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2012年1月

2012年1月26日 (木)

twitterと下部意識

twitterを操作する人が多くなっている。これは、定年前の締め切り仕事で、あっぷあっぷしている私にはできない。ブログというのは、まだ仮面をかぶることができるが、しかし、以前書いたものをみると、やはり、その時その時の感情にまかせた文章があって赤面する。
 いま総武線の中。東大に宗教学の島薗先生などの呼びかけで、原発問題フォーラム(TGF)ができたので、その関係のメーリングリストに、以前、このブログに書いた「安全神話」という言葉はおかしいという私見を、新しいHPをみましたというご報告がわりに送った。それ自身は、私は、いまでもそう思っているのだが、しかし、ブログの文章を読んでみると、トゲのような感情が露出していて、あまりよいものではない。やはりブログはキチンとした文章にしようと思う。
 それに対して、twitterは、より生な意識の表明である。ただ、twitterというのは、言葉自身をとると鳥がツイートするということだから、その語感には、やや高い声でさえずるという要素が含まれているのではないかと思う。梢の上の高いところで、青空を背景として、テリトリーを確認するかのようにツイートする。響きのよい言葉を用意して鋭い口笛のようにさえずるといという印象である。本来は、生のものであると同時に相当の明晰さを必要とする。私のようにやや鈍いところのある人間には難しい。
 ただ、面白いのは、このtwitterという機能が、少なくとも日本では、そしておそらく世界中で、「つぶやく」という意味に使われるようになっているのではないかということである。しかも不特定多数に対してつぶやくという、これまで人間の意識関係ではまったくなかったスタイルを生み出したのではないか。これが人間の意識関係行為のあり方としてどういう意味をもつのか。これは精細な検討を必要とすることなのかもしれないと思う。
 若い人々がtwitterでつぶやくことに嗜癖的な、アディクティブな没入をするのは、その意味で、やむをえないことなのかもしれない。身体的な感覚をそのまま手から画面に伝え、そしてその文字が脳へ環流してくる。と同時にそれがネットワークに広がっていくという訳だ。これは生活をすでに作っていて、楽しく食べ、楽しく語り、楽しく仕事をしている人には応えられないスピード感を、その生活にあたえるのかもしれない。そのグループツイートをみている若い人が、その感覚に憧れるのはよく分かる。
 しかし、これは「冨が生活のスピード感をます」というのと同じで、生活資本があって自由時間のある人にはよいが、生活資本(生活手段)が一般には貧困な若い人にとっては、そのつぶやきが暗くなることはさけられない。しかも、そこには通常であれば表現されない暗い心理、欲望、身体的な劣等意識、呪詛、イライラがそのまま流れ出る。意識と手によるタイピングと、それがデジタル化されて頭脳に環流されてくるという道具立てになじんでしまえば、それらの負の感情が、そのルートを流れ出すのはやむをえない。人間は定型化された感情に抵抗できる強さはもっていない。
 これまでは表現されることのなかった、そしてそれを表現しないことによって、内心の自由というものを確保する訓練をするのが一般的であった倫理的心理が、このツイート習慣によって、ある部分崩れるのである。つまり、不特定多数にともかくもオープンしてしまったことによって、それらの感情が擬似的に解放される。人間は、うそでもいいから、表現し、コミュニケートしたい動物であるから、頭脳活動のデジタル化という擬似的な形であっても、表現してしまえば満足感が生まれるのである。
 これは自己を統御しつつ表現するという訓練系の機能不全を結果するのではないか。そういうことになっているのではないかというのが、心配である。
 しかし、若い人は、そういう領野を疾走するほかないのだろう。あまり明るい世界とは思えないのだが、そのような薄暗い場所が、いま人類史で最初に生まれた未開の場であり、それを身体と精神の全体にすみずみまで刻みつけざるをえないのが若い人々の運命だから、彼らは疾走せざるをえないのかもしれない。
 その疾走がすこしでも安全で実りあるものであることを願うのは、そういう世の中の動きに何千、何万、何億兆分の一であれ、責任のある先行世代としては当然のことである。本当にたいへんな時代になったものだと思う。そういう中で、我々にしかみえないこともあるのかもしれないと思うのである。とくに学術・文化に関わる人々の責任は大きい。
 これは意識関係行為の大きな転換であり、社会構造全体の変化にも関わってくるはずである。これはどういうことか。どこから何を、どう考えるべきか。情報論についての勉強を少ししたことがあるので、もう一度、考えてみたいが、以上で、「つぶやき」終わりである。
 今自宅へ戻ったところ。次の総武線で、「つぶやき」と「ささやき」と神の声について考えてみたい。

2012年1月22日 (日)

