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2012年3月 5日 (月)

地震火山57「龍と地震の話」ー小学校での授業

 1月末、東大のあるプロジェクトの「出前授業」の企画で、小学校で授業をした。「龍の話」というテーマである。今年の干支にちなんでということだが、その内容は「龍と地震の話」である。
 現代が八・九世紀とよく似た大地動乱の時代であることを話し、次のように子供に語った。

わあ、たいへんだ。
みんなはよく知らなかった。大人は忘れてた。
むかしの人はよく知っていた。日本列島は地震と火山の国。むかしの人はえらい。「大噴火・大地震の時代」を乗り越えた。この時代の頃から水田がふえ、関東にも人が多くなった。分かることは自分で考えて、この日本列島にすみついてきた。
日本列島は、世界で、いちばん、地震と火山の多いところだったんだ。だから山や川がきれいなんだよ。そして(噴火のない時は)生き物がすみやすいところなんだよ。

 先日、総武線であったM先生によると、「子供は生まれながらの進歩主義者である」ということだそうである。つまり、「今が一番いい社会だ」という偏った見方を自然にもち、あるいはそれを強制されるということであろう。その「一番よい社会」であるはずの社会で疎外される経験をするということが子供のつらさなのではないかと思う。そういう意味では、現代社会の深刻な諸問題は、子供も、子供なりの形で知っていた方が、子供も気が楽なところがあるのではないかと思う。こういう時代、歴史教育の基本は「昔の人は偉かった」という単純な言葉であろうと思う。その時代時代の課題と壁を乗り越えてきたことへの共感であろうと思う。これが真の意味での「前進」、Progressiveということであるはずである。
 
 四年生の子供たち二クラス80人余を対象にして、60分授業を二コマというのは、なかなかたいへんだったが、子供たちもともかく集中して聞いてくれてたのしかった。子供が理解しているかどうかは顔をみていれば分かる。トントンと話していって、途中で教材が足りなくなって、おやおやであったが、先生の事前のアドヴァイスで子供たちにクイズのような形で質問してほしいということだったので、子供に手を挙げさせて答えてもらった。そうこうしているうちに、時間いっぱいになる。
 なお、これもM先生がいっていたことだが、子供たちの三分の一は龍が実在の動物と考えていると。授業の感じだとそうは思えなかったが、質問をしてみればよかったと思う。ただ、私も、それは少し気になっていたので、「人々が本心から龍がいると思っていたかはわからない」という文章を入れ、さらに「龍」という観念がいつ頃、どこでできたかについてもふれてみた。こういうことでは、いつ、どのように、その観念ができたかを論ずることが手っ取り早い。
 その教材にしたパワーポイントをウェッブページにあげた。「龍の話」。そしてスライドシェアにもあげてある。どういてよいかがわからなかったが、子供に聞いてやってもらった。

 再利用できそうだったら、必要な部分を切り張りして使っていただければありがたい(なお話の中身は、岡田芳郎『暦のはなし』(角川選書)、黒田日出男『龍の棲む日本』の一部を使わせてもらった)。
 PCのプレゼンテーション機能をつかった授業というのを実際にやってみると、これは、結局、電子紙芝居のようなものである。そこまではしなかったが、手許のPCにスライドの説明をかきこんでおけば、教材のネットワーク共有と磨き上げが可能になるように思う。こういう電子紙芝居を教師たちが大量に作成し、共有し、自由に加工するネットワークができれば授業はやりやすくなるに違いないと思う。
 現在のマスメディアの画像とプレゼンテーションの衝撃力はきわめて強い。もちろん、メディアのもつ潜勢力と可能性はそれ自身として評価すべきものである。しかし、マスメディアが小さな頃から大量の疑似文化を提供していて、子供たちにそれがシャワーのように降り注いでいる状況をどう考えるかは深刻な問題だ。自分が子供を育てていた頃のことで恐縮だが、いまでも記憶に残るのは、北欧神話とギリシャ神話を種にした「拳法」のアニメーションのことだ。私は北欧神話が好きだったが、そこにでてくるイメージとあまりに違うので、そのアニメーションをみて怒り狂ったことを思い出す。これはいまでも一種の文化破壊であると思うが、一九世紀が「神話」を殺したとすれば、現代は「神話」を売り物にするわけだ。死んだ神を疑似文化の素材にするというのはヴァンダリズムである。
 子供たちへの授業は、好むと好まざるにかかわらず、現在の文化の総体に対抗しなければならない。それを教師と学者の連携の中で、どう組み立てるかを本格的に考えた方がよいと思う。その場合は、何よりも大量の自由になる教材が決定的であると思う。

 始まる前に、校長先生と挨拶とお話。一クラス「40人」ということをうかがって驚く。大学時代から「30人学級」ということが教育界のもっとも大きな要求であったことをよく知っている立場からすると、迂闊なことに、なんとなく、それが半ばは実現しているかのような幻想をもっていた。
 これがまだ実現していないといのは本当にどういうことかと御話しをする。以前、ベルギーに留学した時、娘の学校は一クラス20人。しかもそれを主任と副担任の二人で教えてくれる。日本とベルギーの経済力がそんなに違うとは思えない。ようするに日本の政府の政策であり、日本の政府は教育、そして学術を大事にしない、ケチなのだということを、再度、実感。なんども言及して恐縮だが、総武線で意見をうかがったMの見方は、もっと深刻なもので、「日本では、四〇人近い子供を集団として扱い、競争させるというのが基本的な教育思想として存在している。たんに経済的な問題ではない」ということだそうである。たしかにそうかもしれないと思う。

 校長先生とは、いろいろな話。私は、次のように申し上げた。

 国家や経済の中枢部の人々が、小学生がみていてもあまり尊敬できる人ではないというのは、教育上、本当に困りませんか。しかし、逆に、発想をかえて、あれでも立派な大人として通るのだからということで、子供たちが自信をもって生きられる教育というのを考えなければならないのでしょうか。

 三〇人学級が実現していないことをふくめ、小学校がもっている課題は本当にたいへんなものがあると思う。しかし、子供たちは元気だ。

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