や陰陽道の影響の下で、怪奇・混沌・異貌の世界となっていることを強調することが多い。たしかにそれによって明らかになったことは多いのだが、それはややもすると、『古事記』『日本書紀』の神話を古典として固定されたものとして特別視してしまったり、奈良時代から平安時代にかけての神話が連続的に変化していくものと考えず、文明化による一種の断絶を想定してしまう傾向におちいっているように思える。何か固定的で完成されたものがあって、それが変容・解体して「中世神話」が生まれてくるという発想法をとってしまうと、歴史とともにダイナミックに変化していく様相をとらえそこない、結局、精緻な研究とはなっても、鎌倉時代以降の神道家のテキスト解釈を裏側からなぞっていくことに終始してしまうことにもなりかねない。
 しかし、私は、日本の神道史の基本史料である「廿二社註式」に「牛頭天王。大政所と号す。進雄尊垂迹」とあることは、牛頭天王の本体をスサノオとする観念を簡単に牽強付会とすることには疑問をもつ。少なくとも、この牛頭天王の物語が、遅くとも九世紀の初めには近畿地方で流行していたことは、牛頭天王に深く関わる蘇民将来伝説を示す木札が、長岡京から出土していることに明らかである(櫛木都市王権論文、105頁。『長岡京市埋蔵文化財センター年報』二〇〇二年度。平成一二年)。「神仏習合」の動向の中で、すでに、この段階から、午頭天王のような疫神についても日本神話の中の神々との習合が起きた可能性は高いのではないだろうか。牛頭天王=武塔神は東王父・西王母の子供とされているが、東王父・西王母は、記紀神話の神でいえば、イザナギ・イザナミにあたるから、スサノオの父母たるにさわしい神格なのである。

疫神=地震神としてのスサノオ

 そもそも、神道史の西田長男がいうように、スサノオは『古事記』『日本書紀』の段階から、汚れの神=大禍津日神と同体とされるである疫病の神、行疫神であると同時に防疫神であった。この点で午頭天王と同じ神格であるとされるのは自然なことである。
 つまり、よく知られているように、スサノウは、日本の国土の創造神とされる父神イザナキ・母神イザナミの間にうまれた男子であるが、母イザナミはカグツチという火の神を出産したとき、大やけどをおって死んでしまった。それを嘆いた父イザナキは「根の堅州国」に妻を訪ね、妻を地上に取り戻そうとしたが、妻のイザナミの、遺体を「覗くな」という願いに反して、タブーを犯し、妻を連れ戻すのに失敗してしまう。地上に帰ってきたイザナキは、海岸で禊ぎをし、海にもぐって身体を浄めた後、目と鼻をあらう。その時、左目から生まれたのが日神アマテラス、右目から生まれたのが月神ツクヨミ、そして鼻から生まれたのがスサノオであったという。
 ここで神話が比喩しているのは、イザナキの鼻は、禊ぎの後ももっとも強く黄泉国の穢を残していた部位であって、イザナキが黄泉国から連れてきて、この世に放った穢の病の神、大禍津日神ともっとも近い部位であるということである。そこから生まれた神は大禍津日神と同体の神であるというのである。もちろん、西田がいうように、スサノオが穢に満ちた神であるということは、スサノオが強い神であり、さらに穢をエネルギーとし、穢から人々を護るというプラスの神格をもつことを意味する。こういう論理をもって、『古事記』はスサノオが午頭天王と同じく、行疫神であると同時に防疫神であることを語っているのである。
 さらに重要なのは、神話学の吉田敦彦が、このスサノオを地震神であったとしていることである。つまり、『古事記』によれば、スサノウは、目から生まれたアマテラスなどと違って、黄泉国の汚れ、母の精気を強く帯びている男子であるだけに、母を連れ返すことに失敗した父をうらみ、母のいる「根の堅州国」を恋いしたって「哭きいさちる」、つまり大泣きにないて暴れ狂うばかりであったという。父神のイザナキは、そのようなスサノオを嫌がり、怒り見放してしまうが、一人になったスサノオは、天にいる姉のアマテラスを慕って、アマテラスの治める高天の原に駆け上がった。『古事記』は、その時の様子を「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」と描写している。
 吉田は、この一節に注目し、スサノオの動きによって、山川が動き、国土が震動したという以上、スサノオに地震神としての性格をみることができるとしたのである(吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書一九七六)。これは『古事記』のテキストにそくした議論からいっても了解可能なものであると考えられる。そして、さらに吉田が、神話学研究の立場から、ギリシャ神話におけるポセイドンは、海の神であると同時に地震の神であるが、スサノオもそれと同じなのだと断言していることはきわめて興味深い。これは歴史家による神話論ではまったく無視されている視点であるが、正鵠を射たものと考えられる。
 ようするに、スサノオは、午頭天王と同様、疫病神=防疫神であると同時に地震神であったということになるのであるが、これまで論じてきた疫神と地震神の神格が深く関係するということからみても、陸奥沖海溝地震の翌月に始まったという祇園御霊会が、牛頭天王の祭りであるのみでなく、スサノオを祭ったものであるということが納得できるのである。
山崎断層の神社・広峰神社
 とはいっても、祇園会についての平安時代の史料はきわめてとぼしく、これまでの通説と異なって、牛頭天王とスサノオが九世紀から習合し、同体と観念されていたというためには相当の傍証が必要である。
 そこでまず、播磨国広峯神社から牛頭天王がやってきたという伝承は信頼できるものかどうかから考えることになるが、平安時代の史料で広峰神社と祇園社の関係をしめすものは存在しない。しかし、後代の史料ではあるが「廿二社註式」は次のように述べている。

