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2012年2月

2012年2月29日 (水)

火山地震56朱蒙の神話と白頭山の噴火

 白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われていると聞く。
 今回の東日本太平洋岸地震との関係で、九世紀の陸奥沖海溝地震が注目を集め、私も、ともかく研究をすることが必要であろうと考えて、専門の時代の噴火・地震の研究にとりくんでいるが、その中で白頭山と、それを含む長白山脈について若干のことを考えた。
 陸奥沖海溝地震は八六九年(なお、この地震は普通、貞観地震といわれるが、私は歴史用語から元号はできるかぎり排除すべきであるという意見なので、九世紀陸奥沖海溝地震という用語を使っている)。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
 東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
 私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。その必要で村上正二先生の「モンゴル部族の族祖伝承」(『史学雑誌』七三編七・八号)がモンゴル族祖が断崖渓谷(エルグネ・クン)を破って地上に登場したという伝説についてふれているのを知って、急に読み、大学院の頃のことを思い出し、もう少し御話しをうかがっておくのであったと悔やんだ。
 この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
 この史料の性格は私にはまったくわからないので、木村誠氏に教えを乞い、また末松保和氏や田中俊明氏の仕事によって、『三国史記』より時代があがる可能性のある史料であることを確認し、同時に噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろうと見通しをつけた。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。
 惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)
 このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。

 木村氏にうかがったところだと、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないということであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である(中国側)。朱蒙神話の位置については李成市氏の充実した仕事があるが、ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
 さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
 火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。


 以上、都立大の研究会の雑誌「メトロポリタン史学」7号に「白頭山の噴火と広開土王碑文」として載せた者。

2012年2月28日 (火)

総武線でばったり、教育の保守性について

 一昨日は一日立ち仕事、試験の立ち番で立ち番で、疲れた模様。その最中はキチンとしていて、帰宅まではどうにかなるが、あとはだらしなく仕事ができず。
 昨日の月曜日は、朝から疲労感。代休をとれるので休もうかと思ったが、処理すべき仕事を持ち帰るのもうっかりしていて、出勤。地震研究所の先生に頼まれたことで、史料の性格を聞こうと先週からお待ちしていたM先生が部屋を覗いてくれ質問もできた。昼は一緒にとさそわれたところまではよかったのだが、食事ののち、気分が悪く、お茶を一緒にすることもしないで部屋へ返り、できれば地震研の方からの調査依頼は急ぐので、メールを送ってから、すぐに返ろうと思った。作業はすぐにはうまく行かず、そのうち、つらくなり、やっと帰れるまで落ち着いてから帰宅。電車の中で苦しい目にあう。一度途中下車もして、ともかく帰宅。
 私は体調をくずすことはほとんどないが、お腹にくるインフルエンザらしい。
 今日は大事をとって休み。夜と同じく、子供の「ブタ」もしくは「イノシシ」の湯たんぽを抱えて寝ていた。今、夕方四時前。どうにか平常にもどるが仕事は無理なので、日記代わりのブログ。

 日曜からだといろいろなことを考えたが、手帳型日記にメモしたほかは、ほとんどが消えた。立ち番でご一緒したY先生、T先生からの教示は、もう少し考える必要がある(これは分野の違う人と同じ時間を過ごすことになる立ち番の楽しみである)。
 ただ、ともかくM先生には会えたこと、そして昨日、行きの電車で、ばったり、歴史教育の別のM先生にもあえて、隣席でじっくり話せたことなど、よいこともあった。
 歴史教育のM先生とは教材の話。教師は意外と保守的なもので、同じパターンの話を維持するということは歴史教育関係者ではよく話題になることである。たとえば江戸時代に対外関係においては出島のみでなくほかに「三つの口」があったというのが、教科書に登場するようになった時、現場教師からの反発が強かったという話。これでは江戸時代の「鎖国イメージ」が描けなくなる。平安時代も「国風文化」で一種の鎖国、そして江戸時代も「鎖国」というのが一つの全体像で、これが崩れると授業ができないという意見がきわめて強かったという。
 考えてみると、これは平安時代には「中国」に対して「鎖国」をし、江戸時代には欧米に対して鎖国をしたということで、日本の「鎖国性」を話の言説のキーにするという方法であろう。日本という世界を先験的に措定してしまい、それと「外界」との関係を「クローズド」かどうかを基準に語る。文明の開始期にも一度鎖国し、文明の展開期にも一度鎖国をするという訳である。
 こういうものをどう考えるかをめぐって、総武線の一時間弱を御話ししたのだが、江戸時代の「四つ口」論は、それとして研究の前進である。自分もやってきた平安時代は決して「鎖国」の時代ではないというのも研究の前進である。現在の学界からいえば、このような歴史像は誤っているというんもはたやすい。
 私もM先生も歴史の研究と教育が相互に自立しながら柔軟に連携しあって、研究の前進、教育の前進を交流しあうという点では意見は一致している。そして、研究の前進を教育でも大事にしてほしいという点も一致していると思う。議論は、それでは歴史教育において、別の歴史像は可能かということである。これはたいへんにむずかしいという点をめぐっての話になる。
 ともかく、こういう歴史像の描き方は大変に根が深い。ナショナリスティックな形で日本の島国性をほめたたえる感じ方、ぎゃくにそれを日本の文化の雑種性、雑居性の表現として批判の対象とする考え方の二つがすぐに思い浮かぶが、後者は加藤周一、堀田善衛、そして丸山真男などの文化論をすぐに思い起こさせる。これは、相互に矛盾する要素ももつ、様々な歴史意識、社会意識の中から投影される歴史像であって、それが複合的で、一種の歴史文化のパターンとなっているだけに、歴史学だけでは対処しがたいような強さをもっていると思う。
 このような歴史像を支配的歴史像というか、通俗歴史像というか、どう表現するかは別として、これは文明というものを日本で語る時のパターンなのである。そして、歴史家の側としては、それでは代替となるような歴史像を提供してきたのかということを問題とせざるをえない。歴史意識の島国性についての批判は、黒田俊雄・網野善彦などが強く主張して展開してきた。しかし、それが「通史」というレベルで落ち着いているかといえば、そういう状況はできていない。時代・時代で研究は細かくなるが、全体を描き出すことはなかなかできない。歴史学は、「違う」ということをいってきたが、しかし、現在、右の「支配的な歴史像」それ自身が力を失っているようにみえる。歴史像などは、それ自身としていらないという文化状況が強く生まれているようにも思う。そういう中では、批判ではなく、やはり別個のものを作り上げていくほかないということである。
 ただ、いま、考えてみると、これらはあたりまえのことで、やはり東アジアの中での文明史観のようなものが必要であるという点では、学界も教育界も一致してきているということである。平安時代で東アジアから自立し、江戸時代に欧米文明から鎖国して実力をやしなったなどというのではなく、東アジアの一部として、つねに東アジアのシステムの中で動いてきたという歴史像。それにそって、歴史上の事件と状況を整理していくこと。これが必要であることは明らかで、それはM先生をふくめた研究会で議論していることである。
 M先生は私より三歳ほど下。ほとんど同じ状況の中での経験をしてきている。教育の保守性についても、我々の世代だと必ず読んだ勝田守一氏の文章の記憶が共通。そして、たしかそこの文脈では、教育の保守性というのはすべて否定すべきことではなかったと思う。教育の保守性と内容のある程度の大綱的な統一性というのは、社会にとっても必要なものだが、何よりも子供たちの成長と経験にとっても、「何を乗り越えるべき対象とするか」という点の世代的共通性という点からいっても、必要なものだと思う。それを踏まえた上で、さらに前進をするという形での安定した進み方を構想したいものだ。
 なお、M先生、Y先生。先日の会議で話題になった盆踊りの室町時代の史料ですが、このブログの左端下に、私の業績のHPへのリンクが乗っていますが、そこに一の谷中世墳墓群の活動記録のコーナーがあり、私の「裸祭りと女性」という文章が載せてあります。その第三節「お盆から裸祭りへ」という文章に、蜷川文書の盆踊り歌の一部を引用してあります。

2012年2月25日 (土)

河音さんと網野さんの学説

 いま、地震と神話の研究、災害の研究について考えることが多く、河音能平さんの仕事をあらためて読んでいる。河音さんと網野さんの学説の関係ということについてメモをする。狭い学界の中での話であるが、河音さんの著作集の解説で、私は、次のように書いた。

