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2012年4月

2012年4月28日 (土)

ゲド戦記の翻訳と「燃える木」

Dscn2403  "A Wizard of  Earth Sea"、アーシュラ・K・ル・グィンのアースシーシリーズの第一巻、いわゆる『ゲド戦記』の第一巻、邦訳名『影との戦い』(岩波書店)の清水真砂子氏の翻訳で疑問があるのは、ゲドが師匠のオギオンから杖=Staff=スタッフをあたえられるところの翻訳である。
 
 そこはこうなっている。
"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 ここのところの清水氏の翻訳は下記のようになっている。
「さあ、どうじゃ。」とオジオンは言って、できあがった杖をゲドにさしだした。「大賢人さまがそなたにイチイの木を下さったんじゃ。よい品でな、わしが大切に預かっとった。大弓の矢柄にとも思ったが、これにしてよかったわ。では、おやすみ」

 私は、この本を、最初、清水さんの翻訳で読んだので、清水さんの翻訳にはあまり違和感はない。よい翻訳だと思う。しかし、この部分は、このファンタジーの全体の理解にも関わってくるので、直すべきだと思う(あるいは最新版ではなおっているのかもしれないが、そこまでは追っていない)。
 
 こういう本を歴史家で読む人は少ないかもしれないので、前後の脈絡を説明しておくと、大賢人というのは、正規の師匠であって、その師匠からゲドという若いWizardは、「イチイの木でできた杖」を受けとった。しかし、その杖は、ゲドが異郷で追われ、傷ついたときに、失われてしまった。傷ついた、この若い魔法使いが助けをもとめて飛び帰ったのは、故郷の山であった。故郷で最初に師事し、育てられた本来の師匠、オギオンの山の上の家であった。敗北し、心身を破壊されたゲドは、そこでオギオンによって立ち直った。そして旅立ちの日の前に、オギオンは雪の降る谷間にでかけて、杖にするためのイチイの木をきってきて、それを午後一杯かけて「杖」に作り、それをあたえたというのである。それをあたえるときの場面が上記の部分である。

 清水氏の翻訳では、正規の師匠である大賢人は、ゲドに「杖」を与えながら、それが失われることを予測して、しかもそのゲドが最初の師匠のところに立ち戻ることを予測して、イチイの木をあたえてあり、オギオンは、その木を谷間に植えて大事に管理していたが、予測通りに、ゲドが戻ってきたので、大賢人との約束通りに、それを杖にしてゲドにあたえたということになる。
 けれども、上記の部分は、正しくは下記のように訳すべきであると思う。
原文をもう一度掲げる。

"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 「これを」といって、オギオンはできあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人の杖と同じイチイの木の杖だ。そなたにはイチイの木がえらばれている。わしもそれが正しいと思う。昔は、おまえに長弓の矢柄をあたえることになるのかと思ったこともあったが、結局、こういうことだったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 少し、直訳からずらしたが、もっと直訳すると、下記のようになろうか。

 「これを」とオギオンは言って、できあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人はおまえにイチイの木(の杖)をあたえた。その選択は正しく、私はそれにしたがった。私は、おまえに長弓の矢柄をあたえようと考えていた。けれども、結局、これがよかったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 清水さんの翻訳には三つ誤りがあって、第一は"a good choice"というのを 「よい品でな」と訳したことで、これは字義通りに「よい選択」で問題ない。つまり、大賢人がイチイの木を杖の素材として選択したのは正しいということである。第二は"kept to it"を「わしが大切に預かっとった」と訳したことで、keepを預かる、保つという意味で読んだということになる。"kept to"というのは、辞書によると、判断を維持するというようなことで、"stick to"と同じような意味である。
 第三は、"I meant the shaft for a long-bow"の部分で、この部分を清水さんは、「大弓の矢柄にとも思ったが」と翻訳して、オギオンは谷間で切ってきたイチイを「杖」にするのではなく、つまり「杖」をゲドに与えるのではなく、武器をあたえようと考えたという翻訳になっている。これは微妙なところではあるが、杖をなくしたWizardにはまず杖を与えるのが必須であるし、ゲドがオギオンの家にたどり着いて、すぐに、オギオンーゲドの師弟関係が他に優先することが確認されているのであるから、木を切りに谷間に降りていくオギオンは最初から「杖」のための樹の枝を切りにいったと考えるほかない。
 そうだとすると、この部分は、オギオンは、ゲドが大賢人が「杖」を与えられた後に、特別な贈り物として「長弓の矢柄」を与えることになるかもしれないと考えていたと翻訳するほかないと思う。辞書によると"meant for"は、「物をーーに与えるつもりである」という意味で、"a new building meant for wheat storage"などという例文がある。ようするに、オギオンはゲドが何らかの戦いに面することを予測し、戦いのための武器を与えることになるのではないかと考えていたということなのではないだろうか。meantは明瞭な過去であろうと思う。

 今日、やや憂鬱なこともあって起床が遅くなり、ペーパーバックを読んでいて、このことを書こうと思って再確認。以上の訂正が正しいかどうかは別として、これを書いていて思ったのは、「翻訳というのは、ともかく原文があるので、読者に決定的なダメージを与える訳ではない。これに対して、編纂というのは、原史料から活字に起こすことなので、ダメージは大きいことになる」ということ。ゴールデンウィークに入って、しばらく編纂仕事からは解放である。

 またもう一つ考えたこと。先週、上智大学の北條勝貴氏に「樹霊はどこにゆくのか」(『アジア民族文化研究』などをいただいて、あらためて考えたが、私は、「樹木と光」ということに興味があって、ル・グウィンのファンタジーにある「杖」の様子を、そのイメージを考える参考にしていたように思う。「杖」が強い光を放つ、あるいは「杖」の上に闇を照らす光が生じるなどいうイメージである。アースシーシリーズには、光をおびた杖、燃える杖が飛翔して、閉ざされた門を打ち開くなどというイメージもある。その意味では「杖」のイメージは矢のイメージに繋がる。
 ようするに、これは「燃える樹木・枝」のイメージであるが、最初の写真は、一昨年、奈良女子大学の小路田泰直氏に案内してもらって生駒神社に行った時、階段をあがっていった右手にあった落雷を受けた樹の写真である。これを霹靂樹といい、そこに雷神が宿ったことは「腰袋と桃太郎」(保立『物語の中世』)などで述べた。日本においても雷神がすべての原点にすわるのだと思う。そして、ホトケとは熱気のことであるというのは、同じく『物語の中世』におさめた「ものぐさ太郎論」で述べたことであるが、ホトケの熱気の原型も雷神である可能性が高いように思う。これは宮田登『日本の民俗学』(講談社学術文庫』97頁)で述べた柳田・有賀・藤井などの「ホトケ」論争にふかく関わってくる。