日本史の海洋史観ーー海からの視線で神話を読む

 近年の考古学は、弥生時代の始まりをこれまでより約500年さかのぼって紀元前9世紀前後とするようになった。これによって、日本史における「海」の位置について根本的な再考が必要となった事情を説明してみたい。
 弥生文明は朝鮮半島から移住してきた人々によってもたらされたものである。しかし、縄文文化を築き上げた人々は、容易にその生活様式をすてたのではない。つまり、弥生時代の始まりが500年もさかのぼったということは、両者の接触の時期がこれまで考えられていたよりもはるかに長かったことを意味するのである。
 それは、日本史の中での縄文文化の持つ非農業的な側面、とくに弥生文明との関係では、海川の交通・漁撈などの意味を重視しなければならないという結論を導く。このような縄文から弥生にかけての海の世界の連続と変容は、今後の考古学研究の焦点となるに違いない。
 これは弥生文明の原型が朝鮮半島からやってきた過程の理解にも大きな影響をおよぼす。つまり、最近の研究は紀元前15世紀頃、朝鮮半島において灌漑農耕が開始されたことを明らかにしている。そして、彼らが、海を越えて北九州に移住を開始するのが、だいたい、紀元前10世紀から8世紀にかけて、ちょうど日本の考古学の新見解のいう弥生文明の開始時期に重なるのである。そしてしかも、古気候学は、その頃、東北アジアで気候の冷涼化が起こったことを明らかにしている。つまり、これによって朝鮮の人々が、農耕文明を持って温かい東南の列島へと移住を開始したとみればすべての説明がつくのである。
 しかも、最近の考古学は移住の具体的な様子を生々しく復元しつつある。たとえば、山口県の土井が浜遺跡の墓に埋められた相当数の人骨の人種的な特質は、移住の初期から不変で、それは、朝鮮の故地から、何波にも渡り、世代を越えて、人々がやってきたことを示している。それはギリシャ人たちが地中海周辺につくったコロニーと似たようなもので、彼らが半島の文物を持ち込んで北九州各地に集住する様子も明らかになっている。弥生式土器の原型となった朝鮮の土器を無文土器というが、それと似た遠賀川式土器をもった村落が、相当のスピードで日本列島の西半分に分布するようになったことも分かっている。
 このとき、朝鮮半島からの移民は神話を持ってきたに違いない。すでに第二次世界大戦前に京都大学の三品彰英()や後に「騎馬民族征服国家説」を主唱して有名になった東京大学の岡正雄()は、朝鮮と日本の神話の奇妙な一致に注目している。とくに有名なのは、『日本書紀』『古事記』に記録された天孫降臨神話であろう。日向霧島の「高千穂のクシフル峯」へのニニギノミコトの降臨神話は、朝鮮南部の伽耶国始祖の「亀旨峯」降臨神話と細部まで共通しているのである。
 私は、近著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で、このような共通性は、おそらく朝鮮半島北部から・済州島、さらに九州の阿蘇から霧島につづく東アジア火山帯固有の文化現象であろうと論じた。と同時にそれが建国神話として共通しているのは、「天皇族」の始祖が、加耶渡来という自己意識を持っていたこと以外には説明がつかないと考えている。この発想は、右に岡正雄らが、1948年に発表した「騎馬民族征服国家説」と同じものである。歴史学界では、この学説は一貫して評判が悪いが、私は、その発想自体はしたがうべき点があると考えている。
 もちろん、この学説の発表はすでに50年以上前のことである。現在では、5世紀に朝鮮半島の騎馬民族が一挙に日本に侵入して、土着の国家を制圧した、という理解が無理なことははっきりしている。おそらく、天孫降臨神話は、何度も繰り返された朝鮮半島から移住の経験をふまえて、紀元前2世紀頃に北九州に簇生していたクニグニの建国神話として生まれ、古墳時代を通じて維持され形を整えて、さらにヤマト王権による加羅などの朝鮮半島南部の諸国との連携の根拠となったのであろう。
 なによりも、やってきたのは「騎馬民族」ではなくて、「海民」であり、移住した彼らは、連続的に列島の海辺に広がっていったと考えなければならない。彼らにとって瀬戸内海から伊勢湾にいたる内海の世界は、胸躍るほど豊かなものにみえたに違いない。
 また、彼らの行動は「征服」というようなものではなく、むしろ縄文時代から日本に暮らしていた海民の集落と平和的な関係の中で広がっていったと考えられる。それは『日本書紀』などに記録された神話が朝鮮由来のみでは説明できないような深い海の香をもっていることにも示されているのである。
 天孫降臨の後に続く、海幸彦・山幸彦の神話は、人々が海の試練を受け、しかし結局、海の世界に入り込むことに成功したことの物語への反映と考えることができるのではないだろうか。全国に広がった阿曇氏、賀茂氏などの海民が、この種の神話を祖先神話として持っていた可能性は高い。
 次ページの上に横長に掲げた絵は、海幸彦・山幸彦の神話を描いたものである。もちろん、この絵巻物は平安時代末期に描かれたものであり、神話の舞台も本来の南九州ではなく、紀伊国となっている。しかし、重要なのは、その場が「御厨」、つまり天皇領の漁業荘園とされていることであろう。このことは、この神話が王権に従属する海民たちによって各地に広がっていったことを示すのかもしれない。

 紀州は武内宿弥を祖先とする紀氏の拠点であって、紀氏はここから瀬戸内海の海民集団を組織し、さらに神話時代の天皇家の直臣として、朝鮮、中
国との対外関係にも深く関わっていった。私は、これが「神武東征」神話においてヤマト侵入のルートが紀川沿いとされていることと関係していると
考えている。

 その関係では、この場面に海亀の甲羅が描かれていることも注意しておきたい。奈良平安時代の海亀の史料は紀伊と伊豆にしかないが、紀伊の海民は、紀州沖から瀬戸内に入ってくる海亀を積極的に捕らえたのであろう。「神武東征」神話では、瀬戸内海に浮かぶ「亀」が水先案内の役割を果たしているが、こういう「亀」の神秘性の観念は一般的であったに違いない。紀伊や伊豆で捕らえられた亀の甲羅が「占い」の材料として貢上されたことも、そういう観念を生む原因であったろう。
 
 そもそも、瀬戸内海は、日本の世界創成神話、イザナギ・イザナミの「国生」神話の場であったことも重要である。イザナミ・イザナミがその周りで恋愛遊戯をして性交に及んだ「天柱」の原型は、写真②に掲げたような天体現象、太陽柱・月光柱の幻想を反映していた可能性も高い。太陽柱・月光注は各地で観察されるが、歴史家としては、それが奈良・大坂の境界の生駒山の上でも観測されることが興味深い。奈良から月光柱を見た場合には、それは瀬戸内海に聳えるものともみえたであろう。朝鮮半島から移住してきた人々にとっても、それは印象的なものであったろう。「天柱」はオノゴロ島に立ったというが、オノゴロ島は瀬戸内の淡路島の南の小島である。
 ここには、日本の国土は海の中から生まれたという感じ方があることは確実である。そして、この「国生」神話はやはり、神話学がいうように、南島起源のものであって、おそらくは弥生時代以前から、この列島社会にすでに存在していた基層神話であったということになるのではないだろうか。日本の神話は朝鮮半島由来の天孫降臨の神話、天界の神話と、南島に起源をもつ「国生」神話が合流することによって形を整えたというのは神話学の通説である。
 このようにして、海と神話ということを考えてくると、悠久の昔から、日本列島が、東アジアの北と南の交点に位置したことの意味に思いいたるを考えさせるのである。そして、そういう視野の下で、その中で日本列島に独自なものが何であったのかということになると、私は、やはり地震と津波の神を上げておきたいと思う。つまり、一般に海の神としてしられるスサノオは、怒って天に昇る時には、「山川ことごとくに動み、国土みな震りき」といい、またそのもつ「天の沼琴」が鳴ると地震が起こるというから、彼は強力な地震神でもあったと考えられるのである。(『古事記』上)。これはギリシャ神話のポセイドンが海神であると同時に地震神であったことと同じである。
 これをふまえると、スサノオの子孫=大国主命と同体であるとされる大物主命が「海をてらし、より来る神」とされることは、大物主命が津波を代表する神であったことを示すのであろう。海を光らせてやってくる神。これは大津波にともなってしばしば観測される地震発光を示すものであったということになる。
  以上、列島の海と大地は、さまざまなとらえ直しを必要としているが、そのすべての前提となるのは、大気と海洋、さらに天体現象・地震・津波などの研究のすべてをふくむ歴史科学と自然科学の学際的な協力である。

               東京大学海洋アライアンス編

             『海の大国ニッポン』(小学館)2011

2012年1月20日 (金)

