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2012年3月

2012年3月30日 (金)

T氏との食事ー学術と将来社会

T氏との話し
120327_165457daitokumon  さて、いま、帰りの新幹線。ともかくも無事に仕事をおえた。写真は御寺の門の木目。複雑な年輪である。
 昨日の続きだが、T氏との話しは、ようするにやってきたこと、これからやりたいこと。私はどちらかというとやってきたことの意味をどう考えるか、T氏は何をやるか。彼がやることはやったという感じ方の上に、さらに目標を明瞭にもっているというのはうらやましい。
 そして話しがめぐるのは、いわゆる「戦後歴史学」。それはようするに我々が共通して知っており、尊敬してきた人々の話である。こういうのは世代に閉じられた話しなのであろうが、先輩世代のあの人、この人の話は、我々にとっては一種の学問議論の準備体操、あるいは思考実験のような話なので、こういう話をするのは頭の健康によい。そして楽しい。夜9時には終えてホテルにもどったが、久しぶりといえるほど気持ちよく寝た。
 しかし、話を緊張させる伏線は、ようするに「戦後歴史学」問題のさらに下にある諸問題、つまり政治的・社会的・市民的・職業的な立場と学術の関係の話である。もちろん、学術はそれらからは自由なものであるが、他方、しかし、社会的・方法的な立場を一致させたい、一致していたはずだという感情は、やはり必要なものだと思う。我々にとっての「戦後歴史学」問題とはそういう問題である。
 すでに確認されていることは、社会的・市民的・職業的な立場に学術が従属するということはありえない。ある社会的立場なり、ある学術的な方法なりが真理を独占すると云うことは本質的にありえないということである。社会的立場のみでなく、学術的な方法も複数性をもつのは当然なことだと思う。「真理は一つ」というが、極論すれば現代の学者は真理をもとめて仕事をしているわけではない。すくなくとも、それが研究者の意識の日常性だろうと思う。「真理」というのは結果であって、それを掘り当てたときの特別な感情というものはある。この感情・感覚にアディクティヴになっている、嗜癖しているという研究者心理を、「真理を求めて」と表現することはできる。しかし、レーバーではなく、ワークならばという制約はつくが、それはどのような専門性をもった労働においても同様のことだろうと思う。
 ようするに、現代の学術は、一つの「生産」になっているのである。「生産」されるものはまずは量であり、バラバラの試行錯誤の中でも、量がものをいう。学術生産の中には明らかに回り道で、少なくとも結果として無意味な営為もあるが、それが生産であるということは、それが無意味であったことを確認したのも意味があるということであって、いわゆる「潰していく」という作業である。学術が一つの生産になったということは、すべてがともかくも意味のないものはないということになったということである。
 それに私たちは「労働者」としてとり組んでいる。私などは幸運なことにそういう労働にありつかせてもらった。そして賃金をもらい、やはり特定の労働規律の中で働いてきた。もちろん、その労働自体は、厳密な意味での剰余生産労働、生産的な労働ではない。太田秀通氏が『史学概論』でいっているように、精神的生産はつねに結果不明なのであって、他の生産的労働との関係においてのみ社会的意味を、いつか持つかもしれないという種類の労働である。その意味では、それは疑似労働なのである。現代の学者は「労働者としての権利」をもつが、しかし、やはり、その労働自体は他律的に社会の承認と何らかの期待の下にさせてもらっている労働なのである。それ故に、学者のなすべきことは本質的には自己の相対化と特権性の自己否定である。
 しかし、学術が生産になったということは、長期的には現実的な生産のあり方それ自体を変えていくはずである。それは学術の側では文理融合と学術の一体化を要求する。労働と生産の専門性を学術が支えることによって、専門分野の相互関係も高度化していくにちがいない。これによって公共を専門性の内部に取り込んでいくことが社会的に決定的な意味をもつはずである。現業と学術の相互浸透が、学術の時代の到来の前提にある。それがいわゆる精神労働と肉体労働の対立を眠り込ませていくはずである。
 全体がみえないという焦慮を抱えながらも、私は、(表層の意味での)「政治・社会・世俗」を越えて、そこにこそ研究者としての希望と真の政治性あるいは社会性があるのだと思う。学術こそが未来を作る(側面がある)。生産と生活に一体化した学術と教養が社会の基礎になるときこそ、それを確固とした基礎として新しい瞑想と静観の時代がくるのだと思う。
 研究者という生活をしていて、自分をどう考えているのか。友人であるというのは無秩序に話すということなので、ここまでは時間もなくてはなせなかったが、すこし話してみて、頭の整理をすると、いま考えているのは、こういうことであった。

2012年3月29日 (木)

地震火山61平朝彦『日本列島の誕生』

地震火山61平朝彦『日本列島の誕生』
 今日も、京都への新幹線の中。京都出張だが、長く座りっぱなしになるので、身体が強ばるのが心配である。出張先は、まだまだ寒い。
 『日本列島の誕生』(平朝彦、岩波新書)を読み終わる。東アジアの地震発生と火山の分布について調べているうちに、この新書に概説があることを知り、しばらく前から読んでいた。私たちの世代だと、地質学は井尻正二氏の『地球の歴史』(岩波新書)で読んだ。いわゆる戦後歴史学は、とくにその初期、地質学研究者との関係が深かった。石母田さんに「地団研」の若い研究者の集団的な仕事の仕方に歴史家も学ばなければならないという文章があったと思う。井尻正二氏がボランティアによる野尻湖発掘の提案者であったこともよく知られており、それやこれやで、この本は読んでおかねばならないということで読んだ記憶がある。しかし、残念ながらよく分からなかった。井尻さんのヘーゲル解説の方がまだよくわかった記憶。
 それに対比し、この『日本列島の誕生』は、明解。水平方向への地殻の運動という視点を中心に、プレートテクトニクスの導入がどれだけ画期的なものであったかが、よくわかる。いまの子供たちは、いつ、どのようにしてプレートテクトニクスをならうのであろう。これはわかりやすい画像と動画を作れば、子供たちにもわかる話しである。防災教育のためにも、地震学のためにも、理科教育にプレートテクトニクスを小学校時代から持ち込むことが有益だろうと思う。
 去年は、プレートテクトニクスというものを知ろうとして、新妻信明氏の『プレートテクトニクス』を読もうとした。新妻氏が3,11の後にブログを書いていて、毎月読んでいるが、この本は、ともかくオイラーがでてくるので、すぐにはとても無理とあきらめていた。それに対して、本書は、人文人間にも分かりやすい。すでに相当前のものなので、現状の学説はもっと進展しているのであろうが、しかし、地球科学というものを、具体的にははじめて読んだという感じがする。
 もっとも興味深かったのは、南海トラフに蓄積される、海底の地震を契機とする乱泥流の地層、タービダイト層の話である(27頁)。これは平均すると、約500年に一度ずつたまっているという。500年に一度、富士川河口扇状地が崩れて、乱泥流となってトラフの崖を一挙に流れ落ち、四国沖まで流れて、平均30センチの厚さのタービダイト層をつくるというのである。これは南海トラフの大地震の周期をあらわしているという。
 もう一つは、東アジアの地溝帯(rift、リフト)の話しで、東アジアはアフリカ大地溝帯にならぶような地溝帯が発達している地域であるという。北からバイカル地溝帯、山西地溝帯、そして沖縄列島の北を走る沖縄トラフの地溝帯など。156頁に、これらのリフトの東北アジアでの様相が地図になっている。これらのリフト(地溝帯)は中央アジアに発するものもあるということであるが、歴史学の立場からの火山論・地震論に影響するところが大きい。
 現在考えていることに影響が大きいのはバイカル地溝帯である。バイカル湖が、毎年、若干づつ幅を広げていることは、まさにそれがリフトであることを示しているが、そこから東北にスタノボイ山脈にむけてリフトが走っている。ここに若干の火山が分布し、地震もきわめて多い。これはいわゆるアムールプレートの北限にあたるが、この地域は同時に放牧地帯の北限地域である。私は、いわゆる騎馬民族に一般的な鍛冶王神話は火山神話としての内実をもつと考えているが、このようなバイカルリフトの実態はそれに対応するものと考えることができるのではないかと思う。
 また山西地溝帯は現在も活発に活動しており、その延長線上に、中国・朝鮮国境の白頭山の火山活動が位置しており、また済州島が東北をむいた長方形をなしているのは、地溝帯の分裂・拡大方向に直行する領域に火山が噴出するからであるという。
 しかし、もう一つ面白かったのは、本書にでてくる20人ほどの地球科学者の名前である。たとえば、右にふれた新妻信明氏、高知大学の岡本真氏、東北大学の箕浦幸治氏など、この間の勉強で知った名前の研究者が何人かでてくる。20人ほどの研究者のネットワークで研究が進められるというのは、どの分野でも同じことなのかもしれない。もし、そうだとすると、「文理融合」というのは、10分野200人ほどの研究者のネットワークがあれば、相当のスピードで進めることができるものなのではないかなどと考える。