牛頭天王。初め、播磨明石浦に垂迹し、広峯に移り、その後、北白河東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中に、感神院に移る。
(廿二社註式。『群書類聚』巻二)。

 「廿二社註式」という史料は室町時代に下る史料であるが、これはおそらく信頼に足るものである。というのは、鎌倉時代の初め、一二一六年(建保四)に、広峰神社が幕府に対して「播磨国広峯社は祇園の本社」と主張して守護使の不入を要求しており、幕府もそのような主張を拒否はしていないと考えられるからである(『鎌倉遺文』補七一〇、三一六六)。広峯が祇園の本社であるという主張は、後には祇園社の側から否定されるようになるが、広峯神社と祇園社の関係が古くにさかのぼることは否定しがたい。
 そして、牛頭天王のやってきた播磨国の広峯神社は、本来は広峯という名前ではなく、その前身は、八六六年(貞観八)に従五位下の神階をうけた播磨の速素戔烏神であった可能性が高い。つまり、この神社のある曽左村の「曽左」とはスサノオのスサであると考えられるのである。またスサノオ神話という点からみると、播磨国はスサノオの重要な活動場所の一つであることはいうまでもでない。
 そして何よりも重要なのは、この神社の立地と八六八年(貞観一〇)の播磨国地震の震源となった山崎断層との関係である。つまり、この地は、姫路市の北部、夢前川が山間の峡谷から流れ出る場所の東の丘陵に位置しているが、実は、その北をすでにふれた山崎断層が通っている。山崎断層は、加古川・姫路・相生の北を通り、やや西北から東南に傾いて、広峰神社が位置する峡谷の向こう側から播磨平野に頭をだしてくる断層である。この断層を震源とする揺れが、東南に走って、神戸の断層帯にあたり、そこで増幅されて、さらに淀川地帯を走る何本かの断層を通じて京都群発地震を引き起こしたのである。
 このとき、ちょうど陽成天皇の誕生を目前としていた宮廷は、これを驚き恐れた。そして、神戸の六甲山地東南縁断層帯の上に位置する広田社・生田社の神が、この地震は自分の「フシゴリ」(怒り)のためだと託宣を下したため、慌ただしく広田社・生田社に贈位した。しかし、人々の間では、この地震を起こした神は、広田・生田神社ほど有名ではないものの、実際の震源地に近い播磨国のスサノオ神と考えた人が多かったのであろう。人々は、スサノオが、この播磨・京都群発地震において、播磨から京都まで地鳴りと伴に巨歩を運んだとイメージしたに違いない。この点で、広峯神社から、京都へのスサノオの移座に際して、一時、神がとどまった旅所として、神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社などが伝承されていることも無視することはできないだろう。これは地震波の伝播ルートそのものに重なるのではないだろうか。
 ようするに、京都群発地震の翌年、陸奥沖海溝地震が陸奥国に大きな被害をあたえたのを知った人々は、折からの疫病・飢饉に対する恐れとあいまって、播磨の地震神・スサノオを京都に迎え取り、この神を祭ることによって、すべての災厄を祓おうとしたのである。それは広峯神社と祇園社の関係という形で、播磨から京都への地震の波及ルートを誰にも見えるようにした。これによって、それまで京都では名前を知られていなかった播磨国のスサノオの鎮座する神社が、これ以降、一挙に有名になって広峯神社に発展し、祇園社の本社ともいわれるようになっていったことは、このこと抜きには考えられないのではないだろうか。
 広峯神社の祭神の性格についての、以上のような推定は、まずスサノオの地震神としての神格を、『古事記』以外の歴史史料で示す決定的な意味をもつことになり、さらに祇園会の祭神としての牛頭天王がスサノオと同体であることの傍証ともなるのである。
 こうして、陸奥沖海溝地震・津波の前年、八七八年の七月の播磨国地震、そしてそれ以降一二月までの連続した京都群発地震を起こした神がスサノオと考えられたということは、この時代の人々の国土意識のあり方を端的に示したものといってよいだろう。