院という言葉と「院政」

 いま帰りの総武線。今日は歴史教育の方との相談会。
 話題となったことで考えさせられたのは多い。結局、教材に必要な個別具体性と一般性の関係をどう調整できるかという話。個別具体性の重視タイプがほしいという趣旨は了解。しかし、それはなかなかむずかしい。
 ただ、ここでは「女院」という言葉を教室で教えるかどうかについてメモを残しておく。王権の中での女性の位置については服藤早苗氏によって多くのことが明らかになっていて、それは何らかの形で教育でも伝えた方がよいと思う。その意味で女院という言葉を実際に教えるかどうかはべつにして、王妃の位置を歴史知識の中に位置づけてあるというのは必要ではないかというのが私見。教育の側からは、「院」というと、子供たちはもっぱら「院政」の「院」という言葉を思い出すので、なかなか使いにくいという意見があった。
 そのやりとりで、「院政」という言葉の「強さ」のようなものを思い知った。もちろん、「院政」という言葉は便利な言葉であって、「院権力」というべきものが存在する以上、使うことは必要である。王家の「治天の君」ー「天皇」という体制は、他に一言で表現できるよい言葉は(現在考え及ぶ限りでは)ないように思う。
 しかし、新井白石的な「院政」とは「降り居」の帝が政治をとる「不正常」「非本来的」な王権の姿であるという考え方がある。これは、一種のイデオロギー、名分論に過ぎないが、ところが、院政という用語の、このような意味は深く浸透して、今では「院政」というのは影の実力者による政治という一般用語として使われる。歴史家の立場からいうと、こういう一知半解の歴史用語の流用は本当に困ったことだと思う。ここでは歴史は、ようするに「それらしい言葉」を提供する媒体でしかないということになっている。強くいえば、そういう「隠れ実力者」という意味で「院政」という言葉が使われるたびに歴史の真実が曖昧になる。これは歴史文化を殺すためのもっともよい方法であろう。誰がこういう仕方で「院政」という言葉を使いだしたのか。名分論的史家の評論ではじまったのであろうか。それが同じ日本語を使用する以上、歴史家の心理まで左右することがある。迷惑な話である。
 「院政」を行う「院」は決して裏から問題を扱うなどということはない。「院」こそが正面権力なのである。それ故に、この時期の荘園の基本典型である「院領荘園」は「王家領荘園」ともいうことができるので、荘園制を教える場合には、この時期の荘園の中枢が「院領荘園=王家領荘園」であることを伝えるのは根本的に重要ということになる。
 そもそも「院」の語義が問題である。「院」とはそれ自体としては「区画によって囲まれた建物」という意味である。私は、この語義は少なくとも教えてもよいのではないかと思う。とくに「女院」という言葉は教えてもいいのではないかと思う。前近代では、普通、歴史上の天皇のこと自身を「院」と呼称した。院政をとらなくても、たとえば近衛院であり、二条院である。そして王妃身分が引退すれば「女院」身分となる。「院」とは、ここでは特定の格式を表現する建物の呼称なのであって、「院家建築」などという言葉も存在する。だから「院領荘園」などという場合の「院」は、女院領の「院」もふくめられているのだと思う。「平等院」「蓮華王院」などの言葉も想起してほしい。
 いま現代語でもっとも多い「院」は「大学院」の「院」、「参議院・衆議院」の「院」であろうか。これらの「院」という漢字を、その本来の語義通りにしっているというのが教養というものではないのだろうか。「院」の語義を知らずに、これらの言葉を使っているというのは、漢字がただの記号となっていることを意味する。カタカナ言葉の氾濫と同じことだと思う。そういう日本語のあり方は、日本語を根無し草にする。歴史学の仕事や歴史教育の仕事には、こういう言葉の語義を歴史的文脈にそくして確認し、リテラシー、文字的教養を養っていくことも含まれると思う。遠山茂樹氏がいう基礎知識というのは、そういう視野で考えられるべきことと思う。
 歴史学の教育と日本文学・日本語学の教育のカリキュラム的な関係を、考えていく場合、こういう言葉についての教養や、感覚を伝統文化にそくして養っていく仕事を相互に位置づけておくべきではないかと思う。またそういう視野で歴史用語を考えていくということ抜きには、歴史学の概念論は無意味であろう。もちろん、その場合、ただ「伝統」という名で、事実も名分論イデオロギーもなにもかもゴッチャ混ぜにして、「護持」するのではなく、必要な部分を注意して組み替えていくこともふくまれることはいうまでもない。
 そういう意味で、歴史学の教育の場所で、漢字の語義にさかのぼって説明すること、「院政」の「院」というのは本当は、「建物」の意味なので、別に「裏の実力者」という意味ではない。院政をとる院は、裏の実力者ではなく、王権の主体・権力そのものであるということを説明するというのは意味があることのように思う。
 こういう細部への配慮は面倒くさいものかもしれないが、それを一つ一つ、研究者・教育者の間で共有していくという、布を編んでいくような仕事が必要なのだと思う。
 なお、いま、いくつかの教科書をみてみたら、「上皇やその住まいは院と呼ばれたので、この政治を院政という」とか「その住むところを院とよびました」などの注記もある。ただ、教師は、この注を利用して「院政=隠れ実力者」という図式を批判しておくことが必要と思う。

政治学・法学・経済学と歴史学

 京都出張の帰りの新幹線。じっくりと文書を調査してややほっとする。細部の調査は原本を拝見できるにこしたことはない。今日の朝の石階。昼過ぎの山門をでたところの飛行機雲。
120118_083126_2   細かな調査である。過去を細大もらさず、できるかぎり確定していく作業。もちろん、確定にはさらに長い時間が必要であろうが、不明部分の原稿を埋めることができやはりほっとする。こういう仕事に何の意味があるかといわれれば、過去を確定する作業に参加することと答えるほかはない。
 政治・法・経済に関わる人々と、その学問のことを尊重している積もりではあったし、いよいよ尊重しなければならないと思う。けれども歴史学のような学問を仕事と120118_122446 するもののとっては、社会との関係で、むずかしい問題がある。

 その難しさの第一は、学者にも学者としての立場以外に、市民・国民としての政治・法・経済についての立場というものはあり、それは社会人である以上、学術とは異なる問題として正確にもっている「べき」ものである。そしてこれは当然に「歴史学を何のためにやっているのか」に関わってくる。ここで「べきものである」といったが、これは「べき」ということであって、「べき」と考えない学者もいる。この意見の相違は、相互に「歴史学は何のためにやっているのか」と問うほかに有効な議論はありえないが、相互に問うこと自身が最近ではまれになっているように感じる。しかし、本来、いくら議論をしても、「歴史学は何のためにやっているのか」ということについて一致することはまれであった。そもそも、それはおのおのの歴史学の作業が、実際に結果するものを考え、経験し、それを交流するなかでしか議論にはなりえない。この問いは絶対的な必要であるとは考えるが、しかし、結局は「べき」と考える学者、あるいは「べき」と考えない学者の歴史学の作業そのものの説得性に依存してしまうことになる。