 いま、出張2日目。御寺についてまだ9時前、しばらく縁側の明るい部屋でお茶をいただく。昨日は、本当に久しぶりに旧友のT氏と二人で食事をして長く話す。T氏の「行きつけの店」。あなたには行きつけの店などというものがあるのかなどとからかう。最初の話題は、この『日本列島の誕生』の話しである。T氏と話すと、井尻正二氏の仕事への感じ方がまったく同じなのが面白い。同世代の話しはすぐに通ずるのがよいが、ようするに、「戦後歴史学」というのは、この種の文化あるいは教養の共有に支えられていたものである。「戦後歴史学」の伝統の継承に、我々の世代が役に立たなかったのは文化全体の地盤喪失のせいであって、我々の非力だけではないということか。とても我々では支えきれなかった。
 いま、新幹線の帰り。それにしても先週の石橋克彦氏の話しは重たい話しであった。石橋氏への講演依頼は最初は大学が同じT氏が仲介してくれたものなので、その話にもなる。石橋氏は歴史地震の史料蒐集は、本来、「国家事業」として行われるべきものであるとおっしゃってはいたが、歴史学の側の責任は大きい。講演会に集まった人たちの中に若手が少なかったのも気になった。

2012年3月28日 (水)

地震火山60 地震学と歴史学ー茂木清人『地震ーその本性をさぐる』(

地震火山60 地震学と歴史学
 茂木清人『地震ーその本性をさぐる』(東京大学出版会)を読み終わる。一章のプロローグが地震の高周波の直接計測の実際の経験を述べたもの。伊豆の群発地震を船の上から実際に計測するという臨場感にあふれた叙述である。そういうことをやった最初の経験らしい。第二章が地震発生機構論序説で、ようするに茂木先生は、もっぱら剛体や岩の破砕実験から地震の研究をはじめたらしい。第三章が「地震の規模別頻度分析」で、ここは私にはよくわからないが、やはり剛体破砕の物理実験と密接に関係する話しで、地震の規模別分布のあり方を表示する指数によって地殻の物理構造がわかるという話らしい。第四章が「地震群」で、空間的・時間的に集中する地震群は、(イ)本震が急に始まる本震ー余震型、(ロ)前震ー本震ー余震型、(ハ)群発地震型に分かれ、これもそれによって地震断層が走った剛体の均一性や不均一性を表現するという。
 そして第五章が「前震」、第六章が「余震」、第七章が「地震空白域」、第八章が「巨大地震のくりかえし」、第九章が「地震活動の移動」、第十章が「地震活動期」となる。ここら辺になると、分からないながらも歴史地震の
史料を分析するなかで、少しづつ学んできたことに関係するところが多く、実に興味深い。
 この本の出版は、1981年。日本の地震学で本格的にプレートテクトニクスの理論が導入されてから、まだ10年もたっていない時期。石橋克彦氏の駿河湾地震説がだされたのが1976年(120頁)。モーメントマグニチュードの金森による提案が1977年(126頁)、さらに「最近、アスペリティ・モデルといわれるもの」(107頁)という叙述もあって、この時期の直前に、現在につらなる諸学説が生まれてきている状況がよくわかる。
 いま仕事をしている歴史地震論にとってもっとも重大なのは、第十章の「地震活動期」であった。「本章では活動期というべきものがあるかどうかという問題について述べる」として、「この問題は、これまでまともに取り上げられることがきわめて少ない問題であった。しかし、本章では、不十分な史料にもかかわらず、活動期あるいは静穏期というべきものが実在することを示し、その特徴について述べてみたい」としている。
 歴史地震論にとって重要なのは、日・中・韓の地震の活動期を15世紀からの約300年、1700前後までということを明瞭な図をだして論じられていることである。この図はうまく画像化できなかったので、この本についてみてもらうほかないが、この活動期について、15世紀の享徳の奥州津波の史料によって、追補できることは、以前のエントリーで述べた通り。そして、享徳の奥州津波の一月後に韓国の大地震が発生していることである。九世紀陸奥沖海溝地震のしばらく後にも、肥後国地震があり、韓国の地震記事がみえるから、これは、この本のいう「地震活動の移動」の事例にもなるのかもしれない。
 地震学者の人に聞いてみるつもりだが、このような「地震活動期」についての議論は、管見の限りでは、この茂木の本の後にはまとまったものはないのではないかと思う。
Nityuukanjisin_2   問題は、今村明恒のいう、七世紀から一〇世紀の日本の「地震活動の旺盛期」についても、同様の東アジア連動構造があるかどうかで、これは、茂木さんの図の左側に追補する図として作ってみた。宇津徳治さんの「世界の被害地震の表」からMが6以上、または死者100人以上という条件で落とした地震をグラフ化したものである。そうすると、ここには明らかにピークが存在するようにおもわれる。これは重大な問題だと思う。
 今村のいう七・八・九世紀が「地震活動の旺盛期」であるという意見については否定的な意見も多い。この時代には『日本書紀』から『三代実録』にいたる六国史が揃っていて多くの地震が記録されており、これはそれによる見かけの現象に過ぎないというのである。たしかに、六国史の時代はよく地方の大地震の史料を残している。また一〇世紀については史料の残存状況は悪い。しかし、それ以降は平安時代史料の量と多様性は相当のものがあり、プレート間地震のような大地震があったとすれば相当の確度で史料は残ったろう。また平安時代を通じて地震を観測する職務をもった陰陽道や天文道は発展の道を辿っていたから、もし大地震が連続すればより多くの記録・伝承が残っはずである。そもそも、今村の仕事以降、八八七年の仁和地震が南海・東海の連動地震であることが石橋克彦によって史料的に論証されており、さらに近年、八六九年(貞観一一)の貞観地震の規模が津波砂層の調査によって明らかとなった。九世紀に大規模なプレート間地震が重なっていることは否定できないのである。そして、上の図は、このことを東アジアの動き全体から傍証するものであるといってよいと思う。
 茂木さんの本は、一種独特な感じの本である。剛体の破壊実験ということからはじめて、「巨大地震のくりかえし」「地震活動の移動」「地震活動期」という空間的にも時間的にも大きな地震の運動の仮説的な説明にまで展開している。現代地震学とプレートテクトニクスが成立する70年代の雰囲気ということなのだろうか。しばらく前、地震学のH先生にお会いして、歴史地震からわかる諸問題について報告し、茂木先生の仮説が現在どうなっているかをお聞きしたが、こういう研究は受け継がれてはいないらしい。現在のような精細な地震の分析を前提にして、もう一度、このような古典的な問題がいつかふり返られることになるのかもしれない。それは歴史学も同じことである。