2012年4月27日 (金)

地震火山63八世紀の地震と韓国・日本の王家の運命

 今日(水曜)はJ大学で授業。災害史・地震史で3回の特講である。
 レジュメの整理と印刷のために、まず職場による。
 本郷通で、Nさんにあう。もと本郷の角のバーの御主人、というよりもその前はタバコなどを売っていた角店の御主人。10年前くらいまで、ヘビースモーカーのころに一日2箱、そして帰りを入れれば4箱・5箱も買っていた時期があり、今でも路で会うと挨拶。人生で、顔をあわせて挨拶した回数を、もし神さまが数える術をもっていたとすると、家族を除くとトップにくるにちがいない。
 店が昨年の3,11の後、入り口部分を工事しているかと思ったら閉店。そういうことでしばらく御会いしていなかったので、コーヒーを飲みましょうと誘われてYKビルのスタンドでコーヒー。そして、しばらく話し。
 こちらも来年にはいなくなるということを御報告。昔は毎年、年末近くなると東大の教官が、2・3人、今度、定年だからと挨拶があったとなつかしそう。昔の何人かの先生のうわさ話。インド哲学で推理小説を書いたA先生、ロシア史のW先生、職場の先輩で先日亡くなられたK先生などの話はさすがに面白い。
 コーヒーをおごってもらったので、今度、本がでたら差し上げる約束をして、初めて名前をうかがう。頭文字Nさんということになる。
 国民学校三年生の時に、本郷が焼けてたいへんだった。その時は、このビルに砂糖が貯蔵されていたなどという話し。昔から商店街なので、意外と地域社会の住人は変化しておらず、店のマスターに昔の話をするが、それは親の代で知らない、云々。一挙に話が、戦前に飛ぶのが面白い。東大の教員も、華族だとか、日本でめずらしく艦砲射撃をうけた町出身だとか、騎馬の材木屋さんの息子で下町子だとかいう話し。
 小さなビルの並びに昔の隣人が住み続けている近隣関係を聞いていると、ここにも「史料」と「歴史」を発見したという感じになる。ビルの一画としかみえないところに住んでいる人々の経験してきた歴史。戦前の仏教青年会が反対側にあったという話も以前に聞いた。
 隠れていた史料(あるいは、その意味)をみつけた時の感情と相似した感情である。自分を歴史家だと思う。
 
 今、金曜夜11時30分。総武線のホームライナーの中。明日、印刷所が来るので、また。
 J大学の話だが、しかし、授業はむずかしい。やりなれていないと、どうしても「意あまって、話を積み込みすぎる」ということになる。とくに学生相手ということになると、細かく細かくとなるのが、私の癖。普通の講演の積もりでやればよかったといつも思う。
 昨日は、もう少し用意をする積もりだったが、Nさんとコーヒーを飲み、さらにJ大学で、Y先生、そして本当に久しぶりのM先生に御会いして楽しく話している内に、徐々に頭がバラバラになってきたようであった。夜、遅くまで用意したこともあって、頭の調子ももう一つ。そして、前置きが長すぎて、時間が足りなくなる。

 テーマは、8世紀の日本の王権と政治史にどう地震災害が影響したかという話し。これは、そもそも8世紀の日本の王統の矛盾についての私説を説明しないとならず、それと地震の両方をフルに説明するには時間が足りなかった。聞き難い話しだったと思って、昨日はくさる。しかし、感想には「面白かった」という意見が多く、今の学生は温かいものだと思う。
 8世紀の日本王権の王統は天武系の王統であり、天智の孫・白壁王(後の光仁天皇)のときに、それが天智系に切り替わるというのが一般の説明だが、私は、天武が天智の娘の持統と結婚していることの意味が大きいという意見。つまり、天武・持統は叔父と姪の結婚であって、8世紀の王統は、単に、天武系というのではなく、この婚姻の直系であるということが重要であると思う。これは、とくに持統の意思が働いたのではないか。父の天智の血筋を重視するという意思が持統には強かったのではないか。それによって天武天皇と大友皇子(弘文天皇、天智の息子)の争いであった壬申の乱の後の王家内部の平和・融和を希求したのではないかというのが私見。
 これは単に直系主義ということではなく、8世紀の王権の中枢は、天武の子孫であるが、同時に持統の父の天智の血を引いているものでなければならないという特殊な縛りがあったということであると思う。そうでない天武の子孫は、結局、挫折し、誅殺され、自決したというのが、8世紀の政治史である。こうして実際上、平和あるいは融和を求めた持統の意図とは逆に、天武系の王族は全滅に近い状態になってしまった。この惨酷さは、大学時代に読んだ青木和夫氏の『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』)にのった系図ではじめて知り、誅殺・自決の数の多さを知って驚いた記憶が鮮明である。
その情況は、上記のように説明できるのだと思う。
 私は、不比等皇胤論という『大鏡』などにみえる著名な伝承を事実を反映していると考えている。これは「古代史研究者」は無根拠とするが、しかし、不比等が天智の胤であるとすると、不比等の子供の宮子が文武とめあわせられたことは、不比等を通じて天智の血統がもう一度呼び込まれようとしたのだと理解することができる。そして、7世紀の政治は教科書などにも書いてあるように「皇親政治」といわれる王族の位置が高い国家中枢の構造をとっているが、藤原氏が実際上、准王族と考えられていたとすると、「皇親政治」の特殊な展開として藤原氏の上昇を説明できる。これは私には魅力がある。
 そしてさらに問題なのは、長屋王も天武の息子の高市と天智の娘の間に生まれた王であって、その地位が他を圧して高い理由がよくわかるということである。しかし、以上の私説を地震にふれながら短時間で説明するのは、なかなかむずかしかった。
 長屋王誅殺事件をへて、天平6年の地震は長屋王の怨霊の引き起こしたものという観念があったのではないかという点から地震と政治史の話しをしたのだが、もう一つ説得性はなかっただろうと思う。来週は、この点を追加して説明した上で、9世紀の政治史に進む予定。今度は、話題を少ししぼってよくわかるように説明したいものだと思う。
 学生が面白かったといったことで、8世紀の地震の受けとめ方と影響が、日本と韓国では違ったという話し。日本では8世紀のむしろ前半に地震が多く。それは聖武の強い意志が乗り越えた。聖武の娘の称徳で天武系王統が断絶するが、そのころの悲劇的な政治の季節には、地震が少なく、天智系への切り替えが相対的にうまくいった。
 それに対して韓国(新羅)では、8世紀後半の地震の中で恵恭王と王妃が殺害されるという事件が起こり、それ以降、新羅滅亡まで150年で20人もの王が立つという混乱状態が現出した。これは地震が何時起きたかが、日本と新羅の王権の運命に関わる問題であったということではないかと思う。
 日本には八世紀前半に地震が多く、八世紀後半には地震が静謐にむかい、そのかわり噴火が多くなるが、韓国では、8世紀後半に地震が多くなるというのは、地震学的にいって何か理由を説明できるのだろうか。ともかくこのタイムラグによって、偶然ではあれ、両王家の歴史が影響をうけたことは事実だと思う。
 
