自然の「無縁」の力と原発事故
『歴史学研究』の特集号に書いた小論「小地震・原発と歴史環境学ーー九世紀史研究の立場から」を、先週、書き直した。本をつくるので、少し加筆せよという歴史学研究会編集委員会の指示であった。締め切りが一月末、ともかくも間に合わせた。それをまとめたお陰で勢いもついて、週末、やっと、八・九世紀の地震・噴火についての原稿もまとめた。ともかくも、研究機関にいて、地震・噴火に何らかの意味で関係した領域を専門としているものとして義務的なものだと思って、一種の危機意識もあって突貫工事のような仕事をしたが、自分の研究の方向の中で矛盾のない仕事として考えることができたのは幸運であった。
いま総武線の中。昨日、月曜は、『かぐや姫と王権神話』を編集してくれた洋泉社の御二人、藤原清貴氏と長井治氏と呑む。執筆は一昨年のことだが、この本で噴火論を考えたことが、ともかくも地震史料について勘が働く条件になっているので、本を書く機会をあたえてくれたことに感謝。
御二人と話すと、どうしても網野善彦さんの話となる。長井さんはエディタースクールからでた『列島の文化史』の編集者。網野さんの著作集の年譜の作成者。藤原さんも網野さんの側でずっと仕事をしてきた。私も25年ほど前、遺跡の保存運動の関係ではほとんど彼らと共同行動をとっていた。彼らから聞いた網野さんの話で忘れられないことがいくつもある。
右の『歴史学研究』の特集号に書いた小論「小地震・原発と歴史環境学ーー九世紀史研究の立場から」のラストは次のようなもの。
「原発が「解放・開発」した放射能が、この列島の自然をどう変化させるのか、さらに太平洋と東アジアの自然はどうなるのか、状況は予断を許さない。そして、網野の言い方をかりれば、東日本太平洋岸地震と福島第一の原発震災の中で、自然の「無縁」の力は、この列島に棲む人々に対して人間の共同性、平等性とは何かと問いかけている。こういう状況に対して、歴史学は何ができるのか」。 網野さんが生きておられたら何をおっしゃるかと思う。藤原・長井両氏とも、もう十年、生きていていただければと話した。
編集者のひとが研究者に伴走してくれて様子をみていてくれるのはありがたいことである。学界の動き方についても独特の勘をお持ちなので、いくつか考えることがあった。
ただ、全体の学界がどういう方向にむいていて、研究者とエディターがどのように協力できるか。別の言い方をすればエディターの人々にとって学界というものが頼りになるものかどうかということを考える。
そして、これも網野さんの話だが、その場合のもっとも大きな壁は、学界における「東と西」ということなのかもしれない。網野さんが、これをいうと、私は、東国と西国の社会的構造の相違に現代の学界まで呪縛されているという議論は乱暴だ。学界の全国的な動きと共同という側面を無視していると反発した。実際、私には地域的な関係の影響はほとんどないのである。それをいうと網野さんは「保立君は例外」といっていたが、現在、網野さんのいっていたよりももっと地域的な関係が強くなっているようにみえる部分があるように感じる。学界と学者の日常では、やはり意外と日常的な生活圏、交友圏の相違は大きな影響をもたらすことを認めざるをえないように思う。それを藤原・長井両氏に話す。どうにかそこを再突破したいものである。エディターは分野や研究者の間を媒介するのが一つの役割にしても、交友圏に学界が左右されていては、エディターの人はたまらないだろうと思う。
先週は大山喬平さんからの聞き取り記録ののった『日本史研究』が届く。以下は楽屋の話。大山さんからの聞き取りを読みながら、河音能平さんと網野善彦さんの関係を考える。これも西と東の関係ではあるが、私は河音・網野は西と東で共通する議論を展開した。そして河音さんの議論が網野さんより早かったという意見。戸田芳実・河音能平は網野さんの議論と親近性のある議論を展開した。大山さんの賛成はえられないかもしれないが、それが私の実感である。網野さんは戸田・河音がいたから、彼の議論を展開することが可能であったという意見。
ただ、大山さんの話で面白かったのが、大山さんのformen解釈である。前から大山さんが独自の解釈をしているというのは知っていたが、その中身が、人間なしの「フーフェ(小土地所有)ーゲマインデ(共同体)ーグルントシャフト(領主制)」図式には賛成できないというものであるとのこと。大山さんがしばしば大塚先生の『共同体の基礎理論』には賛成できないといっていたことの趣旨を了解した。これは私も同じ意見である。私の言い方では、労働論なしの共同体論はとれないということである。これは先輩たちの間で十分につめてほしかった理論問題であったはず。大山さんの聞き取りを読んで、もう一つ深いところで、研究史の内部に入っていけそうな予感がした。大山さん批判で書いた「下地論」をもう一度見なおす積もり。
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