 もちろん、その説得性は、市民・国民としての立場自身の説得性の問題もあるが、これ自身も学者にとっては、なまの形では現れない。これが第二の困難である。市民・国民としての立場を、ここで仮に「A」とすると、しかし、学問としての政治・法・経済というものがあって、それを「A'」とすると、「AーA'」の関係なしには、学者のAは成り立たない。広い意味では仲間・同輩である政治・法・経済の研究者に問うことなく、ある歴史学者が「A」をもつということはありえないのである。その意味で、私は、A' への問いを抜かして、学者としての人間が、国民的・市民的立場によって自分の社会的行為を直接に律することは、私は正しいとは思わない。
 もちろん、これは学者の倫理の問題である。平安時代の言葉に「等倫」という言葉があって、同朋・同年齢集団と同じような意味であるが、「倫」という漢字の語義は「仲間」というような意味であるから、ようするに学者内部の「理」あるいは「道」というような意味であり、それはまずは研究者個々の心理の問題である。もちろん、国民的・市民的立場というものは、それを越えて存在するが、しかし、非生産的労働にたずさわらせてもらっている立場、いわゆる「全体の奉仕者」としては、自己の社会的立場については抑制的でなければならないのは当然であろう。もちろん、社会的実践と言論は異なるものであるから、言論の自由は享受しうるものである。そして言論の自由である以上、それは信条の自由でもあって、信条は、必ず、それに対応する心情をふくむ。しかし、その心情の抑制が本質的に必要なのである。学者・研究者の社会的な中立性というのは、単なる仮面ではなく、このような倫理によって支えられるのだと思う。そして、このような倫理に支えられることによって、個別学問の主張が学術世界全体の主張となった時に、変化がやってくる。

 第三の難しさは、歴史学と政治学・法学・経済学の性格の根本的な相違である。政治学・法学・経済学は直接に実践の学問、政治的実践、法的実践、経済的な実践に関わる学問であるが、歴史学はそうではない。歴史学は、基本的には「頭脳労働」のみの学問、いわば考証と雑学の学問である。もちろん、現代史家は、直接に学者としての社会的実践を行うが、実際には、それは政治学者・法学者・経済学者としての実践であるというほかないと思う。実践の領域には「歴史」というものはないのである。政治学・法学・経済学の実践には保守、進歩、conservativeとprogressiveの両方があって、これはそのどちらも必要であることはいうをまたない。方向のゆがんだ進歩に対しては反動的実践さえも必要になるのである。これらに関わる政治学・法学・経済学の学者の責任はきわめて重い。このような分野の学者は本質的に単なるスペシャリストでいることを許されず、実践者として同時にゼネラリストでもなければならない。
 直接的な「実践」である以上、現場を「践んでいること=踏んでいること」が要求される。そして「場慣れ」と「賢さ」が要求されるし、その中で鍛えらえるのだと思う。もちろん、歴史学者の中にも、私のような「場慣れ」しない現場感覚の弱い人間のみでなく、よい意味で「世慣れた」「賢い」人もいる。また過去の史料は現代の中に存在するから、その限りでの社会に対処することはもとより必要であり、「現場を踏む」ことは大事である。
 しかし、歴史学者が踏む現場は、現在ではなく、やはり過去であり、過去に関するスぺシャリストなのである。歴史家は、過去から現世に浮き上がるとき、見当識の揺らぎを感じる。そして、歴史学者は、哲学者のように、思想者としてゼネラリストであることは本来的にきわめて困難である。一般に、そのようなゼネラリストしての欲求と嗜癖をできるかぎりさけるところで歴史学者は仕事をしているからである。歴史学者は、ゼネラリストに必要な弁証とレトリクをむしろ拒否するところで学問をするのである。歴史学は対話の学問ではなく、独語の学問である。もちろん、「戦後歴史学」の担い手たちのようなエリート集団はいたが、一般には(少なくとも私は)頭脳の瞬発力はそんなに強くない。マラソンタイプである。それ故に、歴史学者がゼネラリストとなるのは、実際にはきわめて茫漠とした感性のレヴェルに限られるように思う。すくなくともそこがベースとなるのだと思う。

 以上、「歴史学を何のためにやるのか」「歴史学は政治学・法学・経済学をつねに意識していなければならない」「歴史学は実践の学ではなく、頭脳労働の学問である」という三つの問題は、歴史学者の人生に様々な色合いをもたらす。これは一般には、なかなか人間としては稔りの少ない学問ではないかと、私は思う。しかし、もちろん、歴史学者の中には、そういう中で逆に勁いバランス感覚をやしなう人もいる。一昔前までのヨーロッパの政治家には歴史学の専攻者が多いというのも有名な話である。そういう稔りの多い人も現実に存在し、存在する以上、これはあまりに個人的な感じ方で、一般論にはなりえない憂鬱な傾向論かもしれないが、私はそう感じている。
 ともかくも、歴史学というのは、細かな細かな知的労働であり、WorkであるまえにLabourの部分が多いのである。そういえば、政治学・法学・経済学の研究者は我々の仕事もLabourであるというであろうし、私のように編纂を業としているのは一部の歴史学者に過ぎないという意見もあるだろう。しかし、外在的・偶然的な事情で(多くの場合、無秩序に残った)史料からの事実復元を、実際上、アーカイヴズが存在しない日本社会で営む歴史学者には、上記の事実は多かれ少なかれ当てはまるのではないかと思う。
 そして、これらすべての問題の上に、今ふれたアーカイヴズの不在をふくめ、モダン日本、現代日本の歴史離れ、歴史的伝統の無視という固有の病理がはたらくのである。こういう中できちんと「悟る」にはまだまだ修行が足りないわい、身仕舞いが悪いというのが、帰京の際の感想。今、小田原、新幹線の帰京時間は懺法の場にちょうどよい。

2012年1月17日 (火)