 河音の理論作業がたんに戸田・大山・工藤らの共同研究グループ内部のみでなく、広い影響力をもっていたことについては、河音の理論作業が、『無縁・公界・楽』を初めとする網野の議論の理論的前提となったことも指摘しておきたい。網野は前述の書評において、河音との「非常に接近した関心」を自認し、河音の議論になかば依拠して、『無縁・公界・楽』に直接に連なるシェーマを述べているのである。その意味では、初学者にとっては、河音の歴史理論を理解するためには、網野の議論を通路とすることがわかりやすいかもしれない。

 網野さんの河音さんの著書『中世封建制成立史論』への書評は、よくできたもので、河音さんの意図を的確に捉えている(一九七二年発表、『網野善彦著作集』⑧)。河音の仕事が、いわゆる「世界史の基本法則」なるものへの「根底的批判」を行ったという共感は、それこそ網野さんの初心を示している。この書評の中で、『無縁・公界・楽』の位置づけにからんで重要な部分を、次に引用する。
 この論文は、「従来かならずしも注目されていなかった」「原始共同体の強靱さと、階級支配に対するその根強い抵抗を、あらためて問い直すための契機にもなった」と、私(網野)は以前述べたが(前掲拙稿)、いま本書を読み返してみても、やはりこの点に河音の問題提起の意義がある、と私には思われてならない(網野著作集(8)201頁)。
 そして、この「前掲拙稿」というのは、網野著作集(2)に収められた「戦後第二期の研究史をめぐって」であって、その四六頁で、網野は「この論文(「農奴制についてのおぼえがき」)は一方では、原始共同体の強靱さと階級支配に対するその根強い抵抗を、あらためて考え直すための契機にもなったのである」という上記の引用部分にあたる文章がある。そして問題は、そこに注記(10)があって、その中身が「注(6)拙稿、参照」とあることである。
 この「注(6)拙稿」というのが、該当箇所をみればすぐにわかるように、『無縁・公界・楽』なのである。つまり、網野善彦は、いわゆる「無縁論」の成立の「契機」として、河音の「農奴制についてのおぼえがき」があったことを自認しているのである。
 念のため、前後の年代関係を確認すると、次のようになる。
 河音「農奴制についてのおぼえがき」1961年。
 網野「戦後第二期の研究史をめぐって」1969年
 網野「河音『中世封建制成立史論』への書評」1972年
 網野『無縁・公界・楽』1978年

 つまり、網野は、一九六一年の河音の議論を「契機」として河音のいうような問題を二〇年近く考えてきて、『無縁・公界・楽』は、その一つの結果であったということになる。
 普通、学界の外からみていると、網野学説は
「戦後歴史学」と関係なく展開したと考えられがちである。それは正確ではない。中にいるのと外にいるのは違う。もちろん、内外が違うのは決していいことではないが。

 もちろん、網野の意見は、網野自身の中で作られてきたものであり、「原始共同体の強靱さと、階級支配に対するその根強い抵抗」という問題は、より早く川崎庸之の見解をうけて網野の中に胚胎していたことはよく知られている。それゆえに、網野の『無縁・公界・楽』を河音の影響だという訳ではない。そういう言い方は、河音も網野も認めないだろう。そもそも、「原始共同体の自由」を引いた「自由民、班田農民」が、どう隷属していくか(逆にいえばどのような抵抗をしたか)という問題は、網野・河音に限らず、石母田正・永原慶二・黒田俊雄・戸田芳実などの全員が基本問題として議論をしていたことは、第二次大戦後の「中世史」の研究史を若干でも知っているものにとっては自明のことなのである。

 私は、右に引用した河音の著作集の解説で、そういう意味で「その意味では、初学者にとっては、河音の歴史理論を理解するためには、網野の議論を通路とすることがわかりやすいかもしれない」といった積もりであった。つまり、「中世史の研究史を若干も知らない」初学者は、網野さんから読めば分かりやすいかもしれないといったのである。

 これについて、最近の『日本史研究』593号の座談会で、大山喬平さんが、「この間の河音さんの著作集での保立さんの解題でさ、河音さんを読むには網野さんを通路にして読むと比較的若い人には読みやすいって、彼の案なんだよね。それは保立さんが、石母田・網野というラインの上に自分の学問を置いているわけや」といわれて、さらに「河音さんの仕事がね、網野さんを通じてね、位置づけられていくんではね」「そんなこと、滅多なこといわんといてっていう気分が強いな」とおっしゃっている。あたりまえのことだが、大山さんは本当に河音さんが好きなんだ。
 けれど、私は「石母田・網野というラインの上に」自分の研究をおいている積もりはない。石母田正・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・河音能平・戸田芳実・稲垣泰彦・大山喬平などの織りなしてきた研究史の流れの全体の中に自分の位置を置いている積もりである。
 たしかに、大山さんからすると、「河音さんを網野さんを通じて理解する、網野さんを通じて位置づけよ」というのは何ということをいうのかということなのかもしれない。「河音さんは河音さん。網野さんは網野さん」というのはその通りだろうと思う。何十年も親しい関係で研究生活を送ってきた友人をかけがえのないものと考えるのは当然だろうと思う。それにしても、詮ないことだが、河音さんがお元気な時に、網野さんとの学説的関係をどう思っておられるのかを正確に聞いておけばよかったと思う。

 また、逆に、私が「中世史の研究史を若干も知らない」初学者は、網野さんから読めばよいというのは、若い人たちからすると、嫌みに聞こえるかもしれない。現在の歴史学界の若手は、石母田正以下の人々が織りなしてきた研究史を自分のこととは感じていない。大山さんにこういわれると、ぎゃくに若手を「中世史の研究史を若干も知らない」初学者にすぎないといっているように聞こえるのではないかと心配になった。

 大山さんは何よりも大事な研究仲間をもてて幸せであったと思う。今の若手は、様々なことにこだわることなく研究に集中して有能だと思う。私のような世代は、先行する世代と現在の若手の間で消えていくのであろう。先輩には、学問の伝統を継続することができずに申し訳ないといい、若手には、自分たちだけいい時期をすごさせてもらって申し訳ないと思う。そういう運命である。
 しかし、網野善彦・河音能平・大山喬平の交錯した議論を追究していると、どうにか新しいものを作っていき、歴史学の伝統を受け継ぐ環になりたいという気持ちは強くなる。網野さんはほとんど書評というものをしない人であったが、網野著作集の河音著書書評の横には、大山著書への書評が収められているのである。このときがたい環。

2012年2月24日 (金)

3,11から1年、「生存」が脅かされる仮設住民たち

120223_120957   昨日、昼間、「思想と信条の自由を守る2.11集会」があり、「戦後成長と福島」というテーマで開沼博氏(東京大学大学院学際情報学府)の講演があった。開沼氏は『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』で第65回毎日出版文化賞を受賞した人。何しろ若い。社会学が元気。

 何のための学問か、という、今歴史学がもっとも答えにくい状況になっている問いを問題にする前に現実に飛び込んでいる。地域史は、もちろん、現代史家がもっとも重視してきた論点だが、具体的で、系統的である。福島を第二次世界大戦前から操作してきた人々、吉田、白州、堤、そして木川田などの系列が示される。それらの人々と、それにつらなる人々が招いた構造的な災害であることがよくわかる。そして、何よりも問題なのは、原発反対の人は「変わり者」にしてしまう社会構造。

 開沼氏が著書の元となった論文を執筆したのは、3,11前。そのフィールドワークと聞き取りの様子を具体的にきいていると迫力である。

 大学の研究者は、ほとんど、自分たちのことを特権をもった集団と考えなくなった。私たちの世代のいわゆる「自己否定」というのに戻れというわけではないが、しかし、特権的構造への敏感さというのは、つねに問題の出発点だろう。

 考え方は、同級生や親戚と比べれば別に特権的な地位にいない、給料は低いという訳で、一種の世俗化である。もちろん、こうしてアカデミズムの権威がただの世俗的な疑似労働になってしまったというのは、悪いことばかりではないのかも知れない。しかし、そういう仕事でも、構造的に様々な問題を隠蔽したり、支えたりする構造の中にいることは明らかな事実。それを認識していなくては、そして自分たちの仕事を内省し、仕事を通じて、社会に貢献することなくしては、自分の仕事も守れないはずである。

 私は自分の仕事の社会的意義を語ろうとする歴史学者が、これだけ少なくなった時代・社会というのは珍しいと思う。

 ここ20年、歴史学にとっては、そういう構造的なものの見方が消えていく時代であったが、それを取り戻した上で、さて、どういう方法論が構築できるのかが問われている。というよりも、現代社会分析と深いところで通底しうる方法論がなければ、そして歴史学の伝統の再発見がなければ、そもそもそれを取り戻せないだろう。それはなかなかむずかしいことだ。しかし、職業であるのだから、結局のところそこらへんは厳格にとわれることになる。「原子力ムラ」は対岸の火事ではない。

