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2012年3月13日 (火)

図書館学のN先生とばったり。京都出張の行き帰り

 今日は京都出張。京都駅で新幹線を降りて、北山の総合史料館にむかう地下鉄にのり、ぼっとしていて、隣りにすわろうとしている人を見たら、史料編纂所のお隣の教育学部の図書館学のN先生。お互いに驚いて御挨拶。そして、総合史料館で仕事をおえて帰り、同じ地下鉄にのったら、一駅目にN先生が乗ってこられて、声をかけられてまたびっくり。こういう京都での出会いは、これまでの経験では意外と多い。それがなぜかはよくわからない。
 地下鉄の行きも帰りも、N先生と図書館・文書館・研究機関と情報化をめぐる話しになる。N先生の御話しでは、いろいろなところで色々な努力があるが、なかなか全体がまとまらないということであった。全体がまとまるためには、大学の役割が大きいという話しになる。しかし、そもそも大学の中でも、図書館・情報学・部局における基礎データや標本・資料管理のあり方のネットワークはばらばらで、全体をどう構想するかがむずかしい以上、なかなか社会的ネットワークはむずかしい。ネットワークなしに情報化が跛行的に進むのは困難を抱え込むことになる。などなど。短い時間でもいろいろな話しができるものである。
 N先生は帰りは立命館の先生とご一緒で、また同じような話しをしながらきたら、また地下鉄に私がいたので驚いたとおっしゃる。私は、午後、総合資料館では行われた古文書学会の研究集会を覗かせてもらったが、そこでは立命館の先生、学生にも会った。それを御話しする。ネットワークというのは、こういう知人の知人は知人同士という関係をなかに含んでいる。そしてどこかでばったり会うという関係であるのだと思う。世間は狭いということである。それにしても、アーカイブズでの仕事の行き帰りに、二度も、ライブラリアンの方と会うというのは、本当に面白い偶然である。
 3駅ほどで御分かれし、ホテルへ。いまホテルの部屋で、N先生と話したようなことを、一昨年秋の函館の講演会で話したのを思い出した。いまから食事だが、京都にいるうちに、それを話した函館での講演のスライドをWEBPAGEにあげ、スライドシェアからみれるようにしておこうと思う(「史料の編纂と歴史情報の共有」)。そのとき、図書館や文書館の方々を前に、講演をしながら、図書館司書の職能、つまり、本を蒐書して並べ、リファレンスを行う職能は、研究者からみるとエディターに近接するという意見をいったことを思い出した。専門性にそくして相互をどう認識するかということが、ネットワークの成否を決めるのだろうと思う。

 食事をおわって、いま部屋に戻る。上の函館講演会でのスライドをみてみる。そこで、この同じコンピュータを指さして、このデータは10年以上かけて作ってきたものですが、基本部分は税金で作ってきたということですので、相当部分は共有データですといったのを思い出す。
 スライドの結論部分から引用しておくと、

「Computerの論理」=「データベースとnetwork」=「外部脳」。外部脳をもつことによって、心の内側を熟視する。新たな瞑想。新しいの内面の時代。
無意識的に作ってきたネットワークを、情報ツールによって可視化し、意識的な活動の前提とする。「連携」の時代。

 というものであった。外部脳は共有すべきものであるということと、「Computerの論理」が本当に「内省と瞑想」の論理になるかどうかという問題が同じ問題であり、これがすべての基本であることは意見がかわらない。

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