リルケ、ロマン・ロラン、そして宿敵ハイデカー

 今日16日は京都出張。いま、新幹線の中。スーツの上着をぬいで、先日奥さまが買ってきてくれたカーディガンに着替えたところ。
 戦争直後に生まれた世代。今、60前後の世代で、よく読まれた小説の一つはおそらくロマン・ロラン。そして詩人の一人はおそらくリルケ。私たちの世代で両方を読んだ人は、まったく違う小説家と詩人であると読んでいたと思う。もう新しい文学を読む元気はないので、今でもときどき読む。
 この前、『マルテの手記』と『ジャン・クリストフ』の相互で文章と内容が非常によく似ているところがあったような気がした。『ジャン・クリストフ』は「広場の市」の場面だったと思う。両方ともパリのアパートに孤独にいて隣室をどう感じているかという話であった。
 リルケとロマン・ロランはほとんど何もかも異なっている。しかし、ヨーロッパの都市世界の中で生まれた「孤独」というものを見つめる日常的な目は、意外と共通性があったのかもしれない。もちろん、『ジャン・クリストフ』のもう一人の主人公、オリヴィエ・ジャナンより、リルケが圧倒的に強い人間であることは明らか。リルケはドイツ生まれのジャナンのようにみえるが、リルケの散文は強い。何年か前、リルケの年上の愛人、ルー・アンドレアス・サロメの伝記を読んだ時の驚きを思い出す。
 19世紀世紀末から20世紀のヨーロッパの都市は、開放された「ブルジョア的な富」というものが最初に文化を世俗化し、席巻し、作り替えた時期。しかし、その中から生まれたものも多い。その中の「広場の市」、つまり文化をも商品化し、享楽の一部にはめ込んでいく中での「孤独」というものをロマン・ロランもリルケもみていたのだと思う。ここでともかくもフランス革命からはじまった時期が終わった。それ故に、ヨーロッパ史家には、この時代以降を現代とする人が多い。私は世界史全体の段階論からいくと、そうは考えないが、しかし、逆にこのヨーロッパ世紀末が世界史の未来へ向けては決定的な位置にあることも明らかであると思う。それはより深刻な「現在」の位置に関わることである。
 もちろん、世紀末は、その時代の中でも深刻な問題を惹起した。つまり、その都市の爛熟と格差の中からすぐに何が生まれてきたかは、歴史家ならば、誰でも知っていること。ドイツの暗い森である。そしてロシア社会主義は、ヨーロッパ文明の展開に対して何の力ももちえなかった。ヨーロッパとトロッキーの関係は悲喜劇に終わった。ロシア社会主義はロシアのヨーロッパ化、あるいはヨーロッパの東へのジャコバニズムの展開、ジャコバニズムの自己中毒という要素をもっていたという意味でも辺境文化であって、ヨーロッパへの影響を担保するようなことはできなかったのである。ロシア社会主義がロシアのヨーロッパへのコンプレクスのなせる業であったとすれば、アメリカはヨーロッパの夢と欲望の植民地への輸出であった。ロシアのヨーロッパコンプレクスは「革命の輸出」を結果したが、アメリカのヨーロッパコンプレクスはヨーロッパの夢のブルジョア世俗化であったということになろうか。
 18/19世紀ヨーロッパが作りだしたロシアとアメリカが、その建前としての理想を世俗化し、膨大な迷惑を世界中にかけてきたのが、20世紀という時代である。そして片方は醜悪な「党官僚」なるものの姿を世界にさらし、もう片方はお馬鹿のブッシュで終わった。こうして、原民喜のいう「ぱっとはぎ取ってしまったあとの世界」、広島に現出した核時代が、人間の肌をはぎ取り、核兵器が生体の核を破壊する時代をもたらす一方で、おどろおどろしい世俗化と国家理性の空洞化という時代がきた。「国家とはそれ自体として軽く扱われてはならないものなのです」というのは、たしかマルクスのルーゲへの手紙の一節であるが、国家中枢の骨粗鬆症というのは、以前は王権と貴族の享楽の末に生まれた事態だが、いまはシステムがそれを作りだしている。
 国家が、これだけ軽くて良いわけはないというのが、私などの考え方である。こういうと、保立は保守主義であるばかりか国家主義であったかということになるが、少なくとも、現在の国家の中枢部の個人責任のなさという意味では、そして中枢部個人の影響力のなさ、そして軽さという意味では前近代史をやっている立場からすると信じられない状態である。前近代身分社会は、ともかくも最後の結果は個人に懸かってくるからである。だからそこに(実態は見るにたえないとしても)劇もあるのだが、現代は最初から三文芝居の時代である。丸山真男のいう無責任の構造というのは、超歴史的な議論で歴史家としては容易に賛同することができない側面をもっているが、集団的な無能力と無見識の現象形態としてはつねにそれが登場することは事実であって、これは現在では、むしろ世界的な問題となっている。
 ともかくも、21世紀になっても、19世紀末期のヨーロッパの知的爆発と資本主義の矛盾の結合の中で、現在は存在している。こういう事態の中で、現代を現代としてとらえる新しい思潮がどこかで生まれているのであろうが、私などのout of dateの知識水準ではもう一度ヨーロッパ世紀末の思想というものを考えること以外には手はない。
 数学のヒルベルト、哲学のハイデカー、経済学のパヴェルクの世界である。これらは一種の共通した側面をもった哲学として括ることができるはずのもので、ようするにマッハである。マッハの議論がイギリス的なバークリの主観的観念論の焼き直しにすぎないというのは、堀田善衛のいう「男らしいレニンさん」の概括批判であるが、しかし、これらの哲学的議論が全体として世紀末に組織体としての様子を明瞭にしてきたアカデミーの内部議論を反映していたものであることは看過できない。それは、その方法的な厳密化の要求をうけたものである側面、そしてその範囲での有効性をもっていたと思う。私はフッサールは読んでないが、ウィトゲンシュタインには明瞭にそういう有効性があると思う。
 ともかくも、その環境の中で自然科学のニュートン以来の再突破、相対性理論と量子力学が誕生し、コンピュータと核技術の中枢が形成されて、「現在」はその知的爆発の中にとらわれた社会なのである。この爆発、ビックバンによって世界が広がるスピードに追いつくためには、無人格的な致富欲と意識の呪縛の世界を表面においた怪物的な経済社会システム、情報資本主義(電信電話からコンピュータへ)によるほかなかったというのが、20世紀の歴史であって、しかもこれだけ惨酷な時代は、人類史上、存在しなかった。人間による人間の大量殺害と環境破壊。
 21世紀は、ヨーロッパの知的爆発の影響を世界的に最終処理する課題をもつ世紀である。学術の世界の側からいえば、そこからはじまった自然科学のビッグバンに社会科学の拡大が追いつけず、社会科学の拡大に哲学が追いつけず、歴史学は所々で道草という状況である。これはスティグリッツがいうグローバル化の波状現象、つまり金融のグローバル化に経済のグローバル化が追いついて行けず、経済のグローバル化に政治的なガバナンスのグローバル化が追いついて行けないという状況と、実際上、二重化した、その学術世界への反映なのかもしれない。