2012年3月25日 (日)

地震火山59『超巨大地震に迫る』(NHK出版新書、大木聖子・纐纈一起)

Cimg0001_2   今日は、地震学の勉強。『超巨大地震に迫る』(NHK出版新書、大木聖子・纐纈一起)
 第一章「超巨大地震はどのように起きたのか」、第二章「巨大津波はどのように発生したのか」、第三章「引き起こされたさまざまな現象」、第四章「地震の科学の限界、そしてこれから」、第五章「防災ー正しく恐れる」、そして終章は「シミュレーション西日本大震災」という構成。
 東日本太平洋岸地震との関係で、地震学それ自身の基礎勉強をしようと考えて、相当前に購入したが、やっと読む時間を作った。地震学の最近の用語の説明は明解で勉強になり、知識を整理する上でありがたかった。第一章はアスペリティモデル、モーメントマグニチュードについての概説的な説明で分かりやすい。第二章は津波の発生構造と、その怖さの物理的な理由の説明。津波は波・波浪ではない。いわば幅広い河の激流が突然に陸地に出現することだというのは強い説得性をもっている。第三章は余震・誘発地震・スラブ内地震・アウターライズ地震、そして火山活動との関係など、これも分かりやすかった。これらは大木聖子氏執筆。それに対して第四章は纐纈一起氏執筆。この部分は、どういう意味で東日本太平洋岸地震が「想定外」であったのかということについての学説史的説明である。そして、第五章は大木氏の執筆にもどって防災教育と防災体制についての専論で、終章は、以上をふまえて、「西日本大震災」を想定しての「まとめ」になっている。
 この本を読もうと思ったのは、この一年、7・8・9世紀の地震史料の解読を行う中で、歴史地震論を中心にしてすこしづつ地震学の仕事を読んできたが、先日、茂木清夫氏の『地震ーその本性をさぐる』を読み、これを理解するには、やはり地震学の基礎勉強が必要だと考えたためである。
 本書でとくに興味深かったのは二点。第一点は、纐纈氏執筆分にある学史的な反省である。「アスペリティモデル」と「非地震性すべり」という、素人には分かりにくい部分のある理論の説明と学説状況の紹介からなっている。結局、Asperity、つまりプレートの沈み込みをゆがめる「表面の粗さ、地面のデコボコ」の物理的な実態が何なのかはまだ明瞭でないらしい。それはようするに地震発生の地域特性をモデル化するための仮説であり、それを精緻化するためには、結局のところ、アスペリティモデルの提案の元になった地震発生の地域特性の分析が必須であるということであった。そして、そのためにも、現状の分析のみでなく、「今後は過去の地震に関するデータ収集に優先順位を与えるべきではないか」という方針をだしている。これは本当に重要なことで、歴史史料の徹底的な収集・保存とあわせて本来、「国家事業」としてやらねばならないことである。
 第二点は、大木執筆分の防災教育と防災体制の部分である。あとがきとあわせて地震学者としての感じ方と責任意識が強くあらわれている章だと思う。私も1月末に小学校で「龍と地震」という授業をしたので強い関心をもった。これについては、歴史学の側からもいえることが多い。
 日本の歴史と文化の中に津波と地震が大きな位置をもっているかということは小学校の頃から伝えていいことだと思う。このブログでも述べたが、たとえば東大寺大仏が地震を鎮めることを一つの重要な目的としていたということ、祇園会が貞観津波=九世紀陸奥沖海溝地震、そして前年の播磨地震・京都群発地震の経験の中から始められたことなどは小学校・中学校の教材にしてよいことだろう。これは歴史文化自体を見なおすことにつながる。「防災」ということが文化の中に無理なく入ってくるということは、昔の人の経験を直接の避難、被害・復旧の経験のみでない広い範囲で捉え、伝えることの中で可能になるだろう。歴史と地学は、教育カリキュラムに問題が多いこともよく知られている。そのレベルからの議論も必要だと思う。

 これを支えるためには、結局、地震学と歴史学の学際的関係それ自体を密接なものとしていかなければならない。日本の地質学的な災害、地震・噴火の歴史を考えるためには、文理融合的な視野が必要である。そこで歴史学者が役割を果たすことは、学問の社会的な役割の問題として大きいと思う。これにそって必要な研究をすることが遅れたことを反省している。これは、日本の学術体制の中で文理融合をたかめていくという問題につらなっていく。地震史料の徹底的な収集・調査・保存という「国家事業」をどう実現するかという点でも決定的であろう。
 地震学の側では、3月11日を経て、その社会的役割について、どのような反省や見直しがあるのであろうか。学問の社会的役割の反省は、おうおうにして、学問相互の関係や、その学問の方法論や学史の反省とからみ合ってくるだけに、やっかいな問題であるが、地震学がその学史の深みから、どのような発言を行うかは刮目してまちたいと思う。
 私は、昨年、東大で行われた東日本太平洋岸地震・津波に関係するシンポジウムで報告したとき、福島第一原発の重大事故を前にすると、東京大学でも地震研究者と工学研究者・原子力研究者の間で、十分な議論をすることが当然の責任であると思うと発言した(「貞観津波と大地動乱の8/9世紀」)。スライドから引用しておくと、

「文理融合ーー大学がやってきたことの点検、

(1)1936年の今村の仕事以降の全体的な自己点検。(2)学術の全体性、統合性と学術の社会的責任のためにも、各分野の研究者が必要な内省をする条件としての諸学融合、文理融合。
(3)地震学・防災学・土木工学・原子力工学の統合・融合」