 話しは分かりにくかったはずだが、100枚以上の短文の感想を読んでいると、この点はどうにか通じたようなので、ほっとする。
 

2012年4月23日 (月)

ウナギ鮨と宇治丸

 先週の土曜日は東大の弥生講堂で行われた「低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓」の集会に参加。奥様と娘と一緒。はじめて知ったことが多い。発生している非癌性の慢性病の量に驚く。低線量被曝について京大の今中先生のコメントでは、非癌性の細胞核、DNAの発現の機構の解明が重要のように思うというコメントがあった。かならずしも癌だけの問題ではないとなると、本当に社会的にも学術的にも研究を急がなければならないということなのだと思う。

 低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓

チラシのPDF版をダウンロードできます

以下は、以前、ウナギ水産協会(?)の新聞でのインタヴューに答えたもの。備忘のためにあげておく(年月日と正式名称は後に)。

鰻消費の歴史を紐解く

 万葉の時代から食されていた鰻だが、当時の消費の実態は定かではない。醤油ができたのも戦国時代とされていることから今のような蒲焼きではなかったと推測され、業界の関心も高い。そうした中で、東京大学史料編纂所所長の保立道久教授に鎌倉時代の鰻食文化について話を伺い、その概要をまとめてみた(本紙発行の「日本の鰻二〇〇七データ&ダイアリー」にも掲載)。

 このような研究に興味をもったきっかけについて、保立教授は「日本では漁業の歴史研究が少なく、二〇年前には五人もいなかった。漁業研究の先達として著名な網野善彦さんから『日本の漁業は日本の重要な文化の一つ。このままでは歴史の見方が歪む』という薫陶を受けた」と振り返る。
 自らも霞ヶ浦の土浦の出身で、コイ等内水面を含めた漁業に強い関心を持っていたことから、専門である中世史の研究で、水産業の研究に力を入れてきた。その中で「前からウナギに興味を持って調べていた」という。研究の過程において、第一に気がついたのは『永昌記』という貴族の日記の裏側に残っていた鎌倉時代初期の「宇治鱣請訴状」であった。
 この「鱣」という字は、本来は「ウミヘビ」という意味で、それがウナギの意味でも使われているのに興味をもったという。
 この中にある「鱣請」の文字は、「ウナギウケ」と読む。この文書を詳しく解釈していくと、彼らは、宇治川で「石積漁」という方法でウナギをとっていたウナギ取りの集団だった。皮に石を積み上げ、その中に「ウケ」と呼ばれる竹籠を仕掛け、中に入った鰻を捕らえるというもので、シーズンの7~8月にはこの仕掛けが川一面を覆ったという。
 また、昔、琵琶湖には多くの鰻がすんでいたようで、江戸時代には、勢多川の流出口、勢多・膳所(ぜぜ)の雨の夜には一つの梁で、一晩三〇〇〇匹以上もとれたといわれる。
 夏・秋の出水のシーズンに大量のウナギが勢多川の急流を下り、宇治のあたりで一休みをして、石組の中にこもる。それを一網打尽にするという訳である。
 興味深いのは、当時の宇治橋を描いた絵には、宇治橋の橋脚のところに橋脚を保護する為の石組みが描かれている。この石組みは、鱣請たちが、毎年、洪水の後、橋を守るために積み直していたものであるとされる。ウナギ漁民は宇治橋の橋守をかねていたことが推測される。
 また、宇治橋は宇治の平等院が管理しており、その関係で、ウナギ漁民たちは平等院の寺男(てらおとこ)でもあったということがわかる。
 ただ、寺男が「殺生」である漁をするというのは矛盾するように聞こえるものの、当時の漁業は相当の実入りのある職業で、特権でもあったから、問題視されなかったようだ。
 そもそもこの史料には同じく河川事業で大きな勢力を維持していた「氷魚(=陸封された小アユ)」の漁師が漁場の問題で鱣請と勢力争いを繰り広げたことが記されている。この「氷魚」の漁師は京都の賀茂社に奉仕する「神人」であった。
 こうした史料からも近畿地方の漁業は著名な寺社がその漁場特権を有していたことがわかる。宇治橋は平等院の近くにあるため、「氷魚」の漁師の意見よりも、鱣請が優先されたようだ。鱣請は、特別な存在で、相当の力をもっていたことになる。
 今でこそ河川事業の雄である天然アユ漁だが、文献によると簗漁や四つ手網漁等、今でも現存する漁の写真も確認できる。琵琶湖をはじめとする全国各河川での漁業は釣り、エリ、簗、四つ手網、追いさで等様々な漁法で漁獲されるアユ漁がダントツの位置付けを誇るのはあくまで現在に入ってからのことのようで、鎌倉時代には、石積み漁をメインとする「鱣漁」に圧倒されていたといえそうだ。
 更に、保立教授は「禪定寺文書」の鎌倉時代中期の一通の文書に「鱣鮨」という言葉がでてくることに気付いた。この字(写真)は活字本では、魚ヘンの隣のツクリが「面」と読まれていた。しかし、保立教授は「面」が「亶」であることを突き止めた。しかもこの字は「鱣請」の「鱣」の字と同じである。鎌倉時代には「鰻」ではなく「鱣」という文字を使うのが普通だった。
 保立教授は「ここにでてくる『鱣鮨』は、スシであるから、そのもとはウナギの白焼であろう。そして、これは室町時代になると『宇治丸』という愛称で呼ばれ、宴会等でもメインの料理として積極的に使われていたようだ」と説明する。
 そして、「宇治丸」を数える単位が「筋」となっていることから、ウナギズシ=宇治丸は、長い、「押し鮨」のような姿をしていたのではないかと推測する。
 うなぎ蒲焼は、かつてブツ切りにした鱣を串に刺して焼き上げた姿が「蒲の穂に似ている」ことから蒲焼といわれるようになったとされる。ただ、醤油の存在しない鎌倉時代において、蒲の穂のような色で焼き上げた蒲焼は勿論存在せず、白焼のみの流通であったことはいうまでもない。
 この「鱣請」が「長焼のような形態のものを使った押し鮨」のような料理だったとすれば、既に割き技術が存在していたことの証明にもなり、蒲焼の語源に対する認識が変わってくる。
 大伴家持の歌にあった鰻料理とはどのようなものであったのだろうか。こうした疑問も解き明かせることが期待されるこの研究は業界にとっても重要な意味を持つことになる。
 また、面白いのはその価格で、室町時代には、「宇治丸筋二五筋に対し、『一〇〇文を払った』という記録が残っている。一〇〇文は今でいうと一〇〇〇円ほど。今の鰻に比べると安かったかもしれない」と語る。
 ともかく、鎌倉時代から、宇治のウナギが京都などに盛んに出荷され、夏の食べ物として好まれたことは確実で、それは「平安時代からも同様の形態で消費されていたといえる」という。
 保立教授は、今後の課題として「『鱣鮨』がどのような料理だったのか、そのレシピを解明してみたい」とした上で、「それには考古学との連携が必要になっていくだろう。遺跡の中からはしばしば食べ物の残りカスがでてくるし、魚の骨も多い。その中にウナギの骨が残っているのを知っている人は知っているはずだ。考古学者に聞いて、つめていきたい」と語った。
 現在、うなぎというと「浜名湖」や「静岡」が代名詞となっているものの、当時は「宇治」がブランドとして通っていたといえそうだ。保立教授は「当時から存在した魚の産地ブランドとしては『明石のタイ』『紀州のカツオ』『越後のサケ』等が挙げられる」と語る。そのいずれもが現在もブランドとして残っている中で、「宇治」に関してうなぎのイメージは一般的とは言い難く、少々残念なことといえそうだ。

