地震火山62地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと
地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと
この写真は出勤の途中。電線がじゃま。
一昨日、気仙沼の「亀の湯」という浴場の被害と再建につてのテレビをみた。私は、ほとんどテレビというものをみないが、NHKでやった「メガクェーク」を妻におしえられてみて、その続きのようにしてみた。私のやっているような仕事が、どう役に立つのか、あるいは何らかの支えになるのかということを感じる。そのような意識は、不実践や躊躇の心理的表現であろうということは分かっているが、自分の仕事が宙にういているものであるという不安定感は、この職業につきまとうものである。
やっと奈良・平安時代の地震と噴火についての本を書き終わり、すべて入稿した。ほぼ1年やってきたことなので、一つの荷を降ろしたような感じにはなるが、まだ経験と感情の整理はできない。
次が「あとがき」の最初の部分。
日本文学研究の先達の一人であった益田勝実氏に、『火山列島の思想』という本がある。私は、長くこの本の題名の意味するところを理解できないままでいたが、しかし、「はじめに」でもふれた『かぐや姫と王権神話ーー竹取物語・天皇・火山神話』という新書を執筆する中で、この書の題名の意味が「火山列島に棲むものが、この国土から受けとってきた思想、受けとらされた思想」というものであることがわかってきた。
本書は、この経験を前提にして、益田のいう「火山列島の思想」に、さらに「地震列島の思想」をつけ加え、八・九世紀、王権中枢から地方の庶民にいたるまでの、この列島に棲むものが、大地動乱をどのように意識し、それをどのように乗り越えていったかを歴史学の立場から論じたものである。
さて、益田勝実氏の仕事を、そんなに読んできたわけではないが、前から気になっていたのは、益田さんの『国語教育論集成』(筑摩文庫)にのせられた「海さち山さちー神話と教育」である。この1955年に書かれたエッセイを読むことは、歴史学の学史をたどり、追体験する上でも必須のもので、当時の神話と民族文化をめぐる情況を具体的伝えてくれる。
「神さまの話は古代の天皇家が自分勝手にねじ曲げてつくったものだ、とだけきめこみ、それをネグレクトして進むところには、皇室神話にねじ曲げられない神話本来のものをあきらかにして、それによって祖先たちの魂の歴史をさぐり、そこに反映している祖先たちの生活のたたかいの経験を豊かに組み上げていく道はひらけない。生徒たちが(神話に)実際に魅力を感じている事実を認め、それを正しく発展させることができない。まして、子供の世代の科学的な勉強が親たちの世代へおしあげ、社会全体の歴史認識が新しい方向へ進んでいくような契機も見いだせないであろう。神話の本質を明らかにし、歴史的に正しく位置づける必要を社会科の良心的な教師たちは、いま痛感している」。 私もその意味での教材としての神話は、「文学」教育の問題としてきわめて重要だと考える。歴史と文学では教育のあり方が違うが、文学としての『日本書紀』『古事記』神話を考えるべきことは明らかだと思う。これは領域をこえて議論すべきことである。そしてそのためにもまずは神話論を議論することが必要であるが、そのような研究を進めるためにも益田の議論を詳細に追跡することが必要であると思う。
ちょうど同じころ、1955年ころのことであろう。歴史学の先達のIさんの奥さまに友人たちと一緒に「ヤマトタケル」を讃える歌というのを左翼の集会で歌ったという話を伺って驚いたことがあるが、それはいくらなんでもにしても、そういう雰囲気の背景にあった合理的なもの、文化の状況をよく伝えるエッセイである。
なにより、益田の議論は、名ばかり高い石母田氏の英雄時代論よりも読みやすく、理論的にも透明な感じがするものである。石母田の仕事、とくに具体的な神話論はさすがであるが、石母田正の議論は全体としてみると、歴史家の常として史料との格闘と、さらにヘーゲル・マルクス・エンゲルスの理解の晦渋性が染みこんでいて理解しやすいものではない。おそらく今の若い歴史家は石母田正の「英雄時代論」などは読んだことがなく、ただの時代錯誤と思っているであろう。歴史学の根無し草情況は、相当に深刻なものである。この益田のエッセイを読んだ上で、石母田の仕事を読み直すのが、研究史を知るためには意味があると
益田のエッセイには、三木清からフレイザー、マリノフスキー、そして日本の神話学の古典、松本信広・松村武雄などを読み込んだ情況がよくわかる。そして、神話論としても重要な理論的意味があるのではないかと思う。呪術=トーテム=エロティシズムの世界と神話の世界を区別し、神話のもつイマジネーションの力、文学の力を汲み上げようという議論は、呪術と神話の区別の理論的問題としても、私は賛成である。現在でもやるべきことはかわっていないようにさえ思う。この巨大な研究の停滞。
さて、「山幸・海幸神話」に踏みこんで議論している部分をふくめて、このエッセイは、益田さんがどういう人かを知る上でもたいへんに面白いものである。ご自身の自然の中での「釣り針」をなくした経験、そして軍隊の経験などを読んでいると、私のような人間がいかに偏頗であるか、実際の体験をもっておらず、童話・民話などの受け入れのもととなる自然体験においても、根本的にブッキッシュな都市人間であるということを思い知らされる。もちろん、小学生のころ以来、大量の民話・童話を読むという経験を与えられたことは母親に感謝しているし、その豊かさは疑わないが、これが自分の人格と生活の歪みの根本にあるのであると思う。
そして、もう一つ、逸することのできない文章。これは実際に読んでいただく方が早いが、一行だけ引用しておく。
「原爆雨にさらされて神話を教える。これは一体何だ」











