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2011年12月 4日 (日)

『禅林句集』 家貧未是貧 道貧愁殺人

 家貧未是貧 道貧愁殺人
 家貧にして未だこれ貧ならず、道貧にして人を愁殺す。
                  (佛果圜悟禅師語録)
 一昨年でた『禅林句集』(足立大進編、岩波文庫)をときどき持ち歩く。先輩から借りっぱなしになった『禅語字彙』が仕事の机においてある。それと似たようなものではあるが、やはり、私には違う。『禅林句集』には大燈国師が出てくる。持ち歩けるのもありがたい。上も『禅林句集』。
 私は東洋思想にはまったく素養がない。これはコンプレクスで、一昨年のころ、ある勉強会に入れていただくことを御願いしたが、さすがに余裕がなく、せっかく御了解いただいたのに失礼をしている。 
 大塚久雄先生に『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房)という本があって、これも心が屈するとよむ。上の圜悟克勤の禅語は同じことをいっていると思うのだが言葉として力強い。大塚先生の本は読んでいると大塚さんの姿が浮かび、声が聞こえてくるので、私には強い力をもっている。佛果圜悟禅師は、仕事で名前をしっているだけで、全然想像もつかない方。それでも、この句に力強さを感じるのは、漢語という形式のせいというべきか。何なのか、私にはわからないが、多くの人々が真理としてこの断定によって心を決めてきた長い時間がそこに凝縮しているとでもいうべきか。言語技術としての安心、あるいは宗教ということを感じる。
 私は無宗教の人間であるが、小学校、中学校時代には二つの教会に通っていたことがあり、聖書の言葉、賛美歌、そして祈りの言葉というものの実感をもっている。中井正一の「委員会の論理」(『美と集団の論理』)が、紀元前5世紀前後以降、世界宗教において瞑想が可能になったのは経典、スクロールによる言葉の共有があったからだというのは、私には、よくわかる。
 禅はさらにつよく言語技術としての、心の技術という側面をもっているのだと思う。以前、管理的な仕事がふってきた時に、偉い御坊さまに「雪を擔ひて古井を埋む」という墨跡をいただいた。これがあるだけで、たしかに気持ちが楽になるのである。
 いま12月3日土曜帰りの電車。『禅林句集』からもう一つ。
 去年貧未是貧 今年貧始是貧
 去年の貧は未だこれ貧ならず、今年の貧は始めてこれ貧。
               (景徳伝灯録)
 
  あらためて貧ということ、様々な労苦や困難を実感することで、経験というものを乗り越えていくのだという強さを、ここに感じる。
 実は、この句を年賀状に載せようと思っていたのだが、それも何だかなあということで、ここに載せることにした。ともかく今年は、私の年賀状の年紀は、(今計算すると)核時代後68年(2012)となるはずなので、上の句と組み合わせるのはあまりに重くなる。
 核時代の中で日本は二度目の核汚染に見舞われた。これは、去年の貧は、今年の貧として永久に続くということである。自然の中に残った人間の負債は消えない。とくに核汚染は消えない。これは時間を考えることを仕事にしている
歴史学者にはきつい話となる。「ぱっとはぎ取られたあとの世界」。来年は原民喜と峠三吉をよむことになるのだろう。
 

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