文字を読むこと、教わること。
私は歴史家ではあるが、編纂が業なので、昨日は文字が一つ読めず、往生していたところ、同僚の後輩が、崩し字辞書を引いてくれて、「薬」ではないかといってくれた。文節の冒頭にくる二文字の名詞で御茶や壺にかかわる名詞であることは明か、そして上の字が「土」であることは明かなのだが、下の字が読めない。「葉」か「参」か、あるいはいっそ「茶」か。こういうのは5分考えてわからなかったら行き止まりに頭が入り込んでいるので、周りに聞くのが一番早い。人の意見を聞いただけで、頭が別に動き出すということもある。1分後、崩し字辞書をもって、机を回ってきて「薬」ではないかと。ありがたく、深々とお辞儀。
わからない字を読むには文字の形で3つ、文字の意味で3つの候補を出して、その順列組み合わせで考えるのだというのは先輩の教え。とはいっても、しかし、陶器や茶道となると、まったく意味の候補がでてこない。順列組み合わせもできなかった。
誰もがよくやるように、「似た字メモ」あるいは「わからない字、読めない、読めなかった字メモ」というのを作ってあったのだが、糸がとれてバラバラになって整理も悪いので、ノートの形式を変えることにして、生協に散歩にでてノートを買ってきた。
この「土薬」は『日本国語大辞典』(小学館)にもないが、散歩しながら、釉薬のことと思われると考える。読めなかった文節の大意は「釉の壺でこれだけ大きい物はなかなかない」という意味であることになる。机に戻って史料編纂所のデータベースで横断検索をかけると、『細川家史料』20巻 56頁、寛永十三年六月廿六日の小田豊斎宛書状 に「土薬も古さも能候へ共」という用例が一個だけみつかる。「土」には「国」という意味があるから、国産の壺でこれだけ大きなものはないという意味にもなるが、これは考えすぎかもしれない。ともかく似た字メモに上記を記入する。
編纂をしていると、時々、辞書にない言葉、あるいは辞書の用例が少なかったりする言葉を見つける。あるいは江戸時代にならないと用例がなかったり、狂言などの文学史料にしか用例がなかったり、という場合もある。それを発見するのは意味が大きいことだと思う。
グローバル化の中で言語がどうなるかという問題がある。言語の自由、言語集団の自由によってこそ一種の融合が考えられるというのが、私などの知っている古典的議論であるが、そういうことを人類史の将来にかけて本当に考えられるとしたら、それは少なくとも、過去の言語遺産をすべて究明してあることが前提だと思う。日本の言葉は一種の言語遺産であるが、その意味を、正確に読み解いておかなければ、過去言語を相対化でjきない。過去言語の相対化なくしては、「融合」などはありえない。どんなにデータベース化が進み、オントロジー的な言語データができても、いま、「日本語」を使っている人間にしか読み解釈できない言語遺産というのはあるのだと思う。 先日、6■歳の誕生日に、スイスのシモン君がきてくれた時に話したこと。将来、言葉はどうなるだろうと話したことを思い出しながら書く。
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