というもの。(このスライドはWEBページにあげる)。
 もちろん、学術の世界それ自体にとっては、ある意味で、現在の政府や東電のような存在が、国民の運命にかかわる事柄について判断し、信じられないような行動と発言をするということは、それこそ「想定外」のことである。しかし、歴代の政府のとってきた科学技術政策がきわめて問題の多いものであることは、アカデミー全体にとっては普通の認識であったはずである。原発は科学技術政策の問題であるから、科学技術政策全体について考え、再検討するのは、大学人全体の当然の責任である。

 なお、歴史家として印象的であったのは、本書でも何度も参照されている都司嘉宣氏の仕事の大きさである。たとえば永原慶二氏の『富士山宝永大爆発』は、都司嘉宣氏の『富士山の噴火』(築地書館)によって富士噴火史を描いている。同じ大学なので、歴史史料を読む力をもった地震学者として、都司氏の噂は何度も聞いたことがある。またずっと前にもお目にかかったことがあるが、最近ときどきお会いするようになった。話しをしていて、高校の一年先輩で、恩師を共通にしているということを知って驚いた。自然科学者になった友人は少ないので、そのうち同世代としての経験をいろいろ御話ししたいものだ。

2012年3月20日 (火)

「瞑想社会論」と夢見がちな子供

「瞑想社会論」と夢見がちな子供
 前回のブログで、「経典=集団所有」というシステムから、「本=個人所有」というシステムへの転換を、「サーバー=集団所有」のシステムに再逆転する。そこに共同性の物質的な基礎を獲得することによって、新たな連携と連帯を構想する。それは社会の世界史的な思想意識としては、「瞑想」の世界ということになるということを述べたが、この結論自身は以前に述べたことの繰り返しである。
 月並みなことをいうようだが、私は、ここで東アジアの思想、とくに仏教の思想がもつ役割が必然的に大きくなると考えている。ともかくも、知識人として生活してきて、そのうちに時間を確保して仏教思想、とくに禅宗の勉強をしたいと考えるようになったのは、そういうことである。大拙の全集くらいは読まなければ、高校時代以来の疑問に「解」を探すことができない。三木清はたしか『人生論ノート』であったろうか、『親鸞』であったであろうかで、「私は庶民的な真宗の信徒としての死生観において死んでいく」といっているが、これは違うように思う。江戸時代に日本の文化の中で庶民的なものはむしろ禅宗である。

 私は、いまもっぱら神話論にとり組んでいるが、これは頭の中のメタ配置でいくと、三木の『構想力の論理』の神話論を前において、左に津田左右吉の仕事をおいて、両者を読み直すという作業である。私は、「古代史研究者」ではないので、津田の仕事を『日本古典の研究』しか読んでいないが、三木の神話論の晦渋さに対して、津田の合理的な透明さも、私は好きである。遠山茂樹さんが、どこかで戦争を経験したあの世代び歴史家にとって津田の仕事がもっていた意味をいっていたことがある。
 それが胸に落ちるようになったのは、実際に自分で少しのことにすぎないとはいえ、神話の研究を覗いてみてからではあるが、おそらく現在の歴史の研究者は、日本前近代史の研究者でも、津田の仕事を読んだことはない、あるいはその意味を感じたことがないという世代になっているということに気づいた。日本前近代史をとれば、これこそがいわゆる「戦後歴史学離れ」の正体であるということにようやく気づいたということである。「戦後歴史学離れ」といえば聞こえはいいが、それは歴史学の学史を忘れる、もっときつくいえば、歴史学の無教養化が進んでいるという事情にやっと気がついたということである。

 いま、土曜。総武線で職場へでるところ。まだ疲れが残っているようで、筆があっちこっちする。というよりも前に考えたこと、あるいは、このブログに書いたことを繰り返している。これこそ老化の証拠かもしれないが、とにかく、三木を真ん中において、津田の研究を前提に神話論を考え直すというのが考えていることなのである。
 そして「瞑想」ということを考えるために、三木の右側には、さらに鈴木大拙をおいて仏教と禅宗の勉強をしたいということになる。三木・津田・鈴木というような名前はいかにも古いが、「戦後歴史学」というものは「戦前」をふまえたものとして存在していた。それ故に、「戦前」の学者が忘れられている以上、「戦後」歴史学が根無し草になるのはやむをえなかった。三木も、津田も、鈴木も、現在、ほとんどの歴史の研究者からは縁遠い人たちであろうから、彼らの目ざしたものを想起するのは、学者の世代としては、我々の世代の責任に属するように感じている。

 さて、問題の「瞑想」についてだが、以前、述べたように将来社会は、新たな「瞑想社会」になる、それが世界史の流れではないかという考え方を、私はもっている。それを保障するのが、人間が、世俗的な事柄を処理するための「外部脳」=電脳ネットワークを、肉体の外側に共有物としてもつことである。「瞑想」の物質的な条件としての電脳ネットワーク。そこに共同性の物質的な基礎を獲得し、人間社会が新たな連携と連帯を持つようになるということは、より主体的にいえば「瞑想」が明瞭な社会的な位置を占めていくということではないか。
 コンピュータネットワークが一方で、後ろ暗い妄想と欲望の世界の物質化として圧倒的な影響力をもったというのが影の事実であろうが、それは人間にはありがちなことであると考えなければならない。それが示すのは、「妄想から瞑想へ」という神ならぬ人間の心のもつ動きなのではないかと思う。そしてその場合の救いは、ネットワークには後ろ暗い欲望の世界のみでなく、「夢見がち」な人々を育てていくという要素もふくまれていることである。「夢見がち」な少年・少女は、私たちの世代だと童話と漫画で養われていたが、現在では、それはネットワークによって養われている。そのような意味もふくめてネットワーク社会を肯定することが必要なのではないかと思う。
 
 将来社会論としての「瞑想社会論」については、その前提になる共同性のあり方を中心に、時間ができたら、正確に考えることにして、当面の結論は、これもたしかこのブログのどこかで以前に述べたことだが、これも月並みなことに、まずは家族と地域社会を大事にする社会ということであろうと思う。大事にされた家族と自治的な地域社会の関係が多様に組み上げられ、そこに社会的分業の専門性によって組織された諸組織が入り込んでいくという関係である。これは分業論的にいえば、結局、最終的には都市と農村の分業の止揚、あるいは精神労働と肉体労働の対立の眠りこみという問題になるはずである。
 ともかくも、こうして社会が地域的な自治と専門職組織の関係を骨格として組み上がっていき、たとえば企業の利潤のような社会外的な諸要素が放逐されるということなり、その中で、人間の再生産と家族的関係が支えられるということになれば、社会は、太古的な透明性を取り戻すことになるはずである。そこで、社会的な対立のコンプレクスが眠り込んでいけば、人間の意識は自然にむかう。あるいは自然への沈潜を媒介にした後に社会に向かう。別の言い方をすれば、瞑想の対象は内側では家族、つまり身体的な自然、そしてその属する共同体の占有する対象的な自然それ自体になる。
 こうして、我々の前には、自然の内部にある永遠が、つねに意識の前面に存在するということなる。そのときに、「類」的な存在としての人間、地球に対して類として責任をもっている存在としての人間の姿が、誰の目にもみえるようになるはずである。この「永遠」それ自体に陰がさすということがないように願う。