 ヒューマンライツ・ナウからメルマガで声明が届いた。以下に紹介する。復興予算を使えてないというのが今日の朝日のトップ。何ということか。

読者の皆様

東日本大震災から約一年がたとうとしている今、被災地
では何がおきているのか。
ヒューマンライツ・ナウは、2月18日、19日の気仙沼
事実調査を踏まえ、以下の声明を発表いたします。
この深刻な事態については、詳細な報告書を近々公表
予定ですが、一日も早い行政、関係者の対応を求める
ため、緊急に声明を公表することにいたしました。
是非普及いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

    ヒューマンライツ・ナウ事務局長 伊藤和子

東日本大震災からまもなく1年、今も「生存」が脅かされる仮設住民たち
1  東日本大震災からまもなく1年が経過しようとしている。
各自治体が復興計画を策定する陰で、支援が遅れ、存在すら十分に知られていない孤立した仮設住宅があり、被災者は未だに「生存」が脅かされている。そして、こうした事態は冬の寒さとともに深刻さを増している。
2  国際人権NGOヒューマンライツ・ナウは、2012年2月18日、19日の二日間にわたり、宮城県気仙沼市の仮設住宅、なかでも地元住民が「特に深刻だ」と訴える仮設住宅を訪問した。
  ヒューマンライツ・ナウ調査チームが訪れた「赤岩牧沢テニスコート仮設住宅」は、傾斜の厳しい山間に位置し、車がないと市街地への移動は困難である。
  しかし、最寄りのバス停までは1kmほどで、街灯も十分に設置されていない。住民は「夜は真っ暗だし、周辺には熊、鹿、まむしがいて外出するのが本当に怖い」と、実情を訴える。
 この仮設住宅に入っている56世帯中、36世帯が独居老人というが、行政からは食糧支援や医師・看護師の訪問支援は全くない。
 集会場に顔を出す住民は80名中10名くらいに過ぎないが、引きこもった住民への心のケアや、孤独死対策も行政はほとんど講じていない。
 車等の移動手段のない高齢者・障がい者への移動支援も
全くなく、こうした人々は、通院のために有料・高額の介護タクシーを利用せざるを得ず、所持金を使い果たしていく状況という。
 この仮設住宅は山間に位置するため、周辺地域に比べて気温は5度くらい低い。ところが、暖房器具が入ったのは、昨年12月20日であったという。
 仮設住宅の水道設備の凍結防止が十分なされないまま、水道管は長らく凍結していた。この仮設住宅に限らず、気仙沼市では昨年10月末頃から水道管が凍結して使えなくなってしまうことが多いという。
  こうした事態に見かねた、地元や県外からの個人ボランティアの連日・無償の活動により食糧・物資供給等がなされ、人々の生存がなんとか支えられている状況であるが、今後どこまでそうした支援が続くのか懸念される。
独居老人の孤独死等、あってはならない事態をどうやって
防ぐことができるのであろうか。
3  気仙沼市の西八幡前仮設住宅、小原木小学校住宅、旧月立小学校住宅の合計3箇所がハザードマップ上、土砂災害の危険地域と指定された場所に建設されている。
西八幡前仮設住宅住民によれば、入居から2か月ほど経過した頃に市の職員が訪れ、ハザードマップであることを告知した文書を手渡され、その場面を写真撮影され、市職員はそのまま説明せずに帰ったが、その後によく読んで初めてそのような危険地帯の仮設住宅であるとわかり衝撃を受けたという。
 危険に脅えながら暮らしている住民は、「津波の被害を受けたのに今度は山津波の危険と隣り合わせ」と嘆いている。
 山の斜面に接した同仮設住宅は日当たりが悪く、「土台はべニアにタイル張りで、畳も敷かれずカーペットを敷いているが、布団で寝て起きると布団が著しく濡れている」「結露やカビも生じやすい。扉が凍って外出から帰ってきても扉があかないこともある」と住民は訴える。
 工事の手抜きのために部屋に隙間があいていて、家の中から外が見える状態で、市民団体が見かねて応急措置を講じたという。
 水道管が破裂して流れた水で、仮設住宅の前の道路面は長らく凍結していた。この仮設住宅にも食糧支援や医師・看護師の訪問支援もなく、仮設住宅のかくも劣悪な状況にあるにも関わらず、行政による対応はなされていない。
 政府は、仮設住宅に対する寒さ対策として、畳の設置、断熱材の追加、水道管等の凍結防止(水抜き、断熱材追加、凍結防止ヒーター整備)を災害救助法上の国家補助の対象となるとするが(厚生労働社会・援護局 社援総発0928第1号等)、気仙沼市ではこうした寒さ対策は実現しないまま水道管凍結・破裂等の事態を迎え、未だに対策は不十分である。
4 こうした過酷な環境のもと、住民は、義捐金・生活再建支援金等の給付金をしだいに使い果たしつつある。
 ところが、被災者が、津波で流され、建築制限がかけられたまま利用できる見通しもない土地を有していたり、仮設住宅からの移動手段を確保するために自動車を保有していること等を理由として、生活保護の道が閉ざされることが懸念される。ヒューマンライツ・ナウが、気仙沼市に生問い合わせたところ、「津波で流された土地に建築制限があるとしても、建物建築をせずとも土地の有効利用ができる以上、生活保護は受けることは難しい」との回答であった。
5  被災地では支援格差が深刻化している。
被災地のなかには、行政の対応やボランティア組織の対応により、比較的支援が届いている仮設住宅も存在する。
同じ宮城県でも石巻市では気仙沼では一切認められていない畳が敷かれており、移動が困難な仮設住民への移動支援もきめ細かい。
 しかし、その一方で、人の目の届きにくい仮設住宅においては、支援が届かず、生存の危機・新たな災害の危機に晒され、過酷な日々を生きる被災者がいる。
「赤岩牧沢テニスコート仮設住宅」「西八幡前仮設住宅」の住民はヒューマンライツ・ナウ調査チームに対し「ここは姥捨て山だ」と訴えたが、仮設住宅のあまりにも過酷な条件、そして行政の対応の欠如が、被災者にそのような感想を抱かせている。
声を挙げにくい立場に置かれた被災者にひたすら我慢と犠牲を強いたままでは、真の復興はありえない。
 国、宮城県、気仙沼市はこうした住民放置の実態を速やかに調査し、憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」が実現するよう、すみやかな対策を講じるべきである。


以上

2012年2月23日 (木)