 こういう状況の中で、学術世界にどこから変化がおきるかといえば、一般には哲学からのはずである。ヨーロッパの知的爆発が人類史上に巨大な意味をもった最初の原点は、ギリシャ自然哲学にある。もちろん、それが八世紀ヨーロッパに復活したのは、まったくヨーロッパ外部の事情によるものであって、その意味では同じヨーロッパが続いている訳ではないが、しかし、そこにはやはり連続性もあるのである。ヨーロッパ中心主義といわれようと何といわれようと、ギリシャの画期性は否定できない。同時代の中国儒教、インド宗教の勃興の中で、ギリシャはもっとも辺境であり、それが有利に働いた。いわゆる三月弧地帯の帝国の周縁文化である。それは完成系を前提にしてその論理的操作によって先へ進もうとする、もっともよい意味での物真似文化であった。そういう限定をつけるとしても、またヨーロッパ独走ではなかったことは宮崎市定などを読めば分かるが、しかしやはりギリシャ文化、そしてそれを受けた近世ヨーロッパ文化の画期性ということは否定できないと、私は思う。
 問題は、二一世紀に、ヨーロッパの知的爆発の最終処理をおこなわなければならないということは、ヨーロッパの中心性が、この世紀に最終的におわることを意味するだろうことである。このグローバリズムの中で、再度、人類史において、ヨーロッパというような地域性が意味をもつ時代が来るとは思えない。その意味で、現在は、ヨーロッパ中心が本当の意味で終わる、終わらせなければならないという時代である。これがいまだにヨーロッパコンプレクスにとらわれたまま、迷惑をかけ放題した後に、普通の国家に利己主義的に縮小しているアメリカには処理できない課題であることはいうまでもない。
 19世紀ヨーロッパの知的爆発の原点は、アカデミズムの生理にあった。アカデミズムという知的機構の形成の中での人間の知的能力の形成。これは誇りと名誉欲と、常識と非常識と、知的活動が動物としての人間にもたらす異常活動性を石臼の上で砕き出す組織である。問題は、この組織の自己組織原則が学者の自己位置づけ、観測者としての自己位置づけの論理によって形成されたことで、ようするにその種の人間の自己像の反映としての観照哲学である。それが経験批判論あるいは現象学という形式をとったのは、現象記述の厳密化が学者の職能的役割であるからであって、そこにあるのは「学者のための哲学」であった。現象学が二〇世紀の哲学界を通じて首座をしめたというのは、世界哲学史の中では奇妙なことである。学者用の哲学で、人間としての哲学の代用品にしてくれと二〇世紀哲学はいいつづけてきたのである。知的爆発なるものの原点の俗物性とみじめさは、爆発の内容の恐るべき豊富さと奇妙な対照をなす。
 学者の安心立命のための観照哲学と呪文。これを代表するのがハイデカー哲学である。ダーザイン、つまりそこにあるという「物」の世界に「まずは」安住できる立場で、それを観照することから始めるというデカルト以前への退行がまず宣言される。そして、その「もの」の世界そのものを「現象」として、現象の膨大な網の目の中をさすらう研究者に、網の目は膨大だ、その網の目の詳細な追跡をするだけでも君の知的労働は意味はあるのだ。「存在論=オントロジー」と呪文をとなえればよいというのが、彼の提供した特効薬である。殺し文句は次。「研究の独自の進歩は、その結果を集録してそれを「ハンドブック」の中に収めることよりも、むしろそれぞれの事象のこのようにして増大した知識から、多くの場合、反作用的に促されたところの、それぞれの領域の根本構造への問いの中に存するのである(『存在と時間』上、三〇頁)。理屈と哲学の不得手な自然科学者を、こういう言葉でひっかける訳だ。いまでもコンプレクスの強い情報学研究者、あるいは諸学の王者としての自信のない情報学研究者は、「オントロジー」という言葉をハイデカーから借用する。
 重要なのは、この「もの」の世界をハイデカーが有用性という言葉で捉えることで、有用性についてのバカバカしい「経済原論」らしきものをやって、「世界内存在」についてのドイツ人(ドイツ語を使う人)にしかわからない素人哲学を展開することである。ドイツ的、というよりもドイツ語的な地方的難解さが、しかし、哲学の深淵さであるかのように受けとめられるのは、ドイツアカデミーの総合力、19世紀末期において多様な諸科学においてアカデミーを形成したドイツの総合力によるものであろう。
 前から確認したいと思っているのは、ハイデガーが、その経済議論のもとねたとした新カント派の経済学の範疇議論の内容と系譜である。ハイデカーが批判したとされるが、おそらく、その程度の低さに逆規定されているはずの新カント派、リッケルト、シェーラー、ロッツェなどの経済議論である。大塚久雄先生が価値論の論者として高く評価している左右田喜一郎氏の仕事も、新カント派をうけていたはずである。彼らとパヴェルクなどの効用価値説の関係は、実際上、きわめて深いのではないだろうか。リッケルト、シェーラーなどは三木清の最初の格闘相手である。三木清と新カント派の関係となれば、私などにとって古典的な問題なので、いつかつめてみたいものと考えてきた。
 ともかくもここら辺を読んでいると、ハイデガーの議論は、素人経済学の域を超えないものというのは明らかである。たとえば、ハイデガーの道具論は、有用性という用語がキーになっている。正確に引用しておくと「世界内存在とは、道具全体の道具的存在性にとって構成的な諸指示のうちに、非主題的に配視的に没入していうということに他ならない。配慮的な気遣いは、世界とのある親密性を根拠として、そのつどすでに存在している」という(16節76)。普通の言葉で言い換えると、道具は、その使用方法を自身で指示する力をもっており、それによって、使用者は、一定の気配りをすれば、その道具を使えるものだということになろうか。しかし、こういう議論は何か意味があるのだろうか。滑稽な感じがしたのは、ハイデガーによる「近頃の自動車に取り付けられている回転式の赤い矢」についての説明である(17節202)。この方向指示器について、いろいろ言った後で、「指示は、何らかの有用性が、そのために用いられる用途性の存在的な具体化であって、ある道具を、この用途性へと規定するのである」と説明する。「方向指示という機能は、安全という効用のための手段に具体化されて、ある道具を方向指示器にする」という訳だ。こういうのは実際の経済学的な分析ではなくて、言葉の遊びである。
 ハイデカーにとっては、物の有用性によって結びつけられた親密な配視的世界と、道具が問題なのである。これはドイツ小市民の夢、ドイツ職人世界のたわごとだというのが、私などの感じ方である。
 私はハイデカーの有用性についての議論を読んでいると若い頃に読んだサムエルソンの『経済学』の冒頭の無概念な叙述を思いだす。実際上、ようするにハイデカーの議論は、効用価値学説に密接な関係があったのであって、ハイデカーの謎は経済学から解くべき点が多いのである。ベーム・バベルクとハイデカーという問題領域である。使用価値あるいは効用価値の世界は現象であって、価値実態や労働の問題が入ってこない。これは効用価値の世界で経済を解こうとするということであるのは明瞭なことだと考えている。経済学者にハイデカー批判をしてほしいものだ。(なお、私は使用価値という訳語は、use-valueの訳語としては適当でないと考えており、日本語としては川島武宜のいう利用価値あるいは効用価値の方がよいと考えている。効用価値説それ自体には、重要な実用性があるというのが大塚先生の御意見)。
 考えてみると、ハイデカーは歴史学の宿敵である。下手な哲学者は歴史哲学をやることによって、自己の哲学の玩具性を表現してしまうが、このような玩具にえらそうな顔をさせてきたのが20世紀の学術世界であったというのはなんと奇妙なことか。

