T氏との食事ー学術と将来社会
T氏との話し
さて、いま、帰りの新幹線。ともかくも無事に仕事をおえた。写真は御寺の門の木目。複雑な年輪である。
昨日の続きだが、T氏との話しは、ようするにやってきたこと、これからやりたいこと。私はどちらかというとやってきたことの意味をどう考えるか、T氏は何をやるか。彼がやることはやったという感じ方の上に、さらに目標を明瞭にもっているというのはうらやましい。
そして話しがめぐるのは、いわゆる「戦後歴史学」。それはようするに我々が共通して知っており、尊敬してきた人々の話である。こういうのは世代に閉じられた話しなのであろうが、先輩世代のあの人、この人の話は、我々にとっては一種の学問議論の準備体操、あるいは思考実験のような話なので、こういう話をするのは頭の健康によい。そして楽しい。夜9時には終えてホテルにもどったが、久しぶりといえるほど気持ちよく寝た。
しかし、話を緊張させる伏線は、ようするに「戦後歴史学」問題のさらに下にある諸問題、つまり政治的・社会的・市民的・職業的な立場と学術の関係の話である。もちろん、学術はそれらからは自由なものであるが、他方、しかし、社会的・方法的な立場を一致させたい、一致していたはずだという感情は、やはり必要なものだと思う。我々にとっての「戦後歴史学」問題とはそういう問題である。
すでに確認されていることは、社会的・市民的・職業的な立場に学術が従属するということはありえない。ある社会的立場なり、ある学術的な方法なりが真理を独占すると云うことは本質的にありえないということである。社会的立場のみでなく、学術的な方法も複数性をもつのは当然なことだと思う。「真理は一つ」というが、極論すれば現代の学者は真理をもとめて仕事をしているわけではない。すくなくとも、それが研究者の意識の日常性だろうと思う。「真理」というのは結果であって、それを掘り当てたときの特別な感情というものはある。この感情・感覚にアディクティヴになっている、嗜癖しているという研究者心理を、「真理を求めて」と表現することはできる。しかし、レーバーではなく、ワークならばという制約はつくが、それはどのような専門性をもった労働においても同様のことだろうと思う。
ようするに、現代の学術は、一つの「生産」になっているのである。「生産」されるものはまずは量であり、バラバラの試行錯誤の中でも、量がものをいう。学術生産の中には明らかに回り道で、少なくとも結果として無意味な営為もあるが、それが生産であるということは、それが無意味であったことを確認したのも意味があるということであって、いわゆる「潰していく」という作業である。学術が一つの生産になったということは、すべてがともかくも意味のないものはないということになったということである。
それに私たちは「労働者」としてとり組んでいる。私などは幸運なことにそういう労働にありつかせてもらった。そして賃金をもらい、やはり特定の労働規律の中で働いてきた。もちろん、その労働自体は、厳密な意味での剰余生産労働、生産的な労働ではない。太田秀通氏が『史学概論』でいっているように、精神的生産はつねに結果不明なのであって、他の生産的労働との関係においてのみ社会的意味を、いつか持つかもしれないという種類の労働である。その意味では、それは疑似労働なのである。現代の学者は「労働者としての権利」をもつが、しかし、やはり、その労働自体は他律的に社会の承認と何らかの期待の下にさせてもらっている労働なのである。それ故に、学者のなすべきことは本質的には自己の相対化と特権性の自己否定である。
しかし、学術が生産になったということは、長期的には現実的な生産のあり方それ自体を変えていくはずである。それは学術の側では文理融合と学術の一体化を要求する。労働と生産の専門性を学術が支えることによって、専門分野の相互関係も高度化していくにちがいない。これによって公共を専門性の内部に取り込んでいくことが社会的に決定的な意味をもつはずである。現業と学術の相互浸透が、学術の時代の到来の前提にある。それがいわゆる精神労働と肉体労働の対立を眠り込ませていくはずである。
全体がみえないという焦慮を抱えながらも、私は、(表層の意味での)「政治・社会・世俗」を越えて、そこにこそ研究者としての希望と真の政治性あるいは社会性があるのだと思う。学術こそが未来を作る(側面がある)。生産と生活に一体化した学術と教養が社会の基礎になるときこそ、それを確固とした基礎として新しい瞑想と静観の時代がくるのだと思う。
研究者という生活をしていて、自分をどう考えているのか。友人であるというのは無秩序に話すということなので、ここまでは時間もなくてはなせなかったが、すこし話してみて、頭の整理をすると、いま考えているのは、こういうことであった。
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