折本に苦闘ーー和紙の雁皮・三椏・楮論に光明

 折本の編纂に手間取っていて、50字分くらいの原稿を確定するのに、一週間以上かかっていてピンチである。昨日やっとむずかしいところの処置が終わって1枚半を原稿化。ややほっとする。
 今日も作業が続くが、原稿用紙がなくなり、倉庫に取りに行くので事務の人に鍵をもらって入る。彼女がもうすぐ入稿なのに原稿用紙をとりに来たのを心配してくれる。事務には心配の懸け通しなので、原稿はもう前につくってあるのだが、文字の大きさ指定などのほか修正と確定が大変なのだと説明した。「奧が深いんですね」といわれて喜ぶ。
 さて、どう手間取っているかだが、和紙は相剥ぎ(あいへぎ)ということができる。つまり、うすい和紙を表面と裏面のあいだで裂いてしまうと、一枚の和紙(文書)が2枚になってしまう。前には、もっとうすく剥いだのではないかと思うが、墨の層の真ん中ではいでしまい、写真で見た感じでは同じ文書二通という極端な例もみた。
 この折本は、本当に痛んでいて、修復のために、この相剥ぎということをやって、表皮と裏皮の間に補強紙をいれて見事に修復してある。ところが、痛みすぎている。
文書表面の記載の裏側に裏書が書いてあるのだが、その位置が整合しない。細かく調べていくと矛盾がでてきてニッチもサッチもいかない。おそらく30年以上前の修復だろうか、実にうまい修補がしてあるだけに、修復のあとがみえず、整合をとり、復元をし、正しい順序で編纂をすることが逆に困難になっている。本当に困った。
 痛みのひどい場合は、中身を調べ、他の史料も調べないと問題を残すことがあるという見本のような史料で、苦闘を重ねた。古文書は、編纂をして、文字の理解を確定してから修復するという手順が最良というのが私の持論。それを再確認した。もちろん、コンサヴェーターの実力は、ここ10年でとみに上がっているから、現在では、ほとんど問題はないのだが、念のために念を入れ、しかも修復過程を完全に記録に残すことが必要だということで、職場の専門家とずっと議論をしてきた。これが私が和紙問題にかかわらざるをえなくなった理由。
 この折本もコンサヴェーターのT君によく見てもらい、相剥ぎであることを確認してもらい、専門家の目でみてもらっていた。今日、昨日の復元結果を点検してもらい、モザイクのようになっている状況についての私の解釈に賛成していただき、さらにその証拠もみつけてもらう。専門家の紙を見る目の速さ、そして同業者のやることへの判断力に感服。
 それが午後3時。そして、夕方おそくまで、ともかくも作業を進めていると、7時ころにもう一度連絡すると、まだいてきてくれた。その時、同時に、最近の和紙研究の報告をしてくれた。見事な方向がでている。この和紙研究という研究課題(仕事)も、手をつけながら中途になっていた仕事なので、彼が片をつけてくれるのに、本当に感謝感激雨霰。
 以上のようなことを書いても、編纂仕事や修復仕事をしていて和紙に興味のある人以外には分かりにくいだろうが、ともかく、T君から今日聞いたことで、この間、農学生命科学研究科の江前敏晴先生の教示の下に、この間、追究してきた研究手法の妥当なことが確認されたという感じである。
 つまり、和紙材料繊維には日本の平安時代以降では、楮・三椏・雁皮の三種類がある。その素材によって、紙の密度、表裏、繊維の並び方などの基礎的な点で、どういう相違があるかが、だいたいのところを確定しつつあるということである。内容はT君の仕事なので、ここではふれないが、まず、以下、簡単に抄紙について説明する。
 そもそも、右にふれた相剥ぎというようなことが和紙でできるのは、抄紙、つまり紙漉が、何回かにわけて和紙材料繊維の懸濁液を簀桁の上でふり、捨水するためである。これは一度でも紙漉をやったことのある人ならわかるが、一枚の和紙は、何層かの薄い繊維膜が重ねられたものなのである。
 この時、簀に当たっていた簀肌面と捨水が上にある捨水面との関係で和紙の表裏ができる。一般には簀肌面は最初の第一層目の捨水の際の斉一な水流による紙の繊維の流れによって繊維がよく上下に流れている。しかも、実際に和紙を漉いたことのある方ならわかるが、この簀肌面を上にして紙が紙床につまれていき、乾燥板に張る時は、そこから剥いで張っていくので、自然に簀肌面が乾燥板に貼り付けられることになり、それによって簀肌面はいよいよ紙の繊維が整っていく。これが和紙の表になるのである。
 こういう基礎的なところで、楮・三椏・雁皮がどう違い、どういう特徴があるかということが、紙表面繊維の反射光画像、それをフーリエ級数解析で分析した繊維配向姓、そして透過光画像などをくらべ、さらに密度・光沢度などを調べることではっきりしてしまうのである。繊維配向姓の分析、つまり江前先生の方法がキーになる。
 もちろん、むずかしいのは、これを前提にして、もっとも量が多く紙のできに違いの多い、楮和紙の内部分類なのだが、それも研究方針の大枠の有効性がきまれば、今後、どうにかなる目途がつきそうである。
 これは歴史学にとってはもっとも日常的な格闘相手である文書史料の史料批判の精緻化、そしてそれにもとづく歴史学のミクロ化という方向の技術的な基礎を提供するはずである。そして、それがいわゆる「真偽鑑定」の決定打であることもいうまでもない。編纂に際して、この文書の料紙が「真」であることを確認しつつ仕事をすることは新たな緊張感をあたえるということでもある。
 時間の関係があるので、気を許せないが、いま、総武線の返り。ともかくほっとしている。
 
 実は、これまで東大では本当の意味での文理融合はなかなかむずかしい状況であったように感じている。東大はなにしろ巨大な大学であって、その1960年代半ば以降における実態は、東京工科大学というに近く、また人文社会系も第二次世界大戦以前の伝統はやはり大きなものがあり、その残り物で自足できた。そういう中では、文理融合はなかなか進まない。自然系は忙しく、社会的視野を極限されてきた。人文系も自然系との関係を推し進める主体はなかった。文理融合は、むしろやはり先をみる京都大学そして、学内の人的資源を分野をこえて全力動員せざるをえない各地の大学が進んでいる。こういう状態は、大学の学術体制のあり方として好ましくないことはいうまでもない。歴史学の役割は大きいと思う。

2012年2月22日 (水)

地震噴火55、茂木清夫『地震ーその本性をさぐる』

 サムエルソンの『経済学』(上)と地震学の茂木清夫『地震ーその本性をさぐる』が、今日、届く。両方ともネットの古本屋から。
 サムエルソンのは私の出身大学(国際キリスト教大学)での教科書で(上)(下)とももっていたはずが、学生時代以来の引っ越しの中でなくした。当時は相当多くの人が読んでいたはずだが、いまの人はほとんど読んでいないだろう。
 記憶だけはあるが、もう一度、今の目で読み直してみたいと思って、購入。学生時代以来の知識を総ざらえして総点検するということができるというのが60過ぎた学者の楽しみといえるのかもしれない。そう、たいした楽しみという訳ではないといわざるをえないが、頭が労働用具なので、いわば道具をいつくしむ、あるいは捻挫のところを直すという感じ。自分の頭を自分で撫でてあげる。それくらいしか楽しみがないということでもある。
 晩年の都留重人氏の経済学者としての本音を明らかにした発言は好感をもって読んだが、サムエルソンも、都留氏と一緒に勉学した時期には硬派の学者であったというのが、都留さんの自伝を読んでの感想。私は大塚久雄先生のゼミなので、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『一般社会経済史要論』(ゼミでは『プロ倫』と『要論』といった)を読み込んだが、経済学では、サムエルソンのほかは、大塚先生、スミス、マルクスしか読んでいない。スミスは近藤さんのサブゼミ。いつかいわゆる「近代経済学」(と昔はいった)を読んでみたいというのが希望だった。
 大塚先生は、実際に役にたつ政策経済学としての「近代経済学」の意味をよく強調された。しかし、あれは数学がいるという感じが強く、当時は敬遠せざるをえなかった(数学はいまも駄目)。先日、古書関係でみてみたら、何と、500円なので、当面、(上)だけ購入することにした。見覚えのある、立派な装丁の本、しかも綺麗な本がとどく。ありがたいことである。
 学生時代に読んだ本を再読しようなどと考えると、古本が安いのは本当にありがたい。しかし、これは文化の継続性がないということなので、よし悪しか。あるいは日本社会ではやむをえないことか。
 ただ、すぐに開いて読んでいるのは、茂木清人さんの『地震ーその本性をさぐる』(東京大学出版会)。新書版より少し大きいという小さな本だが、これが異常に安い(何と五〇円)。必要になったのは、日本・朝鮮・中国の地震活動の関連性について地震学の側から書いた古典的な本らしいと気づいたため。その通りであった。日本列島、韓半島、中国北部が一直線で連なっており、その地震の活動には広域的な連関性があることを指摘されている。地震学の論文で、これを明瞭に述べたのは、管見(本当に細い管からみただけといこと)の限りでは、この本だけ。これ以降、もっと別にあるのかもしれないが、いずれにせよ、古典的な本であることは明らかだと思う。
 茂木さんは、それを15世紀からの約300年、1700前後までを中心に論じられている。明瞭な図をだして論じられている。この部分、15世紀については享徳の奥州津波の史料が、茂木さんの議論を追補しうることを発見。そして、享徳の奥州津波の一月後に韓国の大地震が発生するという構造は、九世紀陸奥沖海溝地震のしばらく後に、肥後国地震があり、韓国の地震記事がみえるという構造については、以前、『東北学』に書き、このブログでも説明したと思う。
 問題は、七世紀から一〇世紀の日本の「地震活動の旺盛期」についても、同様の東アジア連動構造があるかどうかで、これは、茂木さんの図の左側に追補する図を作ってみたいみたいと思っている。朝鮮については、確実にいえることだと思うので、中国についてもいえれば、茂木さんの議論が15世紀~17世紀の六〇〇年前についてもいえるということになる。
 この時代の中国の地震を宇津徳治さんの「世界の被害地震の表」から落としてあり、それをコンピュータ世代の子供に頼んで、グーグルの地図の上にマッピングマッピングしてもらった。そうすると、小山真人氏のアムールプレート周縁部への近現代地震の分布図と、中国北部の同じところにマークが分布する結果となっている。ただ、七~九世紀については、モンゴル、ロシアの地震データはないから、アムールプレート北辺部(スタノボイ山脈からバイカル湖まで)の地震分布は分からないが、おそらく同じであったということは十分に推定できる。
 今度は、この「世界の被害地震の表」から落としたエクセルデータの中から、マグニチュードの大きい物を中心に時代分布を調べ、茂木さんの図の15世紀~17世紀の地震分布に相似した分布が確認できるかどうかである。
これを追加でやってもらう積もり。(以下、家庭内私的会話。「ありがとう。感謝感激雨霰」)。
 もし、確認できるとすると、東アジアの七世紀から一〇世紀を「大地動乱の時代」というべきことは、相当の確度でいえることになると思う。
 どの分野にせよ、基礎勉強が基本。茂木さんの本をしばらく、電車で読むことにする。
 今、朝の総武線。出がけに昨日の朝日新聞夕刊をみると、茂木さんが、元地震予知連会長として写真付きでのっている。元東大地震研究所所長であられたことも知る。
 定年後、静岡新聞の外部論説委員をしていて、論説に浜岡原発の危険性を何度か書いたところ、やめてほしいといわれたという話。五年ほど前の話であるという。何とも、かともということである。
  本郷の角で、I君からビッグイッシュウを一部。この前一冊を買ったが、昼間あう人に差し上げる積もり。