2012年4月16日 (月)

アーレント『人間の条件』と「瞑想社会論」

 今、総武線の中。日曜だが、自宅ではできない文書のドキュメンテーション作業があって、職場環境が必要で出勤途上。その方が仕事が早く、そもそも、作業で作ってきた頭のモメンタムをすぐに動かした方が、合理的。
 昨日は、家でできる公務の作業に目途がついた段階で、和室の整理。3・11で和室の本棚も倒れて、必要な整理をしていなかった。和室には、日本史のほかの本をおいてある。いわば方法論部屋。この一年、この部屋にいる余裕がほとんどなく、念願にしている歴史学方法論の再検討作業ができないままでいた。やっと「地震論」が終わったこともあって、この部屋の整理にかかる。まずは座机と座机の上の本棚の整理にかかった。

 座机の前に板を積んで簡易本棚を作っているが、それが1年前の地震で崩れた後に整理をしていなかった。この板本棚は煉瓦で台をつくってそこに板を横たえただけで、三段の棚になっている。地震の時にくずれてしまうということもあって、妻には不評だが、当面は、これで行かざるをえない。ただ、今回は、下から二段目を煉瓦三個分の幅にして、そこには文庫本をいれることにし、その上の三段目には新書・選書をおくことにした。こうなると軽い本ばかりで、しかも座机の上なので、大きな被害をあたえることもないとは思う。
 実際にやってみると、文庫本と新書が目の前に並ぶというのは別の効果もある。文庫にはどちらかといえば、古典的なもの、新書には自然科学をふくめた他分野のものが並ぶということになり、見通しがよくなる。とくに歴史学方法論に広い意味でかかわるものを机の前一列に並べると、何か仕事の枠がみえてきたような感じがする。

 よかったのは、ハンナ・アーレントの『人間の条件』がでてきたこと。先回、歴科協の会で久しぶりにあったT氏から藤田省三さんのアーレントについての座談のメモをみせてもらった。私は、藤田さんの仕事は、「支配原理」を大学の時代に読み、『安楽』も読んだが、全体としてはよい読者ではなく、真面目に読んではいない。ただ、石母田正さんが亡くなった後の追悼会の時(もう何年前になるのだろう)、懇親会の席が隣りになり、藤田さんから「今の若い人は、どう石母田さんを読むのですか」と聞かれて、「読みません」と答えたところ、藤田さんがぎょっとした顔をされたということがあった。
 私の発言の趣旨は、「読みません。石母田さんの仕事はすでにすべて読んで受けとめています。歴史学はそういう風に進んでいます」という今から思えば、これまた思いこみの強い言葉であったが、その信条を御説明したのを覚えている。「そうですか」ということだったが、その後、石母田さんの仕事の「国地頭論」に本格的に関心するということがあったのだから、その時の私の余計なミエをはったとでもいうのだろうか。しかし、その時の感じで、藤田さんが石母田さんを敬愛しているということがよく分かり、それ以来、何となく親しい感じをもっていた。T氏のメモには、藤田さんが石母田さんについて語っているメモもあって、二人の関係がよくわかったのもありがたかった。

 そういうことで、藤田さんがアーレントの『人間の条件』を高く評価している理由のようなものを考えていて『人間の条件』をこのまえから探していたのである。佐藤和夫氏などの訳した未定稿の大冊はあったのだが、肝心のこれがでてこなかった。