2012年1月15日 (日)

ベン・シャーン『ここが家だ』、NHK日曜美術館

 日曜美術館がベン・シャーンやっていると呼ばれて急いで下へ。
120115_135442  アーサー・ビナードさんがでていて、『ここが家だーーベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社、絵ベン・シャーン、構成と文アーサー・ビナード)の紹介をしているところに間に合う。昨日は例年の監督業務で日曜美術館のことなどはなす余裕はなく、就寝。
 いま、総武線の中で『ここが家だ』を再読したところ。出る前に探したが、書棚の居間から移した分にはいっているのがわからず、一騒ぎ。Mちゃん、疑って、という訳ではないが父母で聞いてごめんね。
 大量のベンシャーンの史料を蒐集・分析しているという、福島県立美術館のキュレーター荒木康子さんがでてきて、ベン・シャーンの「The Voyage of Lucky Dragon」を紹介している。Lucky Dragon、第五福竜丸である。
 日常の圧倒的な力の中で埋没する記憶をあらためて語る力をのっていると。「日常の圧倒的な力」。たしかにその通りである。
 『ここが家だ』で紹介されたマーシャル群島での核爆破の情景描写は強烈な印象。

いきなり 西の空が まっ赤に もえた。「太陽がのぼるぞぉー!」と ひとりが さけんだ。西の空の 火の玉は 雲よりも 高く あがっていた。

けれど ほんものの 太陽は 東の空に のぼる。にせものの 太陽みたいな ばけものが うようよ もくもくと もがいているのだ。

 この核爆発の描写は、一種の神話である。巨大な悪神の立ち上がりを世界に告げた神話である。これが悪と恐怖の神話として真正であることは、人類史最初の神話が真正なものであったことと同様である。人類にとって最初の神話と、この核爆発を伝えるものとして語られた「詩」は、その神話性において区別されることはない。
 原始神話というのは、意識をもつようになった人間にはじめて映ったおそるべき、そして光々しい、神々しい世界の形象である。視神経と脳髄の自己意識の力がはじめて直接につながった人間の中に入り込んできた無縁の自然、圧倒的な自然の力の形象化である。
 原子力の「安全神話」という用語における「神話」という言葉の使用のあり方は正しくない。実際には「原子力安全神話」とは「みえていること、知っていることを隠す」ということであって、本来の「神話」は「みえないものをみる精神的営為」を意味しているからであるというのは、前に、このブログで書いた。「安全神話」というのは曖昧主義、オブスキュランティズムであって、これも
マスコミが作りだした操作的な言葉である。しかし、さらに問題なのは、この「原子力安全神話」の背後に、真正の神話、しかも原始神話とは異なるもっぱら恐怖のみの神話が控えていることであると考えた。「安全神話」という言葉はこのことも曖昧にする。
 ともかくも、アーサー・ビナードさんの「詩」が、原始の太陽神話、世界創造神話の印象に酷似することにショックをうけた。そして、世界の神話の中で、もっとも濃厚に火山神話が分布するのは太平洋、環太平洋圏であるという最近の神話論研究で確認したことにあまりに一致することにもショックであった。マーシャル群島にも、大林太良氏が報告しているような世界創造神話があるに違いない。そしてそれは火山神話であるというのが最近の確認点であるので。
 いま、総武線の中。明日からの出張準備で出勤。ベンシャーン展を神奈川近代美術館で、1月29日までやっているということなので、できれば行こうと思う。
 ベン・シャーンは、私たちの世代だと、ドーミエとケーテ・コルヴィツとベン・シャーンという形で親しい版画家。1898年リトアニアの貧しい農家に生まれた。父は帝政ロシアに抵抗し、シベリアに流刑され、逃亡し、社会主義運動に参加し、スウェーデンやを放浪してアメリカへ逃げた人。少年時代から石版工房で働く。
 私たしの世代だと、無実の罪で処刑されたアナキスト、サッコとバッサンディの救援運動に参加し、連作を作ったこと、そして、1945年の「解放」題されたフランスの子供たちが深刻な顔でブランコをしている綺麗な絵がなつかしい。これはテレビでも出てきた。
 番組の最後に、ニュージャージー州のルーズベルトのベンシャーンの家が映し出され、リルケの『マルテの手記』に題材をとった版画集「一行の詩のためには」の紹介がでた。「追憶そのものからでてくるのだ」、追憶がわすれさられた時にでてくるものを語るという言葉は、歴史家にとっても重大なもの。亀戸に、昔、娘とみにいった第五福竜丸はどうなっているのだろう。
  途中9時45分に地震

2012年1月13日 (金)

元年という表記を採用しない理由

 新年になったが、昨年大晦日から今年元旦にかけての初詣の写真を載せるのをわすれた。自宅の近くの作草部神社。お酒とお汁粉をいただく。
120101_003846  ここ6・7年であろうか。初詣に近くの神社に行く。子供が小さかったころ町内の子供会の関係があったころは何度か行った記憶があるが、中年の間はまったくであった。ただオランダから留学生を受け入れていたとき、彼が行きたいということで、作草部神社に初詣に行き、さらに靖国神社にも連れて行ってから行くようになった。
 作草部神社の夜神楽はよいものである。お神楽を外からみているだけでいろいろなことを考えるのは昨年の年頭のブログでも述べた通り。お神楽を聞いていると、そのうち、日本の音楽と学芸というものについての加藤周一の図式を点検してみたいものだという形で頭が自動書記をはじめる。
 ところで、私は歴史史料の年代を述べることが必要な場合、最初の投稿論文から、「貞観1年」などとして、「元年」という言葉を使わないようにしてきた。その投稿の時に(25歳?)、審査でこれは史料通り「元年」とすべきだという指摘をうけたが、応じなかった。つまり、「元年」という用語は、元号イデオロギーの一つで、それに歴史家は染められてはならないというのが一貫した考え方。佐藤進一先生が『花園天皇宸記』や『御記』という呼称を拒否されるという有名な話と同じ考え方というのはおおけないが、元年というのは単なる数詞ではなく、元号の変更にともなう祝儀を表現するイデオロギーが入っている。
 自分および家族や友人たちの間で、元旦を元旦というのは私的な祝儀の表現であって、たとえば今年、謹賀新年という気持ちになるかどうかは別として、私的な祝儀は祝儀としてありうる。しかし、学術の世界に、特定のイデオギーをあたかもイデオロギーではないかのような顔をして持ちこむのは世慣れぬ非常識というものである。もちろん、過去の実在として元号イデオロギーは存在したわけだから、その意味で「元年」を使用することはある意味で自由であるが、あまりに無自覚のような気持ちがする場合もあるので、自戒のために依然として「元年」は使用しないという風習を維持している。歴史史料の引用において年号を使用するのは史料検索の便宜からしてやむをえない。より一般的にいえば、過去に関わっている以上、過去のイデオロギーに知らぬ間に染まっていき、out of dateになっていくのはある種の必然で、そのために常識的な歴史学者は一般に保守化していく訳であるが、しかし、そうはいっても研究者としての世俗への超然さはどうしても必要なものである。
 一般に歴史学者の傾向としては、年を取ると、「過激化」していくタイプがある。歴史家というのはとくに執拗な、しつこい人種であるので、一歩間違うと、執拗な繰り返しのループの中に入っていく。それが学者一般の心理としてのよい意味での「純粋化」=超然化と、下手に化学反応をすると「過激化」ということになる。これは自戒の意味でいっている訳ではないが、それよりはむしろ「保守化」したい、あるいは「保守過激」がよいというのが、私の感覚。もちろん、もっとも格好のよかった「過激化」は網野さんである。あれは人柄が大きく、実力もあったから、シャイにもみえて格好がよかった。
 昨日は、ある学会の「中年部会」の仲間二人と実務相談もあって、昼の食事という珍しい機会があって、「過激化」現象の話となった。お前はすでに老人性過激症であるというご託宣もえたが、我々のような「戦後歴史学」の文化財的立場になってしまうと、友人たちに暴言を聞いてもらえることほど楽しいことはない。
 ついでにもう一つ。「昔はよかった」という言葉の効用について。
 私も定年が近いので「昔はこうであった」という種類の発言をすることが多い。昨日も別の場で、その種の発言をして、そこには「過去」に対する若干の美化と現在の立場から都合のよいフィクションを(半ば無意識に)入れているのを感じて苦笑いである。
 しかし、世の中において、理想が過去の美化という形をとるのは、もっとも素朴な人間心理の動きである。理想を理想として語り、あるいは理論を理論として構想することは、これは真の意味では必要なことでもあるが、同時に危険なことである。それに対して過去と経験にかこつけてあるべき姿を語るというのはレトリックとしてもっとも安易ではあるが、普通は大きな害はないものである。これは保守主義のもってもよい側面であり、保守主義の中にあるもっとも納得的な歴史意識であると思う。そういう意味での「昔はよかった」という言説は大事にしなければならないし、大事にしてほしいと思う(これは老人を大事にせよと要求するのと同じか)。しかし、これはレトリックであって、事実調査にもとづく過去分析ではないから、それにそのまま依拠して現実を進めることはできない。そこで焦ると老人性過激症と五十歩百歩ということになるので、これも自戒しようと思う。
 (なお、念のため追記。上記の保守主義と政治的な復古主義は違っており、元号イデオロギーの本体は、それに関係する代替りイデオロギー、代替り徳政と新制のイデオロギーであることは歴史専攻の方はご存じの通り。丸山真男のいう「維新の論理」(復古的革新の論理)である。これは保守主義ではないというのが私見)。

