今年読んだ本、見たもの、そして仕事の勉強
今年も暮れる。大晦日
今年の読書で大きかったのは久しぶりに(おそらく30年以上ぶりに)中井正一の『美と集団の論理』を手にしたこと。学生時代の愛読書。いつのまにか書棚になくなっており、北海道での講演でふれたこともあって、読みたくなって、古書で購入。相当部数出た本なのであろうか。意外と安くて驚いた。黄色い装丁が懐かしい。
他方、美術出版社の『中井正一全集』は書棚にあり、いまそれを手にしている。高校時代のメモが入っているのには驚いた。以前から気になっているのは、全集2の「日本の美」という、戦後、NHKでの講座をまとめた小冊子の内容。これは「日本の美」というものへの賛歌である。たとえば、こういう文章。「日本の神殿の中心である伊勢神宮が、二十一年ごとに建てかえられつづけながら、ここに一千年もの間、しかも滅びることもなく、その様式方法も変えられることもなく、ここに至っていることも、まことに注意すべきことであります。北京の紫禁城のように、または遠く、あのエジプトの宮殿のように、大きく、いかめしく、滅びることがないことを誇りとして造ることを嫌い通すことがむしろ日本では千年つづいたといえましょう」「あえて素木をもって造る時、すでに脱出の用意をしながら、そのうつりゆく清純な生成感、生きているという「生な香り」を神殿の本質と考えようとしたことは、世界に類例のない、民族のこころであります」。
中井は国会図書館の創設時の副館長。アジア太平洋戦争にむかう戦前の治安維持法体制に抗して動き、特高に逮捕され、以降、敗戦まで、その監視下にあったという経歴をもつ人物である。そういう中井が、「ナショナルな美」というものを強調し、「日本文化論」に近いことをいう。中井の美学が、美の評価のあり方として正しいのか。事実評価としてどうなのか。歴史家としてどう検討したらよいのか。久野収は解説で、この『日本の美』について、「内容については、専門外の編者は何も述べることはできない。ただ読者諸君の評価と批判をまつばかりである」としている。解説によれば、哲学者中井は、特高の監視の下で、「日本の美」についての本格的な調査研究を始めたという。哲学者中井は、その直前に「日本浪漫派」の民族主義・国家主義を批判した「リアリズム論の基礎問題二三」を書いているのである。
私は、これは結局、保守主義という問題に関わってくると思う。保守主義が納得できる保守主義であるためには、伝統の「美」への共感と理解に十分な筋が通っていなければならない。そういうもので、中井の日本の美についての議論がありうるのかどうか、それは私には、まだわからないが、ここら辺をどう考えるかは、つめてみたいところである。今年の年初のエントリーで書いたが、加藤周一の議論も点検対象なのだが、それとあわせて中井の議論を、歴史家として点検すること。時間ができたらやりたいことである。 展覧会でよかったのは、近くの千葉市美術館でやった浅川巧の蒐集した朝鮮陶器の展覧会。朝鮮に対する植民地支配に批判をもち、柳宗悦と交流し、朝鮮の山と林業のために働いて、彼の地で客死した。浅川の蒐集した陶器をみていると、アジアにおける保守主義はアジアの美を尊重する保守主義でなければならないことを実感する。好きな朝鮮陶磁をゆっくりみられたのは、今年の贅沢であった。千葉市美術館はなにしろすいている。
さて、自分の勉強で今年の収穫は、古墳時代から奈良時代の勉強をしたこと。地震論と地震火山神話論をやる必要から、ほぼ30年ぶりで勉強のし直しをやった。津田左右吉の明解さがやはり好きなこと、門脇禎二さん、山尾幸久さんの学説が身にあうことなどを確認。それから神話論の溝口睦子さんの仕事にはじめて親しんだことも勉強になった。とくに、溝口さんの仕事を勉強して、どうもおかしいと思っていた丸山真男の「古層」論文の実証と方法の変なところを確認できたのは収穫。
地震論では、結局、方法論としては、河音能平・関口裕子の怨霊論が一番役に立つというお里が知れる結論となった。つまり、宗教論からいくと、自然神としての雷神、地震神、火山神が三位一体の構造をなしており、それが八・九世紀の過程で、全体として疫神化していく、そして支配層にも恐れられる、それらの疫神・怨霊を中心にした神々が地主神となって新たな村落ができあがっていくという議論。
関口さんの1972年歴史学研究会大会報告は、歴史学の勉強を始めたころ、始めて聞いた学会報告。関口さんの早口の報告の雰囲気を思い出す。いまではほとんど評価を聞くことがないが、私はきわめて重要な報告であるという意見を変えていない。関口さんの死去のしばらく前に本郷の地下鉄の駅で会えたのは、私にとっては本当にありがたかったこと。私は関口ファンなので、今書いているものに関口さん賛歌をかけるのがうれしい。
他方、河音さんについては、河音能平著作集での私の解説が不十分であったことが自分でわかってしまいショックである。河音さんはなくなっているから取り返しがつかない。
さて、ともあれ、みなさん。どうぞ、よいお年を。
同学のみなさんへ。歴史学の社会的役割を重視する立場にとっては、前近代史研究にとっても、正念場の年になるのではないかと思います。必要な議論をさけずにいきましょう。
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