 いま、総武線の帰り。疲労もあって、気も散り、何よりも面倒な「離れ付箋」の処理があって思ったほど作業が進まなかった。

 さて、『人間の条件』はきちんとは読んでいないのだが、ところどころ線が引いてある。私は、国際キリスト教大学の出身なので、いわゆる「ソ連型」社会主義(あるいはいわゆる現存社会主義、自称社会主義)は、特殊な全体主義であるという論理を単にアメリカイデオロギーというのではなく(それもあったが)、それを静かに指摘するキリスト教神学の影響を知らず知らずに受けていたと考えている。いわゆる「現存社会主義」がたいへんに問題の多い、どうしようもないシステムであるというのは大学時代からそう考えていたが、それは全体主義というほかないものであると論文や講演で述べたのは、歴史学研究会の60■周年の講演会でのことであったと思う。その時に想起したのが母校での経験であり、そして(その時も十分には読んでいなかったが)アーレントの仕事であった。
 他方、歴史学方法論で、私がともかくあるところまで考えを詰めたのは労働論である。ところが、これもアーレントのいう活動(action)、労働(labour)、仕事(work)の区別にかかわる。藤田さんのアーレント評価が、ここにあることもいうまでもない。
 西洋哲学史をさかのぼり、アリストテレスから始める、アーレントの議論は労働論を素材として哲学史を切ったという意味で根本的なものであることは衆目の一致するところだろう。それが歴史語義論を素材としているという意味でも歴史家としては興味があることである。私などは三木清のアリストテレス論を思い出してしまうが、哲学の議論としても重要なものであることがよくわかる。それが一九世紀思想を越えた諸問題を追究していることは事実だと思う。これをともかく読み抜いて批判することが歴史学方法論にとっては本源的な問題と考えている理由である。そもそも、歴史学方法論において、どうしてもたたいておく必要のあるハイデカーとの関係でもアーレントを読むことは必須であると位置づけている。

 しかし、私は、アーレントの仕事をそのまま認めてよいとは考えない。それをそのまま認めていては社会科学者の一分が立たない。とくにアーレントが労働(labour)、仕事(work)の区別の議論を自分の独創であるかのようにいうのは、アーレントの経済学への無理解を示すように思う。アーレントが経済学的な議論には満足できないというのはよくわかるが、これはいわばハイデカーからの脱却が十分ではないのではないかというのが、私の観測。
 アーレントの見解に反して、社会科学は、経済学的な価値論レヴェルにおける労働の二重性論から出発して行かざるをえないはずである。つまり、labour抽象的人間労働とwork具体的有用労働の区別であって、これが基本的に重要なことは、右の歴史学研究会の60■周年のシンポジウムでの講演でも述べた通りである。歴史学などの社会科学にとって問題なのは、やはり労働の二重性論から精神労働と肉体労働の対立論に進み、社会の敵対的構成にまで進んでいく体系的な歩みなのではないだろうか。アーレントの議論は、「哲学的、あまりに哲学的」で、これでは現実の社会構造を社会の基礎から解いていくということにはならないと思う。

 もちろん、アーレントの仕事の意味は大きい。彼女の問題にしたレヴェルは価値論レヴェルを越えたものである。それはむしろ精神労働と肉体労働の対立という現実の現象としての支配、精神性の剥奪という意味での人間の物化をはらむ社会的分業の現実論にかかわってくる。精神労働と肉体労働の対立論、そしてそれに関係するレヴェルでの「都市と農村」論、さらにアーレントが展開した「公的領域と私的領域」論が、経済学のレヴェルではとけていないことは事実である。これはきわめて大きな問題である。私は、これをどうにかするというのがフェミニズムの議論とならんで、20世紀思想の最大の問題であったと思う。
 私の関心は、むしろアーレントの「活動」論にある。アーレントは、活動と観照(「瞑想」)を対をなすものと考えている。そして社会生活が「活動」を中心とするものとなり、「劇(act)」となる時に、社会の中に「永遠性」、「無世界性」、網野さんの言い方では「無縁」の自然そのものが立ち現れると述べているように思う。それによって永遠への観照・瞑想が復活するという訳である。それにそって、労働(labour)、仕事(work)が永遠の相の中で位置づけられねばならない。私は、こういう考え方に賛成である。

 私は、この本、『人間の条件』が好きである。20世紀思想のうちで現実との緊張関係をもって体系的な思索を展開したのが、ボーボワールとアーレントであるというのは、ある種の必然なのかもしれないと思う。この文庫本には中年になったアーレントの写真が載っている。右の佐藤和夫氏の訳した大冊にのっているおそらく20歳前後のどこにでもいるような「夢見がちな少女」としてのハンナの写真と比べると、ナチスに追われた時代の苦闘が反映しているような中年の顔。彼女は普通の学者ではない。彼女の文章は強く訴えるものをもっていると思う。

  アーレントの言葉は力強い。たとえば、
 「科学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬ、この事実によるのである」。
 「世界を、人々が結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには永続性がぜひとも必要である」「公的空間は、死すべき人間の一生を越えなくてはならないのである」。
「人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのはナザレのイエスであった。たしかに、イエスは、それを宗教的な文脈の中で発見し、宗教的な言葉で明確にした。だからといって、それを厳密に世俗的な意味で真面目に考えなくてもいいということにはならない。許しというのは活動からかならず生まれる傷を治すのに必要な救済策である」。

 今は月曜。銀杏は緑。歴史学の公的空間は永続性をもったものとして成立しているはずではあるが、さてそこに「人々が結集し、物(史料)の共同態がある」かといえばそれは疑わしい。

2012年4月12日 (木)