2012年3月15日 (木)

読書とネットワーク、リルケの『フィレンツェだより』

               20120315
 読書とネットワークということを考えると、若い人は所有するものとしての本に、魅力を感じなくなっているのだろうと思う。それは、所有というよりも、まずは本が消費の対象にもならないということかもしれない。消費はやはり一種の「虚飾」や「流行」を必要としている。現在の「流行」「虚飾」の世界の中では、自分自身の意思で、何かを買おうという場合に、本を買おうという消費意識がでてこないのはやむをえない。
 しかし、本というものは、そもそも所有しなければ話しにならない。「一冊の本、あるいは一枚の絵について、本当にはっきりした見解をもつためには、それを所有しなければならない」のである。これはリルケの『フィレンツェだより』の言い方で、リルケはそれにつづけて

「わたくしが使いなれている一冊の本は、本当に親しく自分の歴史をわたくしに語ってくれる。わたくしがその本を使用すればするほど、今度はわたくしの方がその本に自分の話を聞かせたくなり、本は聞き手に廻るのである。友だちになった本は、喜んでこの楽しい役目の交換を引きうけてくれる。そこから予見できない情況が生まれてくる。時がたつにつれて、本は実際に印刷されているものの十倍もの内容を持つようになる」

といっている。

 こういう本への対し方が大学生の中で消失しつつある。大学にいるとよくわかるが、そもそも知識人世界でも、実際上、そうなっているのだから、これはいわば必然のことである。それにもかかわらず、いわゆる「情報化社会」(あまりいい言葉ではない)にふさわしい親密な知性のあり方が生まれていないのは、おそるべきことだ。同じ『フィレンツェ日記』の言い方だと、

ああ、早く来すぎた人々の痛ましい苦悩。彼らは蝋燭に火が点けられて玩具が輝くより前に、ノエルの木の部屋に入った子供たちのようである。彼らは敷居から立ち去ろうとしながらも、この興ざめた暗闇の前に、彼らの哀れな眼がそれに馴れるまで立ちつくすのである。

 
 ということになるだろうか。情報化の圧倒的な波が形をとる前に、大きな横波にさらされている若い人たちは、本当にたいへんだと思う。彼らは小船を組み立てる前に、突風にさらわれ、薄板にすがって底知れぬ海の上を漂っている。
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 この『フィレンツェだより』は、森有正の訳したもの。仕事の出張なので、ちくま文庫の一冊だけポケットにいれてきた。これを読むことによって『マルテ』や『ドウィノ』がリルケの立場から具体的に理解できるように思う。
子供部屋のたとえなどは『マルテ』そのものである。
 
 リルケが「所有」という言葉によって「本」を語っているのは、『ドウィノの悲歌』の「T・U・タクシス夫人の所有から」という副題の意味を明瞭に物語っている。高校生の頃に読んだ時は、この奇妙な副題の意味がわからなかった。タクシス夫人の『リルケの思い出』を読んでも、何も分からなかった。それが今頃分かるというのは、とうとう「本」を「所有」した。または所有されたということであろうか。
 小さなものの所有、しかも意識と知識と感情に直接にかかわってくる、それとして物質的な効用のないものを所有する親密な意識。リルケの『フィレンツェだより』は、19世紀末期に成立した文化的公衆というものへの批判と位置づけられるのであろうが、公衆の成立、読書の成立の中で、ぎゃくに「本の個人的な所有」、ほとんど身体的な個人的な所有という意識が鮮明になったというのが興味深い。

 私は、中井正一が好きなので、こういう問題を「委員会の論理」その他の、彼の仕事を通じて考えることになるが、中井の議論との関係では、このような「本のあり方」をどう考えるかが問題となる。以前も書いたと思うが、中井の言い方では、紀元前後以降の「経典」の誕生は、世界宗教の信仰集団の共有物として形成されたと説明することができ、それはその背後に直接に教団というネットワークをもっている。日本の宗教史でいう「聖教」というものであって、この聖教と経典の所有は寺院ないし教団の「財」であって、個人が管理するとしても、組織的な所有の対象なのである。そして、中井の言い方では、経典の共同所有に対応するものが「瞑想」であるということになる。一般に瞑想は個人的なものと考えられがちだが、実際には、瞑想のための共通する手段が与えられることで「瞑想」も可能になるというのが、中井の見解の独自なところだろ思う。「瞑想」には共同性が前提になっているというところがキーであると思う。
 中井の見解を敷衍すれば、これに対して、「近世」における中国の宋代に由来するブックの形態の一般化が、ヨーロッパでグーテンベルク革命をへて、近代社会へ向かうということになる。もちろん、ヨーロッパの職能集団、ギルドが共有のアーカイヴズをもっていたことはよく知られている。実際に、ヨーロッパのアーカイヴズは、ギルドによる組織的な文書所有からはじまっている。それは教会のアーカイヴズと共通する側面があるのだろうと思う。しかし、それらは権利にかかわる世俗文書であることが決定的に違っている。それは瞑想の手段でも対象でもない。それは、契約の文書化と技術の記述という手工業から資本主義にむかう社会的・経済的趨勢の中で蓄積される。そして専門職の中での科学技術が大量の手引き書としての本を作り出すのである。こうして知識・技術・情報の私的所有の担保としてのBooKが展開したのだと思う。すぐにそのページにたどり着くことができる「本」。瞑想・記憶・崇拝の対象ではなく、参照する対象としての「本」、小規模な外部記憶装置としての「本」である。
 リルケがいっているのは、その最終局面。19世紀における「公衆」という形での公共圏、読書というものが形成される中で起こったことなのであろう。私は、読書やリテラシーについての研究が全体としてどうなっているのかをしらない。しかし、こういう点では、私たちの世代とリルケは私たちの時代の先頭にいた先輩であって、私たちの世代がリルケの世代に属することは実感的に理解できる。
 いま「情報化」によって起きようとしていることは、こうした「経典=集団所有」というシステムから、「本=個人所有」というシステムへの転換を、ある意味で逆転させること、つまり「サーバー=集団所有」のシステムへの転換である。そこに新たな共同性を獲得することによって、「瞑想」の世界を復権する。外部脳の連携を武器として、新たな連携と連帯を構想する。それを瞑想と内省として形作ることが、必要な時代になっている。
 この場合、決定的なのは、ネットワークの向こう、コンピュータ端末のむこうでむすばれている集団への帰属意識の問題なのであろうと思う。若い人々が、その意味で、本の身体的所有からはなれ、ネットワークの向こうを注視して生きていくのは、きわめて自然なことなのであろう。その場が、その部屋がリルケのいうような、「早すぎた人々」が立ちすくむ小暗い部屋でないことを望むばかりである。そして、そこから、ときどきは戻ってきて、やはり「本」を中心とした日常世界の身体的所有の親密さを大事にしてほしいとも思うのである。
 