2012年1月12日 (木)

イリノイ大学のロナルド・トビーさんの受賞

 昨日は人間文化研究機構の「日本研究功労賞」というのをイリノイ大学のロナルド・トビーさんが受賞され、その授与式とトビーさんの講演が日本学士院であって出席。
 行く途中、上野の東京文化会館の前で韓国史の先生にあって、韓国の地震の話を聞く。九世紀に韓国で地震があったという『三国史記』の史料はどこまで使えるかなど教えを乞う。私は東洋史の先生方は無条件に尊敬してしまうというコンプレクスがあり、教授に感謝。当面は、韓国の地震考古学の状況がわからないとむずかしいが、考えてみるというのが結論。
120111_162739  トビーさんもその意味で無条件に尊敬するべき人であったというのが出席しての感想。顔なじみのあまり、そして江戸時代初期の研究者なので、尊敬するという意識はなかったというのが率直なところだが、講演を聴いて尊敬度が増す。トビーさんは、半分、外国史研究者なのだ。
 講演はご自分の研究をふりかえったもので、トビーさんの研究の原点は、大学時代、日本研究をはじめる中で韓国からのは留学生から「日帝」批判を聞いたことであるということであった。当時のアメリカの東アジア研究は中国・日本中心で、近代化論が流行していて、日本近代のマイナスの面などはほとんどふれず、日本の韓国占領などの話はでてこない。
 ところが韓国人留学生から話を聞くと全然違う。学部卒業後、日本にきたが、それもあって夏は韓国に旅行をした。日本でえた様々な好誼と、それと同時に経験した韓国での文化ショックが研究の原点であったという話。
 釜山で下りたら、40くらいの女性が日本語で話しかけてきて、兄が日本に連行されたまま戻らず、20年会っていない、日本で探してくれないかと話しかけられたという話。もう一つは慶州の仏国寺に行ったら、当時はまだほとんど廃寺のような状態で、住職が礎石をさしては、これは秀吉のせい、これも秀吉のせいといったという話。植民地というものを実感としても知識としても知らないアメリカ人として、この二つの経験は大きな印象を残したという話であった。私は修復成った仏国寺の姿しか知らない。同じ世代なのだから、そして隣国にいるのだから、歴史家としては、当然にもっと早く訪れなければならなかったはずのものである。
 トビーさんは、この経験から秀吉の朝鮮侵略の状況をしらべ、その戦後処理の研究を始めたとのこと。その時、朝鮮史の研究をしないと日本史のことはわからないという判断をして、アメリカに返って朝鮮語の勉強を始めたという。これは1960年代末から70年代初め頃。まだ日本人研究者にもそういう研究は少なかったから、そのあとは一本道。
 その後は専門的な話に進んでいき、トビーさんの独壇場ともいえる絵画史料の写真を、沢山、時間オーヴァーで解説してくれた。講演の題名は「国境のない日本の近世」。秀吉の出兵の背景には日本の国境というものの曖昧性があり、それは江戸期もつづいたという意味と、国境のない学界で日本の近世の研究をしてきたという二重の意味。遠くのPPTがみえないのに愕然。これは目が悪くなったか。
 講演を聴いていて、日本と韓国を肌で知っているという形で研究をはじめ、まっすぐに歩んできたということがよくわかった。最近は、歴史学の勉強をなぜ始めたかなどというのを正面から聞く機会がなくなっていることを逆に実感する。古典学のK先生が、今日の話しは学生に聞かせたかったとおっしゃっていた。H先生にもご挨拶。江戸農業史をすべてやり直すために大量の本を積み上げたと御元気。
 ドナルド・キーンさんのお祝いの挨拶も心温まるもの。トビーさんの著書がでたころ以降、日本の研究者とアメリカの研究者の論文や著書が日本人研究者にも利用されるようになってきて、注に引用されるようになってきた。その前までは別々にやっていて、しかもアメリカでの研究が日本の研究者に相手にされることはなかった。その後、少しづつ実際の協力がされるようになってきて、それはトビーさんの努力のお陰であるということ。それからトビーさんが卒業の後に、朝鮮語講座をコロンビア大学に設置したが、それを最初に勉強したトビーさんが研究者として成長してうれしいと。
 たしかに、トビーさんは、史料を利用したオリジナルな研究をする実力がある研究者で、外国人研究者と日本人研究者という形で区別しないですむ共同研究仲間である。しかも日本・朝鮮・中国の史料をみれる、読める研究者として実力のある人。残念ながら、そういう日本史研究者は少ない。
 最近はほとんど学会らしきものにもいかないので、懇親会も楽しく過ごしたが、若干、飲み過ぎた。このごろワイン1杯も呑まないのに、4杯も呑んでしまった。暴言多謝。

2012年1月 1日 (日)

高天跼、厚地蹐

年賀状です。

高天に跼(せぐく)まり、厚地に蹐(ぬきあし)す」(詩経、小雅)。

111204_082610                     近所の公園、自転車で

 昨年はありがとうございました。謹賀新年とは申し上げにくい時勢ですが、私についてはいちおうの無事を御報告します。今年もよろしくお願いします。

核時代後67年(2012)元旦。保立道久

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