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2012年2月15日 (水)

「平安時代史研究の課題」(Concluding Discussion of Synposium

 いま(2月14日)、総武線の返り。早朝に地震研に伺っておもにアムールプレート論の状況などについてS先生にお教えいただく。ありがとうございました。
 しかし、ほんの少し風邪気味か。週末、ブログの更新ができず、いまも頭が働かないので、以前、おそらく10年ぐらい前のハーヴァードでの「平安時代史研究会」のConcluding Discussionの原稿が、PCの中にあったので載せておく。
10年前は元気であった。ボストンの川を船でさかのぼっていった時の景色を思い出す。豊かな土地、アメリカ。これがネルーダが歌ったアメリカ大陸の豊かさなのだ。これがネーティヴ・アメリカンの土地だったのだという感興をもったことをよく覚えている。
 この研究集会の日本側の企画者は学習院の千野香織さんだった。形がととのう直前になくなられたが、その少し前に職場の前でばったり。御元気だったのにショックであった。
 今読むと、封建制論はやめたと宣言しているが、まだ「中世史研究者」という言葉は使っている。頭が脱皮してきたということであるが、なかなか蝶にも蛾にもなる様子をみせないのが困ったところである。

「平安時代史研究の課題」(Concluding Discussion of Synposium "Centers and Peripheries in Heian Japan"、Barker Center、 Harvard University )二〇〇二年六月
1何のために「平安時代史」研究をするのか。
 21世紀の世界、そしてその中で歴史学がおかれた状況は、私たちに対して深刻な思索を要求しています。何のために研究をするか、これについて世界中の歴史家相互で話し合うことが重要になっています。けれども、今日ここで問題としたいのは、歴史学一般ではなく、平安時代史の研究についてです。つまり私はここでみなさんに「何のために平安時代史の研究をやっているか」ということを問いかけてみたいのです。
 実は、こういう問題意識は、これまで日本の学会の中にはまったくありませんでした。そもそも、考えてみるとおかしなことなのですが、日本の歴史学界では、今回のような「平安時代史」をテーマにした研究集会がもたれたこともありませんでした。さらに、今回の集会は、歴史学・文学史・宗教史・美術史をふくめてのインターディシプリンな研究集会として大きな意味があるのですが、こういう研究集会の開催はあきらかに世界中ではじめてのことです。私は、今回の画期的な研究集会が、今後日本でも平安時代史をテーマにした総合的・国際的な集会が行われるきっかけになることを願っています。
 ともかく、anyway、今回の集会の報告は、あまりに多様で内容豊かであるために、個々の報告の内容にふれることはとてもできません。そこで私の発言は、そのような方向を今後組織していくために、現在考えておくべきことを提案するという形で進めることを御許しいたqだきたいと思います。
2古代史研究と中世史研究の狭間
 そういう展望をもってみると、最初の問題は、なぜ平安時代に関する総合的な研究集会が、日本の学界でこれまでもたれなかったのか、なぜこれまで、平安時代研究の意味や展望をめぐっての集中的な討論が行われなかったのかということになります。そして、日本の歴史学界の中にいるものの実感としては、その理由は、この時代が古代史研究と中世史研究の狭間に位置しているという、学界内部の事情にあります。私には、つまりだいたい1980年以降、古代史研究と中世史研究の相互の関係は、とくに排他的・閉鎖的なものになったように思われます。古代史研究と中世史研究は、研究のために必要な知識や修練が大きくことなっており、それに対応して研究者の経歴や生活のパターンもことなっています。冗談ですが、古代史の研究者はきっちりしていて紳士的であり、行政的に有能なのに対し、中世史の研究者は自由というと聞こえがいいが、いいかげんでアナーキーであるといわれます。その中で、平安時代史の専攻者、自分の専門は平安時代史研究であると自覚している人の数はそんなに多くありません。古代史の職業的研究者は、古代の本場である六世紀から奈良時代を、中世史研究者は本格的な中世、つまり鎌倉時代の歴史の究明を自己の第一義の仕事としがちです。こういう状態の中で、平安時代の歴史は「前期」と「後期」にわかれて研究されてきました。つまり、いわゆる「摂関時代」と「院政時代」にわけて研究されてきました。そして、摂関時代は古代史の延長部分として、院政時代は中世史の序論部分として位置づけられ、そういう形で古代史と中世史の棲み分けが行われてきた訳です。
 今回の研究集会のテーマは「平安時代における中心と周縁」というテーマの下に開催されていますが、すくなくとも現状では、平安時代史研究自身が歴史学にとってはいわば周縁的な地位にあり、センターは本来の古代史と本来の中世史にあります。しかし、この約400年間にもわたる時代、平安時代が歴史学研究の上で周縁的な意味しかもたないというのは、私には容認できない考え方です。この時代はやはり一つの歴史的な時代として一貫して位置づけることが必要なのではないでしょうか。平安時代を「前期」「後期」に分断する従来の考え方は、無意識にこの時代が一つの歴史的な時代ではないという考え方を前提にしていると思います。そうではなく私たちは、いわば「平安時代史研究を自立」させなければならないのではないでしょうか。
3王権論の不在
 私は、数年前、岩波新書の『平安王朝』を執筆し、「平安時代史研究の自立」をめざした作業を開始しました*1。それを前提にして、今回の研究集会にそくして、いくつかの論点を提示してみたいと思います。まず第一には、平安時代の国家の中枢、とくに王権と天皇制をどう考えるかという問題です。従来の考え方では、平安時代前期の「摂関時代」は摂関家が権威を確立していく時代、「摂関政治の発達」の時代として描かれ、平安時代後期の「院政時代」は、徐々に源氏・平家などの「武士」の力が優越していく時代、「武家政治の発達」の時代として描かれます。これは王権論にとってどういうことを意味するかというと、天皇家・王権自身についての分析は、摂関政治と武家政治の発達なるものの影に隠れてしまい、ネガとしかとらえられないということです。そこでは王権自身は主語・サブジェクトとはならず、目的語、オブジェクト、あるいは修飾語、アドジェクティヴの地位におしこめられます。今回の集会の第一セッションで問題とされたように、王権の存立、肉体的な存在自身が「政略結婚」の対象であり、そこでは王権はロボットのように意志をもたず操作される客体、オブジェクトととらえられています。こういう政治的過程をジェンダーバイアスによって単純化してとらえてしまう考え方が、日本でも、フェミニズム的な歴史学によって強力な批判にさらされているのは、第一セッションの議論によってよく御わかりいただけたと思います。
 平安時代の天皇制の中には、たとえば桓武と弟の皇太子早良親王の争い、薬子の変と呼ばれた平城上皇と嵯峨天皇の間の争い、承和の変において皇太子恒貞親王を退位させた事件、菅原道真の配流事件にあらわれた宇多と醍醐の父子間の争い、冷泉天皇の狂気をきっかけとして冷泉系とその弟の円融天皇系に分裂した王家が争った問題、それを条件として藤原兼家やその子供の道長が大きな権力をもった問題、白河天皇とその弟の皇太子・実仁親王、輔仁親王との争い、崇徳と後白河の兄弟の争い、そして後白河と高倉の父子の争いなど、最初から最後まで激しい内部的な争いー男と男のはげしくみにくい争いが存在しました。桓武の弟の早良親王は死後、崇道天皇と贈り名されました。そして、後白河の兄の崇徳天皇の贈り名はこの崇道を意識していたのではないかというのが、私の想定です。崇道、崇徳の「崇」とは「崇拝する」「祟りをなすものをおそれる」という意味です。つまり、平安時代は王家内部の兄弟争いによって最初と最後を画されており、当時の人々もそれを自覚していたということになります。王権を中心として摂関家ほかの最高級貴族の全体を巻き込んだ紛争が通常の調停では不可能なほど激化し、結局、武力による決着が必然的なものとなる過程として、平安時代の政治史の全体的な流れと「院政」の登場を分析することが重要です。
 従来の考え方の中には、こういう王権内部の激しい争いを無視し、天皇を非政治的な存在、もっぱらネガでありオブジェクトであるかのように考える見方があったことは疑いをいれません。歴史学の問題としては、日本のアカデミズムの中に、天皇の政治的な役割を明瞭に論じることへのタブーともいうべき感情があったことは否定できません。そのおかげで平安時代の王権の実体的な研究はおおきく遅れていた訳です。『平安王朝』を執筆したとき、こんなことも研究されていなかったのかという問題が実にたくさんあるのをしって大変に驚いたことを思い出します。いわゆる批判派の側は、アカデミズムに対して相対的に寛容でしたし、むしろ理論的な研究あるいは社会経済史の研究で精一杯でしたから、まさかそんなことだとは思っていなかった訳です。
 こういう平安時代イメージが社会的なイデオロギーの反映であることも明らかであります。私は、いま、交詢社というリタイアした財界人の談話会で、毎月一度、平安時代の歴史の話をしているのですが、平安時代の王権の内部的な矛盾こういう話をすると、「ようするに昔は、悪いことはすべて臣下の間の争いということだったのですよ」というのが感想でした。交詢社というのは本来福沢諭吉が設立した結社ですからさすがに見方がリベラルで教えられることが多いのですが、私の話は戦前の皇国史観の教育のなかで語られた天皇のイメージに対する解毒剤になるようです。皇国史観は天皇を神とすることによって、王権をその肉体や具体的な歴史過程から切り離して神聖化・図式化・抽象化・単純化した訳ですが、これが天皇制に関する現在の日本社会のイメージの基本をいまだに拘束しているのです。そして、それは象徴天皇制という現代天皇制のあり方ともうまくマッチしています。つまり、天皇は権力ではなく、権威・象徴であって、それは平安時代の昔から変わらなかったという訳です。こういう立場からいうと、平安時代は、象徴にすぎない非政治的な王権が宮廷文化を花開かせた理想的な時代ということになり、そういうバイアスの下で美化されることになるのです。もちろん、皇国史観と象徴天皇制に特有な天皇制に対する感じ方は、本質的にはことなるものですが、王権の実態を抽象化・単純化するという上では同じ機能をもっているのです。
4「都市王権」
 しかし、学問的な議論をする上では、問題はさらにふかめられなければなりません。いま、天皇制の権力と権威という問題を申し上げました。天皇制を非政治的な権威とのみとらえることは正しくありません。そう考えてしまうと、実際には王権がしばしば強力な政治的主体であったことが忘れられてしまうのです。しかし、天皇制を単なる権力的支配の論理でとらえることもできません。平安時代の400年間、栄え続けたことによって、天皇制が強力な文化的権威をもち、日本の文化の基礎構造にしみ通っていることも事実なのです。
