総武線でばったり、教育の保守性について
一昨日は一日立ち仕事、試験の立ち番で立ち番で、疲れた模様。その最中はキチンとしていて、帰宅まではどうにかなるが、あとはだらしなく仕事ができず。
昨日の月曜日は、朝から疲労感。代休をとれるので休もうかと思ったが、処理すべき仕事を持ち帰るのもうっかりしていて、出勤。地震研究所の先生に頼まれたことで、史料の性格を聞こうと先週からお待ちしていたM先生が部屋を覗いてくれ質問もできた。昼は一緒にとさそわれたところまではよかったのだが、食事ののち、気分が悪く、お茶を一緒にすることもしないで部屋へ返り、できれば地震研の方からの調査依頼は急ぐので、メールを送ってから、すぐに返ろうと思った。作業はすぐにはうまく行かず、そのうち、つらくなり、やっと帰れるまで落ち着いてから帰宅。電車の中で苦しい目にあう。一度途中下車もして、ともかく帰宅。
私は体調をくずすことはほとんどないが、お腹にくるインフルエンザらしい。
今日は大事をとって休み。夜と同じく、子供の「ブタ」もしくは「イノシシ」の湯たんぽを抱えて寝ていた。今、夕方四時前。どうにか平常にもどるが仕事は無理なので、日記代わりのブログ。
日曜からだといろいろなことを考えたが、手帳型日記にメモしたほかは、ほとんどが消えた。立ち番でご一緒したY先生、T先生からの教示は、もう少し考える必要がある(これは分野の違う人と同じ時間を過ごすことになる立ち番の楽しみである)。
ただ、ともかくM先生には会えたこと、そして昨日、行きの電車で、ばったり、歴史教育の別のM先生にもあえて、隣席でじっくり話せたことなど、よいこともあった。
歴史教育のM先生とは教材の話。教師は意外と保守的なもので、同じパターンの話を維持するということは歴史教育関係者ではよく話題になることである。たとえば江戸時代に対外関係においては出島のみでなくほかに「三つの口」があったというのが、教科書に登場するようになった時、現場教師からの反発が強かったという話。これでは江戸時代の「鎖国イメージ」が描けなくなる。平安時代も「国風文化」で一種の鎖国、そして江戸時代も「鎖国」というのが一つの全体像で、これが崩れると授業ができないという意見がきわめて強かったという。
考えてみると、これは平安時代には「中国」に対して「鎖国」をし、江戸時代には欧米に対して鎖国をしたということで、日本の「鎖国性」を話の言説のキーにするという方法であろう。日本という世界を先験的に措定してしまい、それと「外界」との関係を「クローズド」かどうかを基準に語る。文明の開始期にも一度鎖国し、文明の展開期にも一度鎖国をするという訳である。
こういうものをどう考えるかをめぐって、総武線の一時間弱を御話ししたのだが、江戸時代の「四つ口」論は、それとして研究の前進である。自分もやってきた平安時代は決して「鎖国」の時代ではないというのも研究の前進である。現在の学界からいえば、このような歴史像は誤っているというんもはたやすい。
私もM先生も歴史の研究と教育が相互に自立しながら柔軟に連携しあって、研究の前進、教育の前進を交流しあうという点では意見は一致している。そして、研究の前進を教育でも大事にしてほしいという点も一致していると思う。議論は、それでは歴史教育において、別の歴史像は可能かということである。これはたいへんにむずかしいという点をめぐっての話になる。
ともかく、こういう歴史像の描き方は大変に根が深い。ナショナリスティックな形で日本の島国性をほめたたえる感じ方、ぎゃくにそれを日本の文化の雑種性、雑居性の表現として批判の対象とする考え方の二つがすぐに思い浮かぶが、後者は加藤周一、堀田善衛、そして丸山真男などの文化論をすぐに思い起こさせる。これは、相互に矛盾する要素ももつ、様々な歴史意識、社会意識の中から投影される歴史像であって、それが複合的で、一種の歴史文化のパターンとなっているだけに、歴史学だけでは対処しがたいような強さをもっていると思う。
このような歴史像を支配的歴史像というか、通俗歴史像というか、どう表現するかは別として、これは文明というものを日本で語る時のパターンなのである。そして、歴史家の側としては、それでは代替となるような歴史像を提供してきたのかということを問題とせざるをえない。歴史意識の島国性についての批判は、黒田俊雄・網野善彦などが強く主張して展開してきた。しかし、それが「通史」というレベルで落ち着いているかといえば、そういう状況はできていない。時代・時代で研究は細かくなるが、全体を描き出すことはなかなかできない。歴史学は、「違う」ということをいってきたが、しかし、現在、右の「支配的な歴史像」それ自身が力を失っているようにみえる。歴史像などは、それ自身としていらないという文化状況が強く生まれているようにも思う。そういう中では、批判ではなく、やはり別個のものを作り上げていくほかないということである。
ただ、いま、考えてみると、これらはあたりまえのことで、やはり東アジアの中での文明史観のようなものが必要であるという点では、学界も教育界も一致してきているということである。平安時代で東アジアから自立し、江戸時代に欧米文明から鎖国して実力をやしなったなどというのではなく、東アジアの一部として、つねに東アジアのシステムの中で動いてきたという歴史像。それにそって、歴史上の事件と状況を整理していくこと。これが必要であることは明らかで、それはM先生をふくめた研究会で議論していることである。
M先生は私より三歳ほど下。ほとんど同じ状況の中での経験をしてきている。教育の保守性についても、我々の世代だと必ず読んだ勝田守一氏の文章の記憶が共通。そして、たしかそこの文脈では、教育の保守性というのはすべて否定すべきことではなかったと思う。教育の保守性と内容のある程度の大綱的な統一性というのは、社会にとっても必要なものだが、何よりも子供たちの成長と経験にとっても、「何を乗り越えるべき対象とするか」という点の世代的共通性という点からいっても、必要なものだと思う。それを踏まえた上で、さらに前進をするという形での安定した進み方を構想したいものだ。
なお、M先生、Y先生。先日の会議で話題になった盆踊りの室町時代の史料ですが、このブログの左端下に、私の業績のHPへのリンクが乗っていますが、そこに一の谷中世墳墓群の活動記録のコーナーがあり、私の「裸祭りと女性」という文章が載せてあります。その第三節「お盆から裸祭りへ」という文章に、蜷川文書の盆踊り歌の一部を引用してあります。