 いま、京都出張の帰りの新幹線の中。昨日の夜、何度も目が覚めてしまい。ぼそぼそと、リルケの永遠を語る言葉を読み、こんなことを書いていた。リルケの文章は勁い。
 しかし、それにしても、この『フィレンツェだより』の文庫の森による解説のトーンは懐かしい。私は国際キリスト教大学の卒業だが、晩年の森はしばしばICUに滞在した。カナダハウスという学寮にいた私は、早朝、眼がさめてしまうと、チャペルに行き、二階席の一番後ろの隅で、森がチャペルのパイプオルガンを弾くのを好んで聞いた。チェペルの脇口があいていて、森がやっている時は、途中からキラキラと空間に広がるようなオルガンの音が聞こえてくることを覚えている。寮には、森に気に入られた先輩もいたが、近くで見る、無精ひげを生やした憂鬱さをきわめたような森の顔と姿も、よく覚えている。
 いまの時代は、ほとんど森のものを読むというようなことはないのだろうが、なにしろ、あの時代は、私が受験した時のICUの人文科学の入試問題自身が森の『バビロンの流れのほとりにて』であったような時代である。あまり勉強をしなかった私が、浪人生活を切り上げることができた一つの理由は、その問題はよくわかったためであったように思う。
 ここまで書いてきて、我々の世代を覆っていた奇妙なつながりと、偶然の網の目の中へのとらわれを実感する。それは歴史があたえてくれた保護でもあった。現在は、それらがすべて破砕された時代である。「パット、ハギトラレタアトノ世界」。若い人々の苦闘の稔りのない暗さと、つらそうな軽さのことを思う。

2012年3月13日 (火)

図書館学のN先生とばったり。京都出張の行き帰り

 今日は京都出張。京都駅で新幹線を降りて、北山の総合史料館にむかう地下鉄にのり、ぼっとしていて、隣りにすわろうとしている人を見たら、史料編纂所のお隣の教育学部の図書館学のN先生。お互いに驚いて御挨拶。そして、総合史料館で仕事をおえて帰り、同じ地下鉄にのったら、一駅目にN先生が乗ってこられて、声をかけられてまたびっくり。こういう京都での出会いは、これまでの経験では意外と多い。それがなぜかはよくわからない。
 地下鉄の行きも帰りも、N先生と図書館・文書館・研究機関と情報化をめぐる話しになる。N先生の御話しでは、いろいろなところで色々な努力があるが、なかなか全体がまとまらないということであった。全体がまとまるためには、大学の役割が大きいという話しになる。しかし、そもそも大学の中でも、図書館・情報学・部局における基礎データや標本・資料管理のあり方のネットワークはばらばらで、全体をどう構想するかがむずかしい以上、なかなか社会的ネットワークはむずかしい。ネットワークなしに情報化が跛行的に進むのは困難を抱え込むことになる。などなど。短い時間でもいろいろな話しができるものである。
 N先生は帰りは立命館の先生とご一緒で、また同じような話しをしながらきたら、また地下鉄に私がいたので驚いたとおっしゃる。私は、午後、総合資料館では行われた古文書学会の研究集会を覗かせてもらったが、そこでは立命館の先生、学生にも会った。それを御話しする。ネットワークというのは、こういう知人の知人は知人同士という関係をなかに含んでいる。そしてどこかでばったり会うという関係であるのだと思う。世間は狭いということである。それにしても、アーカイブズでの仕事の行き帰りに、二度も、ライブラリアンの方と会うというのは、本当に面白い偶然である。
 3駅ほどで御分かれし、ホテルへ。いまホテルの部屋で、N先生と話したようなことを、一昨年秋の函館の講演会で話したのを思い出した。いまから食事だが、京都にいるうちに、それを話した函館での講演のスライドをWEBPAGEにあげ、スライドシェアからみれるようにしておこうと思う(「史料の編纂と歴史情報の共有」)。そのとき、図書館や文書館の方々を前に、講演をしながら、図書館司書の職能、つまり、本を蒐書して並べ、リファレンスを行う職能は、研究者からみるとエディターに近接するという意見をいったことを思い出した。専門性にそくして相互をどう認識するかということが、ネットワークの成否を決めるのだろうと思う。

 食事をおわって、いま部屋に戻る。上の函館講演会でのスライドをみてみる。そこで、この同じコンピュータを指さして、このデータは10年以上かけて作ってきたものですが、基本部分は税金で作ってきたということですので、相当部分は共有データですといったのを思い出す。
 スライドの結論部分から引用しておくと、

「Computerの論理」=「データベースとnetwork」=「外部脳」。外部脳をもつことによって、心の内側を熟視する。新たな瞑想。新しいの内面の時代。
無意識的に作ってきたネットワークを、情報ツールによって可視化し、意識的な活動の前提とする。「連携」の時代。

 というものであった。外部脳は共有すべきものであるということと、「Computerの論理」が本当に「内省と瞑想」の論理になるかどうかという問題が同じ問題であり、これがすべての基本であることは意見がかわらない。

2012年3月12日 (月)