 これを考えるためには、平安時代の社会構造のなかで、王権と天皇制の位置をとらえ直すというさらに本格的な研究が必要になります。そして、私は、この問題が今回の研究集会のテーマである「中心と周縁」、その相互関係、交通関係という問題に直結していると思います。第一セッションでも、第二セッションのアドルフソン報告でも問題となったように、平安時代の国家と社会は都市と農村の間の統合的関係を維持し発展させていました。従来の考え方では、平安時代は律令制的な中央集権国家の構造が分解していく時代としてとらえられます。平安時代の前期は藤原氏が他の諸氏族を排除していく過程であり、国家が公家貴族のレヴェルで分解していき、後期には武士が公家貴族を圧倒し、さらに本格的に律令国家を分解していくという訳です。まず特定の構造があり、それが分解するという歴史観あるいは歴史の分析方法は、歴史意識としてはもっとも素朴かつ単純なものです。歴史の最初には、黄金の時代、理想的な時代、制度の整った時代があり、それがだんだんだめになっていく、下降していくというとらえ方は、ヨーロッパでも東アジアでも一般的であります。歴史学者も実際上はそれにとらえられいることは、たとえば日本の奈良・平安時代の歴史教科書などをみれば明らかです。都市と地方社会が権力的に一元的に統合されていた時代から、それがバラバラになっていく、私的に分解していく時代という訳です。私の指導教官であった戸田芳実氏は、こういう考え方を口をきわめて批判しました。それは、古代国家の解体史観であって、律令制がどう解体していったかの制度的過程は明らかにできるが、どのように社会構成が変化し、どのように新しい社会が形成されたかは結局明らかにできないという訳です。
 私は、実は、日本で、平安時代を封建制が形成される時代であるととらえ、社会の私的な諸関係への分解を中心において問題をとらえる場合にも、こういう解体史観が影響していたことは否定できないように思います。私は、そういう考え方から、一昨年の歴史学研究会大会で、日本の中世を封建制の時代ととらえる考え方とそろそろ決別すべきである。封建制は西ヨーロッパに固有な社会構成であって、日本は一度も封建制っであったことはないと主張しました。
 もちろん、私は、これまでの歴史学が展開してきた封建制、フューダリズムの議論自身がフュータイルであった、無駄であったというわけではありません。とくに黒田俊雄・戸田芳実の考え方は、封建制という用語は使用していますが、実際上、西ヨーロッパとは大きくことなる社会の構造を指摘していました。つまり、彼らの考え方によると、平安時代の支配階層をなした公家貴族と武家貴族(および宗教貴族)は、基本的には都市貴族として共通した性格をもって連合していたこと、そして、その頂点にはつねに王権と天皇制が存在していたということになります。平安時代の国家、王朝国家は王権を中心とし、中央都市・京都を中心として地方社会を支配し、統合していました。こういう社会における王権の国家的・社会的なあり方は「都市王権」という範疇によって表現するのが適当であるというのが、私の意見です。この「都市王権」の概念について、ここでくわしく論じることはできませんが、ようするに宮廷貴族・軍事貴族は、中央都市領域を固有の拠点として、そこにおける分業を支配し、都市近郊を領主的に支配するとともに、都市が地方社会に対してもっている規制力を自己の支配権力のなかに編成していたということになります。都市王権は、このような都市的な領有を代表しているのです。源氏物語には、都市の民衆生活のなかに「田舎の通い」つまり、地方への出稼ぎ、あるいは商業活動が含まれていたことを示す有名な一節がありますが、王権はそういう都市の民衆の活動をも含みこんで支配権力をつくりだしていたのです。
5ナショナリズムと千野香織さんの問題提起
 さて、本来は、都市王権・都市貴族に対応する地方エリート・地方貴族のあり方、そして都市貴族と地方貴族の関係という今回の研究集会にそくした議論を展開しなけれgばなりません。しかし、第一セッションに関するコメントでほとんどの時間を使ってしまい、すでに時間がありません。そこでたいへん申し訳なく思いますが、ここで、なぜ私たちが平安時代史を研究するのかという最初の問題にもどり、また第二・第三・第四・第五セッションで展開された宗教・文化・国際関係の議論についても若干ふれながら、私の話を終えるということで御許し願いたいと思います。
 実は、この問題については、本来は、私ではなく、今回の集会の企画に携わり、ご自身で報告の予定であった千野香織さんからの発言があるべきであったでしょう。彼女が、この場にいらっしゃらないのはきわめて残念です。千野さんは、この点で一つの方針をもっている方でしたから、平安時代史研究のインターディスシプリナリな、学際的な議論の発展のために必要な方であったことを実感します。彼女は、そもそもの何のために平安時代史研究をやるのかについても議論する必要を痛感されていたように思われます。彼女は、昨年12月19日、御死去のしばらく前に連続的な講演会を組織し、その第一回目に御自分で講演をされました。その講演記録が彼女が編者をしていた岩波書店の講座『近代日本の文化史』の四巻目の月報にのっております。彼女はそこで、「日本美術史」というものを物語る枠組み、そして日本美術史という学問の枠組み自身が、基本的なところで19世紀以来あまり変わっていないのと指摘しています。私も、彼女がいうのとほとんど同じ意味で、平安時代史の枠組みが、古くから変わっていないところがあるのではないかと感じているので、この点をとくに議論したかったと痛感しました。
 そして、この旧来の感じ方というのは、一言でいえば「日本美術史を国民意識をかきたてるように使う」、しかもその場合、西洋美術史それ自身を基準にもってきて、日本の芸術家もそれと同じように偉いのだと語るという種類のものであったといいます。平安時代の文化について、たとえば『源氏物語』は世界で最初の長編小説であって、その叙述方法はプルーストの『失われた時をもとめて』と共通するというような言い方が今でもされますが、それと同じものという訳です。こういう見方にかけているのは、日本の文化を実際に大きな相互的な影響をもった東アジア世界のなかでとらえるという観点です。そして、こう考えてみると、実は、第二セッションから第五セッションまでの議論は言語にせよ、宗教にせよ、文化にせよ、貿易にせよ、どれも、この日本と東アジアという問題に関係していること、その視野なしには議論できないものであったことに気がつきます。この点でも、今回の研究集会はきわめてよく組織されていたと思います。私は、いま、『黄金国家ーー東アジアと平安日本』という本を執筆しているのですが、ようするに、平安時代の宗教・文化を最初から日本に独自なものとみるのでなく、平安時代を通じて、相互関係のなかで形成されたものとみることが重要だと思います。
 もちろん、日本は東アジア世界とは違う国であるという見方はきわめて古いもので、それこそ平安時代から存在しました。たとえば「漢文」ではなく、「和歌」こそが日本文化を代表する。つまり「人の心のみならず鬼の心さえも動かすのは和歌である」という古今集序の言説は、平安時代そして中世を通じて繰り返されました。たとえば、史料の上で明瞭に天皇の万世一系の思想をのべた初めての史料である9世紀仁明天皇の四十歳のお祝いのセレモニーの史料には、同時に、古今集の序と同じ言葉が語られています。また中世、和歌の力によって「鬼」をおいはらう、そしてこの鬼にはしばしば異国の人々のことをイメージされていたという史料もあります。こういうきわめてナショナリステイックな思想と文化の観念が古くから存在し、それが現在も再生産されていることに私たちは注意しなければならないでしょう。
 少し、千野さんの文章から話しがずれましたが、こういう問題について意識的な研究を進めることは彼女の本意であろうと思います。そして、私は、彼女が、この講演で、昨年、ナショナリスティックな立場から執筆され、教科書の検定と採択を突破しようとして大きな話題となった扶桑社版の中学校歴史教科書に対して、強い批判を述べています。「奈良時代にはすぐれた仏師が登場した」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵する」というようなことを書く教科書叙述が、政界やメディアの強い支援をうけるという事態は、彼女に強い違和感を抱かせるものであった訳です。私たちの仕事はそれ自身として学問的な作業ですが、歴史学は、どの国でも同じことでしょうが、同時にこういう社会的な問題とつねにきりむすばざるをえません。私は、歴史学・宗教学・言語学・美術史などのインターディスシプリナリーな国際的な交流は、そういう問題に関する交流もふくみこんで展開してほしいと思います。
 とはいえ、いうまでもなく、その出発点は、あくまでも我々の仕事の対象に即したものでなければなりません。過去を過去として突き放して感覚すること、観察すること、分析すること、そのためには、歴史学の立場からいうと、理想的には、過去の痕跡を示す史料を細大漏らさずすべてを自分の視野におさめること、読解に専門的な知識が必要な宗教史の史料であるからといって、また普通の研究者には読みにくい漢文・漢詩・仏教史料・御経・聖教であるからといってそれを排除するのではなく、すべてを見ることの必要性を確認しておくことが必要です。そしてそのためにこそ、学際的な研究態度が必要になるのだと思います。
さいごに
 以上をふまえて最後に強調しておきたいことは、現代の学問、そして国際的な規模で展開される平安時代史研究は、そのために強力な道具をもっている、つまり発達したインターネットの技術とデータベースをもっているということです。実は、来週、6月21日・22日に、私の職場、東京大学史料編纂所で、COEのジャパンメモリープロジェクトの主催で研究集会「日本学研究と史料学の国際化」が開催されます。私は、このプロジェクトの最初からのメンバーで、責任者の一人として、日本史史料のデータベース化の仕事に取り組んできました。その立場から、今、史料編纂所のホームページからは、平安遺文・大日本古文書、貞信公記・小右記などの大日本古記録のフルテキスト、そして、最近では大日本史料の版面画像が公開されていることを御報告しておきたいと思います。また遅くとも、この秋にはいわゆる『史料稿本』、未刊行部分の『大日本史料』の原稿の画像が公開されます。さらに代表の石上英一氏は、今後、さらに本朝文粋などの文学史料もふくむ『国史大系』をフルテキスト化することを計画しています。ようするに、今後4・5年の間に、平安時代の歴史史料の相当部分がデータベース化されることは確実です。
 平安時代は、世界の同時代の歴史のなかでみても、宮廷社会から在地社会にいたるまで、明らかに例外的に文献史料に恵まれた時代です。それを国際的な共同のなかで共有し、共同的な研究を進めることはきわめて大きな意味があるでしょう。そういう方向にむけて今回の集会が大きなインパクトを与えることは疑いがありません。

