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2012年1月26日 (木)

twitterと下部意識

twitterを操作する人が多くなっている。これは、定年前の締め切り仕事で、あっぷあっぷしている私にはできない。ブログというのは、まだ仮面をかぶることができるが、しかし、以前書いたものをみると、やはり、その時その時の感情にまかせた文章があって赤面する。
 いま総武線の中。東大に宗教学の島薗先生などの呼びかけで、原発問題フォーラム(TGF)ができたので、その関係のメーリングリストに、以前、このブログに書いた「安全神話」という言葉はおかしいという私見を、新しいHPをみましたというご報告がわりに送った。それ自身は、私は、いまでもそう思っているのだが、しかし、ブログの文章を読んでみると、トゲのような感情が露出していて、あまりよいものではない。やはりブログはキチンとした文章にしようと思う。
 それに対して、twitterは、より生な意識の表明である。ただ、twitterというのは、言葉自身をとると鳥がツイートするということだから、その語感には、やや高い声でさえずるという要素が含まれているのではないかと思う。梢の上の高いところで、青空を背景として、テリトリーを確認するかのようにツイートする。響きのよい言葉を用意して鋭い口笛のようにさえずるといという印象である。本来は、生のものであると同時に相当の明晰さを必要とする。私のようにやや鈍いところのある人間には難しい。
 ただ、面白いのは、このtwitterという機能が、少なくとも日本では、そしておそらく世界中で、「つぶやく」という意味に使われるようになっているのではないかということである。しかも不特定多数に対してつぶやくという、これまで人間の意識関係ではまったくなかったスタイルを生み出したのではないか。これが人間の意識関係行為のあり方としてどういう意味をもつのか。これは精細な検討を必要とすることなのかもしれないと思う。
 若い人々がtwitterでつぶやくことに嗜癖的な、アディクティブな没入をするのは、その意味で、やむをえないことなのかもしれない。身体的な感覚をそのまま手から画面に伝え、そしてその文字が脳へ環流してくる。と同時にそれがネットワークに広がっていくという訳だ。これは生活をすでに作っていて、楽しく食べ、楽しく語り、楽しく仕事をしている人には応えられないスピード感を、その生活にあたえるのかもしれない。そのグループツイートをみている若い人が、その感覚に憧れるのはよく分かる。
 しかし、これは「冨が生活のスピード感をます」というのと同じで、生活資本があって自由時間のある人にはよいが、生活資本(生活手段)が一般には貧困な若い人にとっては、そのつぶやきが暗くなることはさけられない。しかも、そこには通常であれば表現されない暗い心理、欲望、身体的な劣等意識、呪詛、イライラがそのまま流れ出る。意識と手によるタイピングと、それがデジタル化されて頭脳に環流されてくるという道具立てになじんでしまえば、それらの負の感情が、そのルートを流れ出すのはやむをえない。人間は定型化された感情に抵抗できる強さはもっていない。
 これまでは表現されることのなかった、そしてそれを表現しないことによって、内心の自由というものを確保する訓練をするのが一般的であった倫理的心理が、このツイート習慣によって、ある部分崩れるのである。つまり、不特定多数にともかくもオープンしてしまったことによって、それらの感情が擬似的に解放される。人間は、うそでもいいから、表現し、コミュニケートしたい動物であるから、頭脳活動のデジタル化という擬似的な形であっても、表現してしまえば満足感が生まれるのである。
 これは自己を統御しつつ表現するという訓練系の機能不全を結果するのではないか。そういうことになっているのではないかというのが、心配である。
 しかし、若い人は、そういう領野を疾走するほかないのだろう。あまり明るい世界とは思えないのだが、そのような薄暗い場所が、いま人類史で最初に生まれた未開の場であり、それを身体と精神の全体にすみずみまで刻みつけざるをえないのが若い人々の運命だから、彼らは疾走せざるをえないのかもしれない。
 その疾走がすこしでも安全で実りあるものであることを願うのは、そういう世の中の動きに何千、何万、何億兆分の一であれ、責任のある先行世代としては当然のことである。本当にたいへんな時代になったものだと思う。そういう中で、我々にしかみえないこともあるのかもしれないと思うのである。とくに学術・文化に関わる人々の責任は大きい。
 これは意識関係行為の大きな転換であり、社会構造全体の変化にも関わってくるはずである。これはどういうことか。どこから何を、どう考えるべきか。情報論についての勉強を少ししたことがあるので、もう一度、考えてみたいが、以上で、「つぶやき」終わりである。
 今自宅へ戻ったところ。次の総武線で、「つぶやき」と「ささやき」と神の声について考えてみたい。

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