地震火山58石橋克彦『原発震災』

 3月11日は、半日かけて石橋克彦氏の『原発震災』を読んだ。せっかくいただきながら、余裕がないまま通読せずにいたが、今日、時間をとって全部読むことにして自転車で出た。花見川の自転車ルートにでる前の谷戸は春。はこべの花の写真をとったが、青がきれいにはでない。
120311_131024  この本のプロローグは「いまこそ地震付き原発との決別を」という題。そして本書の全体の構成と趣旨の説明がある。福島原発事故について、「もし、この事故並みか、それ以上の原発事故が再び起これば、日本という国は立ち行かなくなるだろう」とある。これが本書のキートーンである。そして、本書で同じように目立つ言葉は「起こる可能性のあることは、すぐにも起こる」という言葉とあわせると、本書のもつ問いが根源的という意味でラディカルであるということがよくわかる。
 プロローグは、「津波の前に地震動で重大事故が起こった可能性」についての詳細な分析としても重要なものである。東電の公表資料にもとずいて著者は、福島第一原発の揺れの加速度時刻歴波形のグラフを作成し、その地震動の強さと継続時間を算出し、それにもとづいて津波以前に原発の機器の重要部分が破壊されていたことを、ほとんど否定が困難な精度で示す。そして問題を津波の高さのみに帰そうという一部の曖昧な主張を退ける。
 著者は、現在、(政府の事故調査委員会、畑村委員長)(この部分あやまり、失礼しました)、国会事故調(黒川清委員長)
に参加されているから、この作業は、その委員としての職責にも関係するものであると思われるが、これによって、日本の原発のすべてが、事故を起こす可能性が論証されている。そもそも建設の安全基準が甘いという重大問題である。
 こういうものが自然科学者のラディカリズムなのだと思う。歴史家は、基本的にはリベラルで保守的な判断を日常意識としてはもたざるをえないというのが、私などの考え方である。そういう意味でのリベラリズムは歴史家にとっては大切なもので、リベラリズムと(史料を扱う上での)トリヴィアリズムなしに歴史家は職業を営むことはできない。もとより、歴史家にとっても根源主義という意味でのラディカリズムは必要なものである。そもそも「根=ラディックス、Radix」に入り込むのが歴史家の仕事である以上、それは当然のことである。しかし、歴史家にとって、リベラリズムとラディカリズムを現実に統一して仕事を進めることはむずかしい。歴史家にとっては理論と論理はそのためにあるのであるが、これに対して、自然科学は仕事それ自身が理論と論理なしには進まないのである。自然科学のラディカリズムは、その意味で本当に頼もしいものだと思う。
 本書の全体の紹介は、私の任ではないが、まず構成だけを紹介しておくと、第一章「福井志摩第一原発を地震・津波が襲った」、第二章「地震列島の原発震災」、第三章「科学と科学者の責任」、第四章「安全神話と危機管理」、第五章「自然の摂理に逆らわない文化」、エピローグ「浜岡原発震災で何が起こるか」となっている。
 もっとも考えさせられたのは、原発の「燃料」のゴミ処理問題に対する地震学者としての見解である。ようするに(少なくとも日本列島における)地層処分は無理、無責任以外の何物でもないという見解である。これを読んでいると、一体、それでは、この「核のゴミ」をどう処置したらよいのかということについて、自然系の学者、学界は公開で徹底議論をする義務があるということを強く思わせる。そもそも地球科学の学界と合意なしに地層処分が計画され、法律まで存在するというのは、原子力研究の乱暴な独走であって、第二次大戦後の自然科学界の最大のスキャンダルである。それなしに企画されて政策的に遂行された「もんじゅ」計画の賛同者・責任者は、文殊菩薩の前でどう説明するのであろうか。これは学者・学界として他人事ではない。一時、大学では「説明可能性、アカウンタビィリティ」ということがいわれたが、おそらく、これは最大の説明責任であろう。
 私も直接の関係者から、この地層処分の話をきいたことがあるが、座談の場であったこともあって、十分に問うことをしなかった記憶がある。核のゴミ処理をふくめれば、原発はとても経済的に成立する事業ではないというのはよく知られていたことではあるが、これが「科学と科学者の責任」にかかわる最大の問題であるということを大学は明瞭にしなければならないと思う。第二次大戦後、「科学者の社会的責任」という議論が、湯川・坂田などの核物理学グループを中心にして議論になったことはよく知られているが、そのような議論が自然系から出てきた理由を実感させられた。
 歴史地震の研究を始めたものの立場から引き込まれたのは、「『駿河湾地震説』小史」である。人文社会系のメンバーにとっては、ここを起点にして地震学の研究史を辿るのがわかりやすいと思う。ちょうど、その時期が、現代地震学の二つの基礎理論、つまり著者のいうところの「現代地震学の二本柱(地震がどのように起こるかを示す断層模型論と、地震がなぜ起こるかを理解するプレートテクトニクス)の誕生・普及」(38頁)の時期であったことが何よりも興味深い。学史といわゆる「予知」問題、学問と社会的な責任が重なり合って問題になる状況はなかなかきびしいものがある。
 なお、これとの関係で、この時期こそが「原発が新・増設されはじめた60年代後半から70年代前半」にあたることは歴史的な皮肉あるいは悲劇であるというのが著者の原点であることがよくわかる。この時期、地震学からの原発立地についての議論を組み立てる学問条件が十分でなく、しかもこの時期までは、地震活動の相対的な平穏期であったことが、原発の異常な立地の条件になっているというのが著者の一貫した観測。

 その他、いろいろなことを考えさせられた。歴史地震論にかかわる部分は重要だが、省略する。

 なお、私個人として興味を引かれたことがある。私は、原発の安全「神話」という用語は、神話の思想的な意味を過剰に低くみるものだという意見である。著者は、同じことを「空疎な呪文」というように表現しているが、これが正しいと思う。たしかに原発問題の根っこにあるのは、「自由なエネルギーに対する」呪文、呪物性、フェティシズムである。それが商品のフェティシズム全体を支えるものになっているというのが、日本の資本主義的消費風俗の根っこにあるということだと思う。水は天下のまわりものが、電気に変わったという訳だ。

2012年3月 6日 (火)

歴史教育と時代区分論

 月曜。帰りの総武線。今日は本当に疲れていた。過去帳がまだ終わらない。 経済学部のK先生に紀元前後の地震史料についてお知恵をいただく。本当にありがとうございました。前漢から後漢にかけての地震史料の増加は、単に史料の性格からくる見かけのものではないのではないかというご意見。実態として地震がふえていた可能性は否定できない、中国の自然誌の記録はそれなりに正確ではないかと。
 
 昨年の夏に歴史の先生方を対象にした講演をした。「歴史教育と時代区分論ーーどう組み直すことができるか」というテーマ。そのスライドをWEBPAGEにあげた。
 これまで話したことのないタイプの話。縄文時代から平安時代、院政期までの時代区分論であった。下記に目次のみをあげておく。
          目次
Ⅰ世界史の時代範疇と社会構成
Ⅱ東北ユーラシアと日本列島史
1異文明(Barbarei)縄文=新石器時代
2列島の文明化と弥生時代。前8C~後2C
3首長連合国家(前方後円墳国家)の成立と展開
4中世貢納制王国(律令国家)の形成ーー東アジア中世へのcatchup
5近世荘園制国家への移行(院政期国家)
6荘園制をどう教えるかーー社会構成としての荘園制
Ⅲ歴史教育と歴史知識学・歴史環境学
1時代区分の絶対的必要ー世界複合発展段階論へ
2歴史知識学と情報革命
3歴史環境学とエネルギー問題
4教育の決定的位置
おわりにーー理論の問題

2012年3月 5日 (月)

地震火山57「龍と地震の話」ー小学校での授業

 1月末、東大のあるプロジェクトの「出前授業」の企画で、小学校で授業をした。「龍の話」というテーマである。今年の干支にちなんでということだが、その内容は「龍と地震の話」である。
 現代が八・九世紀とよく似た大地動乱の時代であることを話し、次のように子供に語った。

わあ、たいへんだ。
みんなはよく知らなかった。大人は忘れてた。
むかしの人はよく知っていた。日本列島は地震と火山の国。むかしの人はえらい。「大噴火・大地震の時代」を乗り越えた。この時代の頃から水田がふえ、関東にも人が多くなった。分かることは自分で考えて、この日本列島にすみついてきた。
日本列島は、世界で、いちばん、地震と火山の多いところだったんだ。だから山や川がきれいなんだよ。そして(噴火のない時は)生き物がすみやすいところなんだよ。