2012年2月 6日 (月)

私の好きな歌ーー笠木透さんの歌

 からまつ、こめつが、針葉樹林
 からすうり、月見草、
 風わたる草原。

 私たちの世代だと、この歌を知っている人も多いのではないだろうか。
 笠木透さんの歌。私は横井久美子さんの声で聞いていたと思う。
 今日は、久しぶりに自転車。寒さと仕事と原稿と、その他にしばられてもう一月も乗っていなかった。さすがに気持ちがよい。いま、ファミリー・レストランに入って仕事に取りかかる前。
 花見川ルートを乗りながら、この歌を思い出して歌おうとするがなかなか出てこない。
 「私がうたう歌ではない、あなたがうたう歌でもない、わが山々が私の歌、わが大地が私の歌」というところが、まずでてくる。そして、その後に「かもしか、月の輪熊、岩礁海岸、かつおどり、うみつばめ」と詩句の一部づつを思い出していくが、まだ全部を思い出せない。この歌は「我が大地の歌」といったこともいま思い出す。中津川のフォークジャンボでテーマソングのようにうたわれた歌だったと思う。
 笠木さんはお元気らしい。今週、東京で歌われるらしいので、調べて、できれば娘をさそって行こうと思う。
 私が、この歌で好きなところは、仕事がらということになるが、次のところである。
 「この国の歴史を知ってはいない、この国の未来も知ってはいない。けれども私はここに生まれた。けれども私はここに育った」。これは最後の方の詩句だったと思う。そして、「私がうたう歌ではない」とリフレインに続いていく。
 そういう覚悟で歴史の勉強をしたいものだと思うが、そう考えるたびに、私は、本当のところ依るべき「大地」の経験を十分にしていないという内省がくる。もっと、この国を歩きたい。若干でも余裕ができれば、まずは東北である。

2012年2月 2日 (木)

