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2012年4月27日 (金)

地震火山63八世紀の地震と韓国・日本の王家の運命

 今日(水曜)はJ大学で授業。災害史・地震史で3回の特講である。
 レジュメの整理と印刷のために、まず職場による。
 本郷通で、Nさんにあう。もと本郷の角のバーの御主人、というよりもその前はタバコなどを売っていた角店の御主人。10年前くらいまで、ヘビースモーカーのころに一日2箱、そして帰りを入れれば4箱・5箱も買っていた時期があり、今でも路で会うと挨拶。人生で、顔をあわせて挨拶した回数を、もし神さまが数える術をもっていたとすると、家族を除くとトップにくるにちがいない。
 店が昨年の3,11の後、入り口部分を工事しているかと思ったら閉店。そういうことでしばらく御会いしていなかったので、コーヒーを飲みましょうと誘われてYKビルのスタンドでコーヒー。そして、しばらく話し。
 こちらも来年にはいなくなるということを御報告。昔は毎年、年末近くなると東大の教官が、2・3人、今度、定年だからと挨拶があったとなつかしそう。昔の何人かの先生のうわさ話。インド哲学で推理小説を書いたA先生、ロシア史のW先生、職場の先輩で先日亡くなられたK先生などの話はさすがに面白い。
 コーヒーをおごってもらったので、今度、本がでたら差し上げる約束をして、初めて名前をうかがう。頭文字Nさんということになる。
 国民学校三年生の時に、本郷が焼けてたいへんだった。その時は、このビルに砂糖が貯蔵されていたなどという話し。昔から商店街なので、意外と地域社会の住人は変化しておらず、店のマスターに昔の話をするが、それは親の代で知らない、云々。一挙に話が、戦前に飛ぶのが面白い。東大の教員も、華族だとか、日本でめずらしく艦砲射撃をうけた町出身だとか、騎馬の材木屋さんの息子で下町子だとかいう話し。
 小さなビルの並びに昔の隣人が住み続けている近隣関係を聞いていると、ここにも「史料」と「歴史」を発見したという感じになる。ビルの一画としかみえないところに住んでいる人々の経験してきた歴史。戦前の仏教青年会が反対側にあったという話も以前に聞いた。
 隠れていた史料(あるいは、その意味)をみつけた時の感情と相似した感情である。自分を歴史家だと思う。
 
 今、金曜夜11時30分。総武線のホームライナーの中。明日、印刷所が来るので、また。
 J大学の話だが、しかし、授業はむずかしい。やりなれていないと、どうしても「意あまって、話を積み込みすぎる」ということになる。とくに学生相手ということになると、細かく細かくとなるのが、私の癖。普通の講演の積もりでやればよかったといつも思う。
 昨日は、もう少し用意をする積もりだったが、Nさんとコーヒーを飲み、さらにJ大学で、Y先生、そして本当に久しぶりのM先生に御会いして楽しく話している内に、徐々に頭がバラバラになってきたようであった。夜、遅くまで用意したこともあって、頭の調子ももう一つ。そして、前置きが長すぎて、時間が足りなくなる。

 テーマは、8世紀の日本の王権と政治史にどう地震災害が影響したかという話し。これは、そもそも8世紀の日本の王統の矛盾についての私説を説明しないとならず、それと地震の両方をフルに説明するには時間が足りなかった。聞き難い話しだったと思って、昨日はくさる。しかし、感想には「面白かった」という意見が多く、今の学生は温かいものだと思う。
 8世紀の日本王権の王統は天武系の王統であり、天智の孫・白壁王(後の光仁天皇)のときに、それが天智系に切り替わるというのが一般の説明だが、私は、天武が天智の娘の持統と結婚していることの意味が大きいという意見。つまり、天武・持統は叔父と姪の結婚であって、8世紀の王統は、単に、天武系というのではなく、この婚姻の直系であるということが重要であると思う。これは、とくに持統の意思が働いたのではないか。父の天智の血筋を重視するという意思が持統には強かったのではないか。それによって天武天皇と大友皇子(弘文天皇、天智の息子)の争いであった壬申の乱の後の王家内部の平和・融和を希求したのではないかというのが私見。
 これは単に直系主義ということではなく、8世紀の王権の中枢は、天武の子孫であるが、同時に持統の父の天智の血を引いているものでなければならないという特殊な縛りがあったということであると思う。そうでない天武の子孫は、結局、挫折し、誅殺され、自決したというのが、8世紀の政治史である。こうして実際上、平和あるいは融和を求めた持統の意図とは逆に、天武系の王族は全滅に近い状態になってしまった。この惨酷さは、大学時代に読んだ青木和夫氏の『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』)にのった系図ではじめて知り、誅殺・自決の数の多さを知って驚いた記憶が鮮明である。
その情況は、上記のように説明できるのだと思う。
 私は、不比等皇胤論という『大鏡』などにみえる著名な伝承を事実を反映していると考えている。これは「古代史研究者」は無根拠とするが、しかし、不比等が天智の胤であるとすると、不比等の子供の宮子が文武とめあわせられたことは、不比等を通じて天智の血統がもう一度呼び込まれようとしたのだと理解することができる。そして、7世紀の政治は教科書などにも書いてあるように「皇親政治」といわれる王族の位置が高い国家中枢の構造をとっているが、藤原氏が実際上、准王族と考えられていたとすると、「皇親政治」の特殊な展開として藤原氏の上昇を説明できる。これは私には魅力がある。
 そしてさらに問題なのは、長屋王も天武の息子の高市と天智の娘の間に生まれた王であって、その地位が他を圧して高い理由がよくわかるということである。しかし、以上の私説を地震にふれながら短時間で説明するのは、なかなかむずかしかった。
 長屋王誅殺事件をへて、天平6年の地震は長屋王の怨霊の引き起こしたものという観念があったのではないかという点から地震と政治史の話しをしたのだが、もう一つ説得性はなかっただろうと思う。来週は、この点を追加して説明した上で、9世紀の政治史に進む予定。今度は、話題を少ししぼってよくわかるように説明したいものだと思う。
 学生が面白かったといったことで、8世紀の地震の受けとめ方と影響が、日本と韓国では違ったという話し。日本では8世紀のむしろ前半に地震が多く。それは聖武の強い意志が乗り越えた。聖武の娘の称徳で天武系王統が断絶するが、そのころの悲劇的な政治の季節には、地震が少なく、天智系への切り替えが相対的にうまくいった。
 それに対して韓国(新羅)では、8世紀後半の地震の中で恵恭王と王妃が殺害されるという事件が起こり、それ以降、新羅滅亡まで150年で20人もの王が立つという混乱状態が現出した。これは地震が何時起きたかが、日本と新羅の王権の運命に関わる問題であったということではないかと思う。
 日本には八世紀前半に地震が多く、八世紀後半には地震が静謐にむかい、そのかわり噴火が多くなるが、韓国では、8世紀後半に地震が多くなるというのは、地震学的にいって何か理由を説明できるのだろうか。ともかくこのタイムラグによって、偶然ではあれ、両王家の歴史が影響をうけたことは事実だと思う。
 
 話しは分かりにくかったはずだが、100枚以上の短文の感想を読んでいると、この点はどうにか通じたようなので、ほっとする。
 

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