 先日、総武線であったM先生によると、「子供は生まれながらの進歩主義者である」ということだそうである。つまり、「今が一番いい社会だ」という偏った見方を自然にもち、あるいはそれを強制されるということであろう。その「一番よい社会」であるはずの社会で疎外される経験をするということが子供のつらさなのではないかと思う。そういう意味では、現代社会の深刻な諸問題は、子供も、子供なりの形で知っていた方が、子供も気が楽なところがあるのではないかと思う。こういう時代、歴史教育の基本は「昔の人は偉かった」という単純な言葉であろうと思う。その時代時代の課題と壁を乗り越えてきたことへの共感であろうと思う。これが真の意味での「前進」、Progressiveということであるはずである。
 
 四年生の子供たち二クラス80人余を対象にして、60分授業を二コマというのは、なかなかたいへんだったが、子供たちもともかく集中して聞いてくれてたのしかった。子供が理解しているかどうかは顔をみていれば分かる。トントンと話していって、途中で教材が足りなくなって、おやおやであったが、先生の事前のアドヴァイスで子供たちにクイズのような形で質問してほしいということだったので、子供に手を挙げさせて答えてもらった。そうこうしているうちに、時間いっぱいになる。
 なお、これもM先生がいっていたことだが、子供たちの三分の一は龍が実在の動物と考えていると。授業の感じだとそうは思えなかったが、質問をしてみればよかったと思う。ただ、私も、それは少し気になっていたので、「人々が本心から龍がいると思っていたかはわからない」という文章を入れ、さらに「龍」という観念がいつ頃、どこでできたかについてもふれてみた。こういうことでは、いつ、どのように、その観念ができたかを論ずることが手っ取り早い。
 その教材にしたパワーポイントをウェッブページにあげた。「龍の話」。そしてスライドシェアにもあげてある。どういてよいかがわからなかったが、子供に聞いてやってもらった。

 再利用できそうだったら、必要な部分を切り張りして使っていただければありがたい(なお話の中身は、岡田芳郎『暦のはなし』(角川選書)、黒田日出男『龍の棲む日本』の一部を使わせてもらった)。
 PCのプレゼンテーション機能をつかった授業というのを実際にやってみると、これは、結局、電子紙芝居のようなものである。そこまではしなかったが、手許のPCにスライドの説明をかきこんでおけば、教材のネットワーク共有と磨き上げが可能になるように思う。こういう電子紙芝居を教師たちが大量に作成し、共有し、自由に加工するネットワークができれば授業はやりやすくなるに違いないと思う。
 現在のマスメディアの画像とプレゼンテーションの衝撃力はきわめて強い。もちろん、メディアのもつ潜勢力と可能性はそれ自身として評価すべきものである。しかし、マスメディアが小さな頃から大量の疑似文化を提供していて、子供たちにそれがシャワーのように降り注いでいる状況をどう考えるかは深刻な問題だ。自分が子供を育てていた頃のことで恐縮だが、いまでも記憶に残るのは、北欧神話とギリシャ神話を種にした「拳法」のアニメーションのことだ。私は北欧神話が好きだったが、そこにでてくるイメージとあまりに違うので、そのアニメーションをみて怒り狂ったことを思い出す。これはいまでも一種の文化破壊であると思うが、一九世紀が「神話」を殺したとすれば、現代は「神話」を売り物にするわけだ。死んだ神を疑似文化の素材にするというのはヴァンダリズムである。
 子供たちへの授業は、好むと好まざるにかかわらず、現在の文化の総体に対抗しなければならない。それを教師と学者の連携の中で、どう組み立てるかを本格的に考えた方がよいと思う。その場合は、何よりも大量の自由になる教材が決定的であると思う。

 始まる前に、校長先生と挨拶とお話。一クラス「40人」ということをうかがって驚く。大学時代から「30人学級」ということが教育界のもっとも大きな要求であったことをよく知っている立場からすると、迂闊なことに、なんとなく、それが半ばは実現しているかのような幻想をもっていた。
 これがまだ実現していないといのは本当にどういうことかと御話しをする。以前、ベルギーに留学した時、娘の学校は一クラス20人。しかもそれを主任と副担任の二人で教えてくれる。日本とベルギーの経済力がそんなに違うとは思えない。ようするに日本の政府の政策であり、日本の政府は教育、そして学術を大事にしない、ケチなのだということを、再度、実感。なんども言及して恐縮だが、総武線で意見をうかがったMの見方は、もっと深刻なもので、「日本では、四〇人近い子供を集団として扱い、競争させるというのが基本的な教育思想として存在している。たんに経済的な問題ではない」ということだそうである。たしかにそうかもしれないと思う。

 校長先生とは、いろいろな話。私は、次のように申し上げた。

 国家や経済の中枢部の人々が、小学生がみていてもあまり尊敬できる人ではないというのは、教育上、本当に困りませんか。しかし、逆に、発想をかえて、あれでも立派な大人として通るのだからということで、子供たちが自信をもって生きられる教育というのを考えなければならないのでしょうか。

 三〇人学級が実現していないことをふくめ、小学校がもっている課題は本当にたいへんなものがあると思う。しかし、子供たちは元気だ。

2012年3月 4日 (日)

岩波文庫「私の三冊」

120303_152909  昨日はひな祭り。娘と相談があって昼食事。彼女に草餅をかってもらい、その後、私は、稲毛浜へ自転車。久しぶりの浜辺である。漁船がおいてあった。30年くらい前まで現用の小型底引き漁船。これで相当沖まででていた。

 必要があってド・ラメトリーの『人間機械論』を書棚から探し出した。大拙とラメトリーなどというのは昔の話か。娘にラメトリーをどう読んだかと話しても現実感はないか。

 「人間の存在の理由が、その存在そのものの中にないかどうか、誰が知っていよう。人間はおそらく偶然に地球の表面のどこか一点に投 120303_153612_2 げ出されたものであり、いかにして、またなにゆえ投げ出されたかは知ることができず、ただ生活し、死滅しなければならぬことを知りうるのみである」。

「われわれは自然の野においてはまことに一匹の土竜にほかならない。われわれのそこに印する足跡はこの動物の歩く距離と似たりよったりである」(人間機械論)

 以前に書いた岩波文庫からの「私の三冊」を下記に。

(1)『経済学・哲学草稿』(マルクス/城塚登・田中吉六訳)

高校時代、はじめて徹底的に読んだ「哲学書」。傍線の跡が懐かしい。私は歴史学に進んだが、今から考えると、天才的な思想の発生の場を確認する作業は歴史学のテキストクリティークに似ている。

(2)『人間機械論』(ド・ラ・メトリ/杉捷夫訳)

唯物論は「物」への感性を大事にする面と、「物」に特殊な呪術性を与えることへの哄笑の両側面をもつ。そこから生まれる明るい冗舌と快楽主義によって、現代を告知したフランス唯物論の傑作。

(3)竹取物語(阪倉篤義校訂)

私は岩波文庫の薄いのが好きだ。安いから高校生も揃えやすい。『竹取』の著者は、日本思想史において始めて王権・天皇制に対峙する想像力をもった人物。日本文学の中でも出色の完成度をもつ。

          『図書』臨時増刊、2007年四月

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