危機意識・危機管理・大学・原発

120202_131032 ビッグイッシュウ入手。本郷の交差点の彼から。寒い寒いと挨拶。 以下は、朝の総武線の中。

 1月26日の朝日新聞にドイツ緑の党の欧州議会議員ハルムスさんのインタビユーがのっていた。「日本政府は福島第一原発が安定しているといっているが、不安定な状況に変わりはない。それなのに危機感がないのには驚いた」という率直な意見。
 その通りと家で話していたが、考えてみると、自分の勤めている大学という組織は国家社会の危機を敏感に察知して、その確実な部分を、さまざまなルートをつうじて伝えていくという役割をもっていると思う。そういう点からみると、大学に十分な危機意識がないのが社会状況に影響しているのではないか、これは自分にかかわる問題だと考えた。
 私は、これまで、自分の持論として、大学の端的な性格を表現しているのは「教育基本法」の「大学は学術の中心」という規定であると考えてきた。その場合、大学を学術の創造、そしてそれにかかわる文化・技術の創造ということを中心に考えてきたように思う。ポジティヴな創造という側面である。
 けれども、もう一つ踏みこんで、「学術の中心」の社会的機能ということを考えてみると、社会のもつさまざまな神経網・神経系統の中では、大学は、危機にもっとも敏感な部分でなければならないということがいえるのではないかと思う。いわゆる危機管理の前提となるような危機意識の維持という役割である。これはマイナスの役割、自己否定的な役割、自己省察の役割といってよいかもしれない。人文社会科学をふくめて、学術文化の創造は、いわばデモンを生み出すことがあり、つねにポジティヴな意味をもつとは限らない。そういう意味でも、こういうネガティヴな役割とでもいうべきことを考えるべきなのかと思う。
 「政・官・学」という言葉があるが、このうちで「学」は社会的な神経網としては危機意識と警鐘あるいは沈静の効果にかかわるのではないかということである。もちろん、それらは社会を構成する個々人がおのおのの責任において担うものだが、しかし、大学や学術ネットワークというものは危機意識の維持にとくに貢献しなければならないのではないかと思う。その場合、あるいは危機を大きく見過ぎたということもあるだろう。しかし、カナリヤのようなもので、そのような敏感さは必要のように思う。
 社会的な神経網、あるいは神経系統という言葉は、ジェームス・スチュアートが『経済学原理』(第一篇第十二章)において「活気を近代社会のあらゆる関節、あらゆる脈管、あらゆる神経系統ともいうべきものに漲らせる」と述べているのが学術用語としては初見ではないかと思う。アカデミーは、「活気」ではなく、注意深さと警鐘の役割ということになろうか。
 ようするに全体的な課題への社会的集中というのは社会の神経系統には、どのような場合も必要なものであるが、その中でも危機意識の側面である。繰り返すが、これは大学と学術ネットワークの固有の社会的役割でないかと思う。
 原発の問題は、長期的な居住困難をとっても、除染をとっても、内部被曝をとっても、相当のことをさしおいても、ほとんど国の総力をあげてとり組むべき問題であることは明らかである。日本社会がはじめてぶち当たらせられた問題であるだけに、さまざまな意見がありうると思うが、しかし、この総力をあげてとり組むべき問題の性格は認められるべきと思う。
 いわゆる危機管理という問題があり、さんざん強調する政治家がいた割にはお寒いものであるというのがはっきりしてしまった。それはようするに危機意識がないのに、危機管理などはできないという単純な話である。そもそも科学技術政策が間違っていた、あるいは大きなリスクをふくむ科学技術政策をとっていたという感じ方がないのであるから、事態は深刻である。現代社会は、科学技術政策を間違えば、もっとも大きな災厄がかかってくる社会になっている。
 東大もこのような科学技術政策に多くの点で責任があったはずである。第二次大戦後の東大は、実際上は東京工科大学というべき実態であった訳であるが、これがその結果である。「秋入学」の議論などをしている余裕があるのだろうか。最悪の時に議論を始めてしまったものである。
 
 
 なお、神経系統という言葉を社会科学で使用してはどうかというのは、戸田芳実さんが主張していたことである。それについてはWEBPAGEにある情報と記憶という論文で若干述べた。
 右にあげたジェームス・スチュアート以外の典拠は、まずヘーゲル。ヘーゲルが、『法の哲学』において「国家」を「おのれのうちで有機的に組織された神経組織そのもの」と表現し、神経組織を家族や市民社会などを構成素とする社会有機体を精神にまとめ上げる「理性的なものの威力」であると論じているのは、スチュアートによったのだろう(『法の哲学』§262)。あるいはいわゆる社会有機体説ではよく使う言葉なのであろうか。マルクスがライン新聞の論説において「特殊を普遍とむすびつけている目にみえない神経繊維、すなわち、なんの場合もそうであるが、国家にあっても物質的な諸部分を精神ある一つの全体の生きた肢節とならせている神経繊維」と述べたのは、このヘーゲルの用語に影響されたものである可能性がある。マルクスは、ここで神経繊維という用語を、社会構成を「精神ある一つの全体」に編成する様相を表現するキイタームとして使用している。

2012年2月 1日 (水)

自然の「無縁」の力と原発事故

 『歴史学研究』の特集号に書いた小論「小地震・原発と歴史環境学ーー九世紀史研究の立場から」を、先週、書き直した。本をつくるので、少し加筆せよという歴史学研究会編集委員会の指示であった。締め切りが一月末、ともかくも間に合わせた。それをまとめたお陰で勢いもついて、週末、やっと、八・九世紀の地震・噴火についての原稿もまとめた。ともかくも、研究機関にいて、地震・噴火に何らかの意味で関係した領域を専門としているものとして義務的なものだと思って、一種の危機意識もあって突貫工事のような仕事をしたが、自分の研究の方向の中で矛盾のない仕事として考えることができたのは幸運であった。
 いま総武線の中。昨日、月曜は、『かぐや姫と王権神話』を編集してくれた洋泉社の御二人、藤原清貴氏と長井治氏と呑む。執筆は一昨年のことだが、この本で噴火論を考えたことが、ともかくも地震史料について勘が働く条件になっているので、本を書く機会をあたえてくれたことに感謝。
 御二人と話すと、どうしても網野善彦さんの話となる。長井さんはエディタースクールからでた『列島の文化史』の編集者。網野さんの著作集の年譜の作成者。藤原さんも網野さんの側でずっと仕事をしてきた。私も25年ほど前、遺跡の保存運動の関係ではほとんど彼らと共同行動をとっていた。彼らから聞いた網野さんの話で忘れられないことがいくつもある。
 右の『歴史学研究』の特集号に書いた小論「小地震・原発と歴史環境学ーー九世紀史研究の立場から」のラストは次のようなもの。

 「原発が「解放・開発」した放射能が、この列島の自然をどう変化させるのか、さらに太平洋と東アジアの自然はどうなるのか、状況は予断を許さない。そして、網野の言い方をかりれば、東日本太平洋岸地震と福島第一の原発震災の中で、自然の「無縁」の力は、この列島に棲む人々に対して人間の共同性、平等性とは何かと問いかけている。こういう状況に対して、歴史学は何ができるのか」。

 網野さんが生きておられたら何をおっしゃるかと思う。藤原・長井両氏とも、もう十年、生きていていただければと話した。

 編集者のひとが研究者に伴走してくれて様子をみていてくれるのはありがたいことである。学界の動き方についても独特の勘をお持ちなので、いくつか考えることがあった。
 ただ、全体の学界がどういう方向にむいていて、研究者とエディターがどのように協力できるか。別の言い方をすればエディターの人々にとって学界というものが頼りになるものかどうかということを考える。
 そして、これも網野さんの話だが、その場合のもっとも大きな壁は、学界における「東と西」ということなのかもしれない。網野さんが、これをいうと、私は、東国と西国の社会的構造の相違に現代の学界まで呪縛されているという議論は乱暴だ。学界の全国的な動きと共同という側面を無視していると反発した。実際、私には地域的な関係の影響はほとんどないのである。それをいうと網野さんは「保立君は例外」といっていたが、現在、網野さんのいっていたよりももっと地域的な関係が強くなっているようにみえる部分があるように感じる。学界と学者の日常では、やはり意外と日常的な生活圏、交友圏の相違は大きな影響をもたらすことを認めざるをえないように思う。それを藤原・長井両氏に話す。どうにかそこを再突破したいものである。エディターは分野や研究者の間を媒介するのが一つの役割にしても、交友圏に学界が左右されていては、エディターの人はたまらないだろうと思う。

 先週は大山喬平さんからの聞き取り記録ののった『日本史研究』が届く。以下は楽屋の話。大山さんからの聞き取りを読みながら、河音能平さんと網野善彦さんの関係を考える。これも西と東の関係ではあるが、私は河音・網野は西と東で共通する議論を展開した。そして河音さんの議論が網野さんより早かったという意見。戸田芳実・河音能平は網野さんの議論と親近性のある議論を展開した。大山さんの賛成はえられないかもしれないが、それが私の実感である。網野さんは戸田・河音がいたから、彼の議論を展開することが可能であったという意見。
 ただ、大山さんの話で面白かったのが、大山さんのformen解釈である。前から大山さんが独自の解釈をしているというのは知っていたが、その中身が、人間なしの「フーフェ(小土地所有)ーゲマインデ(共同体)ーグルントシャフト(領主制)」図式には賛成できないというものであるとのこと。大山さんがしばしば大塚先生の『共同体の基礎理論』には賛成できないといっていたことの趣旨を了解した。これは私も同じ意見である。私の言い方では、労働論なしの共同体論はとれないということである。これは先輩たちの間で十分につめてほしかった理論問題であったはず。大山さんの聞き取りを読んで、もう一つ深いところで、研究史の内部に入っていけそうな予感がした。大山さん批判で書いた「下地論」をもう一度見なおす積もり。

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