河音さんと網野さんの学説
いま、地震と神話の研究、災害の研究について考えることが多く、河音能平さんの仕事をあらためて読んでいる。河音さんと網野さんの学説の関係ということについてメモをする。狭い学界の中での話であるが、河音さんの著作集の解説で、私は、次のように書いた。
河音の理論作業がたんに戸田・大山・工藤らの共同研究グループ内部のみでなく、広い影響力をもっていたことについては、河音の理論作業が、『無縁・公界・楽』を初めとする網野の議論の理論的前提となったことも指摘しておきたい。網野は前述の書評において、河音との「非常に接近した関心」を自認し、河音の議論になかば依拠して、『無縁・公界・楽』に直接に連なるシェーマを述べているのである。その意味では、初学者にとっては、河音の歴史理論を理解するためには、網野の議論を通路とすることがわかりやすいかもしれない。 網野さんの河音さんの著書『中世封建制成立史論』への書評は、よくできたもので、河音さんの意図を的確に捉えている(一九七二年発表、『網野善彦著作集』⑧)。河音の仕事が、いわゆる「世界史の基本法則」なるものへの「根底的批判」を行ったという共感は、それこそ網野さんの初心を示している。この書評の中で、『無縁・公界・楽』の位置づけにからんで重要な部分を、次に引用する。
この論文は、「従来かならずしも注目されていなかった」「原始共同体の強靱さと、階級支配に対するその根強い抵抗を、あらためて問い直すための契機にもなった」と、私(網野)は以前述べたが(前掲拙稿)、いま本書を読み返してみても、やはりこの点に河音の問題提起の意義がある、と私には思われてならない(網野著作集(8)201頁)。
そして、この「前掲拙稿」というのは、網野著作集(2)に収められた「戦後第二期の研究史をめぐって」であって、その四六頁で、網野は「この論文(「農奴制についてのおぼえがき」)は一方では、原始共同体の強靱さと階級支配に対するその根強い抵抗を、あらためて考え直すための契機にもなったのである」という上記の引用部分にあたる文章がある。そして問題は、そこに注記(10)があって、その中身が「注(6)拙稿、参照」とあることである。
この「注(6)拙稿」というのが、該当箇所をみればすぐにわかるように、『無縁・公界・楽』なのである。つまり、網野善彦は、いわゆる「無縁論」の成立の「契機」として、河音の「農奴制についてのおぼえがき」があったことを自認しているのである。
念のため、前後の年代関係を確認すると、次のようになる。
河音「農奴制についてのおぼえがき」1961年。
網野「戦後第二期の研究史をめぐって」1969年
網野「河音『中世封建制成立史論』への書評」1972年
網野『無縁・公界・楽』1978年
つまり、網野は、一九六一年の河音の議論を「契機」として河音のいうような問題を二〇年近く考えてきて、『無縁・公界・楽』は、その一つの結果であったということになる。
普通、学界の外からみていると、網野学説は「戦後歴史学」と関係なく展開したと考えられがちである。それは正確ではない。中にいるのと外にいるのは違う。もちろん、内外が違うのは決していいことではないが。
もちろん、網野の意見は、網野自身の中で作られてきたものであり、「原始共同体の強靱さと、階級支配に対するその根強い抵抗」という問題は、より早く川崎庸之の見解をうけて網野の中に胚胎していたことはよく知られている。それゆえに、網野の『無縁・公界・楽』を河音の影響だという訳ではない。そういう言い方は、河音も網野も認めないだろう。そもそも、「原始共同体の自由」を引いた「自由民、班田農民」が、どう隷属していくか(逆にいえばどのような抵抗をしたか)という問題は、網野・河音に限らず、石母田正・永原慶二・黒田俊雄・戸田芳実などの全員が基本問題として議論をしていたことは、第二次大戦後の「中世史」の研究史を若干でも知っているものにとっては自明のことなのである。
私は、右に引用した河音の著作集の解説で、そういう意味で「その意味では、初学者にとっては、河音の歴史理論を理解するためには、網野の議論を通路とすることがわかりやすいかもしれない」といった積もりであった。つまり、「中世史の研究史を若干も知らない」初学者は、網野さんから読めば分かりやすいかもしれないといったのである。 これについて、最近の『日本史研究』593号の座談会で、大山喬平さんが、「この間の河音さんの著作集での保立さんの解題でさ、河音さんを読むには網野さんを通路にして読むと比較的若い人には読みやすいって、彼の案なんだよね。それは保立さんが、石母田・網野というラインの上に自分の学問を置いているわけや」といわれて、さらに「河音さんの仕事がね、網野さんを通じてね、位置づけられていくんではね」「そんなこと、滅多なこといわんといてっていう気分が強いな」とおっしゃっている。あたりまえのことだが、大山さんは本当に河音さんが好きなんだ。 また、逆に、私が「中世史の研究史を若干も知らない」初学者は、網野さんから読めばよいというのは、若い人たちからすると、嫌みに聞こえるかもしれない。現在の歴史学界の若手は、石母田正以下の人々が織りなしてきた研究史を自分のこととは感じていない。大山さんにこういわれると、ぎゃくに若手を「中世史の研究史を若干も知らない」初学者にすぎないといっているように聞こえるのではないかと心配になった。 大山さんは何よりも大事な研究仲間をもてて幸せであったと思う。今の若手は、様々なことにこだわることなく研究に集中して有能だと思う。私のような世代は、先行する世代と現在の若手の間で消えていくのであろう。先輩には、学問の伝統を継続することができずに申し訳ないといい、若手には、自分たちだけいい時期をすごさせてもらって申し訳ないと思う。そういう運命である。
けれど、私は「石母田・網野というラインの上に」自分の研究をおいている積もりはない。石母田正・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・河音能平・戸田芳実・稲垣泰彦・大山喬平などの織りなしてきた研究史の流れの全体の中に自分の位置を置いている積もりである。
たしかに、大山さんからすると、「河音さんを網野さんを通じて理解する、網野さんを通じて位置づけよ」というのは何ということをいうのかということなのかもしれない。「河音さんは河音さん。網野さんは網野さん」というのはその通りだろうと思う。何十年も親しい関係で研究生活を送ってきた友人をかけがえのないものと考えるのは当然だろうと思う。それにしても、詮ないことだが、河音さんがお元気な時に、網野さんとの学説的関係をどう思っておられるのかを正確に聞いておけばよかったと思う。
しかし、網野善彦・河音能平・大山喬平の交錯した議論を追究していると、どうにか新しいものを作っていき、歴史学の伝統を受け継ぐ環になりたいという気持ちは強くなる。網野さんはほとんど書評というものをしない人であったが、網野著作集の河音著書書評の横には、大山著書への書評が収められているのである。このときがたい環。
« 3,11から1年、「生存」が脅かされる仮設住民たち | トップページ | 総武線でばったり、教育の保守性について »
「研究史(歴史学)」カテゴリの記事
- 日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて(2017.09.05)
- 大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論(2017.04.11)
- 戦後派歴史学と永原慶二氏(2017.04.10)
- 平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由(2016.09.05)
- 何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。何故、「山城時代」というのか、(2016.01.28)