「簀面・液面」「断層動・地震」

 120412_120601 朝の総武線。写真は赤門脇の八重桜
 昨日は、午後、農学生命科学科の先生がいらして、紙の大規模な装置による徹底分析について御相談。その後は、朝から取りかかっていた綴葉装の帳面の復元で半日苦闘。
 綴葉装(てっちょう)というのは、現在の本やノートの作り方にもっとも近い和本の作り方で、料紙を数枚そろえて中央で縦半折りして折束を作り、その折を複数重ねて、背面に切り込みをいれて糸で閉じるやり方。とり組んだのは、これが糸がきれてバラバラになった帳面。これは紙の表裏両方に字を書く。普通は墨の通りにくい鳥子紙(雁皮)をつかうことが多いが、これはやや厚手の楮紙である。
 問題は、現在の本の製本をばらばらにした場合を想像していただければわかるが、ページ順序がわからなくなってしまっていること。しかも、料紙が折り目から切れて、前半または後半の半分しか残っていない部分がある。ページ打ちはもちろんないから、半分復元をあきらめようと思ったほど難しかったが、ともかく集中して作業。写真のコピーを作って、あれこれ製本をし、中身が整合的にならぶ順序を考える。9時までには帰宅せねばならず、ああでもないこうでもないとやっていて、帰宅直前にうまくいった。これまでも気になっていたが、とにかく結論をえなければならないので確定した時にはほっとした。今日は、その作業を原稿に反映させる仕事から再開の予定。
 キーになったのは、まず半分になった紙が右側か左側かを確定すること。紙は化粧断ちしてあるので、どちらがわに化粧断ちした切断線があるか、どちらがわが破れてしまった不規則な線かを確定する。これは各ページ七欄づつの罫線が引いてあるので、その様子でも推定する。そして、次は、紙の表裏であった。
 綴葉装では、折りを作るときに、紙の「表裏」はそろっているから、そのページの表裏を一つ一つ確定していく。それをやっていって、だいたい重ね方がわかってきた。一般に料紙はそろえて扱われるので、表裏情報が装丁の復元には有用となるのである。そして内容と照らし合わせて合理的な編成がやっとできた時にはほっとした。おわってみれば簡単なことで御報告するまでもないが、しかし考証のトリヴィアリズムのもっとも単純な例のような話。
 紙の表裏をみる目はどうにかやしなってきたので、これは助かった。紙の「表裏」というのは曖昧な言葉で、単純な定義はむずかしい。これを私は「簀面・液面」ということにしている。つまり抄紙の時に簀に接する面を簀面、逆に簀の上面にたまった紙繊維によって懸濁した液が空気にふれている面を液面と称することにしたのである。製紙科学では、簀面をwireside、液面をnon-wiresideというが、それを真似したものである。最初は簀面を簀肌面ということにした。これはいかにも簀にあたったという感じの紙の肌が残っているからで実感的な言葉としてはいまでも使う。しかし、雁皮紙の場合は竹簀に紗がかけてあるので紙に簀肌のような触感はなく、そこからすると、ただ簀面というのがよい。液面というのを「取液面」「捨液面」などという言葉もつくった。これは懸濁液を汲んだり、勢いよく捨てたりする運動が働く面ということで、意味がある呼称であるが、結局、これも「液面」という単純な言葉がよいと思う。つまり「簀面・液面」である。紙の表裏という言葉は慣用的には可能だが、考証的・物理的な厳密さを要する場合は、それがよいと思う。
 永村真によれば、古文書の編纂とは料紙に記される二次元的な情報を一次元情報に還元することであるが、紙は物体としては三次元のものなので、一次元に直すときにも、いろいろな技術(私の場合は技術というほどの本格的なものではないが)がいる。編纂という仕事をしていなければ、紙の文化財科学などについて考えることはなかったと思うが、実際上の編纂技術に関係するところもあるので、よい勉強はした。こういう文書は、若い頃だったらあきらめていたと思う。

 昨日、こういう「苦闘」をしていたとき、スマトラでM8,6のインドプレート沈み込み帯のアウターライズ地震が発生したということを考えると不思議な気持ちである。遥か昔のバラバラになった文書の復元をしている時空と、はるかスマトラの地震。
 共通しているのは、「アウターライズ地震」という専門用語と、「簀面・液面」という専門用語を飯の種にしているという自分の生業と生き方であるのかもしれない。この一年で、ともかくも「アウターライズ地震」という専門用語を曖昧にであれ理解できるようになり、その一方で、「簀面・液面」という専門用語が必要だと自分で決めてくる過程が同時進行であった。専門性というのは、所詮、用語の体系を作り出して、そのカスミを食って生きることである。現実生活とは異なるところでの「苦闘」でしかないが、こういう落ちかかる蒼穹の中空での我慢に何らかの意味はあるのであろうか。
 しかし、「アウターライズ地震」 というのは、簀面をワイヤーサイドというようなもので、海溝の外側の斜面部分に震源をもつ地震ということなのであろうから、海溝外地震といえばすむことだと思う。専門用語にすぐに外来語をもちこむというのは、それこそ奈良時代以来の日本の言語の特徴だからしょうがないが、しかし、こういうターミノロジーの問題は大事なことだと思う。とくに東アジア全域での地震の激化が予想される以上、漢字で意味が何となく通ずるというターミノロジーに意識的になることは当然のことだと思う。
 また「アウターライズ地震」というのは沈み込む海側のプレートが、沈み込みに抵抗がなくなったために引っぱられて発生する正断層地震であるというが、この正断層という言葉も人を惑わす。「引張断層」といえばいいのではないのだろうか。逆断層は「圧縮断層」でよいのではないか。
 そもそも、地震学者は「地震」と「地震動」を区別する。つまり、地震とは大地における断層運動そのものをいい、地震動は、それと区別して、大地表面の体感できる揺れをいうというのである。これもターミノロジーとしてはどうかと思う。もちろん、地震とは地中の断層活動をいうというという地震発現の機構の説明をすることは必要である。しかし、断層という言葉で「地震」を理解してほしいということならば、「断層動」(あるいは断層運動、地下断層運動)とでもいったらよいのではないだろうか。「地震」という日常的な言葉は、私たちが体感する大地の揺れの体感の表現に残しておいてほしいと思う。「断層動(断層運動、地下断層運動)・地震」という訳にはいかないのだろうか。もしそれでよいとすると、マグニチュードは「断層力・震源断層力」、震度はそのまま震度などということになるのかもしれない。7年ほど前、マグニチュードと震度の相違をしらなくて先輩に笑われたことはある無知識の私の希望である。