書写山円教寺と性空上人

 なお、これは重要な問題であるだけにさらに傍証を提出しておくと、広峯神社の丘陵から、夢前川の渓谷のちょうど向こう側の位置に、一〇世紀、書写山円教寺が開創されたことがある。つまり、その設立者は、性空上人。性空上人は、七八八年の霧島山の噴火に関わって、すでに言及したように、その法華経読誦の瞬間に、霧島の噴火と地震が起きたという伝承をもつ修行者である。そして、そこでは紹介しなかったが、実は、その伝説は、その時、噴火の中から、大蛇(龍)が示現し、上人が、その龍の発した光を追っていくと、播磨国書写山にいたったと続いている。書写山とは「スサ」山の音便で、つまりその意味をとればスサノオ山であるが、広峯神社のすぐ東の寺院、すなわち書写山円教寺である。
 この山崎断層南の渓谷は、そういう火山の行者が来るにふさわしい場所、地震に深く関係する伝承をもつ土地であったのである。書写山が開創されたのは一〇世紀であるが、おそらく九世紀、祇園会の建立の頃から、すでにこの夢前川入り口の「曽佐村」の丘陵地帯には、山林修行を行う僧侶たちの姿がみられたのではないだろうか。
 しかも、興味深いのは、性空上人が、地震を身辺に起こす験力をもっていたという説話が伝えられていることである。『今昔物語集』(巻一二ー三四話)によれば、性空上人は、法皇・花山院と面会した時、花山院が性空の肖像を描かせようとしたが、その時、性空は、自分の肖像を描こうとすると、その前後に地震が起こると預言し、実際に地震が起きたというのである(ほかに『大日本国法華験記』(巻中、四五)『古今著聞集』巻11)。前述のように、仏教には釈迦は自由に大地の「六種震動」を起こしたり止めたりすることができるという神話があり、また修行者も釈迦ほどではないものの地震を操作することができるという考え方があった。この性空上人のエピソードは、その例であるといえよう。同じような話はほかにも『今昔物語集』にでてくるから、仏教が地震を制御できるという感じ方は、確実に奈良時代の聖武天皇の時代から平安時代に持ち込まれていたことがわかるのである。

陸奥清水峯神社の牛頭天王とスサノオ

 さて、以上を前提として陸奥沖海溝地震をふり返ってみると、祇園会の開始の翌年、つまり陸奥沖地震の翌年、八七〇年(貞観一二)に、宮城県仙台の名取の清水峯神社に牛頭天王が、やはり播磨国明石浦の広峯から移座してきたという伝承があるのが注目される。この牛頭天王がスサノオと同体とされているのもいうまでもない。これは同神社に伝えられた「清水峯神社由緒」という由緒書に記されたことであるが、私は、それを飯沼勇義『仙台平野の歴史津波ーー巨大津波が仙台平野を襲う』で知って本当に驚いた。同書は、仙台平野の津波痕跡を考古学や民俗学の研究にもとづいて総覧し、今回の東日本太平洋岸地震の前から、強い警告を発していたものとして著名なものであるが、それは地域史史料の通史的で広範囲な調査の威力を物語っている。
 もとよりこの由緒書は、江戸時代以降のもので、しかもそこに書かれているのは、疫病流行で困っていた清水峯神社の氏子が、播州広峯の神徳を信仰した天皇が、祇園社に祭ったのをみて、それを真似たということのみである。そこには、地震・津波のことはまったく登場しない。しかし、それは祇園信仰に共通する語り口をうけたものであって、八七〇年=「貞観十二年」が清水峯神社への牛頭天王の勧請の年とされている背景には、実際に陸奥沖津波に由来する何らかの伝承があった可能性は認められるべきであると思う。
 なによりも、この伝承は、平安時代に祇園社と祇園信仰が全国に広がっていった背景を示すものとして特筆すべきものであると思う。広峯と祇園社の信仰が地方に広がっていく様相を示す史料は、現在のところ、ほかには発見できないが、しかし、前述のように議論御霊会例しか存在しないが、おそらくそのような例は多かったに相違ない。その中で、広峯・祇園の牛頭天王=スサノオ信仰が各地に広まっていたことはほとんど疑いがない。
 ようするに、祇園祭と宮城名取の清水峯神社の祭神の牛頭天王=スサノオは地震の神であって、そのような神を祭る神社として、この時期、京都と陸奥を始め、各地で一つの流行神として広く祭られるに至ったと考えられるのである。それは別の言い方をすれば、日本神話の中でもっとも著名な神、スサノオが、地震の揺れとともに各地において、新たな脚光をあびたということを意味している。

« 地震噴火53『方丈記』とその時代 | トップページ | 今年読んだ本、見たもの、そして仕事の勉強 »

火山・地震」カテゴリの記事