 さて、昔でいえば、「断層動」という言葉は「龍動」である。つまり大地の揺れを起こす原因は地中にひそむ龍が動いたためであるという「認識」が「龍動」という言葉で昔は表現されていた。それを尊重して、「断層動」というのは駄目であろうか。地震学者が地震発現機構を説明するときに、昔は同じことを「龍動」といったという説明があってもいいのではないだろうか。昔の人も、今の人も、この地震列島に棲んでいる人類という意味では同じことということをターミノロジーレヴェルで認識するということのためにも、文理融合は必要だと思う。
 「簀面・液面」「断層動・地震」「断層力・震度」など。
 前半は電車。後半は食事の後のベンチ。大学は、(いいのか悪いのかは別にして)、平和な風景である。

2012年4月11日 (水)

地震火山62地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと 

地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと 

 この写真は出勤の途中。電線がじゃま。


120411_090657  一昨日、気仙沼の「亀の湯」という浴場の被害と再建につてのテレビをみた。私は、ほとんどテレビというものをみないが、NHKでやった「メガクェーク」を妻におしえられてみて、その続きのようにしてみた。私のやっているような仕事が、どう役に立つのか、あるいは何らかの支えになるのかということを感じる。そのような意識は、不実践や躊躇の心理的表現であろうということは分かっているが、自分の仕事が宙にういているものであるという不安定感は、この職業につきまとうものである。
 やっと奈良・平安時代の地震と噴火についての本を書き終わり、すべて入稿した。ほぼ1年やってきたことなので、一つの荷を降ろしたような感じにはなるが、まだ経験と感情の整理はできない。
 次が「あとがき」の最初の部分。

 日本文学研究の先達の一人であった益田勝実氏に、『火山列島の思想』という本がある。私は、長くこの本の題名の意味するところを理解できないままでいたが、しかし、「はじめに」でもふれた『かぐや姫と王権神話ーー竹取物語・天皇・火山神話』という新書を執筆する中で、この書の題名の意味が「火山列島に棲むものが、この国土から受けとってきた思想、受けとらされた思想」というものであることがわかってきた。
 本書は、この経験を前提にして、益田のいう「火山列島の思想」に、さらに「地震列島の思想」をつけ加え、八・九世紀、王権中枢から地方の庶民にいたるまでの、この列島に棲むものが、大地動乱をどのように意識し、それをどのように乗り越えていったかを歴史学の立場から論じたものである。
 
 さて、益田勝実氏の仕事を、そんなに読んできたわけではないが、前から気になっていたのは、益田さんの『国語教育論集成』(筑摩文庫)にのせられた「海さち山さちー神話と教育」である。この1955年に書かれたエッセイを読むことは、歴史学の学史をたどり、追体験する上でも必須のもので、当時の神話と民族文化をめぐる情況を具体的伝えてくれる。

 「神さまの話は古代の天皇家が自分勝手にねじ曲げてつくったものだ、とだけきめこみ、それをネグレクトして進むところには、皇室神話にねじ曲げられない神話本来のものをあきらかにして、それによって祖先たちの魂の歴史をさぐり、そこに反映している祖先たちの生活のたたかいの経験を豊かに組み上げていく道はひらけない。生徒たちが(神話に)実際に魅力を感じている事実を認め、それを正しく発展させることができない。まして、子供の世代の科学的な勉強が親たちの世代へおしあげ、社会全体の歴史認識が新しい方向へ進んでいくような契機も見いだせないであろう。神話の本質を明らかにし、歴史的に正しく位置づける必要を社会科の良心的な教師たちは、いま痛感している」。

 私もその意味での教材としての神話は、「文学」教育の問題としてきわめて重要だと考える。歴史と文学では教育のあり方が違うが、文学としての『日本書紀』『古事記』神話を考えるべきことは明らかだと思う。これは領域をこえて議論すべきことである。そしてそのためにもまずは神話論を議論することが必要であるが、そのような研究を進めるためにも益田の議論を詳細に追跡することが必要であると思う。
 ちょうど同じころ、1955年ころのことであろう。歴史学の先達のIさんの奥さまに友人たちと一緒に「ヤマトタケル」を讃える歌というのを左翼の集会で歌ったという話を伺って驚いたことがあるが、それはいくらなんでもにしても、そういう雰囲気の背景にあった合理的なもの、文化の状況をよく伝えるエッセイである。
 なにより、益田の議論は、名ばかり高い石母田氏の英雄時代論よりも読みやすく、理論的にも透明な感じがするものである。石母田の仕事、とくに具体的な神話論はさすがであるが、石母田正の議論は全体としてみると、歴史家の常として史料との格闘と、さらにヘーゲル・マルクス・エンゲルスの理解の晦渋性が染みこんでいて理解しやすいものではない。おそらく今の若い歴史家は石母田正の「英雄時代論」などは読んだことがなく、ただの時代錯誤と思っているであろう。歴史学の根無し草情況は、相当に深刻なものである。この益田のエッセイを読んだ上で、石母田の仕事を読み直すのが、研究史を知るためには意味があると
 益田のエッセイには、三木清からフレイザー、マリノフスキー、そして日本の神話学の古典、松本信広・松村武雄などを読み込んだ情況がよくわかる。そして、神話論としても重要な理論的意味があるのではないかと思う。呪術=トーテム=エロティシズムの世界と神話の世界を区別し、神話のもつイマジネーションの力、文学の力を汲み上げようという議論は、呪術と神話の区別の理論的問題としても、私は賛成である。現在でもやるべきことはかわっていないようにさえ思う。この巨大な研究の停滞。
 さて、「山幸・海幸神話」に踏みこんで議論している部分をふくめて、このエッセイは、益田さんがどういう人かを知る上でもたいへんに面白いものである。ご自身の自然の中での「釣り針」をなくした経験、そして軍隊の経験などを読んでいると、私のような人間がいかに偏頗であるか、実際の体験をもっておらず、童話・民話などの受け入れのもととなる自然体験においても、根本的にブッキッシュな都市人間であるということを思い知らされる。もちろん、小学生のころ以来、大量の民話・童話を読むという経験を与えられたことは母親に感謝しているし、その豊かさは疑わないが、これが自分の人格と生活の歪みの根本にあるのであると思う。
 
 そして、もう一つ、逸することのできない文章。これは実際に読んでいただく方が早いが、一行だけ引用しておく。
  
 「原爆雨にさらされて神話を教える。これは一体何だ」

2012年4月 7日 (土)

突風と満員電車

 昨日、4月3日は、激しい突風。職場で帰宅を急ぐようにというアナウンスがあったこともあって、予定を切り上げて15時30頃に出る。東京駅のホームは満杯。乗車の列に並んでいたが、前の右側の列に4・5歳の男の子二人を連れた女性がいた。前から三人目くらいか、十分にすわれる位置にいて「子供がいるのです」と声を出しておられたにもかかわらず、座れず。電車はぎゅうぎゅう。子供をおしのけて座る人がいる。すごいものである。
 私は、声をかけて席を譲りますといったが、私の席は少し離れた奧で、また子供を抱えているのを第一とされたようで、途中までずっと一人の子供を抱えて立っている。少し、席が空いた後、みかねた若い女性が席をゆずって、やっと今度は座られたが、子供はこわがっている。少しひどいと思う。「我関せず」という訳。
 集団の肉体的圧力はすさまじい。我々は、毎日、この身体競争ですり減らされ、誇りを失い、屈託と不信を心の中に抱え込まされる。これでは、ものごとを正面から考えるのをさけるだろう。社会の表層は競争であるというのは、資本主義社会の本質的現象であるが、これが満員電車の身体的苦役であるというのは、日本の首都、東京に独特の風景である。先日、京都の朝の地下鉄に乗ったが、めずらしく混んでいたものの、東京のようなことはない。日本社会は、こういう風に人々をすりへらすことによって、競争だからしょうがないという諦めと恭順をやしなうことによって成り立っている。集団の中で諸個人をすり減らす力をもった巨大都市。これは東アジア的な風景であろうと思う。
 「交通戦争」という言葉ができたのは、1960年代ではないだろうか。集団の中で個人が身体的にもみくちゃにされるという意味では、たしかに戦争である。これは道徳の劣化という現象をもたらすが、毎日毎日、混んだ電車に乗らされていては、劣化するのも当然である。こういう集団都市、中枢都市を膝下におく社会。歴史家としては、これは奈良時代、平安時代以来のことだと余計なことをいいたくなるが、客観的には人間の都市動物化あるいは飼い慣らしというものだと思う。東京が「文化はてるところ」といわれるのは、根本的にはこのためである。怒り心頭に発する。


 堀田善衛は、『乱世の文学者』というエッセイ集で、人間に「幸福への意思」があるというのは信じられない。人間は「不幸への意思」によって突き動かされているといっているが、そのように人間がうち砕かれるのは、動物的競争にさらされるためである。そのもっとも直接的なのが、満員電車での押し合いと宙づりであるが、動物的欲求によって人々に矛盾をもちこむシステム一般ということになれば、その形態は無限である。

 その基礎にあるのは、いわゆる「性別役割分担」という、男女間の矛盾を拡大するシステムである。このシステムの中から生まれる「不幸への意思」の総量が、瘴気のように社会に立ちこめる。

 私は、二〇世紀思想における最大の達成をフェミニズム思想であると考えている。そしてその達成の中心にいるアメリカのラディカルフェミニズムが好きである。フェミニズムが「世界の中心」アメリカで成熟したということには独特の歴史的意味があるように思う。社会が男権主義的に編成されていることに対する徹底的な批判こそが自由にとって根本的である。これは単に政治的な「男支配」の問題でもなく、そこにおける「第二の性」、女性の不幸という問題でもない。社会の男権主義的編成ということ、それ自体ではない。この男女役割分担意識は、特別な冨なり、社会的地位をもっていない人々に、その不幸を「自業自得」と思いこませる機能をもっている。
 男女が自然の身体的接触への欲求をもち、ペアをつくっても、その相互関係には「男女役割分担」という強いヴェールがかかってくる。家族にとっては経済生活、日常生活の一体化が基本的な関係であるが、そこで最初から男の役割がきめられ、女の役割が決められているというのは、その役割がうまくいかない場合、必然的に男女のあいだの葛藤をみちびきだす。たとえば男としての「家計を豊かにする役割」を担えないというのは、男が自分に誇りがもてないという結果をもたらし、他方で、ペアをなす女が「女としての家事役割」を果たしていないではないかという不満を導びく。「家庭の豊かさ」というものを獲得できない条件は、本質的に社会的なものであるが、それが個々のペアの葛藤の中で、ここのペアの不具合の責任に帰されるということになる。「自業自得」。そもそも男女の関係は自業自得のところが多いだけに、そしてそれが日常的・身体的な葛藤であるだけに、この葛藤が男女の意識を強く規定する。こういう「男女役割分担」の意識は、特別に幸運だったり、特別に豊かであったりする諸条件がある場合を除いて、実際上、男女を不幸にする。これはきわめてストレスの強い原則で、人間に対する呪縛性の強いイデオロギーである。これが現代に固有に本質的なものであり、19世紀思想は、すべてそれを正面から理論的、構成論的にとらえることができていなかったというフェミニズム的な経済・社会分析に、私は賛成である。


 現実には、「家庭の豊かさ」というものは、その家庭が個別で獲得できるものではない。また獲得すべきものでもない。ヨーロッパ。たとえばハリー・ポターの作者の貧乏子連れシングル生活のことで有名になった、イギリスにおける住居保障・社会保障をみれば、それは空論ではないのである。それを「空論」というのが、日本社会における「無教養」の標識になっているのは、よく知られているであろうが、「家庭の豊かさ」というものは社会によって、できるかぎり平等に保障されなければならないものである。それは端的に言えば、子供のためであって、子供ができるかぎり平等な条件の中で成長していくこと、あまりに不利な条件をもたされることが適当ではないことは、良識ある社会においては誰でも認めることだろう。
 実際、人類における家庭と社会=共同体の関係は、長くそのようなものであったと思う。ところが現代社会は、それをすべて個々の家庭の責任であるかのように描き出した。これは、社会のもっている個々人への保障と責任を基本的な点ですべて放りだした社会システムである。人々を不幸に追い込むイデオロギーを社会的な雰囲気とし、人々を押しつぶすことによって、システムを維持する社会は、おそろしい。

 今日は、もう4月6日。今日、ひょんなことで、青柳和身『フェミニズムと経済学』(お茶の水書房)を、少し安く譲ってもらったので、夜11時、帰宅の電車で読んでいる。なつかしいボーヴォワールの『第二の性』を経済学的に検討するという本。いつ通読できるだろうか。

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